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「日本文化は、水を仲立ちにした人と大地との営みの結果である。」そう、私は新著『水と緑の国、日本』(講談社)に書きました。
それほどに日本文化の、他の諸文化と異なる特徴はといえば、水との緊密な関係です。水にまつわる独特の言葉だけでも、何と多いことでしょう。水に流す、水をあける、水争い、水掛け論、水臭い、寝耳に水、水をさす――。どれも外国語には訳せません。
なぜでしょう。水に恵まれているからでしょうか。水の豊かな国ならたくさんあります。では稲作文化だからでしょうか。そうには違いないが、ただ米を作るだけなら、アメリカでもヨーロッパでも作っています。
そうではなくて、水をめぐる緊張関係の文化、緊張関係によって共同体が生まれ、緊張関係によって初めて共同体の秩序も維持される社会。それが日本文化だったのです。対自然との緊張関係であり、また人間社会内部の緊張関係――例えば上流対下流、対岸対こちら側、隣の田圃対うちの田圃、といった関係です。
それこそは地形急峻、雨の偏って降るきわめて特殊な自然条件下、水をコントロールして稲作を営むことで養われた特質、自然とのつきあいの知恵だったのです。(注1)
けれどいま、緊張関係は薄れ、水とのつきあいの知恵や伝統は忘れられつつあります。
蛇口をひねれば水の出て来る現代社会に、昔の知恵や伝統など無用の長物なのでしょうか。
例えば水不足の時、決まって都市から出されるのが、こんな声なのです。
「農業用水の慣行水利権なんてもう古い。そんなもの見直して、水を都市へ回せ」と。
果たしてそうでしょうか。 |
1994(平成6)年は歴史的な渇水でした。いわゆる「平六渇水」です。とりわけ香川県の水不足は深刻で、「早明浦ダムの貯水量何パーセント」といったニュースが、連日のようにテレビで全国に報じられたものでした。高松市は五時間給水を実施し、市民の大騒ぎぶり、苦労ぶりも全国に報じられました。
しかしこのとき、高松市民を救ったその命綱とは、実は農業用水から分けて貰ったものであったこと、農民が都市に水を分けたその陰では、農民の涙の出るような犠牲があったことは、あまり知られていません。しかもその犠牲を行うことが出来たのは、過去の伝統や知恵を、復活させたからこそであったのです。
というのは、農家が水を都市へ分けるためには、各農家がよほど足並みを揃えて節水し、同時に、厳しい配水管理をそれこそ二十四時間体制で行わねばなりません。普通ならとても考えられないそうした苦労が、混乱もなく整然と実現できたのは、『慣行水利権(注2)に基づく配水ルール』という、その土地土地の水とのつきあい方の伝統を記憶していたお年寄りたちが、若い人たちに伝え、指導したからだったのです。
残念ながらこういうことはマスコミも報道しません。かえって「水が都市へ回せたのは、農業用水が余っていたからだ」とさえ報道する始末です。
その根底には、いかにして農業用水を取り上げるかが、都市の水行政の戦前からの重要テーマだったのです。(注3)
都市の私たちはいったい誰に養われているのだろう。そんな謙虚さに立ち、古い伝統や知恵をいまのうちに伺って、後世に伝えていく必要がありはしないか。そう思って私は、このとき節水の総元締めとして苦心され、いわば古い慣行や知恵の窓口でもあった香川用水土地改良区事務局長の長町博氏をお訪ねし、お話をうかがいました。 |
香川用水とため池
香川県は昔から水資源に恵まれず、先人達が多くのため池を築造するなど、用水確保に苦労を重ねてきた(注4)。こうした問題の抜本的な解決を図るために、四国の水資源の総合的な開発を目的とした「吉野川総合開発」の一環として計画、施行された事業が香川用水である。吉野川上流の高知県長岡郡本山町に早明浦ダム(有効貯水量2億8,900万t)が建設され、その運用によって新たに生み出される年間8億6,300万tの用水が四国4県に配水され、そのうちの2億4,700万tを香川県に導入するという一大事業であった。早明浦ダムから放流された水は、吉野川中流部の池田ダム(徳島県)に設けられた取水口を経て、ここから阿讚山脈を貫く導水トンネル(全長8km)で県内に導かれることになる。ここから県を東西に横切り、その長さは約90kmで、香川県のほぼ全域を潤している。1968(昭和43)年に着工され、1981(昭和56)年に完成した。維持管理は、共用区間を水資源開発公団が、農業専用区間を香川用水土地改良区が担当している。これにより、長い水不足の歴史に一応の終止符が打たれと言われた。 |
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富山 長町先生、平六渇水では大変なご苦労をされましたね。高松市の水不足があれだけ全国に報道されながら、そのかげで市民を救うため、農家がどんな苦労をされたか知らされていない。これはとても残念で、都市の私たちにとっても不幸なことだと思うのです。
そればかりか最近になっても、朝日新聞が「農業用水を都市へ回せたのは、水が余っていたからだ」と社説で書きました(1998(平成10)年8月4日付)。それに対して先生が、それは違う、実状はこうだという一文を投書されたが、載せてくれなかったというお話です。やはり都市へ水を分けてあげた木曽川の宮田用水土地改良区の事務局長さんも、投稿されたが、載せてくれませんでした。
長町 平六渇水は、高松気象台 102 年間の最小降雨記録を更新した記録的な大渇水でした。香川県でのこれまでの大渇水は、1939(昭和14)年の大干ばつが記憶に残っている人が多いのですが、あの渇水は、それをしのぐものでした。ですから、今世紀最大の大渇水ということが言えます (注5)。
1939(昭和14)年の大渇水の時には、稲の収穫皆無の地区が非常に多かったんです。ところが平六渇水では、稲は平年作を上回りました。そうなりますと、「農業用水には、かなり余裕があるのではないか?」という見方をされる方が都市部の方の中にはおられました。農水省の農業工学研究所では、「あの大渇水で香川用水は厳しい取水制限を受け、かつ上水道への融通を行ったのに、なぜ稲は平年作を上回ったのか? 都市部の人達が言うように農業用水には余裕があるのだろうか? その点を解明したい」と調査に来られたんです。実は、この背景には農家の皆さんの大変な「節水灌漑」があったのです。
香川県の農家は、渇水時にはこのようなことを行うのが何百年来の習慣でして、それは当然だという理解があります。でも農業工学研究所の方に節水灌漑の実情を話しますと「当然とはいえ、それは大変なことだ」とびっくりなさる。香川県の農家の皆さんが当たり前のことのようにやっていることが、実は大変なことをやっているんだなという認識を私自身がもちました。そこへ、たまたま富山先生がお出でになり、ずばりそのことを教えられたんで、本当に嬉しくなってしまいました。 |
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長町博氏
香川用水土地改良区事務局長
1931年香川県に生まれる。
三重大学農学部卒業。
1953年香川県農林部土地改良課へ入庁。
以来土地改良行政一筋に勤務。
1989年香川県農林部次長兼土地改良課長を辞し、現在、香川用水土地改良区事務局長、農学博士。
主な著書に『讃岐のため池』(共著、美巧社)、『古代の讃岐』(共著、美巧社)、『農業基盤としての条里遺構の研究』(美巧社)などがある。 |
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富山 もともと香川県は雨が少ない。そこで満濃池に代表されるように溜池が発達し、厳しい番水制度もありました。それが、早明浦ダムが出来、香川用水が来ると、市民の水意識もすっかり変わってしまった。人間の意識なんて、こうもあっさり変わるものかと、当時ダム建設に苦労した行政関係者の間で、よく話題になったものでした。そこへあの渇水でした。大騒ぎになりました。
長町 上水道用水も非常なピンチに陥りました。香川用水の第1次取水制限が6月29日に始まって、1週間ちょっとで早くも第2次に入って、いきなり60パーセントの取水カットに移行したんですね。香川県民にとって6月の末に取水制限が始まるというのは、平成6年の渇水が初体験だったんです。
60%の取水カットになると、上水道はたいへんな事態になります (注6)。しかし、そういう時は農業だってピンチなのです。そこに、なんとか農業用水、工業用水の協力を仰いで上水道を救済したいということで、県の渇水対策本部から救援要請があったのです。それは農業用水のカット率を重くして、上水道のカット率を緩めるという、利水者間での融通を配慮した配水調整をお願いしたいということでした。
香川用水土地改良区 (注7)の中でも、これにどう対応するか、随分と議論がありました。農業用水も連日の猛暑干天のため、ため池の貯水量が急速に低下していました。しかし、その段階では、今世紀最大という大渇水になり、この先渇水が延々と続くという予測はなかったですからね。とりあえず上水道はピンチだし、何とか協力しようということで融通に応じたわけです。
ところが、渇水は予想以上に厳しく、長期にわたりました。農業用水もたいへんなピンチです。そこで、農家の人も節水灌漑に努める一方、井戸を掘ったり、ポンプを据えたり、新しく揚水パイプを配管したりと干害応急工事にも積極的に取り組むことになった。このように、利水者間での融通の背景には、農家の皆さんが行なった、採算を気にしない干害応急工事の実施と節水灌漑とがあったわけです。 |
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富山 「節水率」というのがあります。限られた水をどう我慢し合うかの数字ですが、渇水になると我慢をさせられるのは、いつも農業の側ですねえ。
実は平六渇水の時、愛知用水でこんなことがありました。愛知用水は名古屋市の一部から知多半島全域を潤す水で、水源は木曽川上流のダムに頼っています。が、このとき水源がゼロになった。では知多半島の人たちはどうしのいだかというと、木曽川下流の農業用水から分けて貰った。さきにふれた宮田用水です。それも無料でです。そのこと一つが、農業用水のありがたさを示していますが、貰ったその水を愛知用水内部で、どのように分けあったか。
農水、工水、生活用水の節水率を見ると、一番厳しい季節でしたが、農水65%、工水65%、生活用水33%でした。生活用水最優遇です。
「それは違うのではないか」私はそう、愛知用水の方に申し上げた。都市の人たちにも、そう、講演でお話ししました。
「だって、いまのようにたくさん水を使っている時代、少々の節水で人間は死なない。が、植物は死ぬ。だったら、農業を優先させるのが筋でしょう」と。「ただ、隣の家へはたくさん水が来て自分の家へは来ない、といった不平等では混乱が起きる。水をどう分け合うかという問題、これは非常に大切で、日頃から研究し準備しておく必要がある。が、あくまで都市内部の問題です」と。
渇水の時の節水率は、利根川水系を初めどこも大抵、こんな割合ですねえ。「生命のため」という大義名分が唱えられるのですが、香川用水ではどうでしたか。
長町 香川用水に上水道を依存しているのは5市19町。その内、この用水に 100
%依存しているのは6町です。全体では、この5市19町の水道需要量の56%を香川用水に依存しています。その香川用水の利用が60%カットされますと、これは大変なことになってくるわけですね。1994(平成6)年の灌漑期間中の香川用水の計画取水量に対する取水実績は、全体では
65.5 %なんです。ところが、農業用水は 59.6 %、工業用水は45.8%に抑え、上水道は 83.3 %の取水をしています。この差が融通なんです。
水量としては、そんなにびっくりするほどの数字でもないんです。ただ、融通された水は上水道が本当にピンチの時に効率的に運用されますから、水量は少なくても効果は抜群なんですね。そういう融通を行うことによって上水道がパニックに陥らなかったんです。
高松市は5時間給水が延々と続いたわけですが、この融通がなかったら3時間給水に陥っていたに違いありません。3時間給水になりますと水道が減圧してしまい、高松市の半分が断水になるんです。そうなると間違いなくパニックが起こります。ですから、最低5時間給水を維持するために必要な融通を行うという方向で、香川用水土地改良区の配水管理委員会に話をさせてもらったのです。 |
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