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「水と闘う」と表現される地域は世界中にある。オランダ、日本、中国、カンボジア、エジプト……。国内に目を転じても、八郎潟、亀田郷、木曽三川、様々な土地があり、見ようによっては東京だって水と闘っている。ただし、水の何と闘うかはまったくばらばらで、その土地の風土、歴史、住民の意思などにより決まってくる。オランダは主に海水位と地下水位が闘う対象となり、日本は洪水や渇水と闘う場合が多い。 水と闘うことは、生活を守ることと直結するため、「何を守るか」で意見の相違が生まれ、時には紛争も起きる。洪水と闘うならば、上流・下流、都市住民・農業従事者等々で何を守るかという立場が異なるし、それに連動して、犠牲にする場所の配分も違う。 水と闘うには、当事者の「言い分」をまとめて社会として結論を出すための技術、すなわち合意形成の技術が不可欠だ。
言い分とは、要は、自分の立場が言わせる物言いである。とりたてて責任を伴った明言というわけではない。 鳥越皓之は『環境問題の社会理論〜生活環境主義の立場から〜』(御茶の水書房、1989)の中で「問題が生じたときに、自分が納得し、他者を説得するためにつくられた論理で、日常的な知識に基づいている」と、言い分を説明する。 一方、意見はオピニオンの訳で、これが社会でまとまるとパブリック・オピニオン、つまり「世論」となる。意見に対して、言い分は、適当な英訳がみつからないやまと言葉である。それだけに、日本の話し合いの習慣に、より深く根ざした言葉でもある。 言い分と意見の違いは何か。 言い分も、意見も誰もが持っているものだ。しかし、一人の人間がたくさんの言い分を持つことはあっても、意見というものは一つだ。つまり、意見とは自分の責任を伴った明言であり、自分の中のいくつもの言い分を吟味判断して、ただ一つ責任を持って主張できる意見に作り上げたもの、と言ってよいだろう。 日本人は、などと大上段に構えるのは床屋談義の類かもしれないが、日本人はこの二つの違いを、合意形成の過程の中で意識して使ってこなかった。 例えば、戦後、イギリスやアメリカの民主政治をお手本にして、日本には「個人がない」などと言われてきた。この場合の個人とは、意見を決定する能力を持ち、自ら表明し、国を選んだ人間という意味で、通称「市民」と呼ばれるものだ。 しかし、それはイギリスやアメリカのような意味での個人がないというだけの話であって、日本では言い分を調整することで合意形成するという伝統があった。それは今でも企業文化・政治文化として広く残っており、公式な合意形成とは別に、非公式に「裏の根回し」、「相手の顔を立てる」などの慣習として受け継がれている。 ただ驚くのは、そのような「言い分の合意形成手法」が非公式なものだから「存在しないもの」と蓋をされてしまうことだ。こうした姿勢の中にこそ、意見と言い分の差をあからさまにしない精神の根っこがあるのではないか。
「明治17年ごろに、individualという言葉が日本語に訳され、個人となった、それ以前に日本には個人という言葉は存在しなかった」と指摘し、それに対する社会という言葉もヨーロッパの歴史を背負っていないという。社会に対応する日本の言葉は「世間」だが、その世間とは「個人と個人が結びついているネットワーク」「その人が利害関係を通じて世界と持っている、いわば絆なんで、それ以外のものではない」と断じている。そして、「その人がその人でありうるためには、仲間を持っていなければならず、その人がその仲間の中にいることによって、その人でありうる、というふうな場」が世間だという。著者は、世間の持っている閉鎖性を挙げ、社会のほうが望ましいと思っているのだが、歴史が違う以上、日本の場合は世間主義でよいのだという、悩んだ末の結論を出している。 日本にあるのは「世間」なのだという、指摘そのものは鋭い。 しかし、それは背景に持つ歴史が異なる以上、当然のことだ。私たちはこの歴史から逃れられない以上、むしろ、世間というものをもう少しポジティブに捉えた上で、世間の合意形成というものを考えられないだろうか。世間とは、まさにいろいろな役割の人々が取り結んでいる人間関係からなるネットワークだ。そして、人はその関係、つまりは世間の中でいろいろな思いを表明する。これが言い分だ。 いろいろなネットワークと関わり、世間を増やし広げることで、人は様々な言い分に触れ、自分なりの言い分をたくさんつくることができる。かつては「勤め人としての言い分」「家族としての言い分」「むら、まちの住民としての言い分」ぐらいしか、自分の関わる世間も少なかった。でも、今は勤め人でも、自営業者とサラリーマンとでは言い分が違うし、業種毎に言い分が変わる。同じ地域でも、親や子を養っている人と、独身の人とでは言い分が違う。さらに、温暖化を防ごうというNGOに加入している人は、他国の人を通じた自分の言い分がある。自分が関わる世間が異なれば言い分も異なるし、言い分が違うことが意識されてくれば、つきあう世間も異なってくる。
このように世間をたくさん知ることは、昔は大人になる要件でもあった。「お前も、大分世間のことがわかってきたな」ということは、人間関係の判断能力が備わってきたことを意味した。さらにそういうことにくわしい人は「世間通」と呼ばれるようになる。 さて、ここで世間に通じるようになると、現代のように多様な世間がある状態では問題に直面することがある。例えば、近所の小学校が人口減少のために廃校になると想像していただきたい。「かつてそこに子を通わせた親としては廃校に反対だ。しかし、それで税負担が低くなると約束してくれるのなら、納税者としては賛成だ」と、自分の言い分同士が両立しない場合があることを意識する。そのとき、「やはり、この地域住民としては、教育の質が大事と思うので、廃校に賛成する」と初めて「意見」を決定するのである。 意見は言い分から生まれる。そして、言い分が意見になるときに「地域住民として」という新たな価値を持った世間を想定するのである。しかし、なぜか言い分を意見にする技術は、これまで学校でも家庭でもほとんど教えられてこなかった。 合意形成というのは、実は「言い分を意見にする」段階と、「意見を社会的意見にする」という2段階ロケット方式で宇宙に飛び出すようなものなのだが、第1段階の「内なる合意形成」がなおざりにされ、第2段階にだけ目が向けられるケースが多い。しかし両方がそろわないと、合意に手間取るだけでなく、たとえ合意に至っても合意に有効感が感じられず、合意を守らない人も出てくる。
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