機関誌『水の文化』3号
有明海とアオ(淡水)の世界

『有明海とアオ(淡水)の世界』《佐賀》

富山 和子さん

立正大学教授・日本福祉大学客員教授
富山 和子 (とみやま かずこ)さん

群馬県に生まれる。早稲田大学文学部卒業。 水問題を森林・林業の問題にまで深め、今日の水、緑ブームの先駆となる。また「水田はダムである」という重大な指摘を行ったことでも知られる。著書『水と緑と土』は環境問題のバイブルといわれ、25年間のロングセラー。自然環境保全審議会委員、中央森林審議会委員、河川審議会専門委員、海洋開発審議会委員、瀬戸内海環境保全審議会委員、中央公害対策審議会委員、林政審議会委員、食料・環境・農村基本問題調査会委員。環境庁「名水百選」選定委員など歴任。「富山和子がつくる日本の米カレンダー、水田は文化と環境を守る」を主宰。 主な著書に『水と緑と土』(中公新書)、『水の文化史』(文藝春秋)、『日本の米』(中公新書)、『川は生きている』(講談社、第26回産経児童出版文化賞)、『お米は生きている』(講談社、第43回産経児童出版文化賞大賞)、『水と緑の国、日本』(講談社)などがある。 <近況> 21世紀、地球を養うには、麦ではなく「米」しかないことは世界の常識となっています。そこで、世界の稲作文化国が連合組織を作り、稲作文化の評価・研究・啓蒙活動に努めようと、各国で準備が進められています(Japan-Asia Rice Foundation:日本アジア米基金〈仮称〉)。去る9月、バンコクで会議が行われましたが、日本からは富山和子氏が代表として出席しました。



宮地 米蔵さん

宮地 米蔵(みやじ よねぞう)さん

1919(大正8)年、佐賀県に生まれる。
九州帝国大学法文学部卒業。福岡大学法学部教授を経て、久留米大学教授、同客員教授。1996(平成8)年、同大学退職。
主な著書に『水潰く山里』『貧乏県物語』『佐賀平野の水利慣行』『筑後川農業水利誌』『佐賀平野の水と土』『水の博物誌』『日本国行政法講義』、その他著書論文多数。
研究の基礎は、フランス革命以来の課題である「自由と平等」及び「共同体」community(コミュニティ)においている。
「水の会」の主宰者。絶えず川を歩いている。

「水の文化とは」と問われるとき、まず心に浮かぶのが、アオ(淡水)の文化です。アオとは、上げ潮に乗って海からやってくる川の水のことですが、そんな水を使って、太古の昔から最近まで、独特の世界を築き上げてきたのが有明海沿岸の人たちなのでした。

先ず、アオの説明をしましょう。

有明海は干満差の大きい海であり、六角川河口などではその差が六メートルにも達しています。筑後川を初めいくつもの川から吐き出された水は、干潮時、海水に載ってはるか沖合に運ばれ、そして満潮になると比重の重い海水の上に載ったまま、また陸地に押し戻されます。その、高い水位でやってくる淡水を取水して利用してきたのが、有明海沿岸の農民たちでした。

有明海沿岸は日本を代表する大干拓地帯であり、そこはまた、クリーク地帯でもあります。そのクリークは、アオを貯めて置く溜池でもあったのです。

私がこのアオのことを知ったのはあの有名な福岡の大渇水、いわゆる五三年渇水の頃でした。水のことなど考えもせず、自己の貴重な水源であるはずの森林や溜池、水田を平気でつぶし、ただひたすら人を呼び込んで百万都市を造り上げてきた福岡市。金に任せてダムを造り、五つ作り、六つ作り、百万都市の水はこれでもう大丈夫という、その六つ目のダムが完成したとたん、六つともダムが空になってしまった五三年渇水。

この渇水の時私は、テレビの朝の番組などに呼ばれては、しばしば福岡との間を往復したものでした。

けれど、連日の断減水に悩む市民の皆さんから発せられるのは、もっぱらお隣を流れる川、筑後川の水をくれ、あの川には上流のダムにも川にも、下流のクリークにも水があるではないか、との声でした。自己の水を死守しようとする筑後川流域の人たちにとって、それはあまりにむごいことでした。対立する大都市と、農民、漁民とのその姿を見るにつけ、私はものを知らないということの悲しさ、怖さを考えさせられたものでした。水というものは本来は、自己の水系、自己の水源の中で対処すべきものであり、そして筑後川の水はみな、農民たちが命がけで作ってきた水でした。そしてまたクリークは、そこが水の乏しい地方であることの象徴でもあったのです。

翌年私は文藝春秋に『水の文化史』(注1)を連載することになり、アオについて思い入れを込めて書きました。更に『日本再発見水の旅』(注2)にも別の形で紹介しましたが、ついに『日本の米』(注3)の冒頭に、このアオを再々度登場させたのです。「吉野ヶ里はなぜ滅びたか」という謎解きの形で。吉野ヶ里はアオによって栄え、アオによって滅びたのではなかったかと。(むろん当時の環境の変化という、べつの要因も考えられるにせよ、です)。

恐らく歴史の初期の時代には、アオは中国はもとよりベンガル湾などアジア諸地域の海岸の低湿地でも、いえアジア以外でも使われていたことでしょう。そのアオが、日本では稲作の初期、古代吉野ヶ里王国を育て、その盛衰の歴史を背負い、以来連綿と筑後平野を養いつづけ、そして現代に至ればあの佐賀段階という、やはり歴史的な佐賀平野の栄光の一時期を築き上げるのです。

ロマンに満ちたそのアオの文化が、いま絶えようとしています。1998(平成10)年、筑後川下流用水事業が完成し、それまで不安定なアオ取水に頼っていた農業用水は、ダムの水を使うことに切り替えられたからです。この時点で、稲とともに二千数百年続けられてきた日本のアオの歴史は、ピリオドを打つことになったのです。

とはいえ、まだわずかにアオの伝統を受け継いでいる人たちはいます。その人たちが健在の間に、何とかその知恵や技術を記録に残したい。そんな思いで、地元農民たちと深くつきあってこられた行政法学者で特異な水問題の研究家、宮地米蔵さんに、お話しいただくことに致しました。

※この対談は、1998(平成10)年2月に行われたものです。

(注1)富山和子『水の文化史』
文藝春秋1980年
(注2)富山和子『日本再発見水の旅』
文藝春秋1987年
(注3)富山和子『日本の米』
中公新書1993年

  • かつての城原川と環濠集落 (神崎郡千代田町付近)写真提供:宮地 米蔵さん

  • 有明海と筑後川流域 (ランドサット衛星写真1994年6月撮影) 九州北部は南にくらべ山が浅く、平野が広い。

昔は桶で汲み上げた

富山 五年前、佐賀テレビの「クリーク幻影」という長時間番組の出演で、ロケのためしばらく現場を歩いたことがありました。そこで知らされたのですが、佐賀市民の中にも、アオのことをご存知ない方が増えてきました。クリークは、ふたをされたり統合されたりして、以前とはすっかり姿を変えたものの、まだ掘り割りとしてある程度残ってはいるのですが。

それに、これは全国的にいえることですが、農業用水までが蛇口の水になり、農民の生活にも昔のような、「水を死守する」といった緊張感が薄れつつあります。そんなところに筑後川下流用水が建設され、アオから普通の川水への転換となったのです。歴史的な一大転換でしょう。

とはいえ、佐賀平野は広い。アオ取水の樋門だけでも無数にありました。で、いったいアオ取水は現在、どうなっているのでしょうか。

宮地 アオが下流から上ってきますが、川全体の水量が少なくなっていますから、アオの水質がだんだん悪くなっておりますな。1953(昭和28)年の大水害(注4)のあと、災害を防ぐ名目で、上流域に下筌(しもうけ)・松原ダム(注5)が、1984(昭和59)年には下流域に筑後大堰が完成しまして、本流の流れ自体が少し変わってしまいました。それで一番最初にその影響を受けたのが筏流しです。筑後川の上流というのは日田市とか小国町とか杉の美林がある所で、それを筏に組んで流していたわけです。下流域のほうは特殊なクリーク地帯ですが、そのクリークの水位が田圃より低いんです。だから人間の力で、クリークの水を水田に流さなくてはいけないんですが、昔は大きな桶にヒモをつけまして、田の窪地に二人向かい合って、桶で水をくみ上げていたんです。それがやがて、足踏み水車になるわけです。足踏み水車には日田杉を使うわけです。大川(注6)は今は木工家具で有名ですが、もともと大川の木工技術というのは足踏み水車の製造が始まりでした。この足踏み水車を万右衛門車といいます。

上流にダムができて、筏流しが出来なくなり、それでも筑後川でアオを取っておりました。けれど、そういう所の水質が、だんだん塩分も濃くなってまいりまして、ずっと下流、佐賀でいいますと、犬井道・南川副の漁港がありますね。あのあたりでアオを取っておりましたのが、取れなくなりました。その次には、筑後川河口部に大中島がありますけれども、これがいわゆる福岡県側では大野島、佐賀県では大詑間島(おおだくましま)といいますが、ここでも筑後川から取り水する。けれど筑後川下流域は、大体は有明海の入り江と考えていいわけで、低い所を流れておりますから、大変な人間の労力をかけないと、低い所から高い所へ水を運ぶことはできないわけです。幸いにして、有明海は六メートルの干満の差があるので、満潮の時に水を取れば、すっとクリークへ流れて行く。「海の水で塩水でしょう」と皆さんお尋ねになるわけですが、うまくできているわけで、水って不思議なもので比重の関係で重いものが下の方に沈みますから、上の方は上流から流れてきた淡水なんです。それを淡水と書いてアオと言っているわけです。

(注4)1953(昭和28)年の大水害
この年六月二五日の豪雨で、佐賀市では一時間に七二.三ミリの降水を記録し、翌二六日昼までには四百ミリの大雨となった。被害は全県下に及び、死者五九名、行方不明八名、負傷者三三六名。被害総額は二四九億円で、これは当時の県民総所得の六割に当たる。これにより、筑後川流域と佐賀地方平野部は一面の泥海と化した。
(注5)下筌(しもうけ)・松原ダム
筑後川の上流(大分県)に位置するダム。下筌ダムは1973(昭和48)年に完成。
(注6)大川
福岡県大川市。筑後川河口に位置し、有数の家具生産地として知られる。

養水と用水

富山 アオは、東京湾沿岸でも昭和の初めまでは一時取っていましたし、木曽川水系でも最近まで取っていましたね。

宮地 木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)、それから岡山、同じ九州では熊本の緑川でも取っておりました。

富山 やはりどんどん減ってきていますね。

宮地 だんだんとね。水質が悪くなってきましたからね。

富山 これだけの干満差だから、特にここは取りやすかったのでしょうね。

宮地 そういうことです。だんだん下流の方から条件が悪くなってきていますから。それでもね、上流からすこし余計に流してくれれば、取れるんではないかということで、実は1978(昭和53)年の渇水の時に、下流の、特に大中島のアオ取水のために、下筌・松原ダムの水を放流してくれとずいぶん細かい打ち合せをしましてね。その時はうまくいったんです。

肝心な灌漑期に必要な流量が流れてくれないと困るわけです。このあいだ蛤水道(注7)でお会いしましたね。平六渇水(注8)の後でしたな。あそこで東背振の村長が言ってましたな。「今年は、山一体が自分の貯えている水をすっかりすり減らしたんじゃないでしょうか。いつもと違って、全然流れに勢いがありません」と。だからあの時本当に、さすがの蛤水道でも水量が減っていましたね。水資源は微妙なもので、あるからといって勝手に使うのではなく、自然に流すべきものはちゃんと流すというように、使い方をもうちょっと上手にしないと。たとえば戦後、ダムを一生懸命造っていた時期には、「川が一定の働きをするのに、維持流量というのがなければならない」などという、そんな考えなかったでしょう。

結局、流域全体として川をどう使うのか、上流、中流、下流それぞれの農民なり漁民なり市民の暮し、それをトータルとしてバランスをとった形での、水の使い方を考えなくてはいけない。かつて、江戸時代までは用水というのは、養う水と書いておりましたな。つまり、田畑や人畜を養う水。全体として水をとらえていたんですな。

富山 そうそう。ところが現在は、更に狭められてしまった。農業用水ならば、農民の生活のための水すべてが含まれる。事実、用水は野菜や農具を洗う水であり、洗濯の水であり、村の防火用水であり、船を浮かべる水であり、子供の遊ぶ水であり、魚を養う水であり、実に多目的に使われてきたはずでした。それがいつの間にか「灌漑」用水と、意味を狭められてしまった。そんな風にことさらに狭く限定させ、灌漑の用途以外には価値を認めず、余分な水は皆集めて都市にまわせ、という方向で水の整理統合が進められた。用水が地下にしみこみ水を養うことも、周囲の空気を潤すことも、よけいなこと。それは浪費で、「漏水」なのだから、すべからくコンクリートにして水を一滴でも無駄にするな、都市へまわせ、という思想です。日本の農業がここまで追いつめられてきた陰には、そうした厳しい都市化社会の風土がありました。

宮地 だから日本人の水との付き合い方というのは、われわれの暮しのリズムと自然の状態にある水と必ずしも噛み合わないわけです。

ところで、われわれがある催事を行いますね。そうしたら主催者は、「幸いにしてお天気に恵まれましたけど」と言ったり、「あいにくの雨ですけれど」と言ったりしますね。
 もしその時、日照り続きのお百姓さんだったらどう言うでしょうか。「本当に恵みの水だ」って言うでしょう。片方はあいにくというのに。それぐらい人間というのは、人のことはわからない。自分の暮しを中心に考えているわけ。水を考える時に、ある地域の人にとってもしくは、ある職業の人にとって、もしくはある都市にとっては、と考えていくと、今みたいに「○○用水」という「誰かが用いる水」という特定の概念が生まれて、角突き合わせることになるんではないですか

(注7)蛤水道
元和年間(1615〜24)、成富兵庫茂安によって東背振村に建設された用水路。明治以後改修が行われ、現在ではコンクリートの用水路となっている。
(注8)平六渇水
1994(平成6)年の記録的な渇水。特に、瀬戸内地方や北九州地方では長期間の取水制限が相次いだ。

クリークとのつきあい方に見る農村の知恵

富山 筑後川といえば私は、五三年渇水の強烈な印象が忘れられないのです(注9)。筑後川の水を貰いたいと、福岡市民は声をあげる。が、水を分け与えるということはそんな簡単なことではないのですねえ。まして、筑後川も大渇水です。ところが市民からの声は、ダム、それも発電ダムに水がたまっているのはけしからぬ、いや、川に水が流れていることさえけしからぬ、といったぐあいでした。水というものについても、水とのつきあいの歴史についても、知らない。アオのことも知らない。都市と農村とのこの断絶がいかに深刻なものか、考えさせられました。

宮地 やっぱり都会では、動物にしても人間にしても、本当に暮らしを通じて、「お互いが生きものだ」という形でつきあっていないですね。渇水の場合に、「取水制限をするとしたらどちらからはじめるか」と、今でもそういう議論になるんです。そうすると都市用水、これは生活用水だ。だから一番最後だという。まず槍玉に上がるのは工業用水で。ところが考えてみたら、工業用水にしてもそれが止まったら工業生産できなくて、それで食べている人の暮らしがどうなるかというと…。例えば、日照りが続きますね。昔からそういう日照りが続いた時には、ちょっと辛抱して、水は「あなたの所はこの次に回しますから」という水のローテーションを組んでますね。日割りだとか時割りだとか。ところが、それが分かっていてもつい日割り、時割りを無視して水を盗む人が出てくる。そういう時には、お互い相手の事情が分かっているから、その地区の長老たちがじっくり事情を聞いてね。そうしたらこう言うんですね。「何しろ目の前で自分の田んぼが泣いている」と。本当に生き物を育てているという感覚が出てくるわけなんです。ところが、田んぼが泣いているからどんな水でもいいかというと、1994(平成6)年の渇水の時には、筑後川に潮が満ちてきますね。それでそこからアオを引こうとする。けれど、それは塩分が濃くてうっかり入れたら逆に稲が死んでしまう。そういう時、じっと我慢してお互いにローテーションを組んで、上流と下流とがうまくやる。このへんの農民の本能的なカンがある。

富山 海からの潮と、上流からの水ね。同じ分け合うにしても潮が入ってきてという、そのへんの農民のカンや苦心の類の話はたくさんあるでしょうね。

宮地 いっぱいあります。例えば、つい最近まで代表的なアオの取水樋門といわれていた新川の寺井水門の水番を代々やっていた人は、アオの切れ具合で塩分が濃くなったことがわかるといいます。それは、目で見て耳で聞いて、最後は舌で聞くとね。

富山 耳で聞くというのは、どういうことですか。

宮地 アオの切れ具合でね。「異色のこだわり派ディレクター」として知られる片島紀男君(注10)が若いとき、私のそういう話を聞いてね。樋門を開ける時にその音を録音して歩いたんです。一番潮の高いのは、八朔潮(はっさくしお)(注11)の時、九月ぐらいですよ。その時のアオをのっけて潮が上ってくる音というのは、爽やかですな。

富山 アオをのせて潮が上ってくる音というのは、月によってかなり違うのでしょうか。

宮地 やっぱり川によって違う気がする。昨夜食事した時、給仕してくれた仲居さんの一人が、「新田大橋」の上から聞く潮の上ってくる音はすばらしい」て言っていましたね。でもね、新田大橋は筑後川本川最下流の橋ですが、本川から小さな筑後川の支川に入ってきますと、もっと素晴らしい音がしますよ。武雄のほうの六角川では鳴瀬という所がありますが、あの鳴瀬というのは、潮が上るときの音から鳴瀬というらしい。

ところで、農民は灌漑時期になって水を使う時には、農民の川の使い方をします。自分たちが水を使わない時には、川はできるだけ自由に流れるようにするというものです。つまり用水堰はね、使わない時(非灌漑期)には解放しておくんです。解放している用水堰を堰きあげる。これを、所によって言葉は違いますけど、ここいらでは「井手揚げ」という行事になる。井手(イデ)というのは堰のこと。井手を堰きあげるところから、お百姓さんの一年の水の行事は始まる。その前に、井手は自分たちの村々に引いている水路がなければいけないわけ。一番下流の村から水路をずうっと浚(さら)えていくんです。で、例えばこれが八キロあるとすれば、一番下流の村が一番負担が大きい。途中の村を通ってその堰の所まで水路を浚え掃除していく。土砂も溜まっていますし。下拵えをして料理にかかるのと一緒ですね。それが井手揚げです。

夏も近づく八十八夜ってあるでしょ。その前後は全国どこの地域でも、この井手揚げの行事が始まるわけです。その前に水道公役(くやく)がある(注12)。水道公役にしても井手揚げにしても、どのくらいの人間が必要で、どれだけの材料が必要なのか。その材料がね、下流にもまだその井手がありますから。例えば、城原川なんかは草堰がたくさんあるでしょう。あの草堰は下流への配慮をして水を取っている。いらない水はちゃんと下流にあげる。代表的なのは山城の国。京都の桂川で、当時の荘園ですよね。あそこでは下流に多くの農業用水がある。石のあいだからちゃんと水が漏れるような仕掛けになっている。石の間から滴る漏れ水を、下流の用水に充てると書いてある。そういう川の中で全体を見ているんですね。今の人間は自分の所だけしか見てないでしょう。

富山 実はその桂川は、世界の自然保護行政の発祥地、といっても良いのです。自然保護といえばヨーロッパが先輩とみんな思っているけれど、実は日本が大先輩。奈良時代、朝廷は、山の木を守れ、繁茂させよとの法律を敷いた。これが世界最古の保安林法です。下流の水田を洪水から守り、また水田に引く水を確保するためです。「日本の山は米が作った」という私の理論のゆえんですが、そんな上流まで配慮し、さらに下流への水の量まで気を配っている。日本のような特殊な条件下で、水とつきあうということは本来そういうものなのですね。いまでも井手揚げは続いていますか。

宮地 今もやっていてね。八十八夜の連休をつぶしてずっとやっている。

富山 手作業ですものね。農業人口が減って若い人手が足りないということはありませんか。

宮地 それは同時に暮しの水でもあるから、地区総出ですよ。二十年前くらい、栃木県でしたか、水路のトンネルの中に入ったらガスが充満してて亡くなられた方が出たという話もありましたね。まあ、この頃は江戸時代以来苦心して作られた水路でも、災害復旧という名目でコンクリート化してしまって、手のかからないようにはなっていますけれど。それでも形ばかりだと、蛤水道みたいな形で残っていますね。

宮地 用水路に入った水を上手に使うためには、水を思う通りコントロールしなくてはなりません。よくクリークは水路だけとお考えになる。そうではなくて、クリークというのは、水を人間の暮しにあわせるようにコントロールする。だから、いろいろ付属構造物と一緒にしないと、クリークにならないわけです。例えば、水門とかいろいろな施設のことですな。同じ様に、ちょっと物を見る時に、そこで暮らしている人がどんな形でこれを生かしているのか、というのを見ないと。例えば、城原川の草堰ですね。草堰の下流の人と上流の人との関係。それからそこで取った水は、Aという集落、Bという集落の水になっていきますよね。でも、ずっと用水路の下流までいくと、その水だけで足りるという保証はない。うまい具合に、あの隣に田手川っていう川があります。田手川は、城原川より筑後川の上流の方になりますから、同じ筑後川の支川でも、上流に行けば行くほど塩分の少ない水が来ます。それで田手川の城東橋のあたり(詑田江)でアオを取る。あの城東橋まで潮が上ってくるんです。そこのアオの質が良い。上流になるほどね。だからそれを取って補っている。実に上からの水、下からの水、両方を上手に使いながらやっている。もっとも、筑後川本川でのアオ取水についてはトラブルはないんですが、逆に支川の上流から取っている分については、日割りだとか、時割りや、堰の構造、大きさ、材料はどこのものを使うか、高さはどれくらいだとか、いろいろあります。アオについては、ちょっととらえどころのないような所がありますが、お月様を相手にすると、人間はのんびりするんですかな。

富山 それでもアオのローテーションはあるわけでしょう。

宮地 それよりも、むしろお月様相手というか、潮の満ち引きに合わせて、その時間に行って開閉すればいい。ただし、場所によっては取水堰の付近で、マムシが出ないっていう保証はないわけだから(笑)。しかし、そういう形でいろいろ苦労していますから、お互い思いやりもあるんです。というのは、下流の方では、上流で取られると困るので、堰には水番がはりついているんですよ。水番は眠っていないけど、たぬき寝入りをしている。それでこういう話がある。「酒(堰)が上がらないと水は下らない」と(笑)。

それと同じ様に、自分の田んぼの田廻りをしてるでしょう。今は蛇口ですけれど。人が苦労して引いている時には、それを邪魔しないという鉄則もあるんです。ずるい人は、草履(足長)を田の畔に置いているんです。田廻りをして水を引いている証拠になるから。近頃は草履がないから、鍬を置いている。鍬で取水堰を開けたり閉めたりするでしょう。

メソポタミアあたりに行きますと、用水路(運河)のために捕虜を使うから、捕らわれた人が、川のほとりで泣いたっていうけれど。あそこでは取水堰を開けるのはシャベルです。あそこには厳格な水のローテーションがありますね。

富山 そうですね。日本とはまた違った幾何学の世界です。

宮地 それからね、水路を引くでしょう。水路に細かい取水堰などいろいろありますから、それの分け具合。それから水が足りないからって隣の川のね、城原川だったら田手川からのアオをポンプで揚げて、それで水の足りないところを補うっていうやりかたでしょう。それもアオ取水は一ヶ所だけでなく、何ヶ所からも取る。そうすると、ある地区の農民の水勘定は、それを自分の所の関係地区の人の水奉仕だけでなく、隣の集落、例えばAだBだCだという集落まで交じり合ってやっているんです。地区の労働っていうのは、地区単位ですが、それでありながら他の地区の恩恵にも加わっている。村全体としての経費の割り当ては、自分たちの集落だけでの一人あたりの計算単位と、村外の人たちの計算の単位とは違ってね。書き方は『村外経費割り当て帖』という形になっている。その計算の中で、村自体は大きな共同体で、百姓仕事だけでなく、冠婚葬祭、慶び事、憂い事、いろいろありますね。しかもそれはいつ起こるかわからないことですから、経費は臨時的な経費という考え方でしょう。村ではこれを『臨時費割り当て帖』とか『村外抜き物取立帖』と今でも書いている。日照りになるか洪水になるかもわからないでしょう。普通の予算という形式でなく、「全部結果として、これだけかかったから徴収します」ということになっています。そういう自分たちの暮しのための経費はね、国から取り上げられるものとは呼び方が違うんです。共同体でお互いに金を抜き合うから、これは「抜き銭」(貫物)って言うんです。そして、税金は国から強制的に取り上げられるから、「納め物」って言うんです。その言葉だけでも、いかに農民の世界があるかということですね。共同体が生きていなければ農民の暮しはないんですよ。

よく、村会とか議会の議員の選挙の時に、大字がいくつかの小字の単位になってますよね。今年はあそこの字が当番だからというように。地区単位で議員の候補が出るっていうのは、そういう背景があるんです。それをただ単に古いとだけ言えるかどうかです。一番悪いのは、残さなければならないものとの区別がつかずに、バタバタと壊してしまったことです。明治以来の日本人の悪い癖じゃないですか。つい百数十年前に始まったものが多すぎるでしょう。

結局ね、「土地と水は連続している」という思想がないとわからない。まず連続っていうのは、土地がずっと横に広がっている。横の広がりと縦の径です。そうすると時間と空間を含むことになる。当然、連続も無限に広げていくと世界中がつながるでしょう。原始の世界にもたどりつく。グローバルな視野っていうのを持たざるをえないわけです。

(注9)
富山和子『水の文化史』で詳述
(注10)片島 紀男(かたしま のりお)
現在NHK教養番組チーフディレクター。東条内閣秘密日記、高松宮日記の発掘紹介や『埴谷雄高・独白「死霊」の世界』 『三鷹事件1949年夏に何が起きたのか』の著者。
(注11)八朔潮(はっさくしお)
旧暦の8月1日のことを八朔という。
(注12)水道公役(くやく)
水路の従属構造物(取水・排水施設、橋等)を整える地区の共同作業

  • 城原川 お茶屋北

    城原川 お茶屋北

  • 江湖堀とダムの用水幹線(佐賀市巨勢町付近)
    クリークは排水を兼ねるので、深く刻まれ低所を流れる。用水路は水源から遠い海岸地帯まで水を運ぶために高所を流れる。古代と現代の併存する佐賀平野 ― 古代から現代に至る“水利構造物”の展示場である。

  • 佐賀県庁展望塔より

    佐賀県庁展望塔より

  • 城原川 お茶屋北
  • 佐賀県庁展望塔より

伝承される農村の知恵

富山 いい話ですね。平六渇水や五三年渇水で具体的に知りたいことがまだまだあるのです。皆さんがどんなふうにこれまでの知恵を活用なさったか。

宮地 先祖からの知恵がありますから。渇水の時には、どこそこにポンプ置けば間違いなくアオが取れるという場所を知っていますよ。

富山 それは子供も受け継ぎますか。

宮地 受け継ぎますね。アオ取水だけではなく。例えば1953(昭和28)年の水害の時の、諸富町の話ですがね。堤防が壊れたから、パァーッと水が来ているでしょう。すると都合が良いことに筑後川は潮が引いてる。「今のうちに、この堤防を打ち壊して大水を流してしまえ。そして潮が満ちる前には堤防を塞げばいい」と。

富山 そうしたカンがまだ磨かれているとしたら、すごいことですね。

宮地 工人や職人の匠の業と同じですよ。お日さま(おてんとうさま)相手の青空株式会社社長のほこりですね。

富山 筑後川は福岡市と矢部川に水を分けている。地図を見てしみじみ思うのですが、この決して大きくない体で、何と大きな荷を背負わされているのだろうかと。そしてもう一つ思うのは、それでも農業が水を使っているうちはよいのですが、都市用水が増えるようだと、筑後川は気の毒な川になる。農業が水を使うことは水を作ることだからです。

ところで宮地先生は、基本的にこのあたりは水貧乏だとおっしゃっていますね。

宮地 いやね、クリークがあるのは川が頼りないからです。水貧乏とは、「やりくり上手」ということ。収入の少ない人ほど「やりくり上手」です。そこに、いろんな智恵が出てくる。乏しい水源の川をギリギリまで使う。水源を強化し探し出す。そのための舞台装置がクリーク、溜池、井戸、筑後川本流の変形利用としてのアオ取水です。これは個人の力ではできません。そこで、溜池の共同体、クリーク共同体としての村がある。だが、個々の村だけではやっていけない。用水ごと、水系ごとに村々連合がある。

富山 アオは農業用水ではあるけれど、いろいろと生活用水でも使うわけですね。

宮地 これはね、筑後川の水では、すっと潮が引いて、次に潮が満ちてくる前の状態の水が一番いいのです。その水は澄みきっていますよ。潮が引いたあとは、全部淡水だから。生活用水についていうと、極端に言えば、ここいらは干拓地で新しい土地ですから、地下水はまずいんですよ。井戸は使えない。自然の川の水の方がいい。それが潮先(しおさき)の水なんです。

潮先の水というのは、満潮がはじまって押し上げる最初の淡水の水のことです。上がってくる直前が好きだという人もいる。保存するためには大寒の時の水がいい。

この潮先の水を毎日汲む。しかし、梅雨の時には取れないから、梅雨に備えて家々では大きな水瓶を三本くらい用意している。潮先の水を汲んで、一番家の北側のくらい納戸に醤油の瓶などと一緒に置いておく。長梅雨が続いて水が使えない時はそれを使うわけです。普段は毎日汲んできたんです。毎日汲んでくる水でも、できるだけろ過機にかけたほうがいい。飲料用に使う水ですから、飲料水の飯洞甕(はんづうがめ)に木炭、砂利、砂とかでろ過して使う。

富山 クリークは他の地域にもありますね。

宮地 利根川あたりにもあったんですよ。ここのように平野全体がクリークというのは、中国の蘇州から杭州のあたり。クリークという言葉は、中国の上海事変でできた言葉なんです。もともと溝渠と書いてクリークという。溝渠とか溝。土地のものは、堀(ホイ)とかいう。例えば、用水でずっと水を必要な所まで引くでしょう。すると、しょっちゅう流れているから、こういうのは流れ堀というんです。それから、今度はアオをひく堀は、もともと江湖(エゴ)(注13)から出て来ているから、これは江湖堀っていうんです。干拓地の場合は、潮抜きのための水遊びというクリークもある。海岸堤防にそって横にずっと潮抜きの水遊びができてます。それから集落を取り囲むものもある。中には自分の家を建てる時に、地上げもかねて掘った濠なんていうのもあるけど。機能的に言えばいろいろあるけれど、時代的に言えばそれぞれの技術と需要に応じて、弥生初期の海が、後背湿地(バックマーシュ)を利用した様なクリークもあれば、その後の律令時代のクリークもあるし、荘園時代のクリークもある。昨日見たような直鳥の、戦乱の時代の環濠集落もある。近世の大名時代になって各地まちまちの開発でなく、広く見渡した、広い範囲での水のやりとりをするようになった近世のクリーク。それから、明治以降のクリークの中では、万右衛門の踏み車が電気灌漑に代わります。それで電気灌漑に都合のいいような大正時代のクリークもある。昭和になって、二十四年に土地改良法に基づく国営事業で作られたクリーク。今の筑後川の下流の用水事業。明治以前のクリークは、明治の田区改正でだいぶ潰されている。

(注13)江湖
現在のクリーク地帯は、かつては干満差六メートルの有明海が河川で運ばれてきた泥を押し上げ堆積した干潟であった。その際、干潟には河川からの水が流れる澪筋ができる。満潮時には海に沈み、干潮時には河川となって水を流す。これが長い年月を経て発達し、江湖と呼ばれる川筋となった。

  • 佐賀江川枝吉水門より周辺を見る
    枝吉水門は佐賀江の洪水をカットする分水水門であるが、最大のアオ取水門でもある。

  • かつての佐賀江、城原川とクリーク
    蛇行しているのが佐賀江川。左上から右に流れているのが城原川、上流に環濠集落が見える。
    写真提供:宮地 米蔵さん

平六渇水

富山 平六渇水と五三年渇水の話をもうちょっとうかがえますか。平六渇水の時は佐賀県はだいぶ苦労したという話しは聞いていますが、ここでも皆さん苦労をなさったんですか。

宮地 クリークがなければもっと苦労したでしょう。平六渇水では、やはりアオ地帯でね、アオに頼れるからと思って上流にやりすぎた所もありますね。アオが悪すぎて、二度にわたって上流の松原ダムを開放してもらったけれど、だめだった。そういう時に、「下流に届くまでまだ我慢しとって下さい」というのは酷ではある。水が来るのを相当待ちかねていたからね。農民心理としてそうでしょう。日割り時割りで自分の所に水が引けない時には。農民は素朴な生活していますから、一番のごちそうは赤飯ですが、目の前に赤飯があるのに、飢え死にしなくてはならないという感じです。「赤飯枕にかつれ死に」(注14)という表現がありますよ。

筑後川の河口に本川と支川に挟まれた大きな中州。これは上のほうが福岡県、下が佐賀県で、福岡県側は大野島、佐賀県のほうは大詫間といいます。大野島に大きなポンプがあるんですが、上流から引いた方がアオは質がいいですから。その水は幹線水路下流にある佐賀県側の大詫間島の方にね。そこに微妙な問題がありました。ここに、ほら、(筑後川河口部の地図を示しながら)これが上のほうが大野島で福岡県、ここが旧柳川領ですね、島の中でポンプはここにあるんです。ここで公団がもってきたパイプとつないだわけです。下に届いてから取るというのは、律の雑令(ざつりょう)の中でも、水を使う場合は下から先にするっていう鉄則があるんです。用水が下に届いてから、上のほうは取ろうと思えばいつでも取れるわけです。ですから、たとえば水のローテーションを組む場合は、まず下流に届いてから。矢部川なんか特にそうですが、半人工的支川で福岡県のクリーク地帯に水を引いているけれど、そういう時には、八十八夜までは、全部下流のクリーク地帯に水を運搬して、そのあいだ上流の花宗川の上の方は取らないわけです。そういう意味で下流を先にするっていうのは、それでトータルとしてのバランスが取れるわけです。逆に下に十分やっているから、原則としては八十八夜過ぎたら下流には流さない。そうは言っても適当に雨が降ってきたりするもんですが。平六の渇水の場合は、下筌・松原ダムを開放しないと、アオの水質が悪くて取れなかった。1978(昭和53)年の時には、まだうまくいったけれど。平六の時には、一番下流の大詑間はだめでしたね。

富山 平六渇水の時は福岡との関係は何もなかったわけでしょう。筑後川水系の中で農民どうしの間で苦労なさった。ところで、佐賀のもっと山側でヨズミガエがあったという話を聞きました。「もううちの田んぼは枯らす。我慢します。おたくは共倒れにならないように」と。

宮地 蛤水道での話ですね。あそこはもとから厳格な水のローテーションがあるんです。近世に成富兵庫(注15)が蛤水道を造った時から。自分の水田が助かるか助からないか、ある程度まで日照りが進行すればわかりますからね。それで、その時の割り当てで、その年の自分の耕作を放棄する。そのかわり、その後の補償措置はいろいろ考えていますよね。

補償という考え方というのは共同体ではじめてあるわけですよ。つまりその人の受ける特別の犠牲をみんなでカバーする。そういう時に、「俺はいらん」というけれども、みんなで面倒をみてくれということなんです。

たとえばダムを造る、道路を造る。その金をなぜ税金から補償しなくちゃならないかと言う人は、自分たちが国全体の共同社会の構成員だという意識が低いということですよ。それが個々にちゃんと共同体があって、はじめてそういった「今回、俺は水はいらないょ」といった耕作放棄が生まれる。すると、周りは見て見ぬふりはできないから、後のことは我々で考えさせてくれという。持ちつ持たれつという関係なんです。

富山 「水によって結ばれているんだ」という点が、水社会の一番の本質ですね。

宮地 それが地域の中に生きていて、こういう状況になったらこれを犠牲にせざるを得ないぞ、という感覚が受け継がれるわけです。

富山 洪水や渇水の時にも、それが生きるわけですね。

宮地 そう、どこの田がどうかということを、みんなは知っていますから。昭和一四年の渇水の時には、「こんなに水が足りないなら、どこそこの田んぼは水の集まりやすい場所だから溜池に提供した」という所もありました。

富山 ただ、それが開発の歴史とともに、どんどん失われていっているでしょう。ここではまだかなり生きていますが。

宮地 まずね、電気灌漑って蛇口ひねれば一軒一軒流れるでしょう。あれで送水して、それに合わせて田植えをする。ところがね、隣の田んぼに水が入っているのに、俺の所は水のいらない畑を作るとか、例えば、水田やめてハウスをやるんだというわけにいかないんです。だから、私の友人の酒屋が菱焼酎を造っていますけれど、天然の菱だけでは足りないから、水田に菱を養殖してもらおうとすると、まわりの田圃は麦を植えているので、水を入れたら困ると言われた。そういうことがあって、自然に耕作の手段が自ずから縛られるっていうようなこともある。いろんな形で共同体というのは……。

富山 近代化されていくと、どんどん崩れていく。

宮地 今まで農水省は汎用農地と言っているでしょう。つまり何にでも使える、水田でも畑でもどちらにも使える農地。ところが、ハウスというのも年中水がいらないかというと、ある程度の水は必要です。しかも必要な時は四六時中でしょう。それから、国営の幹線水路をはじめ、県の水路の水位を、今のこの時期で下げられない。いい水質を保つためには、溜池でも年に一度は乾かさなくてはいけませんし、水路にしても、時々乾かして、根っこから浚えないといけない。水路や溜池の底を空気に触れさせないと、水質が保てない。そういった維持管理の問題がいろいろあるわけです。さらに灌漑に使う電気は、地区ごとの計算で電気代いくらかかったかと考えるでしょう。どこまでいっても農業っていうのは、そういう共同体のつながりがまとわりついてくるわけです。

農業に関わらず、どこの世界でも複雑な複合文化から成り立っているわけです。ですからここのクリーク地帯の特徴はね、みんなが村の役職をずっと順番にやっていきますよね。固定的にある特定の家がなるということはなくて、平均化され平等化されている。庄屋、区長、みんな廻り持ち。世襲ではない。これがクリークの特徴なわけです。

(注14)赤飯枕にかつれ死に
佐賀地方の方言で飢え死にのことを「かつれ死に」という。
(注15)成富兵庫
成富兵庫茂安1560〜1934(永禄1〜寛永11)。龍造寺隆信、鍋島直茂・勝重に仕えた武将。蛤水道をはじめ、藩内の河川改修、ため池築造など治水事業に大きな功績を挙げたことで知られている。



【アオ灌漑】

アオは、「淡水」と書く。満潮時、海水に乗って逆流してくる川の水をいう。

有明海は干満の差が日本一大きく、筑後川河口で5メートル、六角川河口で6.5メートルに達している。干潮時、川から吐き出された淡水は、はるか沖合いに運ばれて、やがて満潮時、比重の大きい海水の上に乗り、高い水位で陸地へ向かって押し戻されてくる。その淡水を利用して米作りをつづけてきたのが、水に恵まれない筑後川下流平野の、クリーク地帯であった。

いいかえれば、川が吐き出した水を、海が陸地にお返ししてくれる。それを汲み上げて、大地に返していたのである。

とはいえアオ取水は月二回の大潮に限られる。水は貯めておかねばならない。網の目状に走るクリークは、一つには、低平の農地に土を盛り上げるため掘った跡であったが、一つにはアオを貯わえておく溜池でもあった。

満潮時、海からアオがやってくると、人々はクリークの樋門を開ける。するとアオは怒濤のごとくなだれ込む。人々は夜を徹して水を守り、水の色、泡立ち具合や味を見て、海水が混じりそうになると樋門を閉める。そのための大小の樋門が至るところに作られていて、それが独特の景観であった。立派な石積みの樋門もあれば、板一枚の簡単な板堰もあった。

筑後大堰ができたいま、農業用水はゆくゆくは、ダムの水に切りかえられる方向にある。が、少なくともいまのところ、アオ取水はつづけられているのであり、この一帯を歩くと、時折り古い樋門に出会う。そのたびに私は、日本人と水とのつきあいの深さを思う。

アオは、わずかではあるが木曽川でも最近まで使われていたし、また関東では中川筋の埼玉県南埼玉郡潮止村(現八潮市)で、昭和2年まで、「日照りのとき、上げ潮の水を水車で引き上げて利用していた」という記録がある。

(富山和子『日本の米』中公新書より)

筑後川下流用水事業とアオ取水の現状

筑後川下流地域に広がる広大な水田地帯は、水に恵まれない地域でもあった。そこで用水の安定確保を目的に、1976(昭和51)年に始まった農林水産省による「筑後川下流土地改良事業」の中から、筑後川からの取水施設、導水路等の基幹となる施設の工事を1981(昭和56)年に承継して実施されたのが、水資源開発公団による「筑後川下流用水事業」である。筑後大堰(1984・昭和59年完工)上流部の両岸に設けられた取水口より一括して取水し、用水路で佐賀・福岡両県の8市24町1村の田畑に水を送ろうという事業である。これにより真水を安定して取水することが可能になったといわれている。

一方、この事業により、アオ取水も、新たな用水路よりの取水に切り替わることになった。従来より農業用水として利用されてきたアオ取水のための施設が192箇所あり、それらを統合し合口取水することになったためである。1996(平成8)年より試験通水が、本年4月1日より本通水が始まり、これにより事実上アオ取水はなくなった。ただ、アオ取水に関連した既得水利権から新用水への水利権への切替に、同意していない地区も若干残っている。

<1999(平成11)年7月末現在>

  • クリーク密度図

    クリーク密度図
    堀(クリーク)を中心とした筑後川下流。
    原図:深川 保さん

  • クリーク密度図


【クリーク ― 水を人間の暮らしに合わせてコントロールするしくみ】

いま、有明海の海岸堤防に立って見ると海と陸との関係がよく分かる。すぐ近くに昭和初期の堤防があり、その奥に明治の堤防が、さらにその奥に江戸時代の堤防がというふうに、堤防が幾重にも整然と伸びて、その時代時代の海岸線を示している。そして、堤防に囲まれたその干拓地は、内陸に向かうほど階段状に地面が低くなっている。江戸時代の干拓地より明治の干拓地のほうが高く、それよりも昭和の干拓地のほうが高く、それよりも泥の干潟のほうが、まだ高い。足下の堤防の内側と外側では、2メートルもの違いがある。現代の海岸堤防もまた、海の陸化を助けている。

とはいえこの風景こそは干拓地の、水のコントロールの難しさを示すものであった。干拓が先へ伸びるほど、古い土地は排水困難となる。と同時に用水源にも事欠いた。

人々は、農地のまわりの土を掘り、それを農地に盛り上げた。そのようにしてできた壕がクリークになった。クリークは雨水を引き受ける排水処理施設であり、同時にその水はかけがえのない用水源であり、水を汲み上げては、繰り返し使われた。それでも水が足りなくてアオが使われたのである。クリークはそのアオを貯め置く溜池でもあった。

当然ながらクリークは山からの川とつながり、さらに海からの潮の道、江湖と呼ばれるもう一つの水の道ともつながった。

こうして独特の水の風景が出現する。網の目状に水路を走らせ、川水と、クリークと、アオとを結んだ、一大水利システムの世界であった。

(富山和子『日本の米』より)

アオの文化博物館を ―対談を終えて― 富山和子

筑後川は私の大好きな川です。日本中の川を歩いて来た私ですが、これほど思い入れを込め、丹念に、繰り返し繰り返し書いてきた川も他にありません。日本の川というものをこの川に代表させて書いたのが『水の文化史』でした。その後も部分的にですが『日本再発見水の旅』に、また『日本の米』『お米は生きている』(注16)に。

筑後川は収斂する川です。利根川のように、下流は広がってどこかへいってしまう、とらえどころのない川とは違います。この川で使った水は必ずこの川に戻る、そういう分かりやすい川なのです。ですから、いま行われているように、水系を越えて福岡市にまで水をあげるということは、川の本分を越えさせた、実は異常で大変なことなのです。川の個性を壊してしまう大手術、といっても良い。福岡市民は、どこまでその認識を持っているか。

その収斂する川の中で、筑後川の人たちは、上流も中流も下流も、よってたかって水を作ってきた。筑後川が魅力的な理由がそこにあります。上流が森林を作り、水を作る。中流がその水を水田に引いて、水田はダムですから、また水を作る。そして下流ではその水が海へ行ってしまうと、それをまた引き上げて陸地に止める。これがアオでした。

土についても同じです。よってたかって土づくりをしている。上流の森林が土を作る。洪水がそれを海へ運ぶ。それを海が陸地に返してくれる。それをキャッチして陸地に止めていく。これが干拓でした。上流が土を作る。下流がそれを受け止めるという、これまでの日本列島の国土作りの図式の、その典型的な姿をしているのが筑後川だったのです。

いま、上流では林業が衰退して、森林が歴史始まって以来の危機に直面しています。農業も危うく、加えてアオの文化がなくなろうとしています。心細い限りです。せめてアオ取水の技術くらいは、映像や活字ではなく模型などを使って、可能な限り文化遺産として残すことが出来ないか。アオの文化博物館を提案して、終わりたいと思います。

(注16)富山和子『お米は生きている』
講談社1995年

城原川の草堰

城原川の草堰



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