機関誌『水の文化』40号
大禹の治水

『水の文化』40号
大禹の治水

水の文化 40号 大禹の治水
2012年2月

禹(う)は、中国・古代夏王朝(かおうちょう)の初代王。
夏王朝の始まりは紀元前2070年ごろ、実に4000年前の話で、伝説の王朝といわれてきました。
しかし近年、考古学的な発掘により、中国政府はその存在を認めるようになっています。

古代中国には、堯(ぎょう)・舜(しゅん)・禹という伝説上の聖人がいました。
この3人は部族連合の首長とみなされますが、禅譲(ぜんじょう)(血縁者でない有徳の人物に地位を譲ること)という形で帝位を継承しました。ところが禹の息子である啓が帝位についたことから、夏王朝は、中国史上最初の世襲王朝である、といわれています。

禹は、治水事業に失敗した父 鯀(こん)の跡を継ぎ、舜に推挙される形で、黄河の治水にあたりました。そのために治水神としてもあがめられています。
また禹にまつわるたくさんの伝承から、謙虚で勤勉な人柄といわれ、聖人としても尊敬を集めました。春秋時代の中国の思想家で儒家の始祖である孔子も、「夏の禹王には文句のつけようがない」と賞賛しています。

中国では「黄河を治むる者は天下を治む」と言われ、為政者の条件として黄河の治水が挙げられました。
それを成し遂げた禹は、治水家としてのみならず名君としての象徴でもあったということです。
中国思想史で重要な存在である禹の碑が、なんと、日本にもたくさんつくられてきたことがわかってきました。禹を引き合いに出さなくてはならないほど、過酷だった水を治める艱難(かんなん)。
禹を引き合いに出せるだけの知識と教養。禹になぞらえた治水顕彰碑や祈りには、豊穣と恵みの裏側にある、水との闘いの歴史が垣間見えます。

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治水事業を象徴した禹のレリーフ。中国・紹興の会稽山にある大禹陵内博物館所蔵。禹は紹興で亡くなり会稽山に葬られたとされる。大禹陵には秦の始皇帝も祀ったといわれ、現在は重点保護文化財になっている。禹は王であるにもかかわらず、鋤(すき)を持ち、泥の中を這い回って働き、脛(すね)の毛がなくなってツルツルになった、といわれている。

治水事業を象徴した禹のレリーフ。中国・紹興の会稽山にある大禹陵内博物館所蔵。禹は紹興で亡くなり会稽山に葬られたとされる。大禹陵には秦の始皇帝も祀ったといわれ、現在は重点保護文化財になっている。禹は王であるにもかかわらず、鋤(すき)を持ち、泥の中を這い回って働き、脛(すね)の毛がなくなってツルツルになった、といわれている。

世界の屋根といわれるチベットの標高4300m付近から湧き出た水を源流とし、渤海へ注ぐ全長約5464kmの黄河。中国では揚子江に次いで2番目に長く、世界では7番目の長さである。

世界の屋根といわれるチベットの標高4300m付近から湧き出た水を源流とし、渤海へ注ぐ全長約5464kmの黄河。中国では揚子江に次いで2番目に長く、世界では7番目の長さである。中国で「河」と書いたときは黄河を指す。黄河の下流域は中原と呼ばれ、黄河文明発祥の地であり、過去に歴代王朝の都が置かれてきた。禹の興した夏王朝も、まさにここにある。黄河は上・中流で黄土高原を通り、多くの支流が流入するため大量の黄土を流送。年間16億tといわれる土砂の堆積により、下流部は天井川となるため古来より氾濫を繰り返し、大きく流路を変えてきた。水色の線は、その痕跡であり、それらの旧流路は黄河故道と呼ばれている。また、日中戦争中の1938年(昭和13)には日本軍の侵攻を阻止しようとした中国国民党によって花園口(鄭州市北の郊外18km)の堤防が爆破され、流路が変わった。河口が現在の位置になったのは、1947年(昭和22)堤防の修復完了後のことである。

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