機関誌『水の文化』41号
和紙の表情

近世出版事業の隆盛と和紙需要

史学科で学んだ藤實久美子さんですが、社会学科や新聞学科にも惹かれるほど、メディアの問題に関心があったそうです。その興味が、江戸時代に大きく発展した出版メディア〈武家の名鑑〉への研究を深いものにしました。近世に、〈閉ざされた知〉が解放された背景には、和紙の供給増加も一役買っていたのです。

藤實 久美子さん

ノートルダム清心女子大学文学部准教授 文学博士
藤實 久美子(ふじざね くみこ)さん

1964年東京に生まれる。1987年学習院大学文学部史学科卒、1991年同大学院修士課程修了、1994年同博士課程単位取得満期退学、学習院女子短期大学非常勤講師、1997年学習院大学非常勤講師、国文学研究資料館COE非常勤研究員(講師)、学習院大学史料館助手等を経て、2008年現職。専門は、書籍資料論、書籍文化論。2000年日本出版学会賞受賞。
主な著書に『武鑑出版と近世社会』(東洋書林 1999)、『近世書籍文化論— 史料論的アプローチ』(吉川弘文館 2006)、『江戸の武家名鑑— 武鑑と出版競争—』(吉川弘文館 2008)ほか

〈もの〉に語らせる楽しさ

以前は大学博物館で学芸員の仕事をしていましたので、古文書など、資料に触れる環境にいました。学芸員の仕事は、〈もの〉に語らせることが中心です。江戸時代の本をつくった職人や版元は、限りある命ですから、今はこの世に存在しません。しかし、その人がやった仕事、痕跡としての〈もの〉は残っているんです。江戸時代の本を手に取るとき、そのことを深く意識します。

本を眺めていると、版木を彫った職人の技に思いがいくし、どうやってできてきたかを考えます。本づくりは、作者や絵師がいて、版下を書く人がいて、彫り師がいて、摺り師がいて、表紙を整える人がいて、製本する人がいて、本屋がそれをプロデュースして、という総合的な仕事なのです。痕跡から、人の動きがわかる。それを読み解いていくのが、何とも楽しいと思っています。

和紙のことに共感が湧くのは、私が〈もの〉に助けられて仕事をしているからかもしれません。

  • 和装本の判型

    和装本の判型
    廣庭基介・長友千代治著『日本書誌学を学ぶ人のために』 (世界思想社1998)をもとに編集部で作図

  • 和装本の製本方法と各部の名称

    和装本の製本方法と各部の名称
    橋口侯之介著『和本入門』(平凡社2005)をもとに編集部で作図

  • 和装本の判型
  • 和装本の製本方法と各部の名称

木活字の導入

版木を彫って印刷していた時代にも、活字が使われた時期がありました。

印刷の書体、つまりフォントに明朝体がありますが、これは明朝というぐらいですから、中国の宋代にルーツがあり、明代に成立した書体です。現在、私たちもその影響を受けています。

しかし、中国は活字印刷術を発明したけれどもあまり重用せず、かえって韓国で早くから盛行しています。貴族文化と仏教文化が栄えて芸術に力を注いだ高麗王朝は、国営の鋳字所を設立して、1字ずつ独立した鋳造活字をつくり、金属活字による印刷技術を発展させました。その後、李氏朝鮮が興って、そこでも鋳字所がつくられて、書体研究と金属活字による印刷事業が行なわれました。

1592年(文禄元)の朝鮮侵略のとき、豊臣秀吉軍は漢城(ハンソン/今のソウル)まで行ったわけですが、宇喜多秀家は鋳字所の活字・機材一式を持ち帰り、職人たちを捕虜として連れて来ます。日本にとって朝鮮本は憧れの本だったわけですね。秀吉はそれらを後陽成(ごようぜい)天皇に献上しています。

その活字はすぐに使われたわけではなく、日本の書体を開発して木活字がつくられるんですね。それで印刷されたものが勅版(ちょくはん)と呼び慣わされているものです。

文禄勅版は現物がありませんが、慶長勅版(注1)は現存して今でも見ることができます。A4サイズ(縦297mm×横210mm)ほどの大判です。

本づくりというのは、文化の高さを示すことでもあります。高度な技術があり、高度な技術を持つ職人を抱えることで可能になる。そして、書体の美しさには精神が込められている。本づくりは、いわば時の権力を手中に収めている、ということを誇示することにつながったのです。それで後陽成天皇の勅版を真似て、徳川家康も伏見版(注2)をつくりました。

その後、豊臣秀頼が1回だけですが印刷を行なうとか、大坂の陣と相前後して徳川家康が銅活字で駿河版をつくる、後水尾(ごみずのお)天皇が元和勅版をつくる、というように、天皇や時の権力者といった上層部が競って印刷事業をすすめるという特異な時期がありました。

天皇の周りにも、家康の周りにも、秀頼の周りにもサロンが形成されていますから、京都の町衆の中から嵯峨本(注3)が誕生します。嵯峨本には趣味人たちの贅沢が反映され、美術品としてつくられました。

権力者による印刷物は100部とか150部、寺社や公家や大名などお気に入りの人に配るぐらいの部数で摺られました。贈答品としてつくられたので、大判な豪華本だったんです。

町衆は『伊勢物語』などの日本の古典を作成しましたが、天下を治める者が学ぶべきは儒学である、という発想から、治者たちの印刷事業は主に中国の古典を題材としました。

(注1)慶長勅版
後陽成天皇の命で1597年(慶長2)から1603年(慶長8)にかけて印刷された勅版。『錦繍段』(きんしゅうだん)、『日本書紀神代巻』(にほんしょきかみよのまき)、『論語』『孟子』などが作成された。
(注2)伏見版
徳川家康が寄付した木活字10万字を使用して、閑室元佶(かんしつげんきつ)が伏見の円光寺(現・左京区一乗寺小谷町)で、1599年(慶長4)に印刷した書物。『孔子家語』(こうしけご)、『三略』、『六韜』(りくとう)、『貞観政要』(じょうがんせいよう)、『周易』(しゅうえき)などが作成された。
(注3)嵯峨本
京都嵯峨の豪商、角倉素庵(すみのくらそあん 了以の息子)が本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)や俵屋宗達(たわらやそうたつ)らの協力を得て木活字で作成した、平仮名まじりの書物。角倉本、光悦本とも呼ばれ、表紙・本紙に雲母紙を使い、装丁の美しさが特徴。『伊勢物語』をはじめとして、『方丈記』『百人一首』『徒然草』『源氏物語』などが作成された。

再び木版印刷へ

1608年(慶長13)に作成された嵯峨本の『伊勢物語』は文字の部分は木活字、絵の部分は整版(木版)印刷で摺られています。

木活字とはいっても、一文字ずつ活字を組み合わせるのではなく、光悦が書いた崩し字を2〜3字単位で木活字につくり、それらを組み合わせて作成していました。

しかし制作に手間がかかり過ぎたため、木活字に集中していた印刷事業は、17世紀中ごろに再び整版印刷に戻っていきます。繰り返し版を重ねるには、板木に彫刻した整版印刷のほうが適しているからです。

木活字が流行していた間も、寺院では整版印刷が伏流のように続けられ、技術が残っていたんですね。そもそも漢字は数が膨大ですし、仏教書をはじめ漢文体で書かれたものは、小さい字と大きな字を組み合わせたり、返り点を入れたりすることが多いので、活字では不便でした。

紙面としてデザインされたようなものは、版下をつくって、裏返したものをそのまま彫ってもらえばいいんだから整版印刷でやったほうが都合がいい。写本と同じような感覚でつくれますから。

実用書の誕生

出版分野の広がりには、民間の本屋の登場が貢献しました。民間の本屋が出版したものとしては、まず医学書や仏教書があります。

18世紀までは、京都をはじめとした上方の本屋が優勢だった、と一般には考えられています。京都の本屋は、寺院と深い関係を保ってきたからです。特に宗派によって出入りの本屋が固定化されていました。

医学書が印刷されたのは、19世紀あたりになると名主階級が子息を積極的に医者にしたからです。農村部では無医村が多かったですから。それで、医学書の需要も増えたのだと思います。

書き下ろしは井原西鶴(1642〜1693年)などの登場を待たねばなりませんが、『平家物語』や『太平記』といった軍記ものなど、それまで写本だったものが、どうにか印刷で本にできるようになってきます。

江戸時代には、武家が政治をしなくてはならなくなったので、学者を近辺に置いて勉強をしました。その際にも、本が必要とされました。仮名草子も読み方を変えれば、治者の心得、教訓書といえるのです。

出版の第二世代は、17世紀中ごろに登場します。

寛永末(1644年)ころには、木活字には手を出さないで、整版印刷のみで印刷する本屋が京都に出てきました。3代将軍徳川家光の時代です。このころには、古典から離れて名所巡りや地図、武家名鑑(以下、武鑑と表記)といった実用書も多く出版されるようになりました。

その背景には、1635年(寛永12)の〈武家諸法度〉に定められた参勤交代の影響があります。これ以前にも武家は家族や家臣を江戸に住まわせていたのですが、正式に制度化されたので国許と江戸との間で人が移動し、もののやり取りも盛んになりました。そういう背景があって、名所巡りや地図、武鑑などが必要になってきたんだと思いますね。だから判型も袂(たもと)に入れたり、懐に入れて持ち歩けるように、〈袖珍版(しゅうちんばん)〉や〈懐中版〉というコンパクトサイズになっていきます。和紙ですから、軽くていいんですよね。

江戸というのは、江戸城自体も寛永年間にかけて、何度も修築して、堀割というか範囲が決まるぐらいだから、まだまだ都市としては固まっていなかったのです。それで元禄期までは、京都の本屋が江戸の市場を見込んで、出店(でみせ)を出すんですね。場所としては日本橋が中心です。のちには馬喰町に移っていきます。

馬喰町は、現在、衣料品関係の問屋街ですが、江戸宿(えどやど)といって訴訟でやって来た人たちが待機していた場所。幕領では国許で起こった事件でも、国許で判断しないで江戸の殿様に訴えたからです。あとは、東海道の芝。芝には増上寺がありましたから門前町が開けていました。地方から来た人、帰る人がここでお土産を買うという需要がありました。

貸本屋さんになると、また分布が違ってきて、日本橋とか上野とか山の手の本郷や番町に多かった。いずれも老舗の本屋になると、五街道の出発点である日本橋に集中しましたね。

5代将軍徳川綱吉の治世で、京都の文人を幕府の御用達町人として、かなり抱え込むんです。連歌師であるとか、出雲寺(いずもじ)のような書物師であるとか。身分を与えて江戸に招くんです。

これに従うように、本屋たちも江戸にやってきました。文化の先進地の人たちが、「どうやら江戸でも商売になるらしいぞ」といって、やって来たんですね。

ですから、製作は京都・大坂の本屋、つまり書林、本屋仲間で出版業、江戸の本屋は販売専門の書物問屋なんです。

実は西鶴の浮世草子といっても、周りにいた人たちによって読まれていた程度で、文学として広く親しまれていたわけではないのです。もっと、コミュニティは小さい。多くて300部。それに比べて、実用書は3000部とか、1万部とか出版されたと思います。

「そんなにたくさん出版されたことを信じるのですか」と聞かれたことがありますが、私の答えはYES。国許、街道筋に需要があったほか、江戸土産として10冊とか20冊とか買って、みんなに配ったわけですから。やがて100万都市に成長していく江戸市場は魅力的だった。そうでなければ、わざわざ京都から江戸に出店を出したりしないはずだと思います。

教養に地域差なし

17世紀中ごろになると、大都市だけではなく地方でも、門人となって俳句をたしなんだり、漢詩を読んだりする教養の高い層が現われます。

江戸時代の文化程度はかなり高く、裾野は広かったと思われます。寺子屋での需要というより、どちらかというと大人の勉強のための書籍です。江戸時代の格差は、地域差ではなくて身分差と身分内の階層差。身分と役割によって違いがはっきりと際立っていました。

流通のことでいえば、この17世紀中ごろ、畿内でしたら、既に貸本屋の行商は町場だけではなく村々を回っています。また帰ってくる舟には積むものがないので、本を積んで帰る、ということもありました。ある程度重さがないと舟が安定しないというだけでなく、空荷で帰ったらもったいなかったからです。廻船航路や河川舟運が盛んだった当時、地域差をあまり重視しすぎるのは危険だと思います。

17世紀中ごろには、河内の俳諧仲間が読書人として確立していました。その人たちが商品流通と密接に関係する形で、本を取り寄せて、文化圏を形成していました。その内の一人が代替わりした際に、処分された本が174点803冊、という享保末(1736年)の記録も残っています。

この記録のように、当時の本は代々受け継がれるものではなく、古書として活発に取り引きされていたようです。

本屋には版本も写本もあるし、古本もあるし、掛け軸を買うお客もいる。そのように商売を手広くやっていたのです。

明治になってから新刊書出版と古物商とに免許が分かれました。盗品の恐れがあるということから古物商が免許制(現在は許可制)になって、東京府在住なら東京警視庁の管轄になったのが、その理由です。

株が固定化

享保のころになると、板株(いたかぶ)といって、本屋の権利がガチガチに固められます。8代将軍徳川吉宗の時代に株仲間を公認することで、特権商人化させ、物価の高騰を抑えようとしたのです。自治として、同業者同士で組合をつくってください、という経済政策への転換です。

しかし、その前からそういう傾向は起きていたようです。1698年(元禄11)京都・大坂の本屋が、海賊版阻止についての訴えを大坂町奉行に提出しています。連名で監視体制をつくっているんですよね。

そのあと、1716年(享保元)京都の書林仲間、1721年(享保6)江戸の書物問屋仲間、1723年(享保8)大坂の本屋仲間が公認されます。その代わり、徳川将軍家に関することだとか、社会上層部に都合の悪い情報を出さないように統制していくんですね。

実は武家は結構、ゆすりに遭っているんですよ。特に毛利家と吉川家はいろいろありましたから、「毛利元就は、その主君大内義隆に反逆した陶晴賢(すえはるかた)に味方した裏切り者である」といった本を出されてしまうんです。『陰徳記』(注4)系統の『関西記』『備芸記』という本なんですが、「こんな本をつくりました。幾らかかりました」と言って、毛利家に持っていくわけです。すると、そのまま返すわけにはいかないから、かなり高額な金子を渡す。その代わりにすべて焼却させる。今の有名税と一緒です。そういうことは、毛利家以外にも仙台の伊達家に対してもありました。

だから大名のほうも困っていた。それで株仲間の権利を認める代わりに、世のため人のためになる本を出しなさい、という規制をかけました。ただ、錦絵や歌舞伎の台本など、芸能興行にかかわるものは野放しで書物問屋はかかわらない、ということだったんですね。

問屋の権利が享保期にがっちり固められて、新規参入ができにくくなりました。

江戸の書物問屋仲間は、通町組と中通組、南組の三つに分かれていて、上方から来た老舗は出雲寺が属する通町組と中通組に集中し、出雲寺と並ぶ大きな本屋で、紀州、和歌山出の須原屋茂兵衛の所属する南組はあとから参入しました。通町組と中通組、南組に所属し公認されていた書物問屋は、わずかに47〜59軒。彼らは大都市江戸の出版と販売を独占していたのです。

問屋同士はフラットな関係ではないので、あるときはくっつくし、あるときは離れる。仲間内の検閲の担当者(行事)に袖の下を渡すときもある、というように、当然のことながらしたたかに生きていました。

例えば、須原屋茂兵衛と出雲寺は何度も争っています。武鑑は実用書ですから、役に立つ新しい情報が多いほど売れ行きが良くなります。そのため、持ち株(武鑑に各情報を記載する権利)の範囲を超えて、こっそり増補してしまう。狭い業界だからすぐに情報は伝わる。それで一騒動に発展していきます。江戸城内の潤滑油といわれる坊主衆の項目については、須原屋に権利があると取り決められていたにもかかわらず、出雲寺が横槍を入れてきます。すると幕府の御用達町人である出雲寺が勝ってしまうんです。内部調整には政治力がものを言うので、須原屋はなかなか勝てないんですね。

(注4)陰徳記
室町時代13代将軍足利義輝の時代から1598年(慶長3)の慶長の役ごろまでの山陰、山陽を中心に描いた軍記物語。
岩国領主 吉川氏の家老職だった香川正矩が書いた。1660年(万治3)ごろの成立。『陰徳記』をもとに、父の遺志を継いだ息子景継らによって綴られた『陰徳太平記』では毛利家を美化、正当化する意識が強い。

貴重な紙

東京大学史料編纂所の「日本古文書ユニオンカタログ」で、古文書の残り方を見ると14〜15世紀ごろになると、急に増えてきます。ですから、14〜15世紀から和紙の製造が飛躍的に伸びていったと考えられます。しかし和紙の製法は秘密とされていたという説もあります。その後、15世紀末〜16世紀末の戦国時代になると人が移動することで、技術もまんべんなく普及していくことになっていったようです。17世紀になると、各地の領主たちが和紙の生産を奨励して、藩専売制の基礎が築かれていきます。

こうした供給に支えられて、民間の出版事業が盛んになっていくのですが、幕末に開港の影響から物資が不足して、国内の流通がガタガタになって、紙代もとても高騰しました。

出版するときに紙代がどれぐらいかかったか、という記録もあります。

1864年(文久4)刊の須原屋茂兵衛版の『袖玉(しゅうぎょく)武鑑』では、総制作費が銀2匁1厘9毛で紙代が銀1匁1分1厘4毛で46%。つまりほぼ半分が紙代です。

1865年(元治2)刊の須原屋茂兵衛版の『元治武鑑』でも54%を占めています。

今は、印刷費・紙代・製本代すべてで必要経費の15〜20%を占めるに過ぎないといわれます。しかし、当時は、逆。紙がいかに貴重なものだったかがわかります。

武鑑の造本費用内訳

武鑑の造本費用内訳
藤實 久美子さんの資料をもとに編集部で作図

江戸紳士名鑑「武鑑」

武鑑というのは今でいう紳士名鑑のようなもので、江戸時代のロングセラーになりました。

武家同士では路上作法があって、自分より格上の人が来たときには、道の脇に避けつつ自分の行列を止めなければいけないんです。それで仲間(ちゅうげん/武家に従って雑務に当たった男)が行列の前や後ろを行ったり来たりして偵察しました。

江戸城に近い場所には、下座見(げざみ)という門番の下役が待機していて「何何様、お通り〜」と通過する登城行列の識別を行ないました。家格や役職に応じた挨拶と返礼を行なう決まりになっていたため、いち早く行列の主を特定する必要に迫られたためです。それで、行列の識別を行う下座見という専門職ができたのです。優れた下座見は、遠くからでも一瞥しただけで、行列の主を識別ができる能力を持っていたといいます。

将軍は、江戸城内の大奥の「御仏間」で毎日先祖に礼拝するほか、江戸城内の紅葉山や上野の寛永寺や芝の増上寺に定期的にお参りに行きました。将軍の参詣時には随行する武家が一気に集まります。行き違っては面倒なので、横道に逸れてやり過ごす、というような方法がとられました。そこでも、行列の主を識別する必要がありました。

私は学生たちと『江戸名所図会』に載っている大名行列を「これは誰の行列でしょう」と当てるクイズをやったりします。武鑑には紋所、槍の数や槍のカバーの形や色といった、行列の格式や特徴を表わすものが載っていますから、武鑑を見比べると絵の中の大名が誰か、推測がつくのです。

武鑑がロングセラーになったのは、まさにこのような「識別」のためのガイド役をしてくれたからです。

武鑑には260の大名家が掲載されたものと、もう一つは幕府の役人の名前が掲載されたものの二種類あります。

役人はしょっちゅう人事異動があるんですが、大名はあまり動きませんから、何年も使い回しをする。同じ版木を何回も使うので、劣化してほとんど字が読めなくなる場合もあります。すると大名家の家臣のほうから「そろそろうちの殿様のページの版を新しくしてもらえないでしょうかね」と、版元の出雲寺や須原屋に申し入れるんですね。その際「この間は真田さんが新しくなっていたけれど、聞いてみたらこの値段でやってもらったと言っていた。うちも、そのぐらいでどうにかなりませんか?」などといった駆け引きもあったようです。

それに対して版元も「真田さんは文字数が少なかったからあの値段でやれたけど、お宅の場合は…」となかなかシビアな取り引きだったみたいです。

20年ぐらい前から「とてもきれいに摺られたページと、文字も読めないほど摺りが悪いページの違いは何なのだろう」とずっと疑問に思っていたんですが、そういうやりとりを見つけて謎が解けました。版元は相手から申し入れがあって、手間賃について折り合いがついてから彫り直す。大名家の方はできれば安く済ませたい。人間味にあふれた、面白い話です。

また新しい情報を補うために、例えば1864年(文久4)の須原屋茂兵衛版の武鑑を見てみると、4冊で1セットの『文久武鑑』で年5回、前述した「略武鑑」(役人付)の『袖玉武鑑』で年15回と、合わせて年20回の改訂がなされています。しかし頻繁に改訂を重ねる武鑑をその度に購入することは難しいので、版元は有料で摺り替えのサービスをしていました。こうしたサービスは、得意客との関係をつなぐことにも役立ったと考えられます。

武鑑に掲載する情報は、江戸城の下馬先(げばさき)で取材されました。主人が城で用事を済ませている間に、お供の者は下馬先で待機しているんですが、そのいわば溜まり場に足繁く通って情報を入手するんです。中には情報を得たけれど、途中で人事が変更になってフライングになった、というようなこともありました。

藩主は載るのが当たり前ですが、家臣などは、目に見える出世の記録になりますから、載ったらうれしいものなのです。

18世紀半ばになると、武家の身分はお金を出せば買えるようになるんですね。例えば、村の名主の家の長男とかが家を継がずに次男に譲って、お金を貯めて御家人株を買う。そこで頑張って旗本になって役職に就くと、武鑑に名前が大きく載るようになるんです。するとうれしくて大量に買って親戚に配ったりしたんですよ。滝沢馬琴も、元は武家の家系なんだけれど途中から別の職業に就き、孫を武家にしようと頑張るんですよね。

また、今もそうですが、陳情をするときには、大臣に直接陳情することはなく、秘書官に訴える。殿様が誰であるかよりは、〈取り次ぎ〉が誰であるか、という情報のほうが価値があるんです。

賄賂政治と言ってしまってはいけないかもしれませんが、人のつながりが今より濃密な時代でしたから、知り合いの口利きで状況が変わるようなこともありました。そういう社会でしたから、こういう情報がより重要だったのです。

このような需要に応えたのが武鑑です。

武鑑の出版と販売の権利を持っていた出雲寺も須原屋も、最初から武鑑を主力商品にしていたわけではなく、ほかの本屋から版権を買っているんです。それが安定した販売数を維持しながら、巨頭二頭体制で100年間続いていきました。

  • 武鑑には、家紋はもとより槍先の形や飾りなど、識別するための情報が事細かに掲載された。これらは版木に彫られ摺られたが、小さい改変はブロック状に埋木され修正が加えられた。版木は摺りを繰り返すとすり減ってくるが、新しく彫り直された箇所は鮮明に摺られたので、印刷状態を見るだけで改変箇所がわかる。実物が物語る、テキストデータだけでは得られない情報だ。

近代印刷へ

明治になっても、整版印刷はしばらく残るんですが、政府が指導したために金属活字による印刷へと急速に移行していきます。

江戸時代の人にとって一番身近な書体は、筆で書いたものを版木で表現したものでした。崩し字ですし、つなげて書いてあります。それが活字になって、1字ずつ独立したものになっていくので、1字ずつの書体(フォント)研究が進みました。

神崎正誼(かんざき まさよし 1837〜1891年)という人は、1876年(明治9)ころに、活字書体の開発を熱心に行ないました。神崎は、肉太でとても堂々としていて、きれいな清朝活字をつくりました。ずいぶんお金をかけて開発したんですが、高価であり、技術的にも問題があったために残念ながらあまり普及しませんでした。

印刷の形態が変わることで、紙も和紙から洋紙に転換していきます。それはあくまでも近代印刷に適した紙、という条件に、和紙が合わなかったからです。

しかし、本という存在は、単なる紙の魅力に留まりませんよね。彫り師や摺り師がかかわった手技の魅力が、こもっていると思います。紙面割りにしても、複数の人がかかわっているという魅力があると思います。その産物だからこそ、本は楽しいのではないでしょうか。つくり手の活気が伝わってきますから。

私は、本が作者だけでなく周りを囲んでいる人たちの話し合いの成果だと思うと、楽しくなります。

でも、そういう風に本を受け取っている人は少ないかもしれませんね。あくまでもノーベル賞作家とか直木賞作家の書いたもの、という評価。一般の人が価値を認められるのは、せいぜいブックデザイナーの名前ぐらいかもしれません。

〈もの〉にしか語れないこと

国立国会図書館をはじめ、各図書館でもデジタル化が進み、離れていても資料の中身を閲覧できるようになりました。逆にデジタル情報になったことで現物資料の閲覧を停止する場合もあります。これらは資料の公開促進、資料の保存という面からはとても良いことなのですけれども、人々から〈もの〉自体が離れていくことが危惧されます。

原本に触らないとわからないこともあるのです。

例えば、整版印刷の場合、版木を全部彫り直すのは大変なので、埋木といって修正部分に新たな木片を埋め込んで、そこだけ彫り直しました。ほかに比べて鮮明に印刷されている箇所は埋木であることが多く、そこだけ拾っていっても読み取れることがたくさんあります。

武鑑では墨の濃淡に差がある所を見つけていけば、人事異動やなにがしかの変更があったということがわかるほどです。さらに、版面をじっくり見ていますと、細かく一字一字修正したのではなく、ブロックごと差し替えていることまでわかります。

本への愛着を育てることが、和紙の活用につながるかもしれませんね。現代の本への愛着があれば、和装本への移行は比較的簡単なように思います。作家さんなどに「和紙に印刷してください」という要望をしてもらうのも効果があるかもしれません。復刻はありますけれど、新作はなかなかありませんから。

うちの学生は読書好き、活字好きです。高校生までは少数派で肩身の狭い思いをするらしいです。それが大学に入って、〈もの〉に語らせる楽しさがわかる人、友だちに出会うと、心が解放される。この経験は、一生の宝物になるはずです。

版木

版木
橋口 侯之介 和本入門 (平凡社 2005)をもとに編集部で作図



(取材:2012年4月26日)

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