第5回里川文化塾 二ヶ領用水フィールドワーク

第5回里川文化塾 二ヶ領用水フィールドワーク

 多摩川の二つの取水口から川崎市ほぼ全域を流れる総延長32kmの用水路があります。今は各所で水辺の散策路として親しまれているこの水路は「二ヶ領用水」といい、南関東最古の農業用水でした。第5回里川文化塾では、実際に二ヶ領用水の一部を歩き、江戸時代から現在まで連綿と続く人と水との関わりに思いを馳せました。

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歩いて知る二ヶ領用水

実施概要

  • 日時
    2012年5月26日(土) 9:45〜15:45
    会場
    JR南武線・武蔵溝ノ口駅改札口(集合)〜二ヶ領用水(視察)〜二ヶ領せせらぎ館(午後の講義)
    参加者数
    23名
    講師
    齋藤 光正

    齋藤 光正 さいとう みつまさ
    NPO法人多摩川エコミュージアム理事
    たま・エコPJ会員

    多摩川エコミュージアム構想推進のための市民活動プロジェクトチーム「たま・エコPJ」にて活動。市内各地の歴史・文化遺産などを再発掘し、「散策こみち」として市民に紹介している。多摩川水系流域の歴史・文化遺産の基礎調査や散策こみちのモデルコースづくりと歩く会の開催、多摩川渡し場跡の復元事業などを行なう。

    講師
    吉田 威一郎

    吉田 威一郎 よしだ たけいちろう
    久地円筒分水サポートクラブ リーダー
    全国円筒分水サミット実行委員長
    高津区市民健康の森を育てる会 事務局長

    10年ほど前にこの街へ移り住み、不思議な形をした円筒分水を見つけ、関心を持ちはじめる。現在は久地円筒分水周辺の環境整備に取り組む久地円筒分水サポートクラブに所属し、円筒分水の文化や歴史を市民に伝える活動も行なう。2011年1月22日に開催された「第1回全国円筒分水サミット」の実行委員長を務めた。

    講師
    鈴木 眞智子

    鈴木 眞智子 すずき まちこ
    NPO法人多摩川エコミュージアム理事・事務局長
    とどろき水辺の楽校 代表幹事

    「川」という自然の教育力に着目し、多摩川を子どもたちの学びや遊びの場として活用しようと2001年「かわさき水辺の楽校」を設立。多摩川が大好きな地域の大人たちが行政と協働で運営しており、多摩川だけで現在18校が活動中。2002年NPO法人二ヶ領せせらぎ館多摩川エコミュージアム理事に就任。2005年から現職。

    プログラムリーダー
     

    前川 太一郎 まえかわ たいちろう
    ライター・編集者

    生協職員、業界紙記者を経て、広報誌や雑誌を手がける編集制作会社に入社。まちづくり・地域活性化をテーマとする広報誌および書籍をメインに、編集業務全般(企画・リサーチから取材・執筆、印刷コントロールまで)を担当。インタビューや座談会の司会も多数経験。2010年12月に独立。フリーランスのライター・編集者として、水の文化やまちづくり、団地再生、東北の復興支援活動を追う。

講師の皆さんと多摩川エコミュージアム

 フィールドワークのガイドと講師を務めてくださったのは、齋藤 光正さん(NPO法人多摩川エコミュージアム理事/たま・エコPJ会員)、吉田威一郎さん(久地円筒分水サポートクラブ/全国円筒分水サミット実行委員長/高津区市民健康の森を育てる会)、鈴木眞智子さん(NPO法人多摩川エコミュージアム理事・事務局長/とどろき水辺の楽校 代表幹事)。

 齋藤さんと鈴木さんが理事を務めるNPO法人多摩川エコミュージアムは、多摩川水系の水と緑の環境、その歴史と文化をまるごと博物館としてとらえることで、それらをまちづくりに活かし、未来へと手渡すことを目的に活動している市民と行政(川崎市)のコラボレーションです。今回のテーマである二ヶ領用水もまた、多摩川を母なる川とする地域のかけがえのない水資源でした。

 私たちの祖先はどんなふうに多摩川の水を利用してきたのでしょうか。今に残る用水路の姿を歩いて実感し、その歴史を知る良い機会となりました。午後からのお三方によるレクチャーは、多摩川エコミュージアムの活動拠点である宿河原堰(二ヶ領用水の取水口の1つ)の「二ヶ領せせらぎ館」で行なわれました。

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二ヶ領用水って何?

 かつて多摩川は、嵐が来ると流域に大きな被害をもたらす「暴れ川」でした。生活用水、農業用水として安全に利用するには、堤防を築いて洪水を防ぎ、必要な水量だけを引いてくる水路をつくらなければなりません。

 1597年(慶長2)、徳川家康から治水と新田開発の命を受けた代官・小泉次太夫は多摩川両岸の用水路建設の指揮を取りました。工事には地域の農民たちが動員されましたが困難を極め、完成は測量開始から14年を経てのことです。二ヶ領用水の名は、川崎領と稲毛領にまたがっていたことに由来します。対岸にできたのが六郷用水です。

 用水路のおかげで米の収穫量は増え、将軍家への献上米となるなど、この地域は良質の米どころとして評判をとりました。しかし開削して1世紀も経つと荒廃し、大かがりな改修工事が必要になります。その任にあたったのが川崎宿の名主・田中休愚で、「二ヶ領用水中興の祖」と呼ばれています。

 一方で江戸時代には「水紛争」も頻発しました。流域の農村では用水組合をつくって堰ごとに各々の堀へ引く水量を割り当てましたが、いったん水不足になると文字通り「我田引水」が横行し、水の分捕り合戦が起こったのです。

 明治以降は二ヶ領用水から取水する横浜水道が開設され飲料水として使われたり、昭和に入ると工場用水としても利用されるようになりました。戦後の高度成長の時代は急激な宅地化と工業化により、二ヶ領用水の水質は生活排水と工場排水の混入で悪化し、ヘドロが堆積したどぶ川と化してしまいます。

 下水道が整備されるなどして水質は回復しましたが、空き缶や自転車などが投げ捨てられる無残な姿は変りません。1980年代になると、心を痛めた市民たちが二ヶ領用水の再生へ向けて動きだします。行政もそれに呼応して遊歩道や親水護岸の整備、埋立て部分の緑道化などの事業を進めました。

 農業用水から工業用水へ、環境の悪化と再生、そして市民の憩いの場へ。流域の人々との深い関わりの中で二ヶ領用水は時代ごとに姿を変えてきたのです。

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歩いて知る二ヶ領用水

溝の口〜中原堰〜浜田橋

 初夏の訪れを感じる爽やかな晴天は絶好のフィールドワーク日和。集合場所のJR南武線・武蔵溝ノ口駅に、早くも見どころがありました。改札口広場の天井には、二ヶ領用水を公平に分けた先人の知恵「久地円筒分水」をかたどったモニュメントが。

 1821年(文政4)に起こった「溝の口水騒動」は二ヶ領用水史上最大の、水の配分をめぐる紛争でした。そんな歴史の記憶を背負って戦前に建造された久地円筒分水は今も残り、今回の見学スポットの目玉です。

 駅前商店街を抜け、蛇行した道沿いの駐輪場が「中原堰」を埋めた跡地。もともと平瀬川が流れていたところでした。「溝の口一帯は、昔は〈水の口〉といわれたくらい、沼地や池だらけで、土地の古老によれば、雨が降ると多摩丘陵の水が平瀬川に流れて氾濫し、水びたしになったそうです」と吉田さん。中原堰でせき止められた用水路は周囲の田畑を潤しました。

 二ヶ領用水沿いの遊歩道を上流方向へ。大山街道にかかる「大石橋」付近の右岸には金物店の古い蔵造りの建物が残され、往時をしのべます。少し先の「浜田橋」は、陶芸家・濱田庄司の墓所(宗隆寺)に近いことから名づけられました。齋藤さんいわく、濱田庄司は子どものころ用水で溺れかけたとか。「昔は約1km先の円筒分水のところから二ヶ領用水に飛び込むと、この浜田橋まであっという間に流されたそうです。それくらい流量があった。ここを乗り切って泳げないと多摩川で泳げないよ、と子どもたちは言われていました」。

溝の口〜中原堰〜浜田橋区間のフィールドワークの模様を動画にてご覧いただけます。

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久地円筒分水付近

 いよいよ、平瀬川と二ヶ領用水が交差する地点、「久地円筒分水」に到着しました。2本の管で平瀬川の下を潜ってきた二ヶ領用水が、直径8mの中央円筒から吹き上がり、外周の直径16mの円筒に注がれ、そこから4方向に分けて用水を吹きこぼすことによって灌漑用水を供給した施設です。全国各地に円筒分水は150近くありますが、この久地円筒分水だけが唯一、国登録の有形文化財に指定されています。

 ここで改めて、今回の第5回里川文化塾の開会式が行なわれ、ミツカン水の文化センターの新美 敏之事務局長が挨拶しました。「人と関わりのある川はすべて里川。ひとことでいうと里川とは〈使いながら守る健全な水循環〉を指す言葉だと私たちは考えています。今日は実地に体験をしつつ、身近にありながらなかなか気づかない里川を発見していただき、私たちの暮らしと密接につながっている水を大切に思う心につなげていただければ幸いです」

 吉田さんからは久地円筒分水についてレクチャーがありました。1941年(昭和16)に完成したこの円筒分水は、6年前にいったん水を抜き、初めて補修したそうで、なるほどよく見るとその部分だけコンクリートの色が新しいです。そもそも、この円筒分水はどんな目的でつくられたのでしょうか。

「平瀬川は大雨が降ると氾濫し、洪水を引き起こす原因になっていました。そこで平瀬川の流れを変え、多摩川に水を通すようにするため、いちばん近い場所であるここの津田山にトンネルを掘ったのです。さらに、二ヶ領用水と交差する場所では、二ヶ領用水を平瀬川の下に通し、水を管の中に溜めておくとその圧力で吹き上がるサイフォンの原理で円筒分水を建設しました」

 すべての工事を設計・指揮したのは、神奈川県知事から「多摩川右岸農業水利改良事務所長」を任命された農業土木技術者・平賀英治。円筒の堰にあふれ出る水の量は円周の長さの比率によって分配されることを利用し、水量が変化しても各堀に流れ出る水量比率が変らないよう工夫したのが円筒分水です。平賀英治は、二ヶ領用水を利用する4つの堀の灌漑面積を調べ、その面積の比率によって公平に分水しました。最も広い川崎堀が77%、次いで六ヶ村堀15%、根方堀5%、久地堀3%という割合です。

 久地円筒分水の脇には、川崎市民有志によって2010年に建立された平賀 英治の顕彰碑があります。「顕彰碑完成時の式典には平賀さんのお孫さんとひ孫さんが列席されました。二十代後半のお嬢さんが〈今まで知りませんでしたが曽祖父はすごい人だったんですね〉と喜んでおられたのが印象的でした」と吉田さんはエピソードを披露してくれました。

 円筒分水によって役目を終えた「久地分量樋跡」の石碑が近くにあります。二ヶ領用水中興の祖・田中休愚の指揮でつくられた施設ですが、単に水路を4つの幅の水門で分けただけだったので、水路の中央部では流れが早く流量も多く、岸の近くではその反対になり、正確で公平な分水はできませんでした。そのため長い間、分水量をめぐる争いの原因ともなってきました。当時最新の土木技術を駆使した円筒分水の完成によって、水紛争が解決したのです。

 江戸時代、久地分量樋と下流の村を洪水から守るため、多摩川に対して直角に堤防を築いて水勢を弱めようとする「久地の横土手」が着工されました。しかし、氾濫した河川を上流の低地に滞水させるので、上流の村はかえって洪水の危険にさらされることになり、双方の利害が対立して、工事は300m進んだところで中断されました。現在の舗装道路がその遺構だったことを、小さな水神様の祠と案内板が告げています。

久地円筒分水付近のフィールドワークの模様を動画にてご覧いただけます。

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久地駅〜二ヶ領せせらぎ館

 二ヶ領用水の多摩川取水口は2つ。JR南武線・中野島駅近くの上河原堰から取り入れた水路と、小田急線登戸駅近くの宿河原堰からの水路は、南武線久地駅近くで合流しています。線路沿いの狭い露地を抜けて合流地点(落合)の橋にさしかかると、住宅街を縫うようにして走る現在の水路のたたずまいに、往時の田畑を潤した命の水脈の姿を重ね合わせたくなるのでした。

 今回のフィールドワークは宿河原堰に向かいます。東名高速道路をくぐるあたりから、散策路が整備された親水ゾーンへ。用水路べりに降りて水と緑を身近に感じながら歩くことができます。今日のコースの中で最も水辺を歩く楽しさを満喫できるエリアといえるでしょう。両岸約2kmにわたってソメイヨシノの桜並木が続きます。「ぜひ皆さん、来春にもいらしてください」と齋藤さん。

「五ヶ村の掛け樋」が現れました。五ヶ村堀が現存して二ヶ領用水と立体交差しています。付近では子どもたちが魚捕り網を持って水遊びに興じていました。いつまでも残したい親水の景色です。近くにあった八幡下の堰は、北原白秋作詞の『多摩川音頭』に「堰の長池 出てみりゃ長い おまえ待つ夜は おまえ待つ夜は まだ長い」と謡われています。これは多摩川に通じる排水路の役割を果たしていたそうです。

 頭を低くしてJR南武線のガードをくぐり、南武沿線道路を越えると、多摩川が見えてきました。宿河原堰の「二ヶ領せせらぎ館」に到着です。約4.5kmの行程でした。一挙に視界が開け、鉄橋を小田急線の特急ロマンスカーが走り抜けていきました。

久地駅〜二ヶ領せせらぎ館区間のフィールドワークの模様を動画にてご覧いただけます。

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二ヶ領用水をめぐって レクチャー編

吉田 威一郎さん

 昨年(2011年)は二ヶ領用水竣工400年。川崎市ではさまざまなイベントが開催されました。親子で二ヶ領用水ボート下りを楽しんだ高津区民祭など、高津区在住の吉田さんは自身の関わったプロジェクトを紹介してくれました。

 また昨年は久地円筒分水竣工70周年でもあり、吉田さんが実行委員長となり「第1回全国円筒分水サミット」を開催。400人を集め盛況でした。「現物を見て皆さん、素晴らしい円筒分水だとおっしゃっていただき意を強くしました」と語る吉田さんは、久地円筒分水サポートクラブのメンバーとして、雑草取りや芝刈り、ゴミ除去などに取り組んでいます。

「都市の真ん中にある全国的にも貴重な円筒分水です。残念ながら今はもう二ヶ領用水は田畑を潤していません。しかし都市の水辺は人の心を和ませ、涼しさを感じさせます。蓋をして公園を広げたり、駐輪場に、という意見もありますが、いったん壊したら二度と復活できません。愛好家の手できちんと維持管理し後世に伝えていきたいものです」

久地円筒分水について説明する吉田 威一郎さん 「第1回全国円筒分水サミット」の開催報告ブックレット
(左)久地円筒分水について説明する吉田 威一郎さん
(右)「第1回全国円筒分水サミット」の開催報告ブックレット

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齋藤 光正さん

 古地図や絵図を見ながら二ヶ領用水の歴史のトピックを解説。平賀英治による「県営多摩川右岸農業水利改良事業」の背景には東京の水不足があったことも指摘されました。1933年(昭和8)、東京市による小河内ダム(奥多摩湖)建設に二ヶ領用水水利組合が抗議し、神奈川県は工事容認の補償金として東京市から受け取った158万円を原資に二ヶ領用水の改修事業を実施したのでした。

 さらに齋藤さんは、高度成長時代に二ヶ領用水が排水路化し、1997年(平成9)にやっと下水道が完備して、浄水場で処理した水が流されるようになった経緯を説明しました。

「子どもたちから〈多摩川の魚は増えたの?〉と聞かれれば〈水がだんだんきれいになって、漁協の漁師さんが毎年毎年、十何年もかけていろんな魚を放流していったんだよ〉と答えます。多摩川と二ヶ領用水は奇跡的に甦りました。あえて奇跡という言葉を使いたい。今日もコイやナマズが泳いでいましたね。これを今の子どもたちが残してくれることを期待しています」

二ヶ領用水の歴史について解説する齋藤 光正さん
二ヶ領用水の歴史について解説する齋藤 光正さん
絵図を見ながら説明を聞く参加者
絵図を見ながら説明を聞く参加者

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鈴木 眞智子さん

 スライドを使い「二ヶ領用水・六郷用水いまむかし」の姿を伝えてくれました。対岸の六郷用水と二ヶ領用水は3カ月おきにつくられ、同時期の治水工事でした。昭和初期の六郷用水周辺ものどかな田園地帯。川崎市の中原街道には堰の跡を記した陶板が埋め込まれ、そこには往時の田畑や農村の様子が描かれています。川崎市内には網の目のように用水路の跡があり、「暗渠フェチ」だという鈴木さんは折りに触れては写真を撮っているそうです。暗渠上では今も市民菜園が営まれ、野菜の直売所があります。

「とどろき水辺の楽校」で多摩川を舞台としたイベントを主催する鈴木さんは、川べりの野草イタドリで草木染を楽しむこともあります。草木染だけではなく、実は多摩川も二ヶ領用水も「おいしい」といいます。

「セイタカアワダチソウの新芽の天ぷらなんて最高。ヨモギもタンポポも、ほとんどの野草は天ぷら、味噌汁、酢の物などで食べられます。二ヶ領用水も、ただ美しいわねえ、と歩くのではなく、あれも食べられるわ、これも食べられるわ、って歩くと楽しさが倍増するのでは?」と満場の笑いを誘いました。

スライドを用いて二ヶ領用水の今の姿を話す鈴木 眞智子さん
スライドを用いて二ヶ領用水の今の姿を話す鈴木 眞智子さん
川崎市内には用水路の跡が網目のように残されている
川崎市内には用水路の跡が網目のように残されている(写真提供:鈴木 眞智子さん)
二ヶ領用水沿いの畑で採れた野菜を売っている農家も
二ヶ領用水沿いの畑で採れた野菜を売っている農家も
川べりの野草を使ってハンカチを黄色く染める
川べりの野草を使ってハンカチを黄色く染める(写真提供:鈴木 眞智子さん)
多摩川に自生する野草を天ぷらに
多摩川に自生する野草を天ぷらに(写真提供:鈴木 眞智子さん)

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質疑応答

二ヶ領用水を守っていくのは誰?

Q「久地円筒分水で四方向に分けられた水路で現在、暗渠になっていない部分は住民が守ろうとしているのでしょうか?」

吉田さん「道路公園センターが清掃やフェンスの補修をしていますが、川崎市もだんだんお金がなくなってきて、どぶさらいなどはかなり手薄になっています。その代わり地区ごとに市民団体がボランティアで年に何回かクリーンアップをしています。400年記念事業では二ヶ領用水の上流から下流まで各区で分担し、きれいにしました。そういう活動に参加しているのはすべて市民団体です。市民の癒しの場なのだから手入れも市民の手で、ということ。とはいえ地区によって濃淡差があり、あまりきれいでないところもありますね。軍手やゴミ袋などは道路公園センターで提供してくれます。市民がクリーンアップの申請をすると行政にたいへん喜ばれる。そういう時代になっています。
 私たちが気をつけなければいけないのは、先ほどの齋藤さんの話にもあったように、みんながゴミを流してどぶ川になってしまうと、汚い臭い蓋をしろ、という声が高まる。きれいにしておくとゴミも捨てにくいものです。だから、きれいにしておきたい人たちが自らの手でクリーンアップすることが大切だと思います」

鈴木さん「二ヶ領用水の一斉クリーンアップでは、流域のコンビニエンスストアさんにも声をかけて参加していただきました。凄いパワーでしたね。お客さまが通るところなのでCSR活動にもなるし、熱心です。私たちNPO法人多摩川エコミュージアムにも、いろいろな企業が一緒に清掃活動をしたい、と申し出て下さっています。また大学も、運動部が練習に多摩川を走ってお世話になっているので、と協力いただいています。ですから地域の企業や大学もまた、市民と一緒になって水辺の環境を守っていく主体の一つなのですね」

市民と行政の協働はどう進んだ?

Q「二ヶ領用水400 年プロジェクトは市民と行政がどのように協働して進められたのでしょうか?」

吉田さん「市民団体ができないこと、たとえばパンフレットの印刷代など資金面は行政の支援をいただきました。あるいは場所や資料の提供なども行政の役割でした。全部で8つくらいのプロジェクトがあったのですが、毎月1回集まり、そこには行政の方も参加しました。できればこれを機会に暗渠の部分も蓋を開けられると素晴らしいのですが、子どもたちが落ちたら危険だという声も多いので、うかつにはできません。そこで私たちが提案しているのは、上から透き通って見える硬質プラスチックを今の暗渠の蓋の代わりにしたらどうか、と。部分的にでもそうすれば、そこを通った子どもたちが〈ここは水が流れているね、川なの?〉という疑問を抱くことでいろんなことがわかってくると思うのです」

次の世代へ伝える人材育成は?

Q「市民の方が用水の歴史に詳しく、また残していくための実践的な活動もされていて、いろいろ学ぶことが多かったのですが、こうした活動を次の世代に受け継いでいく人材育成はどのようにされているのですか?」

吉田さん「ボランティア活動は後ろから押してくれる人か、前から引っ張ってくれる人がいないとなかなか1人ではできません。どんな方とお話ししても〈いつもきれいにしてくださってありがとうございます〉というお気持ちは感じるのです。ただ、何かの機会に声かけを双方がしないと、それ以降進まないという気がします。私なんか極力、親御さんが小さなお子さんを連れて散歩に来たときは〈きみ、大きくなったら一緒にやろうね!〉と声をかけて、お母さんの顔を見る(笑)。そういう声かけが大切で、人材〈育成〉よりも人材〈発掘〉が先でしょう。区で講座を支援してくれるので、私が関わる〈高津区市民健康の森を育てる会〉では7月から5回、〈里山の魅力を探る〉というテーマで里山活動を体験してもらいます。参加した人たちが気に入ってくれたら会員になってくれるだろうな、と。クリーンアップの団体にもそれがきっかけで入った方もおられますし、かくいう私も、そうした講座を聴講したのがきっかけでした。人材発掘には〈声かけ〉と〈きっかけ〉の提供が肝心でしょうね」

二ヶ領用水の水利権は今どうなっている?

Q「二ヶ領用水には水利組合が存在しないと聞きました。現在の水利権は誰がどのように管理しているのでしょうか?」

ミツカン水の文化センター「川崎市が管理しています。かつて二ヶ領用水にも水利組合はありましたが、1941年(昭和16)に解散し、川崎市に管理権をすべて委譲しました。というのも、第一次世界大戦以降、川崎と鶴見地域は工業地帯としてめざましい発展を遂げましたが、水資源が乏しく多摩川しかありませんでした。しかし、多摩川は利用されつくしていたので、唯一最大の農業用水だった二ヶ領用水を利用しようという働きかけが常に行なわれていたそうです。その一方で、二ヶ領用水組合も灌漑施設の老朽化などで維持管理費がかさみ、組合員はその負担に苦しんでいました。そのうえ、都市化と工業化によって水田が減っていくので、主な財源としていた反別賦課金も減っていきます。
 それでも用水組合は工業用水への分水を拒んでいましたが、1932年(昭和7)、川崎市に対して一昼夜最大3万3660m³の取水を承認しました。そのかわりに、久地分流樋の改造費用や上河原堰と宿河原堰の工事費(1/2)を川崎市が寄付することを条件としたのです。これをきっかけに二ヶ領用水は農業用水だけでない多目的性格を備えるようになり、また維持管理費の大部分を川崎市が負担することになりました。
 その後も水田は減り、反別賦課金も減少の一途をたどるなか、用水組合の財政は悪化しつづけます。組合内にも川崎市に管理権を移管しようという意見が大勢を占めることになりました。ついに1941年(昭和16)に用水組合は解散し、すべてを川崎市に移管しました。川崎市は用水組合が引き継ぎ条件とした水利委員会を移管後に設置しましたが、十分に機能したことはなかったようです」(参考資料:『新多摩川誌 本編(上)』)

二ヶ領せせらぎ館で実施した午後の講義
二ヶ領せせらぎ館で実施した午後の講義。参加者からの質問も多数寄せられ、活発な意見交換が行なわれた

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参加者の声から

「耕作用水としての使命は終えた二ヶ領用水が親水公園としての使命を果たすべく、住民の努力によって守られていることに感動しました」(60代女性)

「川崎市に網目のように用水路が張り巡らされていたとは驚き。講師のお三方の用水にかける熱い思いが伝わってきました。時代は暗渠から清流に戻す方向へ。ボランティアの市民運動が末長く続くことを願っています」(40代男性)

「円筒分水があんな町中にあるとは! 市街地を流れているからもっと暗渠になっていると思いきや、市民によってよく手入れされていて、散策路として愛されているのだなあ、と感じました」(50代女性)

「地元で活動している方々から興味深いナマの話を聞ける良さがありました。専門的なことは文献を調べればわかりますから」(60代女性)

「自分の住居の近くにも、歩いたり調べたりしたら楽しいところがあるのかもしれません。良いチャンスをいただきました!」(50代女性)

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フィールドワークを振り返って

 今回の講師を代表して鈴木 眞智子さんからまとめの言葉をいただきました。「私たちも多摩川のことを里川と呼んでいます。私たちのふるさとの川、多摩川。なので〈里川文化塾〉というお名前を拝見したときとても嬉しかったです。3年間集中的に二ヶ領用水に関わってきたと自分では思っていましたが、皆さんからさまざまなご質問をいただいて、実は抜けているところがたくさんあるんだなあ、とかえって勉強になりました。竣工400年記念で終わりではなく、ここがスタート。これからも活動を続けていきます。どうぞ皆さん、もし機会があったら、あまりクリーンアップされていないあたりを歩いてみるツアーもいいかなと思っております(笑)。本日はどうもありがとうございました」

 都市に住んでいると水辺のありがたさになかなか気づきません。暗渠とならずに残されている用水路は、身近で貴重な都市の水辺です。と同時に、先人たちの水との関わりをたぐり寄せる記憶の糸でもあります。私たちはその価値を見つめ直す必要があるでしょう。そのことが実感された一日でした。

(文責:ミツカン水の文化センター)

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