水の風土記
水の文化 人ネットワーク

セミ・パブリックな空間をつくる 
〜コミュニティ・デザインの世界〜

1997年の河川法改正で、河川整備計画への住民参加が盛り込まれ、以後、「流域を自分たちで守ろう」と住民活動も盛んです。身近な川をコミュニティとして守ることは、流域という広い範囲を守ることにつながるのでしょうか。 今回は、コミュニティ・デザイナーという顔をもつ土肥さんに、都市を事例に「半公共的な空間をつくる」ことの重要性について語っていただきました。川にも応用できるヒントを多数いただきました。

土肥 真人

東京工業大学社会理工学研究科助教授
土肥 真人 どひ まさと

1961年生。京都大学農学研究科修了し、現職。
主な著書に『まちづくりの方法と技術〜コミュニティ・デザイン・プライマー』(現代企画室、1997)、『環境と都市のデザイン』(学芸出版社、2004)他。

デザインはコミュニケーションである

 もともと私はランドスケープデザインを勉強してきました。大学では、公園、庭、道路、河川等々、オープンスペースのデザインを学びました。

 ところが、時間がたつ内にどうも疑問が湧いてきたんですね。公共的なオープンスペースのデザインでは、建築のデザインと比べて、事前には予測できない要素がたくさんある。ところが20年前ですと、デザインの手法はそれに全く対応していなかった。例えば、不特定多数の人が使うシーンの設計演習では、あるデザイナーの提案は、求められる機能はすべて充たしている。しかし、そこを使う人にとって、その提案は良いデザインなのかがわからない。その「良い、悪い」も曖昧でして、デザイナー自身が「良いから、良い」としか言えない部分もある。でも、画家が絵を描き、建築家が建築を造ることと、オープンスペースをデザインすることは違うのではないかと。当時は「こんな方法で造っていいの?」と、随分と違和感があったのを覚えています。

 その後、アメリカでコミュニティ・デザインを教えているヘスター先生(ランドルフ・T.ヘスター。『まちづくりの方法と技術〜コミュニティ・デザイン・プライマー』の著者)の下で、1年間勉強してきたんです。彼は当時の日本のランドスケープデザイナーとはまったく違って、「デザインの核心はコミュニケーションである」という考え方なんです。「いかにコミュニケーションをとったかがデザインの質に関わる」と言う。

 このことは、言うのは簡単です。でも、実際に行うのは難しいですよ。

 「デザイナーが人の話をよく聞けば、よいデザインができる」という意味では、当然のことながら、ない。デザイナーは自分の頭の中で造形すると、かつては考えられていたわけですが、この立場から離れないと、この言葉の意味は本当には理解できないのです。コミュニケーションとデザインの関係は、具体的には、第一に、デザインすべき空間にどういう利用者が、どのような思いやルールや課題を感じているのかを、よく把握しなくてはならない。そして、第二には、デザイン提案した後、その提案や実現されたデザインを、利用者がどのように解釈し応用していくかも考えなくてはならない。

 つまり、一般に考えられているデザインプロセスの「前段階」と「後段階」を長くとることが、どうしても必要になってきます。そしてその「段階」とは人々のイメージや行動にこそ存在する。自ずと、「高いコミュニケーション能力と造形能力が、私たちの仕事には必要なんだ」ということに気づいたわけです。

参加のデザイン

 これは、いわばオープンスペースの「利用者の参加」をデザインするということです。

 でも、当時は「参加など、デザインできるはずがない」と多くのデザイナーが言っていました。今から振り返ると嘘のような話です。今ではデザイン事務所も、都市計画コンサルタントも「参加で計画をつくります」と言います。ただし、これを本当に実施するためには、ものすごくお金も知恵も時間も使わねばならない。しかしそれらのリソースが用意されていることは稀ですので、形骸化もしやすい。

 一方で、行政も、1990年代になると「参加」を求めるようになりました。

 92年に都市緑地保全法が改正され、緑のマスタープランに「参加」を入れることになった。94年には都市計画法が改正され、都市マスタープランにも参加を入れる。95年に阪神淡路大震災。97年には河川法の改正。98年にNPO法ができる。いろいろなことが「参加」に向けて動いたわけです。

 これら短期間での一連の動きを見ていまして、僕は、1960年代にアメリカで潮流をなしていた「アドボカシー・プランニング」(市民の側から代替案を提案する運動)が日本でも起きるのかなと思っていましたら、その間もなく変わってしまった感じですね。そして、現在では、様々な計画の担い手である行政と住民、つまり、参加のデザインの発注者と参加者が、共に「参加のデザイン」が何を意味するのかよくわからないまま、計画やデザインとして出されている例が多数あります。

コミュニティづくりは、コミュニティを出られるのか

 参加をデザインするというコミュニティ・デザインは、世の中を良くするものだという確信を、私は今でももっています。でも、10年間携わってきて、世界が良くなっているかと問われると、実感がない。

 つまり、コミュニティ・デザインとは、一生懸命草の根のレベルで価値観を形成するような運動だと思うのですが、一方で、それを経由せずとも世界が動いているという現実もある。草の根の動きとグローバルの動きを、どこでどのように関連づけてやるかという戦略が、コミュニティ・デザインの側はもっていないと考えているのも事実です。

 「コミュニティ・デザインは、コミュニティを出ることができないのか」という問題ですね。僕の先生のヘスターさんは、「例えば黒人も白人も国家のことや政治のことについては話しが合わないかもしれないが、身の回りの生活に関しては話ができる。それが、コミュニティ・デザインの原則の一つ」と言います。確かにそうですが、コミュニティから出る必要はないのか。そういうコミュニティを単位にして、公園、道路、等々をパッチのように組み合わせると、その先に美しい都市は構想できるのか?

 いまも結論はでませんが、そのことを考えると、結局、範囲や領域という空間の問題、その社会的まとまりの根拠、これらを深く考えることなしには、活路は見いだせないだろうと感じています。

コミュニティデザインのすすめ方

 例えば公園のデザインでは、住民や利用者とワークショップを重ねていきます。ワークショップ全体のプロセスをデザインしてプログラムをくむ。もちろんプログラム1回1回には目的があって、それもデザインします。例えば、「この公園の素晴らしい所はなんですか」、「使い勝手はどうですか」、「問題はありますか」など、最初は言葉で表現し、意見を交わし、記録していく。

 その次に、「その問題はどうすると解決できるのか」、「どのようにすると、そのような公園ができるのか」と、言葉から空間に話題の焦点を戦術的に移していく。そのうちに、参加してくれる人の空間感覚が戻ってきて、参加者が気持ちの上でデザイナーになっていく。これがコミュニケーションから空間造形への移行過程。でも、これはことの半分だけです。

 一般に、専門家も参加者も、コミュニケーションと空間造形の間は、機能で結びついていると思っているんですよ。でも、ワークショップでいろいろな問題や要望について言葉を交わしても、空間だけで解決しないことだって、当然のことながら、たくさんある。空間と機能を1対1対応で進めると、たとえ機能は満たしても、空間的に気持ちよくないという例も出てきます。

 例えば、「子供とお年寄りが運動場を使うことで問題が起きる」ならば、使う時間を分ければいい。このような簡単な解決法ですが、デザイナーでは思いもつかない。つまり住民の協力というか自主的な使い方ルールの了解があって初めて可能になるわけです。こういうことがコミュニティ・デザインの核心だと思います。人々と共に場所を作ることの大きな意義で、空間デザインの意味、定義を大きく変えていますね。

みんなのイメージをつくる

 イギリスのマンチェスターで、住民がNPOと連携して市内中心部の荒廃地をつくり直していく事例を、学生さんと一緒に調べたことがあります。いろいろと勉強になったのですが、大変興味深かったのはお金をめぐる話でした。マンチェスター市の助成金やイギリスのロッテリー・ファンド、それにEUのファンドが主な財政支援元ですが、これはコンペティション形式で助成先を決定しています。採択にあたっては、申請計画にきちんと住民参加がなされているかどうかが大変重要な評価項目。そして、採択率は2割弱だそうです。 「そんなので大丈夫なの?落ちたらどうするの?」と聞くと、彼らは「大丈夫だって、7〜8年やれば当たるさ!」。

 のんびりしているなあと最初は思ったのですが、よく考えてみるとこれは、実に大事なことなんです。まちに住む人々は、実際にプロジェクトの施工に入る前に、長い年月をかけて、新しいまちの絵を心の中に形成してゆくわけで、NPO達は彼らの心の中のまちをデザインしているとも考えられるわけですね。ここでは、専門家だけが考えておしまいというのは悪いデザインで、いいデザインは、そこに住み利用する人々が時間をかけて皆の心の中にまちの絵を描いたものなんですね。

 みんなで自分たちのパブリックな場をデザインしようという動きがでてきており、これは日本にも及んできていると思います。

都市のコミュニティがなくなった

 日本のまちづくりで、公共的な場をデザインしようと思うと、「公共的な場とは何か」「コミュニティとは何か」ということを考えないわけにはいきません。

 この疑問は、江戸時代を考えると、示唆に富むんですね。

 江戸のまちは更新していくのを前提としてまちに手をいれ、家を磨いていく。まさ土でできた道に打ち水をしたり、植木を出したり。そして、大火などで建物が更新されても、建物は身分制度を根本とする社会のシステムにしっかりコントロールされているわけです。

 ですから、日本人は「建物が変わっても大丈夫」と建築の更新には寛容であったのだと思います。ところが戦後は、「建物が変わっても大丈夫」ではなかった。それだけではなく、まちなみが変わっても社会関係のルールは大丈夫と思っていたのに、その容れ物だったまちと共に中身である社会的な関係性、つまりコミュニティもこわれてしまった。これで日本の都市は、都市ではなくなった。

 日本の都市の中に、「都市的な人々の群れ」がいなくなってしまったということが、日本の都市の一番問題だと思います。

東京におけるパブリックの誕生

 江戸の町は60間の区画で4つの町を構成するのが基本的な構図でした。4つの町の真ん中に会所地がある。辻には木戸があり、番屋がある。無主地であった水面以外は、どこの土地もどこかの町に属している。町には書き役という町の事務を担当する人もいましたし、火消しはもちろん番人など治安を担当する人もいました。江戸のまちはいわば自律するムラが集まったようなものなんですね。ただ、それでは流通が悪いので、水空間で運送をする。

 例えば、町奉行所の役人は南町、北町に分かれてそれぞれに120人位いましたたが、1月交替で担当に当たります。でも、町の中を巡邏しているのは12〜3人。なのに、町民は約50万人いる。この人数の開きの秘密は、先ほど申し上げた番屋の番人です。犯罪が起きると、番人が協力して治安対策をするわけです。明治になって最初にできる警察官、「羅卒(らそつ)」といいますが、これが、だいたい3千人で、江戸の番人と同じくらいの人数です。

 明治になると土地の私的所有制度が持ち込まれ、民地と官地の区別が精力的に行われます。道路ははじめは中央2分の一が東京府の管理でしたが、すぐに全体が官有地に組み込まれます。この時期に始めて登場する公園もまた官有地です。これら官有地は当然行政の所有管理になるのですが、もともと私的であった空間が公共の管理する公共空間に移行したということでは決してないのです。おもしろいのは公共機関と公共空間はほぼ同時に成立するということです。これが「公共が誕生した瞬間」だと私は思っています。

 イギリスの近世史に同じような指摘をする研究者もいます。イギリスでは、産業革命前は道路を傷めないように馬の数とか車輪の幅を規制していたそうですが、流通する物や人の増加に対して、次第にターンパイクをつくって使用料をとり道路を高い機能レベルで管理するようになる。この使用料の管理と道路の管理のための組織が公共の始まりではないかと言うわけです。イギリスでも公共空間と公共は同時に誕生しているのではないか。

 江戸はコミュニティ毎に町ができています。当時の日記を見ると、芝居見物の記述なのに、芝居のことよりも、そこに行くまでの道筋を詳しく書いている。木戸をくぐるたびに町が変わるわけで、いわばムラからムラへ旅するようなものです。一つひとつはムラですけど、そのくっつき方の中に江戸の都市性があったのかもしれませんね。

 ムラが極限まで近接し洗練されていった江戸という都市は、明治維新で消滅します。新たに東京と名づけられた都市では、木戸、番屋は撤去され、車両が爆発的に増え、それらのための空間が道路という公共空間となり、私有地はこの公共空間に接続するという空間構成をとります。このような公共と公共空間に関して言うならば、現代もいまだその延長にあるわけです。

 ですから、現在私たちがコミュニティのあり方や人々の新しい意思決定の方式なりを考えるとき、どうしてもセミ・パブリックな領域をつくるしかないと思っています。

 そして、このセミ・パブリックな領域というのはコミュニティのような社会関係であるのと同時に、具体的な空間、セミ・パブリックな空間の問題なのではないでしょうか。

 例えば、先ほどの公園のデザインでも、利用者しか知らないルールがあって、それをデザインに生かすのは、社会的なセミ・パブリック関係を空間に映し出して、セミ・パブリック空間を作り出す例ですね。セミ・パブリックな空間を通さないとコミュニティは実現できないと言ってもよいですね。

川をセミ・パブリックにできるか

―― 「河川にセミ・パブリックな空間をつくれるか」という話になるのですが、コミュニティを組み合わせていくことで、それは可能でしょうか。

 河川整備計画には住民参加できますが、同じ流域をカバーするその他の諸計画たとえば森林計画との整合性は全然とれていませんね。特に市町村界との関係は手つかずです。国をまたぐ越境河川の流域委員会のような組織が必要になるのでしょうね。それを、コミュニティの小さな単位で包んでいくのか、大きな計画単位の方が必要なのかは、難しい問題ですね。また河川は、道路や公園と同じような役割を果たす公共空間なのかどうか。もっと別種の公共の根拠を持つものなのか。直感的には、河川ははるかに強い公共性を要求する空間であり、だから本当に多くの人々の関係性を持ち込まないと行政のような公共システムに対抗できない、そんな感じを持っています。

 そのような川をセミ・パブリックにするならば、例えば河川基本計画をコンペティションにして、1000人、10000人もの参加をベースにして、お金と時間をかけてつくり、審査過程を明らかにする。すると、おそらく参加した一人ひとりが川についていろいろなことを思い浮かべるでしょう。そのような過程を経て初めて、つまりセミ・パブリックな関係を作る過程があって、セミパブリックな空間としての川になりうるのではないでしょうか。川は、そういう巨大なポテンシャルをもった空間なのだと思います。

(2006年2月27日)



この記事のキーワード

    水の文化 人ネットワーク,土肥 真人,水と社会,都市,水と生活,芸術,デザイン,コミュニティ,公共,江戸,河川,川,空間,イギリス,コミュニケーション

関連する記事はこちら

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

ページトップへ