機関誌『水の文化』17号
雨のゆくえ

言葉は文化 新聞で伝える沖縄文化 沖縄方言 <うちなーぐち>で表現される天水の恵み 

言葉は文化 新聞で伝える沖縄文化 沖縄方言 <うちなーぐち>で表現される天水の恵み 

言葉は文化 新聞で伝える沖縄文化 沖縄方言 <うちなーぐち>で表現される天水の恵み 

各地で方言が見直されつつあります。沖縄の方言は <うちなーぐち>と呼ばれています。新聞を作ることで<うちなーぐち>と沖縄の文化を伝えようとしている人々をご紹介します。 沖縄県那覇市の年間降水量は約2000mmで、決して少ないわけではありません。しかし、降雨時期が6月と台風期に偏るのと、島が石灰岩の上に成り立っているため雨水が溜まりにくいという事情があり、毎年水不足に悩まされています。沖縄方言のなかにある多彩な雨と水にかかわる言葉から、豊かな雨の文化を探ります。

編集部

言葉は文化

沖縄・那覇の繁華街といえば国際通りだ。ここに並ぶ土産物屋は夜11時過ぎまで店を開けている所が多い。みんなで泡盛を飲んでいい気持ちになった後、(いい土産物はないか)と探していると、店員が「冷たいもんでもいかがですか」と湯飲みに麦茶を出してくれた。(これは親切な)と思い店のレジのほうを見ると、テーブルの周りに5?6名の男女が普段着姿で楽しそうに話し込んでいる。

うちなーぐちと呼ばれる沖縄方言で話しているらしく、〈ないちゃー〉(内地人のこと。本州の人のことで〈やまとぅんちゅ〉ともいう)には何を話しているのか聞き取れないが、井戸端会議らしきことはわかる。近所のような、親戚のような、友人のような、よくわからない組み合わせで、年齢も高校生らしき男子から〈おばあ〉までいる。

(これが〈ゆんたく〉か)。何人かが集まっておしゃべりすることを、うちなーぐちでは〈ゆんたく〉と言うのだ。

アジアンとアメリカンが混じる店の中で、島人〈しまんちゅ〉たちの温かさを感じることができたひとときだった。

さて、ここまでにいくつもの沖縄方言が登場した。

言葉は文化であるという。水の文化も、共通語だけではなく各地の方言でないと表現できない知恵が多様にあるに違いない。とすれば、沖縄で水の文化はどのような言葉の上に成り立っているのだろうか。

沖縄といえば、台風と渇水、そして生活における雨水の利用がすぐに思い浮かぶ。水を怖れ、水を尊ぶ土地柄だ。雨と水の文化を言葉から知るには、やはり沖縄を取材しなくてはなるまい。そこで、編集部はまず「沖縄方言普及協議会」を訪ねた。

沖縄方言を残す

「方言をきちんと話し伝えることのできる人が、あと10年もするといなくなってしまいます。その危惧から、この協議会を立ち上げたのです。沖縄の文化を守り残すことが目的です。言葉は文化ですから」と語るのが、沖縄方言普及協議会の会長である宮里朝光さん(80歳)だ。

2000年(平成12)10月に設立されたこの協議会は、現在、会員が約300名いる。

沖縄には、この他にも、沖縄方言を守る会がいくつかあるが、新聞を発行しているのは沖縄方言普及協議会だけだ。『沖縄方言新聞』を年4回発行している。

逆に戦前に南米に移住した人たちの間では、古いうちなーぐちが残っているという。万葉集などの古い大和言葉と沖縄の方言に、共通点があるのと同様の現象だ。言葉は使わないと忘れられてしまう。沖縄は、1879年(明治12)のいわゆる琉球処分後、明治政府による標準語化政策が進められた結果、沖縄方言を誇りをもって使えなかったという不幸な経験を持っている。その象徴が「方言札」と協議会副会長の崎濱秀平さん(72歳)が説明してくれた。

「戦前の旧制小学校でのことです。方言札というのは、板にひもを通した札で、真ん中に《方言札》と書かれています。学校で方言を使うと、罰としてそれを首からかける。私は方言札を3回も持たされました」

方言札は、次の犠牲者が出るまで首からかけていなければならない、屈辱的なものだった。

「沖縄の学校の先生たちには、やまとぅんちゅの言葉を早く修得してもらいたいという熱心さがあったようで、方言を禁止する措置をとったんですね。学校では標準語、家に帰れば方言ですが、方言を使うのはまるで犯罪者扱いでした。
 そして、方言を使うと方言札を持たされるわけです。今度は誰にこの方言札を渡すか、寝ながら作戦を考えました。足を踏むと「あいたー」と叫びますが、これを方言で「あがー」と言います。それで、わざと友達の足を踏んづけ、相手が「あがー」と言うと、方言札を渡せるわけです。明治政府が押しつけたと言われますが、一方では、各学校、教師が早く自分の教え子に標準語を教えようとしたという側面もあったようです」

「こうしたことは、自分たちの文化を卑下することにつながりました」と述べるのは、協議会事務局長で琉球大学教授の宮良信詳さん。「いつの間にか沖縄のものを低俗と見るようになってしまったのです」

崎濱さんも「沖縄は文字よりも琉歌(注1)のように、主に口承で伝えてきたので、文学不毛の地と言われた時期もありました。私は今でも琉歌を歌っているので決してそんなことはないと確信していますが、当時は自分たちもそういう雰囲気になってしまい、いつのまにか方言も使わなくなってしまいました」と言う。

言葉が使われるか使われないは、社会が言葉に誇りを持てる雰囲気を作れるかどうかが大事なポイントになる。

(注1)琉歌
琉歌は和歌に対して、琉球の歌という意味。和歌が五七五七七の31文字に対して、琉歌は八八八六の30文字である。文献として残されているものは18世紀あたりからだが、万葉集との関係を見ると歴史があるものと推測される。今でも、沖縄のお年寄りは即興的に琉歌を詠み、愛好者が多い。

  • 宮里 朝光さん 沖縄方言普及協議会会長

    宮里 朝光さん
    沖縄方言普及協議会会長

  • 崎濱 秀平さん 沖縄方言普及協議会副会長

    崎濱 秀平さん
    沖縄方言普及協議会副会長

  • 宮良 信詳さん 沖縄方言普及協議会事務局長 琉球大学教授

    宮良 信詳さん
    沖縄方言普及協議会事務局長
    琉球大学教授

  • 宮里 朝光さん 沖縄方言普及協議会会長
  • 崎濱 秀平さん 沖縄方言普及協議会副会長
  • 宮良 信詳さん 沖縄方言普及協議会事務局長 琉球大学教授

沖縄方言新聞の発行

そこで、沖縄方言普及協議会では『沖縄方言新聞』を発行し始めた。実際に読もうと思うと、ナイチャーが読み進めるにはなかなか骨が折れる。漢字表記はなんとかわかるのだが、送りがなや漢字のルビはわからない。

よく考えると、わたしたち共通語に慣れた人間は「川」と書いたら「かわ」と読むものと、文字と読みは一対一で対応していると思いこんでいる。しかし、言葉は生きものと言われるように、読み方はこれまでも変化してきたのかもしれないし、その経過は今となってはわからない。さらに、現在私たちが思い浮かべる川と当時の川が同じものを指すのかどうかもわからない。

現にうちなーぐちでは、川は〈かー〉と発音するが、井戸も〈かー〉。水が流れている様と、湧いている様の両方を〈かー〉と表す。だから、単語帳をつくって「かーは川と井戸を表す」と記してもしょうがない。実際に言葉を使って、文脈の中で自然に発音し、意味を表現できるようになるまで、言葉の持つ世界を理解しないとならない。言葉の持つ世界とは、その〈うちなーぐち〉が、どのような単語とどのような分類で見たこと聞いたことを表すかという言葉の整理棚のことである。この整理棚が世界の言葉で全部違うから、言葉は文化と言われるのである。

沖縄方言新聞もこの整理棚ごと伝えようと、あえて文字と発音と記事内容が一体となった新聞として発行しているのだ。沖縄方言普及協議会では、沖縄の古文書や〈やまとぅんちゅ〉の万葉集のように、音が同じで意味が違う当て字を使わず、意味が一致する漢字を当てはめている。例えば、顔は「ちら」だが、語源からすると面(つら)のほうが正しい。古文書は漢字表記でしか残っていないので、どんな規則性があって、どう読まれていたか、推測することが難しいからだ。そのために、我々〈やまとぅんちゅ〉でも、漢字だけ追っていけば新聞で言おうとしている意味をある程度つかむことができる。

活動を始めた当初、まず手をつけたのは、かな表記法を定めることだった。これをテーマにシンポジウムも行った。表記法が決まらないと、新聞もテキストもつくれないからだ。今、この成果は少しづつ現れている。

沖縄方言新聞

沖縄方言新聞

雨の言葉

そんな沖縄方言で、水や雨がどのように表現されているのだろうか。

宮里さんはこんな言葉を教えてくれた。

流し〈ながし〉、片降り〈かたぶり〉はともにスコールのような雨。待兼雨〈まちかんてぃーあみ〉は待ちかねたほどの恵みの雨。川〈かーら〉とは私たちの想像する川。河原から転じたものか? 川〈かー〉は井戸。雨降飢饉〈あみふいやすー)は長雨による飢饉。ちなみに飢饉を〈がし〉と言い、餓死は〈やーさじに〉と言う。沖縄というと南方の豊かな陽光が照りつける光景ばかりを思い浮かべていたが、ちょうど収穫の時期に台風が多く、雨が多すぎて飢饉になるという厳しい現実が存在することに気づかされる。雨は降っても降らなくても、暮らしを困らせる難しいものなのだ。

また、こんな方言もある。

「水は洗っては飲めぬ」〈みじぇーあらてー ぬまらん〉は水は一旦汚したら取り返しがつかない。

「水は銭遣い」〈みじぇー じんじけー〉「水は醤油遣い」〈みじぇーしょーゆーじけー〉とは、水は銭や醤油のように貴重なので大事に使えという意味。

やはり、沖縄で水を大切にしていたことがわかる。その大切な水を、分かち合っていたことも、次の方言から知ることができる。「火と水は只物」〈ふぃーとぅみじぇーいちゃんだむん〉:困っている人がいたら、自分の分がなくなったとしても、その人に火と水はやらないといけない。「川の主」〈かーぬぬし〉という言葉もある。川の主とは、井戸の水を他人にやって自分の分がないという意味だ。沖縄には「行きあえば兄弟」〈いちゃりばちょーでー〉ということわざもある。一度会ったら兄弟のように仲良くつきあいなさいという意味で、互いの助け合いの気持ちは水の言葉にも表れているのである。

沖縄には、こうした助け合いの精神が発達している。その基本単位が「結まーる」〈いーまーる〉と呼ぶ共同体。隣組というような意味だが、字(あざ)では人数が多すぎるので、それをいくつかの「結まーる」に分けて。例えば、サトウキビから砂糖をつくるときの共同作業で、どこの家から始めるかといった労力提供の順番も結まーるの話し合いで決まる。普通は20〜30軒で構成されるそうだ。

雨は天から降る

「地下水は豊かで、村には共同井戸があります。ただ、それを探し当てるのが大変なのです。南部に行くと、まるで川のように流れ出る井戸や、洞窟の中に湧いている所もあります。垂直に掘っても水脈に当たらないことがあるので、そういう場合は土が湿ってきたら、横に掘ると水脈に当たります。そうして当てた水脈から石樋で集落まで水をひいてくる。この共同井戸を「村川」〈むらがー〉といいます」

と宮里さん。水への信仰も厚く、「村川」は信仰の対象となって大切にされるという。

宮里さんは「沖縄は、空ではなく天」という。

「空は〈天〉だから、雨水も天水と呼びます。沖縄は祖先崇拝の気持ちが厚く、人は死んだら全部天に行きます。天国も地獄もありません。だから死んだ人の冥福を祈る必要がありません」

天の神は多神教ではなく、一人の神が場面ごとにいろいろな顔を持っているという。天にいる神は〈うかみ〉だけれど、水平線のかなたから来訪するときには〈にれーかねーぬかみ〉になるのだ。この神と天の感覚は、この地独自のものだろう。

では、天水をどのように集めるのか。

沖縄の民俗建築というと赤い瓦葺きの屋根とシーサーという魔よけの獅子を思い出すが、瓦屋根は薩摩藩時代には庶民には禁止されており、明治時代以降のもので、かつてはほとんどが茅葺き屋根だったという。

茅葺き屋根では天水も集めにくいし、集めた水も濁っている。そこで屋根の雨水を集めるよりは、フクギという大きな樹木を使ったという。フクギの幹にぐるりと藁縄をはわせ、その先に瓶を置き、葉から幹に滴り落ちてくる天水を貯めるのだそうだ。フクギは枝が広がっていて、雨を受けやすいような形状になっていて都合がいいと言うが、今はほとんど行われてはいない。

「私が小さいころの話ですが、溜めた水がきれいなうちはボウフラが棲みます。柄杓で瓶を叩くと、ボウフラが驚いて下に沈んだ隙に水をすくうわけです。ボウフラが棲めなくなると、水が悪くなっているわけで、飲料水にはしない。ですから、瓶が並んでいる家の周りは蚊が多かった」

と崎濱さんは思い出しながら話してくれた。

言葉を伝えるのは大変

宮良さんは「こうして見ていくと言葉が文化と一体であることがわかります。言葉が厚みを持って多様であることは、文化が豊かであることです。言葉を知ることで、沖縄の心を理解できるようになります。私たちがうちなーぐちを大事にするのは、それを忘れないためです」

と強調する。そうは言っても、実際の活動は大変だ。新聞で方言を読むことができるようになっても、実際に話せるようになるには実地訓練が必要だ。特に発音が難しく、母音と子音の組合せが標準語より多いため、50音表には収まらないという。また、昔の沖縄は人頭税ではなく村ごとに税金が割当てられていたので、人口を増やして一人当たりの税額を減らす傾向があったそうだ。そのため、よその村人と結婚することはあまりなく、したがって隣り合う村でも方言がまったく違う、ということがごく普通であったという。同じ沖縄内でも方言がいくつもある、ということだから、少なくても方言の取りまとめをする必要が生じる。現在復活が目指されているのは、いわば共通方言というようなものである。しかし、言葉は生き物で時代とともに変化する。何が何でも昔どおりにと、四角四面に考えるのではなく、共通方言であってもよいから方言が言葉の背景にある文化とともに復活されたら素晴らしいことである。

おばあたちが方言でしゃべると孫が理解できないから、方言を使わずに標準語で紛らわしてしまう場面も当然出てくる。一方、現在のお父さんお母さん世代は、ほとんど沖縄方言を話せない。子供に〈うちなーぐち〉を教えようと、小学校3年生程度を対象に〈はじみらな うちなーぐち〉(始めよう うちなーぐち)という初級テキストを2001年(平成13)に制作した。小学校や地域活動で、このテキストが使われるケースもある。

また高齢者介護の場面では、〈うちなーぐち〉を使わないとうまく意思疎通ができない場面が出てきており、意外な利用法として注目されている。地元ラジオ局では、毎日方言ニュースを放送しており、これは〈おじい〉、〈おばあ〉に大人気だそうだ。

このテキストの冒頭には次のように書かれている。

「〈うちなーぐち〉を勉強しておけば、大きくなって県外へ出て、沖縄の方言を聞かれたときに、はずかしい思いをせずにすみます。また、おじいさん、おばあさん、おじさん、おばさんたちの話に仲間入りができるようになります。大きくなって、沖縄の歴史、文化、芸能を学ぶときに、大いに役にたつことでしょう。〈うちなーぐち〉を学ぶことによって、沖縄どくとくのものの考え方を知ることができ、沖縄がますます好きになるはずです。沖縄出身であることに誇りと自信をもって世界にはばたき、活躍する人になる第一歩にしてもらいたいと思います」

協議会では今、中級用のテキストをつくるために議論を進めている。

「自分の子供に自分たちの言葉を使えないでは、後世に顔向けができません。自分のアイデンティティをわからせるのは親の責任です」

沖縄の人々は、そのさまざまな条件に対応する知恵を、長い間に育んできた。そのことが豊富な方言にも残されている。まさに文化と言葉は表裏一体の存在なのだ。

  • 〈はじみらな うちなーぐち〉

    〈はじみらな うちなーぐち〉

  • 小学生3年生程度を対象にした〈はじみらなうちなーぐち〉2001の本文ページ

    小学生3年生程度を対象にした〈はじみらなうちなーぐち〉2001の本文ページ

  • 〈はじみらな うちなーぐち〉
  • 小学生3年生程度を対象にした〈はじみらなうちなーぐち〉2001の本文ページ


【沖縄天水紀行】

沖縄の人々は、実際に天水とどのようにつきあってきたのか。このことが気になり、現在の暮らしを見てみたくなった。編集部の無理なお願いをテーゲー(大概:おおまかという意味で、昔は悪い意味で使われたらしいが、最近はゆとりという意味でプラスに用いられるらしい)な気持ちで受け止めて、案内をしてくださったのは沖縄雨水利用の会事務局長の上原辰夫さん。沖縄の石灰岩質の地形はザルのように水が染み込むので、なかなか河川にならず、貯水が難しい。しかしよく聞いてみると、地域によって条件は一律ではない。

「多良間では住民の約90%、約370世帯が雨水を利用しています。首里は湧水に恵まれているし、湧水があるけれど、赤水なので天水を飲む地域。北部の山原(やんばる)では、河川が多い。条件はさまざまなんです」

沖縄の人々は、そのさまざまな条件に対応する知恵を、長い間に育んできた。そんな実際の雨水利用の現場、それも今昔取り混ぜて案内していただいた。

産川(んぶがー)にも使われる樋川(ふぃーじゃー)

前日に琉球舞踊の書籍を中心に出版している、おきなわ書房の砂川敏彦さんから沖縄の水情報を入手。普天間のアメリカ軍基地の下が大きな水盆になっていることを知る。「宜野湾の田芋(たーんむ)畑を見学したい」と上原さんにお願いして、案内していただいた。田芋はサトイモ科の作物で、水田で育つ。強い陽光を浴びて天に伸びる芋の茎には、勢いがある。住宅街に隣接して広がる田芋畑は、圧巻。作業中の方に水場がどこにあるかうかがうと、わざわざ車を出して案内してくれた。親切な人柄に加えて、水場を誇りに思っていることがうかがえる。もちろん、こちらでは水場は樋川(ふぃーじゃー)と呼ばれている。

樋川は岩場をプール状に掘り込み、その壁面を穿った穴から滔々と湧き出していた。水温はそれほど冷たくない。水の勢いに感動していると、やはり農作業中の方が話しかけてきた。自分はそんな昔のことはわからないが、ここの樋川は大山地域の守り神で、赤ん坊の産湯を汲む産川(んぶがー)にも使われているとのこと。基地ができてからガソリン臭くなったりして、水質が悪くなったから今は飲むことはできないそうだ。「この田んぼ一帯も、元は海で埋立地だったといいます。この樋川は海に面した崖から流れ出していたわけです。埋め立てたあとのことですが、砂浜を歩いてきた馬の身体をここで洗っていたのは私も覚えていますよ」と教えてくれた。

馬を洗っていたのは今から45年ほど前の話だと思う、とも言っていた。水が流れ出る穴がいくつもあったり、水を溜める場所も使い分けができるように工夫の痕が見られるのも、赤ちゃんの産湯に使ったり、馬を洗ったり、飲み水を取ったり、と多目的に使われていたからだ。教えられて改めて見直すと、樋川がある場所から田んぼに向かって低くなっており、樋川がハケ(崖線)に沿っていることがわかる。そしてそのハケは、今でも自然な曲線を描いて、海岸線であったこともわかるのである。

  • 宜野湾の田芋畑は海を埋め立てたもの。右側の小高い土地が元の海岸線で、崖線になっている。説明してくれた人の口から、思いがけず「水は醤油遣い(みじぇーしょーゆーじけー)」という言葉が飛び出し、沖縄方言の健在ぶりを確信してうれしく思った。



金城ダム

首里の石畳のすぐそばにある金城ダム。住宅地に近い立地で、忽然と現れるダムに驚くが、安里川の中流から河口に至る川幅が非常に狭いため、大雨の度に氾濫し被害が出ていた。周辺に民家が密集しているため、川幅を広げる河川改修が困難なため、ダムという形で洪水調整している。



首里の石畳に里川を発見

 琉球城府時代は首都であった首里。首里城は第二次大戦で焼失したが、2000円札の図柄に採用された守礼の門や正殿などが復元され、1992年(平成4)から一般公開されている。かつての首里市は那覇市と市町村合併して那覇市の中に組み込まれているが、16世紀半ばには全容が整ったといわれる首里城が琉球の中心であったことは紛れもない事実。その首里城から南部への要路に敷かれた現存している石畳を、上原さんと訪ねた。この石畳は全長300m、幅4mで、500年ほど前に施設されたといわれており、交通の要路を整える目的と、雨を給水、浸透、濾過して水を確保する役割の2つを担っている。石畳は、貴重な琉球石灰岩を2つに割り、平らな面を上にして、乱れ敷きという技法で敷き詰めてある。琉球石灰岩の下には瓦れきや砂利などを積んで、濾過機能が高められているそうだ。石畳の両脇には用水溝(すーふか)が設けられ、村井(むらがー)まで水が引かれていた。

これだけの土木工事を人力で行うには、大勢の人手と労働力が必要とされたに違いなく、沖縄の人たちの水への飽くなき渇望が感じられる。自動車が通れるように拡幅されたり、歩きやすいように舗装されたりしたために、現在はこの地域にしか残っていないが、先人の生きる知恵と努力に頭が下がる思いがする。

石垣は「あいかた積み」石畳と調和して、城下町の風情を醸し出している。



親子二代の雨水タンク

神里興盛さんの家は、お父さんが1938年(昭和13)に作った雨水タンクと、3年前に新設した雨水タンクの2基、合計48tの貯水槽を活用している。1992年(平成4)から始まった沖縄市の雨水利用の賞を受賞しているそうだ。「このあたりは、湧水に恵まれませんでした。かつては水道も敷設されていなかったので、雨水を上手に利用することが必然だったのです」
 と神里さん。現在では趣味の盆栽に散水するのに、貯水槽の雨水を利用している。カルキがないので、植物にはもってこいの水である。

沖縄訪問の前日、台風が通りすぎたばかりだったのだが、上空は晴れているのにやけに靄がかかっていた。これは台風の風によって潮が巻き上がって起こる現象とのこと。細長い形状の島で、西と東に海が迫っている地形が、このような現象を引き起こすのだそうだ。「こういうときには、雨がタンクに入らないように逃し口を作っています」
 と神里さんは言う。

台所にも水道と雨水と井戸の蛇口が3つあって、奥さんは「お茶を淹れたり、米を研いだりするのは、雨水を利用している」と言っていた。

  • 1938年からの雨水利用住宅庭の下に48tの雨水タンクが埋められている。

    1938年からの雨水利用住宅庭の下に48tの雨水タンクが埋められている。

  • 左から沖縄市観光協会顧問の中宗根健昌さん、沖縄県雨水利用市民の会の上原辰夫さん、この家の主の神里興盛さん。

    左から沖縄市観光協会顧問の中宗根健昌さん、沖縄県雨水利用市民の会の上原辰夫さん、この家の主の神里興盛さん。

  • 屋根からは貯水槽につながる管と、排水管の2本が設置され、オーバーフローしそうなときや台風で潮水が混じるときには切り替えられる。

    屋根からは貯水槽につながる管と、排水管の2本が設置され、オーバーフローしそうなときや台風で潮水が混じるときには切り替えられる。

  • 蛇口が3つある台所の流し。一番右が雨水で、食器を洗うのにも使われている。蛇口が3つもあると、なんだか、とても頼もしい感じがする。

  • 1938年からの雨水利用住宅庭の下に48tの雨水タンクが埋められている。
  • 左から沖縄市観光協会顧問の中宗根健昌さん、沖縄県雨水利用市民の会の上原辰夫さん、この家の主の神里興盛さん。
  • 屋根からは貯水槽につながる管と、排水管の2本が設置され、オーバーフローしそうなときや台風で潮水が混じるときには切り替えられる。


修道院に採用された大規模な雨水利用設備

与那原の聖クララ教会は、1958年(昭和33)に建てられたアメリカ近代主義建築の影響を色濃く受けた修道院である(片岡献設計)。沖縄の建築100選にも選ばれているという。中庭を囲んでロの字に配置された建物の屋根すべてから、雨水が地下タンクに入るようになっている。地下の洗濯場に隣接した部分が大規模な貯水槽になっているが、深さが8フィートという以外、正確な大きさは把握されていなかった。深さは水深を測って表示するメジャーが洗濯室の壁に設けられていて、残量がどれぐらいあるのか把握できるようになっている。

「日照りが続いて貯水槽が空になったときには、水道をいったん屋上に上げて、貯水槽に水道を引き込むようになっています」

とシスターは話してくれた。現在は、飲み水以外の生活用水は雨水で、牧草への散水は井戸を使っているという。水道と雨水を二重配管しているほか、庭に数カ所の井戸が掘られていた。普段、常住しているのは6人だけだが、研修のときなどは40人から60人が生活するときもあり、それでも充分まかなえる量が確保されているという。

ただ、屋根面積に対して貯水槽の容量が小さく、大雨のときには逆に水を逃すことも必要だという。

営繕係の男性の話では、「貯水槽の底も開くようになっていて、満水になったらオーバーフローした分と底からの両方で逃せるようになっています。底から水を逃すことで、普段溜まってしまった沈殿物もきれいにします」とのこと。

配水は、屋上に再びポンプアップして圧をかけて行う。陸屋根の防水処理は8年に1度ぐらいの割りで行っているそうだが、上原さんは「最近は無害で効果の高い防水塗料も出てきたので、耐用年数はもう少し伸ばせるのではないか」と言っていた。

シスターは、「15、6年前に新館を建設した折りに、やはり雨水利用の設備を作りたいと思ったのだが、そのときは法律の規制があって許可が下りなかった」と言う。意識を持って雨水利用に取り組んでいても、時代ごとに変わる条例に左右されることもあるということだ。

  • 中庭(上)を囲む陸屋根すべてが集水面となっており、それが地下の貯水槽に入る。

    中庭を囲む陸屋根すべてが集水面となっており、それが地下の貯水槽に入る。貯水槽の容量に対して、集水面が広すぎるようにも思われる。壁の向こうは貯水槽。

  • 中央に見えるメジャーは、浮きを利用した残量計で、水のかさは上下逆に表示される。貯水槽は8フィートの深さ。

    中央に見えるメジャーは、浮きを利用した残量計で、水のかさは上下逆に表示される。貯水槽は8フィートの深さ。この空間は洗濯場として利用されている。

  • 与那原の聖クララ教会

    与那原の聖クララ教会

  • 左:長く続く廊下を見ると、屋根の広さが実感できる。

    長く続く廊下を見ると、屋根の広さが実感できる。

  • オーバーフローしたときは、この排水溝から雨水を逃がす。

  • 中庭(上)を囲む陸屋根すべてが集水面となっており、それが地下の貯水槽に入る。
  • 中央に見えるメジャーは、浮きを利用した残量計で、水のかさは上下逆に表示される。貯水槽は8フィートの深さ。
  • 与那原の聖クララ教会
  • 左:長く続く廊下を見ると、屋根の広さが実感できる。


沖縄県北谷町にある海水淡水化施設

ただの水道水と淡水化した海水の飲み比べができる。際立った違いは感じられなかったが、違いがわからないほどのレベルにまで、淡水化技術が進んだということか。淡水化の際に生じる塩を精製する塩工場が隣接して操業しており、余剰塩分が海に帰って生態系を壊さない配慮がなされている。

  • 沖縄県北谷町にある海水淡水化施設

    沖縄県北谷町にある海水淡水化施設

  • 沖縄県北谷町にある海水淡水化施設


【沖縄の雨水利用の現在】

上原さんは、水道ができたことで、雨水利用の知恵が失われ、水への感謝の気持ちが薄れることも危惧している。そして沖縄に降る雨の4%を使えば、現在水道で使われている量がすべてまかなえる、と計算しているという。

「今までは、水道が文明のシンボルで、雨水を飲むのは野蛮と感じる風潮になっていました。ダムや下水道を造ることも、文明化であり、雇用促進の大切な事業だったのです。しかし、大規模公共事業が減ると考えるのではなく、雨水利用の設備や合併浄化槽の設置やメンテナンスに補助金を出すことで、お金の流れがシフトすると考えれば、新たな雇用が生み出せます。私は、それで地域経済も充分維持できると考えているのです」

発想の転換で、まったく新しい提案が沖縄から、沖縄の言葉で発信されることを大いに期待したい。「雨水利用というといつも訊ねられるのは<コスト>と<飲めるのか>という点です。コストについては、『10年でもとがとれます』と答えています。そして私と家族は実際に雨水を飲んでいますが、不具合はありません。うちには90歳近い母が元気にしていますが、母もずっと雨水を飲んでいます。最近は、<健康のためなら死んでもいい>という風潮ですから、と講演会で話すと大笑いされますが、母を連れて行ったらみんなが雨水を飲み始めるのではないでしょうか。飲むか飲まないかは個人の判断にゆだねますが、風呂・洗濯・トイレの3つを雨水でまかなうだけでも、大きなことなんですよ」

このゆとりあるテーゲーな発言に、「ああそうか」と何かと堅苦しく考える標準語人間はすっと力が抜けた。まずはやってみるというゆとりも、文化をつくったり伝えたりするには大事なのだろう。そんな当たり前のことに気がつかされた、ナイチャーの編集部であった



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