水の風土記
水の文化 人ネットワーク

稲の「常識」は近世初期につくられた 
〜「焼畑休耕田」から「水田連作」へのシステム転換〜

稲作を行うためのハードウェア・ソフトウェアは、水の文化と切り離せません。その稲作も、かつて小学校の教科書では「弥生時代になると水稲耕作が始まり、生産力が上がりました」と習ったものですが、最近の研究ではどうも様子が異なるようです。 そこで、現在のわたしたちがもっている稲の常識とどこが異なるのか、DNA解析等の面からイネを研究してきた佐藤洋一郎さんにお話をうかがいました。

佐藤 洋一郎

総合地球環境学研究所教授
佐藤 洋一郎 さとう よういちろう

1952年生まれ。京都大学大学院農学研究科修士課程修了。静岡大学農学部助教授などを経て、2003年より現職。
主な著書に『クスノキと日本人』(八坂書房、2004)、『イネの文明』(PHP研究所、2003)、『稲の日本史』(角川書店、2002)他多数。

稲は水生植物か?

 稲というとみんな水生植物だと思っています。確かに、日本では、畦道を作り、灌漑用水路を引いた、水田で育てます。お米は水稲、水稲は稲ということで、「稲は水が要る生き物だ」と思っているわけです。

 ところが、一口に稲と言っても、いろいろな種類があります。その中に、日本にはない「浮稲」というタイプのものがあります。東南アジアなどの水深が数メートルにもなるような深い水溜りの中で育ちます。

 その浮稲を調べると、どうも水の中を快適だと思っていない。というのは、浮稲は、水を張らないで育てますと、普通の稲のように、丈は1.5メートル位にしかなりません。ところが、ここに水を入れると、丈が伸びます。1日数センチ程度の水位の増加には耐えることができ、水位が5センチ深くなると、背丈も5センチ長くなる。雨季に水位がどんどん上がると、それに応じて丈も上に伸び、空気を求める。それが浮稲です。ですから稲は本当はそんなに水のことが好きではないのではないかという気がします。

 実際、野生の稲は、〜種の数にすると20近くもありますが〜、その約3分の1は、水がない方がよい。水がなくて、日光があたらない方がよいという稲がいくつもあるわけです。

 稲というと、水があって、周囲に何もないオープンな環境を考えますが、そういう稲は少数派ですね。日陰を好むか乾燥を好むか、その両方を好むという種がそれぞれ3分の1いるわけですから。そういう経緯をみても、稲が水をどうしても必要とする植物だとは、思えません。生きてくために最低必要ですけれども、水を溜めてやることが絶対に必要だとは、私は思わないですね。

縄文時代の稲作の正体は?

 縄文時代に稲は入ってきたのか。この点については、考古学者の方々と議論しました。考古学の方は、「縄文の遺跡には畦道がないし、灌漑水路もない。だから、水田がない。したがって稲はなかったのだ」と言います。

 確かに、縄文時代の後期より前の遺跡からは、田んぼが出てきたことはありません。しかし、今でも東南アジアやアフリカ、中南米に行きますと、稲は水田の中だけではなくて、むしろ焼畑のような形で、山の斜面で見ることができます。焼畑の粗放な稲作があります。もしそういうものが縄文時代の稲作だったとすると、稲があったことを発掘では証明できません。畦道など水田の痕跡がないと田んぼではないと言うわけですから。

 焼畑の粗放な稲作は、跡としては何も残らない。ですから、縄文時代に稲作があった可能性は十分あるわけで、むしろ縄文時代の稲作というのはそういうものだったと、私は考えています。

 つまり、水田ではない、水が溜まらない所で、稲作を行っていたということは大いにあり得るわけです。稲は決して水がないと育たない生き物ではありませんし、稲の中でも水に対する要求度は種によって違う。水に完全に依存した植物では決してないということは言えるでしょう。

弥生時代の日本はほんとうに田んぼだらけ?

 弥生時代に入ると、今度は一転して、実に多くの田んぼの跡が発掘されます。このため、考古学者は「弥生時代の日本列島は田んぼだらけ」と言いますが、それはおそらく休耕田を多量に含んだシステムで、ローテーションをしていたと思います。

 例えば、今年はこの一画を田んぼにする。しかし、1年、2年も作っていると、雑草や害虫も増えてくる。そこで、次は別の田んぼへ移るわけですね。

 これを繰り返した土地を、いま遺跡として発掘すると、田んぼの跡ばかり出て来るようにみえます。でも実は、ある1年を区切ってみると、田んぼの場所もあれば、草ボウボウの場所もあり、土地全体の中で、本当に稲が植えられていた空間は、意外と少なかったのではないでしょうか。

 では、当時の人々は何を食べていたのか。山へ行ってどんぐりやキノコを拾ったり、小さい動物を捕まえたりしていた。我々が田んぼと呼んでいる空間の中も、魚や貝がいたでしょうし、そういうものを捕まえていたと思いますね。考古学者の寺沢薫さんは「弥生時代の後半になっても、人々が一番依存していたのは、どんぐり等の木の実である」と言っていますね。

 考古学者が田んぼと呼ぶ場所で、多数の足跡が出てくることがあります。稲が植わっていたと思われるような、畦道を伴った田んぼがあります。

「考古学的には絶対に田んぼだ」と言うので、「なぜ?」と訊くと「足跡があるからだ」と。確かに足跡はある。しかし、よく見ると、足跡がそこら中にベタベタとついていて、稲はどこに植わっているのだろうかと疑問に思うほど足跡がついているものもあります。

 さらに、足跡の中に、「明らかに1人の人の足跡だ」と思われる足跡もあります。ランダムな足跡の中に、ポン、ポンと、一方向の足跡がついている。歩いたにしては、歩幅が広い。跳ねたような足跡です。では、何で跳ねたか?きっとね、鰻か何かが逃げていってね、「待てーっ」と餌を追ったのではないかと(笑)。証拠はないですけどね。

 まぁ、おそらく、稲などは生えてない単なる水溜りか、水草が生えていただけか、休耕田になっていて水が溜まっていたか。そこが、彼らにとっては餌場だったのでしょう。そこに行けば、魚がいたり、蛇がいたり、蛙がいたり、タニシがいたりする。そういう場なのだろうと思いました。

 要は、田んぼの跡が発掘されたからといって、そこが実際に耕作されている田んぼと考える必要は何もないということなのです。

 この点については、私も考古学者もお互いに根拠はまだまだ薄くて、今のところ、まだ議論の応酬段階ですね。

休耕田システム

 稲を育てる時に問題となるのは、これだけ雨が降るアジアの地域では、雑草です。これは、田んぼであろうが畑であろうが、ちょっと経験した方ならご存知ですね。草に必ず泣きます。

 ただ、草取りを問題としないようになる条件が1つあります。それは「草が有用である」と思うことです。例えば、現在、水田の雑草の中にタデというみんなが嫌う植物があります。しかし、これは薬用になる植物でして、葉の中に虫を殺す成分を持っています。ですから、今でも日本人は魚を食べる時に、刺身のつまとしてタデの若葉を使いますね。この他にも、いろいろな例があるんですが、日本人が今まで雑草だと思っている植物の大半は、昔の人たちには、そう邪魔ではなかったり、使い道があったりしていたものだろうと思っています。

 しかし、そうは言っても米が作れないほど他の植物が生えると具合が悪い。これを防ぐのが休耕田です。休耕田とは、単に遊ばせているだけではなく、生態学で言う「遷移」を進ませる土地です。始めは裸だった土地に、1年草の草が生え、それが多年草にかわり、しだいに潅木になり、最後に森になるという変化を、生態学では遷移と呼びます。草が生えてくるということは、その遷移がちょっと進むということです。雑草が生えるということは、人間は田んぼに他の植物を生やしたくないが、生態的な力はそれとは逆に働いているということです。

 これを防除する方法は1つしかなくて、しばらく放っておく。すると、雑草が多年草になり、10年もしたら潅木になる。潅木になった頃にはもう雑草の種子はない。そうなった時に火をつけて焼き、また新たな土地にしてしまえば、草が生えないわけです。

 これは実によくできている農業の方法でして、あの面倒くさい草取りから逃れる最大の方法は、放っておくことなんですね。これが、焼畑における休耕の最大の狙いの1つです。

 そういう仕掛けで昔の人々は休耕を行ってきた。しかし、我々はそのことを忘れてしまった。現在ある日本のきれいな田んぼは、除草剤を使いますので虫も生きていけない。虫も生きていけない環境が、今の水田なのであって、もし除草剤を使わないと数年ともたない。草ボウボウになる。これが、今の日本の田んぼがおかれている、ものすごく脆弱な側面です。

 ですから、季節外れの台風に弱かったり、環境の変化に弱く痛みやすい。変化に柔軟に対応できるようにはなっていない。

 さらに、同じ品種が植えられているため、被害を受けた時には徹底的にやられます。これは多様性を失った環境の怖さです。多様性を守らなければならないというのは、それが大きな理由の1つでしょうね。

水を張り始めたのは近世初頭

 弥生時代の米の収穫量については、私も実験をし、先にお話しした寺沢薫さんも実験をしました。寺沢さんは1反あたり120キロ、僕は実測して260キロという数字を出したんです。お互いにあんまりいい推定値ではないのですが、おそらく120キロよりは多くて、260キロよりは少ないぐらいの、その範囲だろうと思いますね。

 参考までに言うと、2004年の農林水産省の政府統計で約526キロ。ちなみに、明治12年に、明治政府が最初の統計をとった時の反収が180キロです。

 ですから弥生時代と明治時代とでは、そんなに変わっていない。もっと言うと、何も進歩していない。

 中世までは、休耕して、地力が落ちたら次の土地へ移りますので、そこそこの数字を保っているんです。しかし、近世に入ると、人間が土地に縛りつけられる。そして、それまでの休耕をやめ、同じ土地で毎年稲を作り続けるようになります。つまり、連作しますので、どんどん地力が落ちてきます。でも、落ちると困るので、肥料を開発したり、様々な農業技術が生まれてきた。ですから、「江戸時代には、いろんな農業技術が生まれた」と教科書には書いてありますが、収量は実は増えていない。つまり、おそらく落ちた分を回復するのがやっとで、決して、右上がりに増えていったわけではない。
ただ、休耕田がなくなる分、総収量は増えています。それは面積が広がって、休耕がなくなったということです。ですから、実は効率は悪くなっている。単位面積あたりの効率はもう確実に落ちています。

 なぜ休耕しなくなったか。検地が行われ、面積に対して税金がかけられるるようになると、休耕のシステムでは損をします。取高に対する税金であればいいのですが。

 田んぼにきちんと湛水し始めるのも、近世からだと思います。中世から、新田開発がさかんに行われ、普段だったら水なんかないようなところで稲が作られていますね。ですから、中世は、そういうシステムと、相変わらず休耕してごろごろ動くようなシステムが共存していたのでしょう。つまり、検地を契機として、連作するようになり、定着型の農法が意識され始めたのではないかということです。

 刈敷きなどもその頃には出てきます。肥料を入れないと駄目になるんですね。また、稲の単作になるため、病害虫が増えます。そこで、田んぼに鯨の油を撒くような害虫防除の方法も発明されたり、いろいろな技術が考え出されます。

 さらに、一方では農民に「徹底的に草を取れ」と教える。「はいつくばって草を取りなさい」と。それが日本の農民の心だというわけで、これは今でも言われることと思います。この頃、つまり江戸時代の農民は、草が役に立つという意識はとうになくなっています。年貢を米で取られますから、何しろ米をとらないことにはしょうがないわけですよ。

 堆肥を水田用の肥料として使うのも江戸時代になってからでしょうね。地力がなくなったら、その土地を休ませて、人間の側が動いてやるというのがそれまでの人の発想でしたからね。だけど、土地に縛りつけられたものだから、肥料を他所で確保して、田んぼの中に持ってくる。そういう実に手間のかかることをやったわけですよね。

――そうすると、稲作と土地改良は、別の話なのですね。

 そうですね。たまたま近世以降はセットにされてしまったのであって、それ以前はまったく別の意識だったはずです。

 当然、土地への執着も近世初頭を境に違ってくると思いますね。田んぼという土地に縛り付けられたということで、「タワケモノ」という言葉があるぐらいですから。このシステムから発生した文化をわれわれは数百年持っていますが、それは作られたものですね。

 これに寄与しているのが、菩提所という観念だと思います。「あなたのご先祖のお墓はどこですか」訊くわけですね。「いや、僕のじいさんは野垂れ死んだ」と言う人は、まあいない。しかし、松尾芭蕉の頃までは、やはり旅先で行き倒れているわけで、珍しいことではなかった。菩提所は、決して寺である必要はなかったし、それがどこであるかは必ずしもわからなかったと思いますね。寺が整備された江戸以降でないとありえない発想ですね。こういう形で、人を土地に帰属させていったのでしょう。

多様性を維持すること

 いま、この地球研の中で私が取り組んでいるのは、「遺伝的多様性」というテーマです。平たく言うと、稲の中でどれぐらいの品種があったのかということを通して、それが失われたときに食料の生産やひいては社会の構造にどういう影響が及ぶか、それを1つの環境問題として捉えようということです。

 自然がからんだ社会現象は、多様性をなくした時に、何か起こっている。そこに自然災害のようなものが加わり、人が死んだり、移民を余儀なくされたりするようなことが起こっているわけですね。

 例を挙げると、これまで「寒くなったから飢饉が起こった」という言い方をしてきましたが、ちょっと待ってもらいたい。寒くなったということは、引き金の一つであるには違いはないけれども、実はその裏に潜んでいた原因があるはずです。それが多様性の喪失だと思うわけですね。江戸時代の飢饉を見ると、確かにあの頃は寒かった。ただ、それに加えて、東北日本とは、稲を作る文化ではない、麦や蕎麦を作るという全然違う文化があった所です。つまり、東北日本には畑作文化が中世まであった。当時は、全然違う文化的な2つの集団が日本の中にあったのに、東北日本は稲を作ることは半ば強制されるようになる。このため彼ら東日本に住んでいた人たちは、それまでの生態基盤を無くして、そこに稲作というものを置き換え、さらに稲の単作に走った。ですから、飢饉が起きている。

 寒くて植物の生産力が落ちるのは事実ですが、稲以外のものを持っていれば事情は違ったはずです。山の中に入ると、大なり小なり持っているはずなんです。

 それは、昭和に入ってからだって、同じであったと思います。青森稽古館という博物館の館長をされていた田中忠三郎さんという人が、「森は下北のデパートである」という名言を残しているんですよ。彼は下北の生まれですが、「どんなに寒い夏であろうとも、下北の森に入れば食べる物に困ることはなかった」と言っています。貧乏だったけれども、森の中に入って飢え死にしたやつはいないと言うわけですね。米ばかり作るから、駄目なんだと言うわけですけれども、私は江戸時代の大飢饉の連続というのは、まさにそれだと考えています。

 これと同じことが19世紀のヨーロッパでも起きています。アイルランドでじゃがいもをみんな植えるのです。じゃがいもは生産性が良いので、みんなが麦をやめて、イモにする。ところが、1860年代ですが、黒斑病にやられ、収穫が皆無となり200万人をこえる人びとが死にます。その後も多くのアイルランド人が北米に移民しています。結果として、大きな社会的変革のもとになったわけです。

 このようなケースは、調べてみれば数多く出てきます。その背景には、多様性を失った生態系があるという気がしています。

 そういう目で見ますと、最近、グローバリゼーションという言葉がよく言われますが、グローバルになったのは病気ばかりです。BSEを始めとして鳥インフルエンザ、SARS、AIDS、全部グローバルになりました。

 グローバリゼーションは結構だが、グローバルになるものの中には人にとっては望ましくない、病気のようなものが含まれるということを覚えておくべきですね。

 多様性を維持するということは、実は、現代の問題なのです。

 (2005年1月12日)



この記事のキーワード

    水の文化 人ネットワーク,佐藤 洋一郎,水と生活,歴史,水と社会,産業,稲作,稲,研究,縄文時代,弥生時代,田んぼ,休耕,農業

関連する記事はこちら

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

ページトップへ