機関誌『水の文化』52号
食物保存の水抜き加減

ひとしずく
ひとしずく(巻頭エッセイ)

極東シベリアの発酵食品

ひとしずく

探検家 外科医 武蔵野美術大学教授
関野 吉晴(せきの よしはる)さん

1949年東京都墨田区生まれ。一橋大学在学中に探検部を創設しアマゾン川全域を下る。その後25年間、南米への旅を重ねるなかで医療の必要性を感じて横浜市立大学医学部に入学、外科医となる。1993年、アフリカに誕生した人類がユーラシア大陸を通ってアメリカ大陸にまで拡散した約5万3000kmの行程を、自らの脚力と腕力で遡行する旅「グレートジャーニー」をスタート(2002年2月ゴール)。2004年7月からは「新グレートジャーニー 日本列島にやって来た人々」をスタート。「北方ルート」と「南方ルート」を終え、手づくりの丸木舟によるインドネシア・スラウェシ島から石垣島まで4700kmの航海「海のルート」を2011年6月にゴールした。

「グレートジャーニー」の途次、シベリアの東端インチョウン村に滞在していた時のことだ。村のハンター長のジェナさんが「ベルボート(大型船)を出すぞ」と声をかけてきた。海岸にセイウチが集まっているという。2隻のベルボートを海氷の外に引き出し、そのうちの1隻に乗せてもらった。

黒い岩肌に白い氷が混じる岩壁に沿って進む。やがて絶壁の下に、数え切れないほどのセイウチが群がっている砂浜が見えてきた。砂浜に横たわっているセイウチの数もすごいが、その周辺で泳いでいるセイウチもたくさんいる。

ボートのエンジンを停めて、船首に立っている2人が銛を構えた。セイウチは水面に顔を出したり、潜ったりしている。顔を出すと、シューッと息を吐き出す。その息は、腐ったような臭いを発して、ちょっと近寄っただけでも臭い。身体を大きく水面上に押し上げて、こちらを威嚇するセイウチもいる。「ウォー、ウォー」というセイウチの大合唱が続く。

射手が回転銛(ハプーン)を放った。銛の先端がセイウチの皮膚に食い込む。すると、ハプーンの先端だけがはずれる。銛先にはロープが付いていて、ロープの末端にはブイが括られている。銛先は皮下に入ると回転し、抜けないようになっている。それからロープをたぐり寄せてセイウチを捕まえるのだ。ちなみにインチョウン村では、ホールアウト(セイウチが群れる場所)から5km以内では猟銃などの火器は使用禁止とされている。火器を使うと、その場所に二度とセイウチが来なくなるからだ。

銛で射抜かれたセイウチは、一旦は潜って逃げようとするが、やがて息をするために海面に上がってくる。船員が銛先でつながったロープを少しずつたぐり寄せていく。ボートの近くまで来たら、ヤスで心臓を射抜く。だが、肋骨に当たったらしく、ヤスの先がグニャっと曲がってしまった。曲がったヤスの先をまっすぐにして再び心臓に狙いを定める。命中すると、傷口から鮮血が噴き出し、周囲の海を赤く染めた。こうなると、絶命までさほど時間はかからない。

1トン近くもあるセイウチに対して、こちらは回転銛とヤスだけ。いつ海に放り出されて、セイウチの牙の餌食になるかもしれない危険な猟だ。それでも、回転銛はすでに3000年前から使われていた。きっと数千年前にも、同じような光景が繰り広げられていたのだろう。太古の時代の狩猟を目の当たりにした思いだった。

夏にとったセイウチは肉を皮で巻いて、発酵させる。セイウチ肉の発酵食品、コパルヒンを作るのだ。セイウチ皮の端を切って作った紐で縛り上げると、セイウチ肉のセイウチ皮巻きができる。夏の終わりまで暖かいので、肉は発酵する。その後秋になるといつも気温が0℃以下なので保存がきくのだ。

風味と味が加わり彼らの大好物だ。犬ぞりの旅でも一緒に食べた。凍った肉を薄く切って食べる。発酵食品の特徴で、よそ者にはきつい臭いがする。最初は抵抗感があるが、食べ慣れてくるとやみつきになるのも発酵食品の特徴だ。

海面に顔を出したセイウチを回転銛で狙う。息づまる一瞬だ


海面に顔を出したセイウチを回転銛で狙う。息づまる一瞬だ 撮影:関野吉晴さん



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