水の風土記
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定常型社会に向けた生き方 
〜「自然環境を守る」と「働き方」はつながっている〜

日本ではなぜか自然環境の専門家は労働の話をせず、福祉の専門家は環境問題を語らないという傾向があります。実は両方のテーマはつながっているのですが、その接点を研究してきたのが広井良典さんです。今回は、広井さんが理想と考える「定常型社会」についてうかがいました。

広井 良典

千葉大学法経学部総合政策学科教授
広井 良典 ひろい よしのり

1961年生。東京大学大学院修士課程修了後、厚生省勤務を経て、1996年より千葉大学法経学部助教授、2003年より現職。社会保障、環境、医療に関する政策研究を行っている。
主な著書に『持続可能な福祉社会』(筑摩書房、2006)、『ケアのゆくえ、科学のゆくえ』(岩波書店、2005)、『定常型社会』(岩波書店、2001)他多数。

定常型社会とは

 19世紀の経済学者ジョン・スチュアート・ミルは『自由論』の著者でも有名ですが、彼が使い始めた言葉に、「Stationary State」があります。翻訳では「静止状態」と訳されていますが、これが定常化という言葉が使われた最初です。当時は、18世紀ぐらいから市場経済が広がり、イギリスを起点に急速な経済の拡大が見られた時代でした。しかし、ミルは「究極的には人間社会は成長を続けるのではなく、定常状態に達する」と唱えた。しかも、それは望ましい状態であって、人々はあくせくと働くよりも、定常状態に達して幸せになると書いたわけです。

 なぜミルがそのようなことを唱えたのか。

 当時のイギリスはなお農業を基盤とした社会でして、ミルが集大成した古典派経済学は土地の話が中心でした。どんどん経済発展しても、やがて農地が自然資源の限界にぶつかると考えていたのです。ところが、その後18世紀の終わりから産業革命が起こり、人間の経済が自然制約から離陸し、独立して発展するようになった。そこで経済は定常状態ではなく、無限に発展できると考えられるようになり、ミルの定常状態はいったん忘れられていきました。それが、百数十年たって、地球環境問題という新しい文脈で地球レベルの自然の制約に直面するようになり、ミルの言ったことがいまあらためて浮上してきています。

 私としては、日本はこれまで成長を目的にしてきたわけですが、これから定常型社会として捉えたほうが、望ましい展望が開けてくるのではないかと考えています。

定常型社会での「豊かさ」とは

 「豊かさ」の意味については、消費と労働の両面から考えられます。消費という面から見るならば、これからは「時間」の消費が重要になってくるでしょう。

 これまでの消費の歴史を200年ほど遡ると、4段階に分けられるのではないでしょうか。第一が「物質の消費」、次に「エネルギーの消費」へと移ります。それが20世紀後半になると「情報の消費」が拡大します。この場合の「情報」とは、モノそのものよりも、それに付加された情報が消費されるという意味です。そして、情報の消費も現在ではかなり飽和してきており、代わって「時間の消費」とも呼ぶことのできる現象が広がっています。コミュニティ、自然、精神性(スピリチュアル)などのキーワードが重んじられるのは、その表れでしょう。

 一方、労働の面からとらえますと、私は現代社会を、「生産性が上がりすぎた社会」と考えています。つまり、慢性的な生産過剰が生じている状態です。これはモノを作っても余る、言い換えると労働力が余って失業が生じている状態です。

 これまでは失業が生じているということは、経済規模が小さすぎるためと見なされていました。ですから、需要を刺激して、経済が拡大すれば、労働需要も増えて失業が減るだろうと思われていました。さらに一層生産性が上がれば、同じ時間働いてもたくさんのモノが作れるので、結局モノが余って失業が生じる。そして再び経済を成長させる。私はこれを「経済成長と生産性上昇の無限のサイクル」と呼んでいます。

 ただ、これだけモノが飽和した状態になってくると、このサイクルが機能せず、需要の方が飽和してきている。言い換えますと、生産性が上がった分を、労働時間の削減で対応しないとモノが余って失業が生じることになります。いまの日本が皮肉な状況なのは、失業になるのが怖くてもっと働かなくてはいけないと、多くの人が思っていることで、みんながもっと働くと、モノが余計に余って、失業が増えるという悪循環になっている所がある。発想そのものを考え直す必要があると思います。

ドイツの税制改革が意味すること

 環境、豊かさ、労働、消費、これらのテーマは実はつながっているのです。現在は、労働生産性は充分に上がりきっています。したがって、今度は、自然の資源を人間がいかにムダなく利用するかという、環境効率性あるいは資源効率性という指標が重要だろうと思います。

 このような観点から政策を実施しているのがドイツです。ドイツではエコロジカル税制改革を行い、1999年に環境税を導入しました。日本ですと環境税の税収は環境保護のために使うと考えられていますが、ドイツでは環境税の税収を福祉、年金の財源に充てたことが重要な点です。つまり、表面的には、環境税で環境への負荷を抑え、福祉も充実させる。年金に環境税の税収を使う分、年金保険料を引き下げる。すると企業の負担が減るので、企業にも雇用を増やすインセンティブを与えることができる。雇用、福祉、環境を両立させることができるわけです。

 この税制改革をより根本的に考えると、「労働生産性から環境効率性への移行」を表しているのだろうと思います。昔は資源はいくらでもあり、人手は足りないので、少ない労働力で労働生産性を上げることが重要だった。ところが今は逆で、資源は足りないのに、人材は失業が生じるくらいに余っている。企業のインセンティブを環境効率性を高める方向に誘導していくためには、税金をかける時に、「労働に対しての税」ではなく、「資源消費や環境負荷に対しての税」にシフトすることで、企業の行動を、労働生産性の上昇から環境効率性に移していくことになるわけです。

稲作と麦作:生産性の感じ方は違う

 いかに環境効率性を重視する方向に社会を移行させるかが問題となるのですが、このことを考える上で、水は大いに関連しているのではないかと思います。

 環境史家の湯浅赳男さんが言うには、「ヨーロッパは麦作地帯で、アジアモンスーンは稲作地帯。稲作と麦作の境界は降水量約800ミリ」ということです。

 稲は麦に比べ土地生産性が高く、農民もそれを上げることが最大の関心事になる。ところが麦作では土地生産性はあまり高くなく、収穫量は投入した労働に規定されるので、機械化も含めて労働生産性をどう上げるかに関心が向きがちで、その延長上に発展したのがヨーロッパの近代文明ではないかというわけです。そういう意味では、稲作に代表されるような水を重視する文化と、環境効率性、資源効率性、土地生産性が結びついていて、水文化というのは大事な話と思いますね。最近、現在の消費水準を賄うにはどれだけの土地が必要かという「エコロジカル・フットプリント」という指標が言われるようになっていますが、あれも土地を基準にしているのが面白いですね。

 ただ、稲作は環境面でプラスの面がある一方、集団的で協調行動を求められ、共同体が個人に対して強くなりすぎる面もある。「現代の日本はどうか」という話になりますが、これも稲作の同調行動を引きずっている所もあるのですが、いまは高度成長期に労働生産性中心の考え方が欧米から入ってきて、「たくさん働けば幸せになる」という成功体験となりました。もとは、土地生産性、環境効率性の発想が高い社会だったと思いますが、そうした成功体験を、どのように稲作のプラス面を活かしながら、個人が自由に行動していけるようにどう転換できるか課題かと思います。

定常型社会の人生観

 私は1961年生まれで、就職の頃は「新人類」とか「会社への帰属意識が薄い」と言われた世代です。いわば、高度成長期中期以降のモノがあふれる時代に育ったわけです。このため、いまの日本で豊かさを実感するには、「GDPを高く」とか「もっと働けば良くなる」という発想ではなく、むしろ逆の方向にあるのではないかと感じました。

 河合隼雄さんの『中年クライシス』という本を私は好きなのですが、中年という人生後半期の課題をいかに受け入れ、受け止めていくかは大事なことなんですね。そういうことまで考えると、成長・拡大だけでは説明できない自分の人生と、経済社会の動きが重なって見えたんですね。

 社会のことを考える時、自分のライフサイクルや時間をどのようなイメージで捉えるかは重要なことです。私の場合は、時間、人生を直線的ではなく、円環的に捉えていまして、最終的には魂が生まれた場所に帰っていくというイメージをもっています。

 そういう風に人生を捉えますと、子どもと老人は近い場所にいるわけですね。フィンランドではこどもと老人の統合ケアというのがあります。それを調べていると、帰っていく場所として、自然が考えられるのではないかとも思います。

 日本でも似たような取り組みがなされています。そのような時間と自然の象徴として鎮守の森を福祉資源として整備しようということも考えているわけですが、国分寺に、プレイセンター・ピカソという団体があります。プレイセンターというのはニュージーランドにある遊びを中心とした地域住民が育てる保育なんですが、ここでは神社を使って地域保育の試みをしています。自然との関わりをケアにとりこむ試みが出てきたわけです。

 地域で自然資源と福祉資源と一体となったようなしくみは、日本でも高度成長期以前はあったんですね。いままた、この失われたコミュニティを再生することが重要かと考えています。神社・お寺、学校、商店街、自然がそうしたコミュニティ再生のポイントとなるでしょう。

人口減少社会は定常型社会か

―― 100年後の人口は、低位推計だと現在の半分ぐらいになります。果たして日本社会は定常社会に向かっていくんでしょうか。

 日本社会が定常型社会になることはまちがいないでしょう。ただ、BRICsが成長する中地球全体としてはどうなるのか?「グローバル定常型社会」になるのか。結論としてはそうなっていかざるをえないと思います。中国も2030年代に人口はピークを迎えますし、国連の世界人口推計も、2070年代がピークで、その後は減少に転じます。ある人口学者は「20世紀は人口爆発の時代だったが、21世紀は人口定常化、高齢化が進む時代になる」と言っています。

 一人当たり資源消費量をどう抑えるか、分配格差をいかに縮めるかという問題が大きいわけですが、そうした「グローバル定常型社会」という世界の行きつく先がどうなるのかを決めるのは今世紀前半が勝負でしょう。

 私自身が想像する100年後というのは、労働時間が今よりも減って、もうちょっとゆったりと、GDPにそんなにこだわらないようになっているイメージですね。ただし、明らかに税や保険料の負担は増えるでしょうね。消費税は15%以上。ヨーロッパはいまもその程度の税率ですからね。でも、それだけ税が多くなるということは、失業など困った時の福祉もそれなりに整備されているというわけで、少なくとも、失業するとどんどん谷底に落ちていくという社会ではなくなっているはずです。

 人口は江戸時代が3千万人、太平洋戦争が終わった時が7千万人でした。直感的には、3千万人は極端だとしても、その程度まで人口が減少して定常化するというのが一つの選択肢だとは思っています。

 そこにいたる過程で、「成長志向×小さな政府」というアメリカ型と、「定常志向×大きな政府」というヨーロッパ型という、二つの社会のしくみが考えられるわけです。大きな政府は税金も増えるけど、豊かさもある。このどちらかを選ぶか。それは国民による政治選択の問題になってきますね。

 (2007年5月22日)



この記事のキーワード

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