機関誌『水の文化』2号
水情報との上手なつきあい方

日本の浦島、中国の浦島 日本海・丹後半島、浦島伝説を訪ねて

富山 和子さん

立正大学教授・日本福祉大学客員教授
富山 和子 (とみやま かずこ)さん

群馬県に生まれる。早稲田大学文学部卒業。 水、森林を初めとする環境問題の草分けであるが、一方、都市問題、交通問題の専門家でもあり、初期の頃は交通評論家として活躍した。著書『自動車よ驕るなかれ−日本自動車文明批判−』(サイマル出版会、1970)は自動車文明批判の日本の代表的著作といわれる。1979年雑誌『文藝春秋』に「水の文化史」を連載するに当たっては、交通研究者、文明批評家としての視点が駆使され、人と物資、物質の移動を歴史的にとらえての国土利用論が展開された。 著書『水の文化史』(文藝春秋、1980年)は『日本再発見 水の旅』(文藝春秋、1987年)と共に、今日までロングセラーとなっている。また、児童書『道は生きている』(講談社、1994年)は、交通を語る児童向けの基本書として「国語」教科書にも掲載され、中学高校入試にもしばしば出題されている。



君島 久子さん

国立民族学博物館名誉教授
君島 久子 (きみしま ひさこ)さん

慶應義塾大学卒業。東京都立大学大学院修了。 国立民族学博物館教授を経て、現在同館名誉教授。北京中央民族大学名誉教授。中国、東南アジア等で少数民族を始めとするアジア諸民族の現地調査や民間伝承の採録に従事。 主な著訳書に『概説中国の少数民族』(三省堂)、『日本民間伝承の源流』(小学館)、『東アジアの創世神話』(弘文堂)、『アジアの民話』(講談社)他多数。『白い竜・黒い竜』(岩波書店)で産経児童出版文化賞(1965年)、『西遊記』(福音館書店)日本翻訳文化賞(1975年)、『中国の神話』(筑摩書房)産経児童出版文化賞(1983年)等受賞。民間伝承の中国及び日中比較研究の分野における第一人者。

「京の文化は日本海文化である」と書いて日本海文化論を展開させたのは、1979(昭和54)年、雑誌『文藝春秋』に「水の文化史」(注1)を連載してのことでした。当時、世の常識とはまったく逆のそんな理論を打ち出すには、実に勇気が要りました。歴史家の友人に恐る恐る相談したが、せせら笑われるばかりです。けれど、調べれば調べるほどに私の確信は強まるばかりでした。

以来、私の日本海側に対する思いには、特別のものがありました。自分で発見し、一人で驚き、そして勇気を出して世に問うたという作業の故でしょう。

それ故機会を見ては日本海側を歩き、自己の理論を検証したいとつとめました。そんな中で、浦嶋神社(注2)に出会うことになります。

そこでこのたびは、古くからの友人であり中国伝承文学の権威、君島久子さんにご一緒していただき、改めて丹後半島を旅しながら、中国の浦島についてお話を伺うことにいたしました。

(注1)富山和子『水の文化史』
文藝春秋1980年
(注2)浦嶋神社
京都府与謝郡伊根町に位置し、浦嶋子(浦嶋太郎)を祭神としている。創祀年代は淳和天皇の天長2(825)年で、延喜式神名帳所載によると「宇良神社」と記されている。浦嶋子口伝記、玉手箱(玉櫛笥)など多数の宝物を蔵している。中でも、十四世紀前半の作と言われる「浦嶋明神縁起」は、浦嶋を物語る日本最古の絵巻といわれ、重要文化財に指定されている。

中国の浦島伝説

富山 君島さん、もう十年以上前になりますか。『日本再発見水の旅』(注3)の出版記念に「水を聴き、遊ぶ会」というパーテイを開いたことがありました。東京・一ツ橋の如水会館で。日頃お世話になっている方や水の関係者が二百数十人いらして下さった。国鉄総裁をされた高木文雄さん、国土事務次官をされた下河辺淳さん、水公団総裁をされた山本三郎さん、朝日新聞副社長の伊藤牧夫さんなどマスコミ関係の友人たち、実に多彩なお顔ぶれでした。

その会で、坂本和子さんが『川は生きている』を朗読して下さり、そして君島さんたちの三分間スピーチがありました。黒澤丈夫さん(群馬県上野村村長、現全国町村会会長)や、社会学者の鶴見和子さんも。司会は元NHKアナウンサーの酒井広さんでした。お礼に私はダンスをご披露して、ワルツ「ムーンリバー」を踊ったのでした。会場の名称を含め、「水」ずくめの楽しい会でしたが、その三分間スピーチで、君島さんは中国の浦島太郎の話をして下さいましたね。あのお話、とても面白くて印象に残っていて、いつかもっと詳しくうかがいたいと思ってましたの。

この企画を思いつくには実はもう一つ、理由がありました。十数年前、この丹後地方を歩いたことがありました。ご存知かと思いますが私、日本海文化論を世に出した言い出しっぺです、中央レベルでは。勿論以前から日本海側では、「日本海側こそ表日本」という郷土史家たちはいたのですが・・・。

文藝春秋に発表したのですが、それまでの常識と逆のことを言うのですから、大変な勇気がいりました。

だから『水の文化史』については、「ショックを受けたのは水の関係者であるよりも歴史家たちだ」との書評を頂いたほどです。ところがこの本が出たら、今度は堰を切ったように日本海文化論が続出して、みんな昔から、自分はそう言ってきた、みたいな顔をして、われもわれもと出てくる。

ともかく、あれを書くときには勇気が要った。でも、米の輸送を見ていくとどうしてもそうなるのです。それからリマン海流という海流がある。私は交通学者でもあるので、『水の文化史』は、水の交通に光を当てた作品でもありました。

あとがきに書いたように、水問題という今日的問題からと、交通という、やはり文明の基盤、この二つをふまえると歴史も国土も相乗的によく見えてくる。そこで、有無を言わさぬデータを積み重ねて、私の理論を説いていったのです。

でも、世に問うた責任上、まだ歩いていないところがある。そこを歩いて、自分の理論を後追いで検証していかなければ、との思いがあって、その後、ずいぶん歩きました。そして1982(昭和57)年丹後半島を歩いたのです。

京都から由良川をくだり、大江山など訪ねたのち、丹後半島を歩いて、ここが古墳地帯であること、そして浦島伝説の地であることも知りました。

郷土資料館も私の予想通り対岸との関係が想像できる資料がいっぱい、忘れられないですし、宇良神社(浦嶋神社)で重文の絵巻物も見ていただいた。その絵巻物では、普通私たちが聞かされる浦島物語(注4)とは少し話が違っていた。それを思い出したのです。

そこで、今回の対談で、どうせ浦島の話をうかがうなら、ご一緒に宇良神社にお参りし、絵巻物も見て、それから対談、ということなら素敵だなと思いましたの。

君島 以前にも何度か来ましたが浦嶋神社の絵巻物は中国的で面白いですね。全体の雰囲気が中国的で、完全に神仙思想(注5)が絵になっている。五色の亀とかが描かれていて道教(注6)の影響も明らかに見られるし、とても面白かった。『風土記』(注7)の世界によく似ていますからね。

富山 以前、君島さんは「中国の浦島は日本とずいぶんと違っている」とおっしゃったと思うのですが、まずはその辺りからからお話いただけますか。

君島 両方あります。日本の浦島とよく似ている方は、洞庭湖(注8)のほとりの伝承なのですが、ある漁夫が、嵐の洞庭湖で水に落ちた乙女を助けるのです。すると、乙女が「私は洞庭湖の竜女です。お礼に竜宮城へお招きしましょう」と言う。竜女というのは乙姫様ですよね。その男が「竜宮の中に入っていくことができない」と言うと、竜女が水を分ける珠「分水珠」をくれるのです。後日、彼がその珠を持って湖に行くと、さっと水が二つに分かれて竜宮城へ着きます。すると乙姫様が出てきて、歓待され、結婚して幸せに暮らすのですが、ふと母親を思い出し、故郷に帰りたいと言い出す。乙姫様は宝の手箱を渡して「私に会いたくなったら、いつでもこの箱に向かって私の名を呼びなさい。でも、この手箱を開けてはいけませんよ」と言われるのですね。故郷に帰ってきてみると、村の様子もすっかり変わり、村人たちも知らない顔ばかり。それもそのはず、竜宮での一日は、人間界の十年にあたるので何百年もたっていたわけ。彼は動転して、竜女に聞こうと思わず手箱を開けてしまうのです。すると、ひとすじの白い煙が立ち上り、若い漁夫は、白髪のおじいさんに変わり、湖のほとりにぱったり倒れて死んでしまう。でも、彼は死後も目を閉じることなく、じっと洞庭湖を見つめ続けているのです。すると突然湖の水が満ちてきた。それは竜女が悲しみのあまりほっと長いため息をついたからなのです。その長いため息が、洞庭湖の水位の変化だと伝えています。(注9)

富山 彼女はまだ竜宮にいるわけですね。だいたい日本と同じですね。

君島 そうですね。古代中国の文明というと、以前から黄河文明が代表的なものでしたが、今は長江文明が考古遺物の発掘、発見などで次第に明らかになってきたのです。ちょっとした長江文明ブームかな。そのため、洞庭湖や陽湖など長江文明に属する地域からの日本への伝播の問題も、ずいぶん分かりやすくなってきたと思います。

浦島の話も洞庭湖には古くからありました。六朝時代の『拾遺記』(注10)に、洞庭山(洞庭湖の中にあるという説があります)の薬草を取りにいった男が洞窟に迷い込み、しばらく行くと別天地が開け、楽の響きや美女たちの歓待に酔いしれ、この世のものとも思われぬ夢のような暮らしをおくった話です。男は、やがてふと故郷が恋しくなり、帰郷を思いたつ。共に暮らした美女が別れを惜しみ、贈り物をくれる。洞窟の出口までおくられ、故郷に帰ってみると、知る人は一人もなく、家も何もない。村人にたずねると、三百年前に薬草を取りに行った男がそのまま帰ってこないという。男は行方不明となる。まさに山の浦島ですね。洞庭湖には、山にも湖にもこの話があるということです。

面白いと思うのは、今の洞庭湖のお話も、竜宮の一日が現世の十年というように、時間の差がはっきりあるのです。けれども中国には「玉手箱を開けたらおじいさんになった」という話よりも、「もらった宝の箱から乙姫様が現れて、ずっと現世で幸せに……」という民話の方が多いですね。

富山 中国にはほかにも浦島伝説があるのですか。

君島 いろいろな地域にあります。私は、この竜宮へ訪問する話を、最後に異常な時間の差異によって破滅する「浦島型」と「現世型」(注11)とに分けたのですが、中国では乙姫を連れてきてしまう現世型が結構多いのです。現世型は竜宮での一日が現世の一年というように、竜宮との時間の差が少なく、三日間竜宮で過ごして帰ってきたら「三年間もどこに行っていたか」と聞かれる程度です。そしていい女房をもらって幸せになる。時間の異常な経過がなければ、完全に現世型ですね。もらって帰ったら宝物が乙姫様だったりして。

富山 浦島伝説は中国のどの地域に多いのですか。

君島 長江から南の方が多いですね。竜は雨を司るものですから、北の畑作地帯も南の水田地帯も干ばつが怖いので、竜神に雨乞いはしますが、特に稲作文化との関係は深いようです。

富山 長江と聞けば、やはり稲と、稲の伝播とを思わないわけにはいかないですね。最近では稲作の起源も、雲南の奥地からずっと下流に下りてきました。アジア最古の稲が出た河姆渡(かぼと)遺跡(注12)もあります。

それにしても、浦島太郎というと普通私たちは、海が舞台で、「釣りに出たがなかなか魚がつれなくて・・・」という話が頭にありますから、海の神、魚の神様かと思いますけれど、ここ丹後半島では、浦島伝説は稲作の神様の話ということですね。

(注3)富山和子『日本再発見水の旅』
文藝春秋1987年
(注4)浦島物語
浦島伝説を記す最古の文献は『日本書記』。より詳しく書かれているのは『丹後国風土記』逸文である。江戸時代にはお伽草子の一冊として出版され多数の読者を得た。現在のように全国的に広まったのは、巌谷小波が『日本昔噺』(明治29年)で子供向け読み物に改め、明治43年以降、国定国語教材に採用されてからのことである。
(注5)神仙思想
不老不死の神仙となり、永遠の生を求めようという中国の思想。その萌芽は紀元前三世紀に認められる。東方沿海地方の方士達が広く説き「東海中に神仙の住む三神山が存在する」という教えは秦の始皇帝や漢の武帝にも受け継がれた。後に道教の中に取り込まれていく。
(注6)道教
道と一体となることによって永遠不滅の生命を獲得することを理想とする中国の土着的宗教で、儒教、仏教と並ぶ中国の三大宗教の一つ。中国古来の巫術や鬼神観念を基盤に、儒家や道家の思想哲学、仏教の教理などを複合的に取り入れ、六朝末から随・初唐期にほぼ確立した。古事記・日本書紀の記述の中にも、その影響を見て取ることができる。
(注7)『風土記』
奈良時代、元明天皇の時代に諸国の国司・郡司を総動員して作成させた郷土誌。現存するのは常陸国、播磨国、出雲国、豊後国、肥前国の五ヶ国のみ。散逸してしまったものの中で、平安末から鎌倉末にかけて輩出した古典注釈家などの著書に部分的に引用されて残っているものは「風土記逸文」と呼ばれており、浦島伝説もここから知られるものである。
(注8)洞庭湖
中国・湖南省北部にある中国第二の面積をもつ淡水湖。
(注9)君島久子「洞庭湖の竜女説話」
『大陸古文化研究』第六集 1972年
(注10)『拾遺記』
秦の方士王嘉の選と言われる。も十九巻二百二十編あったが散逸し、梁の蕭綺が補綴して十巻としたものが今日伝わっている。九巻までは晋代迄の遺事を記し、最後の一巻で崑崙山、九仙山などのことを記している。
(注11)君島久子『日本民間伝承の源流』 小学館1989年

(注12)河姆渡(かぼと)遺跡
中国浙江省余桃県河姆渡村で見つかった新石器時代早期(七千年〜五千年前)の遺跡。1973〜79年にかけて二度の調査が行われ、六千点を超える遺物が出土した。アジア最古といわれる水稲遺存体が大量に発見されている。

  • 丹後半島

    丹後半島

  • 浦嶋神絵巻

    浦嶋神絵巻

  • 丹後半島
  • 浦嶋神絵巻

稲の伝来と徐福伝説

富山 ここには徐福伝説があるでしょう。私がなぜ丹後半島に心を寄せてきたかといいますと、以前調査で宇良神社や丹後郷土資料館にうかがった際、ここが古墳地帯であることを知ったのです。古代史の里の京都府に古墳が五千ある。そのうちの実に三千五百が丹後半島にある。そんな古代史のメッカで、しかも中国や朝鮮半島と向かい合っている。対岸の満州、朝鮮からはリマン海流にのって、また長江からは対馬暖流にのって文化が直接来ないわけはない。それに加えて徐福です。

君島 徐福伝説というのは、有名なのは九州とか和歌山といった太平洋側ですよね。ところが丹後へ入ってきたところがおもしろい。

富山 徐福伝説については、私、『日本の米』に少し書きました。太平洋側にも日本海側にもある。佐賀県の有明海岸や紀州が有名ですが、富士山や八丈島、秋田、津軽まで全国に散らばっています。でも私は特に男鹿半島に心惹かれるのです。

あそこには「なまはげの里」があるのです。男鹿半島の中央に真山、本山、毛無山という三つの山がある。対岸はウラジオストックで、本山頂上には航空自衛隊のレーダー基地がある。そのそばに、徐福の塚や漢の武帝が連れてきたという五匹の家来の鬼を祀った赤神神社もある。何でも、武帝は家来に連れてきた五匹の鬼に、一年に一日だけ休暇を与える。すると五匹の鬼たちは、里へ下りて羽を伸ばす。それがなまはげだと、秋田では言われているのです。

確かに、本山の頂上へ行って対岸を臨むと「ああ、遠い国まで来たなあ」と、故国を思うのかも知れない。また、日本海を航海して陸を臨むと、本山を仰ぐことになる。そうでなくとも男鹿半島の付け根の部分は、漂着のメッカです。日本海と朝鮮、中国との関係については、まだまだ書きたいことがあるのですが、とにかくここに徐福伝説がある。

徐福は太平洋側が有名ですが、日本中にあるというところがおもしろい。そこで思い出すのは、以前、佐賀県の諸富町へ行ったら、亡くなった吉末豊助町長が徐福についてのうんちくを傾けなさった後、こうおっしゃった。「大陸から、五穀の種と道具をもって大勢舟でやって来る。そして、日本の近くで難破する。そうすれば散り散りになって上陸するから、上陸地点はあちこちになる」と。なるほど、海に囲まれた日本では、どこに上陸しても不思議はない。いい説明だなあと感心しました。

浦島伝説だってあちこちにあるわけでしょう。文献は他にありますか。

君島 古文献は少ないでしょう。ここ丹後の『風土記』と『日本書紀』、あとは『万葉集』ぐらいですね。ずっと後になって『御伽草子』(注13)。浦島伝説の地というのも、そう多くはないと思いますよ。この丹後が最も重要なところです。

富山 海流にのれば、太平洋側をのぼるルートがあるだろうし、日本海では寒流のリマン海流が沿海州を下って朝鮮半島の東側にぶつかり、ぐるっとまわって対馬暖流といっしょになって沿岸を北上するのです。(注14)ですから、何が来てもおかしくないと思うのですが。『日本の米』に紹介しましたが、徐福は文字通り稲を日本にもってきた伝説で、中国では実在の人物ともされているようですね。伝説としては日本へ来て建国の主となったと。江蘇省連雲港市徐阜村に遺跡も発見されたということです。

君島 古文献に、「秦の始皇帝の命令で徐福が不老不死の薬を探して東海の蓬莱山を目指して船出したが、とうとう帰らなかった」とだけ書いてあり、あとは『三国志』の「呉志」に徐福が東方の国に出かける時、数千人の童男童女を連れていった。その子孫が数万人に増え、会稽(かいけい)へ貿易に来ると書いてある。文献としてはこのくらいですね。それがどこかという点で、いろいろな説が広がってゆく・・・。

富山 徐福伝説は最近色々研究されていて、面白い本が出ています。ですが、いずれにせよ、稲作が日本に渡ってきた始まりを考えますと、面白いと思うのは、現在最古の水田というのは北九州の唐津、菜畑遺跡と福岡の板付遺跡です。最初から谷川を堰き止めて水路を築いて、これは大変な土木事業です。要するに川を作って、水位を上げたり下げたりしながら水を引いている。山の斜面を平らにして、木竹や石を除き、畦を築いて囲み、水田を作る。水田には水の出口、入り口を作り、昨日見たような棚田を作って順々に水を送っていくわけです。そういう大土木工事で、たいへん高度な水のコントロールを行っている。そして、その水田作りがほとんど時を移さず全国に広がる。

とすれば、人と稲の種と技術が一度に大量にやってきたにちがいない。徐福伝説に心引かれるゆえんです。仮に徐福でなくても、誰か大勢一時にやってきたのでしょう。その誰かの代名詞が徐福というわけです。それから、おそらくずっと後からだと思うけれど、浦島伝説も同じようなルートでやってきたのかな。そういう歴史をみながらこの丹後半島を歩くと、なんとなく風景が違って見えてくる。私は『日本再発見、水の旅』に、「隣の福井県鳥浜貝塚で縄文中期にもう造林が始まっている」と書いたけれど、もちろんヘチマとか、雑穀の栽培も始まっている。そういう下地があるところに、稲作がある時突然に入ってきたと思うのです。

(注13)『御伽草子』
室町時代から江戸時代初期にかけて作られた物語草子の総称。
(注14)地図参照
  • 男鹿半島

    男鹿半島

  • 男鹿半島

時を超え変容する浦島伝説

富山 それにしても、昔の浦島と現代版浦島ではずいぶんと変わってきていますね。

君島 何回か変化していますけれど、『御伽草子』が一応大きな変化でしょうね。浦島太郎になったり、竜宮が出てきたり、乙姫様が出てきたり。その前は、たとえば『風土記』だったら亀姫でしょう。それから、『万葉集』だったら神の乙女。それはね、中国の場合でも同じこと古くは水神、竜神、河伯などで、竜王や竜宮は出てこないのです。それが、仏教が入ってきても民衆まで一般化するのに時間がかかりますので、いろんなところの水神が竜王になり、住まいが竜宮になるのは、唐の時代あたりなのです。ですから日本ではさらに遅れて『御伽草子』で竜宮が出てくるんですね。ですから柳田国男さんがね、「日本の竜宮には竜王がいない」とおっしゃっているのです。竜宮があったら竜王がいるはずで、乙姫だけだったらおかしいでしょう。しかも乙姫って二番目か末娘なのに、乙姫ひとりしかいない(笑)。

富山 でも今の私たちにとっては要するに乙姫様とのロマンスと、年を取ってしまうという土壇場のどんでん返しがあればいいんでしょう(笑)。信仰とは関係あるのですか。

君島 お話の中に道教も出てくるし、仏教が浸透してくれば仏教も関係ありますよ。では、竜王、竜女より昔の話をしますとね。ある男が湖のほとりをほろ酔い加減でやってくるとあまり暑いので、水の中に入り石を枕に眠ってしまった。すると、水神の使者が迎えに来て、立派な宮殿に伴われていくのです。水神が現れ「娘の婿に迎える」といわれ、美しい姫と婚礼の式を挙げる。三日間滞在後、姫からおみやげをいろいろもらって帰る。それらは現世で役立つものばかり。だから水神の世界と時間の差はない。ただ気になるのは、別れ際に水神の娘が「お別れはつらいが、十年たったら迎えにゆきます」と言う。その後は何も書いてないけど、たぶん彼は迎えがきて、水中の世界へ行ってしまうと思うの。

この話は、水神の世界が水中にあるのかどうか描写が曖昧だけど、はっきりしている話もあるのです。『捜神記(そうじんき)』(注15)に、湖を渡っていた男が、突然湖の中に広い道ができて、水神からの使者が現れ宮殿に導かれる。以前に男がこの湖を渡るとき、ものを投げ入れ、水神への贈り物としたからなの。男は歓待され、「お礼に」と「如願」というものをもらって帰る。この品物は、願いをかなえるもので、おまけに、美しい女が出てきて妻になる。まさに現世型。この頃、すでに水中の世界が想定され、水神の館があり、美しい娘があり、美しい娘がいて、贈り物をくれる。ここまでそろっていれば、もう、水神が竜王に、娘が竜女と呼ばれるようになるのはたやすいことでしょう。

では、この辺で、ちょっと面白い話をしましょうか。ある男が船に乗って帰る途中、美しい娘が小舟を漕いで近寄ってきた。とっぷりと日が暮れ、雨も降りだしたというのに娘は傘もない。男は娘を自分の船で雨宿りさせ、小舟を船につなぐと、娘は男の船に入って仲良く寝た。やがて雨があがり、月明かりでふと見ると、大きな亀がひじ枕で寝ていたというんです。

この話を学生の頃、学会で発表したら、後で男の先生たちから、「亀がいったいどういう格好で寝ていたのか、想像したらおかしかった」と笑われました。この美女は不覚にも亀の正体がばれてしまい、川に飛び込んでしまいましたが、つないだ小舟は枯れ木だったということです。美女になって男を誘うスッポンの話もけっこうありますよ。

富山 亀は、日本における沼とか川の竜神みたいな意味があるのですか。

君島 さあどうかしら。今私が話している亀が美女に変身して男を誘い、共に一夜を過ごした話というのは、いくつもありますよ。六朝の頃の伝承には。ですから亀姫が、ここの浦島さんを誘って行ったというのは、ずいぶん昔からそのモチーフはあるわけですね。

富山 亀というのはいつごろからありがたい存在になっていくのですか?

君島 かなり古いですね。四神といわれる玄武、朱雀、青竜、白虎のうちの玄武。あれは亀で蛇が巻き付いている形をしている。霊獣の一種です。また、麟、鳳、亀、竜の四霊のひとつにも入っていて、万年の寿命を持つといわれています。亀は大昔、殷の時代に、占いに用いられた。有名な「甲骨文字」がそれです。亀の甲に占いの文字が刻みつけられている。最も古い中国の文字です。なにしろ紀元前千三百年頃のことですから。

富山 日本の、「鶴は千年、亀は万年」というのは関係がありますか。

君島 ありますよ。その言葉は中国製ですから。「亀千歳」というのが『史記』の亀策伝にあるし、「亀は万年」も古い文献にある「亀は齢万歳を経る」からきています。亀も鶴も長生きだ、というところから人の長命であることを「亀鶴之寿」などと言いますものね。

(注15)『捜神記(そうじんき)』
晋の時代(四世紀)に書かれた、不思議な説話を収めた小説集。神仙、風神、雨神、水神、吉凶、妖怪など様々な話題に関するものが載せられている。

  • 浦嶋子伝記をお話しくださる、浦嶋神社宮司の宮嶋淑久さん

    浦嶋子伝記をお話しくださる、浦嶋神社宮司の宮嶋淑久さん

  • 浦嶋神社本殿。

    浦嶋神社本殿。

  • 玉手箱(浦嶋神社蔵) 室町時代の作と伝えられる。

    玉手箱(浦嶋神社蔵) 室町時代の作と伝えられる。

  • 現代に伝わる“玉手箱”の中身

    現代に伝わる“玉手箱”の中身

  • 浦嶋子伝記をお話しくださる、浦嶋神社宮司の宮嶋淑久さん
  • 浦嶋神社本殿。
  • 玉手箱(浦嶋神社蔵) 室町時代の作と伝えられる。
  • 現代に伝わる“玉手箱”の中身

水の神様 竜神伝説

富山 日本の池には竜の伝説が結構多いでしょう。日本の池はみんな農業用の溜池だから。

君島 大陸から見たら、溜池に竜の神様がいるのは面白いですよ。でも中国の溜池にもいますよ。水のある世界なら、どこにでも。

富山 稲作ですから水の神は特別に大事なのでしょうね。洞庭湖のような大きい湖だけでなく、結構小さな池にも竜神がいるわけでしょう。

二十年以上前でしたが中国の雲南省、長江流域に一ヶ月近くいたことがあるのです。解放後の、現代のダムばかり見て歩きました。小さなダムを手づくりで作って、水を引く水路の両岸の手すりに、竜の絵、とか、じゃがいも、うさぎ、ぶた、などを象って飾ってあるのを見ました。

君島 つまり中国では古くから竜神はいるんですよ。それは雨乞いの対象になるわけですね。どうしても雨が降らないと漢代などでは竜の形を作って、それを踊らせて雨乞いをしたのです。それは今も変わりませんけれど。

富山 それは日本も同じですよね。

君島 そうそう。雨乞いは実に多い。干ばつが恐いから。でも、もし嵐で、こういう海浜地帯であったら、海があばれるのも恐いことでしょう。そういう時に、抑える神様が、竜神だと思うのだけど。つまり竜神には二面性(注16)があって、一方では慈雨をもたらし、日照りにあえぐ人々を救い、反面、荒ぶる神となって、大洪水も引き起こす。人身御供を要求したりする。そんな時、この土地の竜神様にも祈りがあるかどうかを聞きたかったの。

富山 雨は恵みでもあるが凶器でもある、というのが私の何百回も言ってきた講演でのキーワードの一つ。今度出した『水と緑の国日本』で、ついに活字にしました。

ところで祈りについてですが、水神様なら全国至る所にあります。日常茶飯の神様だったし、水の足りない所にも、水の豊かな湧き水地帯にも、水の危険なところにも祀られている。水除けの神様では水天宮とか、堤防が破られそうな所に伊勢社があったり。

しかし、人身御供の話になると、考えてみると水そのものに対し鎮まれ、と祈るのではなく、どうも土木工事が絡みますねえ。水の工事の際、工事が成功するための人柱です。

例えば溜池建設のための人柱伝説。『日本の米』にも、秩父の例が出てきます。それから、洪水対象では堤防工事の人柱、砂防工事の際の人柱、これもずいぶんありますよね。橋の建設にもある。ただ流れが鎮まれというのではなく、それによって大抵は土木工事が成功するためですねえ。

きっと日本では、一切の土地利用が水をコントロールして初めて成り立った。「水をコントロールする社会」と私は『日本の米』で性格付けしました。そうした土木工事なしで水とつきあう土地などなかった。ただ天に「波静かに」と頼んで暮らすような生活などはなかった。こと土地に関しては。だからこそ源実朝の、「八大竜王海鎮めたまえ・・・」(注17)は新鮮で強烈なのでしょう。ただし水上ではそうはいかない。船の上、ことに海に関しては。ですから海が相手なら、相模湾を渡るときの日本武尊(やまとたけるのみこと)と弟橘媛命(おとたちばなひめ)がいる。そして帰りに碓氷峠で「吾妻はや」とのたまう。

君島 きのうお話をうかがった方が、「八大竜王の神様がいる」とおっしゃいましたね。おそらく仏教以前から、この辺りには人々に信仰されている水神がおられて、そこに仏教の竜王が入り、合体したのかもしれませんね。嵐をおさめることは、人の生活にとって、すごく大事なことですものね。

富山 海の場合は、船が沈むのが問題ですね。日本武尊が、海を渡るために妻の弟橘媛命が沈む。それで関東に上陸して「あづまはや…」とのたまう。奥さんを沈めちゃって。海を鎮めるのは船の問題でしょう。陸で困るのは田んぼが流されることでしょう。どちらにせよ、水が治まってほしい。

君島 ですから、雨乞いだけでなく、鎮めることも大事ですね。弟橘媛命で思い出したのだけど、中国にも同じような話が『捜神記』にあるのです。でもこちらの方は終わり方が違います。家族と船旅をしていた男が、河が荒れ出し船が危なくなったので、前に河の神に娘をやると約束したことを思い出し、妻に娘を河に沈めるように言う。自分はとても見るにしのびず、後ろを向き目をつむっている。妻は一緒に連れてきた親戚の娘を河に沈めてしまう。男が振り返って見ると、自分の娘がいる。それを見て男はやにわに娘を川の中に投げ込んでしまう。嵐はおさまり、波も鎮まり、船は無事に目的地に着く。そこには、なんと二人の娘がにこにこして出迎えていたというんです。面白いでしょう。これはね、河水の神が、男の義侠心に感じて、二人とも返してくれたというわけなのです。

(注16)君島久子「竜神説話の二面性」
『アジア諸民族の歴史と文化』 六興出版1990年
(注17)「八大竜王海鎮めたまえ・・・」
源実朝の詠んだ和歌。「時により過ぐれば民の嘆きなり八大竜王雨やめたまへ」『金槐和歌集』所収。

水とのつきあい方が異なると伝説も異なる

君島 ところで、あなたの言われた「奥さんを海に沈めちゃって」という言葉、はっとしましたね。あの海の神は、人妻でもいいのかしら。人身御供にはいろいろあるけれど、一番多いのは、水神の場合、未婚の乙女か、子どもですよね。子どもなら童男童女どちらでもよいっていうのが普通でしょう。

富山 そうそう、八岐の大蛇(やまたのおろち)だってさらっていくのは娘ですよね。

君島 『西遊記』にも通天河に怪物がいて、毎年女の子と男の子を供犠に要求する。差し出さないと大洪水、田畑を流されるというので、悟空と八戒が子どもに化けて怪物と闘う場面がありますよ。また穀倉地帯として中国でも有名な四川盆地。ところが大昔はそうじゃなかった。山々が高く川が急流で、一挙に流れ込んでいて、洪水ばかり起こしていたんです。巨大なダムをつくることによって、やっとその災害をくい止めることができたんです。あなたもきっとご覧になったと思うけど、成都から西北へ向かう途中に都江堰というダムがある。あれですよ。蜀主として着任した李氷がこの事業を成し遂げた、これは史実です。二千年以上前の話です。その伝承がまた面白いんですよ。

このあばれ川の水神が毎年人身御供を要求する、水神は嫁に娘を二人づつ出せというわけ。出さないと暴れるというので、村人たちは交替で自分の娘を出さねばならず、毎年泣かされている。そこへ着任した李氷という長官が、「わかった。今度は私の娘をやる」と言うんです。自分に任せてくれと彼は言い、川面に立ち、盃をあげ、水神に対して、娘を嫁にやる儀式を行うから出てこいと言う。だが水神は出てこない。失礼ではないかと、李氷は水神に向かって戦いを挑む。すると水神が、なんと巨大な牛になって現れる。李氷もまた牛になって闘う。そのとき彼は沿岸で見守っている人々と家来たちに向かって、「たすきをかけている方の牛が自分だ。負けそうになったら、たすきのない方の牛に矢を射ってくれ」と叫ぶ。猛烈な二頭の闘い。危なくなってくると、家来たちがたすきのない牛に向かって矢を射る。そのうち二人の娘もかけつけ刀をぬいて父親に加勢し、とうとう巨大な牛を倒す。実はこの娘たち、女装した二人の息子だったのです。

こうして巨大な牛、つまり水神を倒したことによって、もう人身御供も取られないし、川もおさまったという伝説なんですね。現実には都江堰(とこうえん)という水利施設をつくって洪水の害をなくし、やがて潅漑にも利用して、穀倉地帯にしたわけです。そして、この李氷は神様に祀れているのです。秦の昭王の頃ですから、もう紀元前の話、今から二千二百年以上前の話ですね。

富山 今の話を聞いてね、当たっているかどうかわからないけれど、日本で、大暴れをする水害は何かというと、八岐大蛇なんですね。八つの尾と八つの頭を持って背は苔むして木が生えて。毎年娘をさらって行く。素戔嗚尊(すさのおのみこと)が退治するのですけれど、ある意味では似ています。ただ、そちらは牛になるのだけれど、こちらはお酒を飲ませて殺してしまう。八岐大蛇は出雲では斐伊川の洪水のことだと親子代々教えられてきたの。それで、斐伊川がどんな川かというと、たいへんなあばれ川。あばれ川になった原因は、出雲は日本の代表的な砂鉄の山なのね。切り崩すので雨のたびに洪水になる。その土砂が下へ流れて出雲平野が出来るわけ。でも、中国が牛っていうのは面白いですね。

君島 私もなぜ水神が牛かって思いましたよ。やはり竜の方が多いですからね。ところが調べてみたら意外に多いのです。この二頭の牛が水中で闘う伝承が。水中に入っていく霊牛や、水中から現れる牛の話まで含めると、広い地域に渡っているのです。「ああ、わかった」と思ったのは、それが自然の生活の中にとけこんでいるのを見た時でした。貴州省の苗族(ミャオゾク)を調査したとき、清水江で水牛がのどかに遊んでいるのです。舟でそばを通ると、チラッとやさしい流し目をするだけ。南の中国の人たちにとって水牛が水の中で泳いだり遊んだりしているのは、日常の風景なんですね。ですから水神であってもおかしくないのです。

富山 私も中国で似たような景色を見ました。

君島 現地に行くとなるほどと思いますね。

富山 同じ日本書紀の中で、素戔嗚尊が、一度朝鮮へ行く。それで日本に帰ってきて「この国に船がなければ困るだろう」と言って自分の髭を抜いてぱらっと撒くと、それが杉になる。眉毛を抜くと楠に、胸毛を撒くと槙になったとか。杉は船を作るのに使いなさい、楠も船に使いなさい、檜はお宮を建てるのに使いなさい、槙は棺桶に使いなさいと、それが今の用途と一緒なのね。素戔嗚尊の息子、五十猛神(いたけるのかみ)が、天から下りてきて、たくさん木の種を持ってくるの。それで、天から持ってくるときに、韓國(からくに)に降りずして、筑紫の国から植え始めると書いてある。それゆえこの大八洲(おおやしま)の国は緑が絶えないのだと。今日、お宿の風呂おけが槙でした。あのように、槙って白いんです。古代の棺桶もだいたいは槙を使っているんです。そういうふうに、洪水を退治した神が日本では、植林の神になって出てきている。

君島 面白い。中国と日本がつながっている。特に植林というのがすごい。今の時代にも通用する。日本にも、中国にも言えることよね。中国を旅して痛感することのひとつに山に木がない風景、あれには初め驚きましたね。言われてみれば、植林の伝説というのは、中国に大変少ない。そして現実にも木が少ないということ。考えさせられる問題ね。日本の場合も開発の名のもとに自然が破壊され、大洪水が起こるのと一緒に・・・・・・。

富山 そう。日本は世界に誇る森林国、そして殆ど唯一の「木を植える文化」の国。ところが今、日本人自身がそのことを忘れている。山を放置して日本の森林は危機に瀕している。私がいつも強調し、警告しているのがこの問題なのよ。

君島 ほんとうにそうね、同感よ。災害を招来するのも人間、防衛するのも人間というわけね。

徐福が来たか、その先輩格が来たか、それとももっと異なる集団がやって来たのだろうか。

紀元前三世紀頃、秦の始皇帝の命により不老長寿の薬を求めて、男女三千人を連れ、五穀の種と百工を伴ってやって来たという徐福伝説。司馬遷の『史記』にも記され、中国では実在の人として、江蘇省連雲港市徐阜村にその遺跡も発見され、「秦代に日本へ渡航し、日本建国の祖となった」とも言い伝えられている徐福。徐福伝説は、日本では佐賀県や紀州熊野をはじめとして、西は鹿児島県、宮崎県から、東は男鹿半島や津軽小泊に至るまで、安芸厳島、丹後半島、尾張熱田、三河小坂井、富士山、青ヶ島、八丈島など全国各地に広がっている。

『日本の米』(富山和子 中公新書1993年)より

  • 徐福が着岸したと言い伝えられる新井崎(にいざき)。

    徐福が着岸したと言い伝えられる新井崎(にいざき)。

  • 徐福が着岸したと言い伝えられる新井崎(にいざき)。

    徐福が着岸したと言い伝えられる新井崎(にいざき)。

  • 岬の上には徐福を奉った新井崎神社が海を向いて建てられている。

    岬の上には徐福を奉った新井崎神社が海を向いて建てられている。

  • 徐福が着岸したと言い伝えられる新井崎(にいざき)。
  • 徐福が着岸したと言い伝えられる新井崎(にいざき)。
  • 岬の上には徐福を奉った新井崎神社が海を向いて建てられている。


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