機関誌『水の文化』7号
水の文化楽習プログラムを考える

水との原体験を伝える環境楽習教育と体験のあいだ

水の文化をトータルな空間感覚から捉え、まちづくりや環境学習活動に取り組んでいる人々がいます。かれらの名は造園家。「体験としての自然をいかに設計するか」という、自然と工学のあいだを橋渡しするのが仕事です。今回は、東京農業大学長の進士五十八氏、風景論が専門の赤坂信氏、NPOを中心とした環境学習活動に携わっている山道省三氏に、それぞれの視点での「水と楽習」について語っていただきました。

進士 五十八さん

東京農業大学長
東京農大地域環境科学部造園科学科教授(農学博士/造園学・環境計画学・景観政策学)
進士 五十八 (しんじ いそや)さん

1944年京都市生まれ。東京農業大学農学部造園学科卒業。1987年東京農業大学農学部教授。1988年より地域環境科学部教授、現在に至る。1995年農学部長。1998年地域環境科学部長 1999年東京農業大学長、現在に至る。日本造園学会会長、日本都市計画学会理事、国土審特別委員、都市計画中央審専門委員、東京都景観審副会長、新宿区・豊島区景観審会長、毎日新聞社持続可能な社会創造委員会委員など。 主な著書に 『水の造園デザイン』1978年(誠文堂新光社)、『緑のまちづくり学』1987年(学芸出版社)『アメニティ・デザイン―ほんとうの環境づくり』1992年(学芸出版社)『水辺のリハビリテーション/現代水辺デザイン論』1993年(ソフトサイエンス社)、『ルーラル・ランドスケープ・デザインの手法』1994年(学芸出版社)『風景デザイン―感性とボランティアのまちづくり』1999年(学芸出版社)ほか多数



赤坂 信さん

千葉大学園芸学部助教授
赤坂 信 (あかさか まこと)さん

1950年生まれ。山形大学農学部林学科卒。千葉大学大学院園芸学研究科造園学専攻修了(修士)。78年に西ドイツ給費留学生としてハノーバー大学へ留学。81年に千葉大学助手を経て90年より現職。農学博士(京都大学)。自然公園論、都市緑地史、近代ツーリズム研究、森林観の国際比較、ドイツの郷土保護運動、ヨーロッパの環境運動史を専攻。91年『ドイツ国土美化の研究』で日本造園学会賞受賞。現在、地元千葉県における江戸時代の幕府直轄の「牧」(野生馬の放牧地)跡にある「野馬土手」の保存とこれを現代に生かす方法を模索している。 主な著書に 『森林をみる心』(共立出版)、『森林観の変遷と環境認識』(講座「文明と環境」第14巻/朝倉書店)、『森林風景とメディア』(遠い林・近い森/愛智出版)、『スカイライン問題と都市緑地の存在理由---眺望の発見と育成のために---』(新・町並み時代/学芸出版)など。



山道 省三さん

環境計画山道省三アトリエ代表
全国水環境交流会事務局長
山道 省三 (やまみち しょうぞう)さん

1949年生まれ。東京農業大学卒。75年、環境計画山道省三アトリエ主宰、77年、(財)とうきゅう環境浄化財団専任研究員(96年退員)、94年、東京農業大学農学部総合研究所客員研究員、2000年、特定非営利活動法人多摩川センター副代表理事、特定非営利活動法人地域交流センター理事。 主な著書に『東京の川』1996年(地域交流センター 共著)、『ともだちになろうふるさとの川―川のパートナーシップハンドブック2000年度版』2000年(信山社サイテック 共著)、『多摩川をモデルとした「河川環境」の保全に関する住民参加型の手法・制度についての調査・研究』2000年((財)とうきゅう環境浄化財団)、『水辺の楽校をつくる』1997年(ソフトサイエンス社 共著)など。

水をめぐる市民活動

――まず、山道さんと水との関わりについてうかがえますか。

山道 私は東京農大の造園学科を卒業した後、多摩川をフィールドとする民間財団の研究員になりました。そこで初めて都市の中の川に触れたわけですが、もともとは九州は長崎の小さな田舎町で育ち、子供の頃は川遊びをした「川の原体験派」です。遊んだ頃は、昭和三十年代の前半です。

昭和三十年代の終わり、東京オリンピック以降の頃ですけれど、高度成長期が始まり、都市河川の問題、特に水質汚濁が深刻になりました。それを処理する能力が、都市にもまだなかったし、水利用も非常に多くなり、水量と水質の悪化がいっぺんに川に押し寄せてきた。今の私のフィールドである多摩川は、そういう病巣を抱えた川であったわけです。それに加えて田舎でも都市でもそうですが、川は、地域の人にとっての身近なレクリエーションの場であったわけですね。特に子供にとっては自然と触れ合う場所でした。

東京オリンピックで日本が惨敗をし、「欧米のようにもっと体力をつける場がなくてはいけない」ということで、当時の建設大臣の号令のもと、そういうものを造ろうとしたのですが、土地がない。地価高騰もあり、都市ではスポーツ施設やレクリエーション施設を作る余裕もない。一般に開放できる、本格的な野球場や陸上競技場をたくさん造るわけにはいかないわけですね。そこで、河川敷にそういうものを求めようという動きが、昭和四十年に始まります。多摩川と荒川と江戸川の河川敷で、民間の企業が占有していた所を開放しようという動きで、第一次河川敷開放計画といいます。そこでグランドや公園などが造成されるようになりました。このため、河原とか、水際の湿性植物とか、そこに集ってきた生き物とか、それが失われることになってきた。そこで、昭和46年(1971年)頃から、「川の自然を守ろう」という動きが出てきたのです。「自然を守る派」と「スポーツ・レクリエーション派」が、自治体と企業を交えて多摩川を舞台に様々に動き、それは、今日まで継続をしてきています。

この三十年間、公園やグラウンドを自治体が作り、市民に開放してきたわけですが、やはり、川のじかの自然を復活させたい、ということになってきたわけです。建設省河川局が主導して、スイスやドイツなどの多自然型工法などを導入し、水辺を含めた自然を川の中に作るようになり、全国的に展開されるようになってきたわけです。こうした動きの背景には、自然を求めようという社会情勢の変化もあったと思います。自然を復元し、守り、自然を活用した利用を目指そうとなったわけです。

さて、そこで、昭和30年代後半頃に川で遊んだ「原体験組」が、全国でやおら注目を浴びてきた。なぜなら、とにかく川での遊び方や親しみ方を知っていますから。そこで、われわれはそういうことを住民のレベルで行なっていこうとしているわけです。地域それぞれに川があるわけですね、その中で子供達や地域の人達に、川遊びや自然観察、もっと言えば魚捕りや泳ぎ方、おぼれた時にどうするかとか、ちゃんとした教育のカリキュラムに載っていないけれど、自分達の体験を活かして教えたり、一緒に遊んで伝えたりする仕事が多くなってきた。これに河川政策と文部科学省の政策がのりつつあるわけですね。平成14年(2002年)から実施する予定の総合学習と関連をもたせながら、地域の中でそういう川遊びのリーダーを育てようという動きが出てきます。そして現在、市民団体が、キャリアを持った人達の人材やノウハウを、行政とのパートナーシップの形で中で活かせるような仕組み作りを模索している段階です。地域の人達は指導者としての教育を受けたわけではないのですが、皆さん、遊びの先輩達から学んだことなどを世代間の交流を通して、いろんなノウハウをご存知なわけです。それは、自然についての話しだけではない。例えば、地域の洪水に対する対応の仕方とか、あるいは水をおいしく安全に飲むためのノウハウとかね。様々な総合的な学習をしてきたわけです。

自分たちも楽しんでいる

赤坂 今、世代間の交流についての話が出ましたが、トンボとかホタルを川に戻そうという活動などがありますよね。子供の環境教育のためと言っていますが、やっているおじさん、おばさん達は、非常に喜んでやっていますよね。自分たちも楽しんでいるんじゃないかな。

山道 ええ、喜んでやっていますね。

赤坂 その中で、やはり「教えなきゃいけない」というのではなくて、「こんなに楽しかったんだよ」と、子供達に直接話しをする。やはり、それがないとね。「教えなきゃいけない」とか、学校教育の枠でやるよりはいいと思います。

山道 自分達も一緒に楽しむということが大事だろうと思いますね。「昔、川遊びをしていた連中というのは、ほとんど勉強しないで遊んでいた(笑)」というのがあってね、何かそれが活かせないかというのが、どこかにあるんですよね。まあ、それは社会貢献という面でもあるんだけれど。そういう遊びを支援してね、「そうだ、そうだ」と誉めてあげようという役割をしたい。われわれの組織全体として「いっしょに遊ぼうよ」と呼びかける役割ですね。

赤坂 励ますわけですね。

山道 そうそう。そういう仕掛けまでできあがったらいいなと思っています。教えている連中は、サバイバルというか、生きるノウハウのようなものなど、いろいろな大事なものを持っていると思うんですね。それが、きわめて強烈なエネルギーになっているかな、という気がしますね。そういう地域で一生懸命やってきた方々のパワーを、次の世代が引き継ぐことができればいいなと考えています。したがってカリキュラムとか、遊びのメニューはね、川ごとに違う。それを集まって議論すると、すごく面白い。

赤坂 例えば、釣りや山菜採りやキノコ採りする人達とかは、自分で見付けたポイントがあって、それをなかなか家族にも教えないということがあるようですね。僕は、釣りにしても山菜採りにしても潮干狩りにしても、現在に残された「狩り」のようなものだと思うのです。まったく野生のものでしょう。そこで野生との対話のようなものが生まれる。だから太古以来、続いてきているのかなとも思う。特に、潮干狩りなどは、裸足で入っていきますよね。そこで、水の匂いがして、泥や土の感触が足の裏に伝わってくる。それを専業でしている人達もいますが、多くの人は「遊び」という形で太古以来の経験をそこで再現している、そんな気がしますね。

山道 川のスケールというのは、個人が知っている川によって、全然違うということが確かにある。「源流まで行ったことはないけれど、中流のこの部分については、俺はスペシャリストだ」という人もいる。けれど、河口だと源流までは、なかなか行かない。数キロとか十数キロとかの川なら、かなり行ったり来たりできるのだけれど、北上川とか利根川とかのスケールになってくると、そうはいかない。ただ、その分、いろいろな人材がその地域におられるんですよね。みなさん「この川は俺の川だ」という自負が強いものだから、なかなか市民同士の交流がうまくいかないケースもあるんだけれど、でも今は、上下流交流を一緒にしている。彼らにとっても次々発見をしていくという喜びもあるんですね。

今、「水環境交流会」では北海道から沖縄まで活動を展開しています。地域によって川の体験や学習が違う。洪水の出やすい川とか、その出方も違う。生き物も違うし、生態や景観も違う。今、我々が全国の中で声をかけているのは大体二万団体ぐらいです。実質動いているのは、約千六百団体ですね。数人のレベルの団体から数百人のレベルまであります。北海道から沖縄まで、ほとんどの川に少なくとも数団体ははりついています。清掃活動とかドブさらいとか、トンボやホタルだけやっている人達とかね。

進士 『水辺の楽校』(注1)はいま何校になっている。

山道 百七十〜百八十くらいです。計画中の所もあるので正しい数字は分かりませんが、多摩川ではやっと一箇所です。これは、地域の受け皿や受け取り方によって異なります「あえて、水辺の楽校はなくても、もう、自分たちでやっているよ」というのがある。

――その受け皿について、詳しく教えて下さい。

山道 地元の人達と自治体が協力をしてそれを維持運営をしていく仕掛けまで作ろうというわけです。そこで、リーダーも地元の漁師さんとか、そういう方になってもらいたい。そこまで踏み込んで制度化する必要があるのかと思います。自治会や住民有志、学校の先生方、地域の自治体の担当者達と協議会を作ります。それが運営部隊になっていきます。だから運営は地元の人達で行なっています。これが特徴です。

(注1)水辺の楽校
川遊びのリーダーを育てまちづくりに結びつけようという、国土交通省と文部科学省が協同で行っている事業。

環境教育と楽しむことのギャップ

進士 環境問題の深刻化で、水や緑、生き物の回復、それにミティゲーション(注2)へと話がすすんでいるということです。これは全ての国民の関心事だということです。特徴は、担い手が中年だということ。原体験があって、川で遊んだ世代だということだけれど、ほんとうはおそらく、次世代の体験欠乏症への危機感でもある。

今の子供達は、田んぼでも森でも河原でも遊ばないので、子育て上危機的です。そこで、文部科学省は、環境教育や総合的学習の時間で、もう一回そういう体験をさせようとしているわけです。ただ、近年盛んに言い出した環境教育は、学校関係者の緻密な単元単位のプログラムにしてしまうと「とてもつまらないもの」になってしまうので、その辺も本当は考えなければいけないのです。

学習を「楽しい」という字を入れて楽習にする意味は、語呂合わせ以上に大事なことでしょう。それぞれに楽しくやろうね。学習では教育的な感じがしすぎます。でもつくづく思うのは、学校教育の問題です。環境教育と、楽しむことの間には、たいへんなギャップがある。

山道 われわれは、まず「教育」するという言葉を使ったんですが、次に「学習」となり、「遊ぶ」になって、最後に「楽校」になりました。

進士 昔、「遊学」という考え方がありました。遊学だと、ただ海外に遊びに行っても、国内でも、要はトータルに体験型で学ぶことであった。生物学とか芸術とかに分かれない「博物学」的な考え方が基本に流れているべきです。ですから、それは意外に大事だと思います。楽しいかどうかは本質的なことだということです。ただ楽しく教わって学ぶ程度とか、ちょっと冗談入れれば、それで楽しいというぐらいに思っている。でも、そうではないんですよ。

それこそ水の本質の話になるのですが、身体ごと環境を味わうとか、環境の中に暮らすとか、環境に浸るというほどのことが必要だと、私は思います。まさにそういう意味で、原体験、本当に体験をした人たちが、体験をたどってプログラムを作ることが大事だと思う。だから、私の教育論の根本は「体験の強制」でいいと思っているんです。「大人が思っていることを子供におしつけてはいけない。だけど体験することだけは強制しなさい」と、クルトハーン(注3)は言っています。それが、ものすごく大事なことだと思う。

私は環境教育学会が出来て十年間、運営委員をつとめましたが、教育の専門家は、新しいプログラムを作ろうといって、みんな考える。でも、何が新しいのか。そんなことはない。別に新しくならなければいけないわけはない。自然体験や文化体験というのは、私らが体験したことを、また次の世代が体験していけばよい。今の世代が同じことをするのはちっともおかしくない。人間の生活ですからね。

赤坂 「今ある情報が正しく新鮮で、ちょっと前の情報は古くて誤っている」-そう感じると、体験が積み重なっていかず、全部捨てていくようになってしまいます。おじさん・おばさんが子供達を連れていくという話が出たけれど、おじさん・おばさんたちが子供の頃の舞台となった川がもうないでしょう。これが大きな問題だと思う。どこかに連れていってやらなくてはいけない。縁もないような場所で、教えてやるような形になるかもしれない。まあ、ビオトープみたいなものをこさえてみて、そこでやっていく。だから水環境というのが昔のものではまったくないですね。

山道 それが、川の人達が自然復元を叫ぶひとつの動機なんですね。単純に自然が戻ればいいというのではなく、過去の原体験を再現する場を作っていきたいというわけです。例えば、多摩川は、単純に言えば、町の中に原っぱがなくなった。なくなったから河原に行って遊んでいたけれど、川原の原っぱもなくなってしまった。そういう単純な動機で自然保護運動が始まったんですね。

(注2)ミティゲーション
緩和を意味し、開発を進めながら自然環境を保全する手法を指す。

(注3)クルトハーン
英国の教育学者(1886〜1974)で、知的活動とともに体育を強調する実践活動を行ったことで知られる。

  • 進士五十八他著
    『風景デザイン』
    学芸出版社1999年

川は地域の共有財産

進士 基本的に治水一筋というのが、昔からの河川行政の根本です。そんな河川治水利水から親水、環境用水へと変わっていったということ。しかも国主体から市民を巻き込む河川行政参加論へと、川に関する運動が盛り上がりつつあるということです。

これには二つ理由がある。一つは、山道さんら市民サイドの自然発生的盛り上り。もう一つは河川行政の変質です。治水、利水一本槍から、親水とか環境用水、近自然工法、多自然工法、伝統工法の再評価。河川法の改正で、市民参加を大前提にしてきたこと。さらに最近は、「水循環」概念をとり入れ始めたのです。

河川行政は水を引き、洪水を防ぐために、川と対処してきました。それを、日本の国土の水循環という概念を、きちんと認識しましょうということです。とんでもないのは、国土レベルで水循環を本気で考える行政組織がないんです。歴史的には、国土レベルでは河川行政が行うべきで、都市レベルでは都市計画の分野。環境省は水質だけですからね。その河川行政が国土交通省に入り、洪水防止から水循環まで範囲を広がってきた。もう一つは都市との関係です。これまでは、まちの中を川は流れているけれど、都市づくりとは無縁だったわけです。行政のタテ割と河川アンタッチャブル主義でしたからね。しかし過密都市の中で、河川の意味を考えると、都市計画の重要な資源でしょう。環境保全上から見ても、オープンスペースとして見ても。景観から見ても。そういう空間が今までは独立していた。そこで、最近の行政は、水循環という概念を用い、また、「沿川型まちづくり」とでも呼べるように、まちづくりそのものに重要な役割を河川が持っていることを打ち出してきた。国民的な関心の高まりと、行政の、市民を意識した対応の柔軟化の両方が相まって、河川行政と、河川をとりまく市民活動のコラボレーションは、かなり一般化してきたと言えるでしょう。もう一つは都市の人工化が、川という環境資源-今まで川は国のものだったわけですね。それを放っておかなくなった。国の川を市民が自分達の手に取り戻そうとしているわけです。

山道 それは法律にも出ています。新河川法で、川は地域の共有財産という表現がされています。河川法の改正で、河川計画を都市計画として作ろうとしています。河川区域とまちを一体化した整備、あるいは流域全体での水循環を考えるとしています。ですから、洪水が起きた時の対応として、市民が自衛するように仕掛けていく。お互いの役割分担をしながら被害を少なくするという、減災のための方策とか。そういう検討が始まっています。

農の風景

――川を今まで単機能として見てきたものを、やっと多機能として見られるようになったということですね。

進士 そう。多面的、総合的というか。機能という言葉はあまり好きではないが、ほんとうは環境文化空間としての河川、環境文化としての流域ですね。ただ、もう一つ大事なことは、水空間は河川だけではない。湖や池や沼などたくさんある。いろんな水の生き物緑地で活動は活発化している。

茨城県の「宍塚大池(ししづかおおいけ)」の会というグループが環境保護とそこに親しむということで、いろいろな活動をしていますが、池や沼、それと水田、谷戸田(やとだ)。谷戸の自然を保護し利用する市民は、鎌倉の山崎谷戸とか、横浜の舞岡谷戸でも盛んに活動しています。谷戸田には小川が流れている。谷戸の里山からのしぼり水です。だから谷戸は川の源流部とも言える。川だけ見ていてはいけない。川の側には河畔林があって、その内側には田圃があるわけです。そのちょっと上にいくと谷戸になる。谷戸の両側には雑木林。真中には田圃があって、そこに小川が流れる。川としてみれば、谷戸川はちょろちょろとしたものです。でも、その流れと雑木林と水田がワンセットで、貴重な里の自然と文化圏を構成している。これが、中山間地になると棚田の問題にもなるわけです。河川から谷戸、そして里山へと、環境風景全体といってもいい。それから、逆に、横浜でいえば大岡川のカヌーとかで海へもつながる。また逆は、雑木林とか谷戸とか、私の言葉では「農の風景」に展開する。川に注目して、最初川で遊んでいた人が、だんだん上流に上がったり、下流に下ったりして、海や山へ関心を広げていく、途中の農村にも関心がゆく。川はそういう広がりを与えたという点も注目すべきですね。

――「農の風景」と「環境風景」というのが、キーワードですね。それをもう少しうかがえますか。

進士 「農の風景」というのは「二次的自然」とか、「中間的風景」といってもいいでしょうね。昔、「中間論」とか「適正規模論」とか、「ほどほど」「分相応」とか、いろいろありました。だいたい日本では両極しか、一般の人々の話題にはならない。日本の社会文化では右左・黒白をはっきりするのが好きですから。

赤坂 水に親しむといっても恐い恐い自然ということで、何とか水から遠ざけようと一生懸命やってきたわけです。しかし、今はどういうわけか、「親水」という言葉が生まれるくらいですからね。本当に向きが変わってきたわけですけれど。まさに恐い恐い自然と人間との間に、バッファーを作るという、結果的にそういったものが農の風景の一つ。まさに手なずけた自然のシステムというものを、自然と自分達の生活の間に造る。たいていそれは、素手で自然に立ち向かっていた時代に造られたものです。例えば防風林や防雪林がありますでしょう。川の堤防もそうです。近代以降だけでなくても、いろいろな工夫があった。農の風景というのは、そういう中間、マージナルな部分ということでしょう。だから、土地、土地でいろいろな特色が出てくる。

進士 まさに、近代は両極だけしか認めない時代です。プラスかマイナスかなら、とても分かりやすい。効率でものを考える社会というのは、そういうものなんです。そういう社会では、過密都市の緑化か、国土保全での自然保護の話題ならとりあげられるが、中間自然の農村は注目されない。それが「農の風景」で、二次自然と言います。プライマリー(primary)な野性的自然ではなくて、セカンダリー(secondary)なやさしい自然なんです。人間が手を加えて家畜化して、人間生活に有用なものにしたものです。

「農の風景」の価値は家畜的自然として人間に有用でやさしい環境の象徴だということ。それに、人類、民族の「原風景」として「農」や「水」のある風景は、「生きられる景観」であることです。工業のようにものすごく最先端をいくものと、野性的な自然に価値を置く自然保護運動とは両極で、その中間は農業なんです。中間領域は、実は一番広くて大きい。

しかしそういう領域は両側から少しづつ崩されてしまう。農の風景というのは、自然的なもの、人工的なもの、歴史文化的なもの、それに現代を感じる農業機械、例えばカントリーエレベーターのようなものも、全部複合している複合景観ですから、非常に難しい。しかし、そこをきちんとできれば、都市の問題も自然の問題も解決できるヒントもあるわけです。農の風景の中に、人間の知恵、日本人の知恵が全部入っていると思う。

水とのつきあい方も、水神様、神社には神様の池があるでしょう。それから、うちの前には川が流れているし、それを引き込んで庭で緋鯉も飼うしね。山田、棚田はじめ利水は、一筆書きで、田圃を全部潤すシステムを造っているしね。洪水対策、水防団システムもあるでしょう。水源林を造るとか、河畔林を造るとかもそうです。農村には、そういうソフト、ハードの知恵が全部入っている。それを戦後工業文明の発想は全部無視してきたんです。そういう意味で、もう一度「農の風景」に的を絞ってみたい。特に、地方都市には、まだ田園景観が身近にある。フィールドとして生かせます。なのに、不思議なことに、地方に行くほど大都市のコピーが流行る。東京に近づけばいいと錯覚している人がいるらしい。だから、もう一回、「農の風景」、さらに言えば、人間にとって本当の環境とか文化とは何だろう、というところへ関心をもってもらいたいわけですね。

身近な「水の文化」のあり様が変わってきている

赤坂 飲み水を買うなど、おそらく二十年前ではあんまり考えられなかったですね。今は、コーヒー入れるのや、料理にも使うのはもう珍しいことではなくなっていますが、まさに身近なものとしての水の文化的意味が変わってきている。しかも、非常に悪い方に。よく環境が変わったとか、風景が変わったというけれど、変ったのはわれわれの方。むしろ、私はもっと深刻なのは、人間の暮らしとか、文化のあり様が大きく変わってきてしまったところにあると思いますね。わりと身近なものというのは、まさに湯水と同じで、関心が薄いですね。価値のなかった飲み水を、お金を出して買うようになった。これ、すごい変化だと思いますね。

認識の仕方は時代によって変わりますが、例えば棚田というのが、いろいろなところで注目されている。でも、よく考えてみると、棚田が最近出てきたものかというと、そうではない。たくさんあったわけですよ、ごく普通に。身近であればある程、その価値は分からない。しかし、危機的な状況になって初めて発見するのです。認識の布置の仕方に濃い薄いがあって、価値が転換し、今は水を買うようになった。湿地や沼の話が出ましたが、戦後すぐの頃だと思いますけど、盛んに農地を造っていた頃は、湿地や沼地はあってはいけないものだったわけです。一生懸命それを乾かして、農地に変えていく。ついこの間までやってきたわけです。

ヨーロッパでも、中世の森林の心象は暗黒の森ですよ。幽霊やお化け、盗賊、悪魔が棲むような。ですから、早く全部切って、広々とした農地や牧野に変えていきたいわけです。荒れ野はあってはいけないわけで、一生懸命耕地に変えていく。ところが、今は逆ですね。湿原や湿地を大事にしよう。ヨーロッパでは、そういうことを一九六十年代あたりでは、おじさん・おばさんたちがこれを守ろうと旗もってやっていたわけです。いい年した大人が旗立ててやる(笑)。当時の日本なら奇人変人にしか見られなかった。そして、価値の大きな転換があった。環境、景観が変わったといいますけれど、人間の価値観自体が大きく転換していくことにも、かなり無関心なんですね。

水の文化を風景から見る

進士 鳥と虫とか、ワシとダチョウとかいいます。文化を語るには、高い視点から広角レンズで捉えることが第一です。事実、風景画はそうやって全体像を描いている。是非、風景の目は広いということを知ってもらいたい。日本の風景観の基調をなし、実際に最も大きいのは海です。水の遊びと文化というと、触れる水のイメージが強くて海が出てこない。われわれは子供の頃、毎夏、海水浴に連れて行かれた。福井には気比の松原という立派な砂浜と松原がある。その松原で海水浴をする。沖へ出て漁もやっただろう。それが、海岸に工場が立地し、日本の海岸線のほとんどが人工海岸化してしまったわけです。しかし、いま海の風景に戻りつつあると思う。例えば日本海文化とか瀬戸内海景観に関して、燃えるような文化論が論じられ始めた。日本の旅の歴史を見れば海が出てくる。日本三景。安芸の厳島と奥州の松島、丹後の天の橋立は全て海の風景です。海の風景で最大なものが瀬戸内海です。

赤坂 私が関心を持っているのは鞆(とも)ですね。鞆は朝鮮通信使の一行が瀬戸内海を通過するときには、必ず立ち寄るところでした。彼らは、江戸時代、将軍に朝鮮から大挙して表敬に来る。関門海峡を抜けて、瀬戸内海を来る。朝鮮の人達は文化水準が非常に高いし、いわばスター級の人が来るわけで、今度は誰が来るかというので日本の大名達も待っており、まさに船で行く所で、大歓迎する。そして大阪に着いて、京都、江戸、日光あたりまで行くわけです。その中で、瀬戸内海を通るときには常宿にしていたのが鞆なんですね。そこから見える景色は「日東第一形勝」と讃えた額が残っていますね。

瀬戸内海には、鞆のほかにも転々と町並みのいい所がたくさん残っているのですが、近代以降、工業の発展と共にズタズタになりました。鞆も、あそこに橋をかけようという動きがあり、反対運動が起こっています。そういう水が運ぶ精神文化を支えていた所です。それと、長崎県の平戸にオランダの商館がありましたでしょう。あの頃の商館のオランダ人も瀬戸内海を通って江戸に表敬訪問をするわけですが、朝鮮通信使の待遇を羨む記録を残していたそうです。

進士 日本の海岸風景を象徴する「白砂青松」というのも、朝鮮通信使が読んだ瀬戸内の風景です。広島に下蒲刈(しもかまがり)島というのがあって、ここも通信使が滞在したところ。「安芸の刈蒲、ご馳走一番」と彼らが書いている。各大名家は、彼らを接待する御殿を造ってあった。彼らは、そこに一ヶ月以上滞在するので、もてなしが大変。でも面子があるので競うわけです。ガイドラインもあり、アワビは十個つんだのを出せとか。ゲストのランクによって、朝鮮通信使の大使クラスの人には毎回何品以上とかですね。その余慶というか、彼らはいろいろなことを教えてもくれました。下蒲刈八景というのを詠んで、風景の味わい方を教えてくれた。私は新蒲刈八景をつくって、「ガーデン・アイランド・下蒲刈構想」という地域計画を十数年前に策定したのですがね。ともあれ、水の風景文化というのは、ものすごく行動的だった。今のわれわれよりもずっとね。今は交通網がこれだけ発達して、どこにも行けるわけですが、その頃は船ですが、意外にダイナミックですよ。現代人には多分、心に余裕がないせいでしょう。目の前に風景が展開するけれど、それが心には映ってこない。旅をすればいい紀行文ができてもいいのに。当時の旅は、一生ものの貴重な体験だったでしょうね。だから、紀行文などもきっちり書き残した。

鷲羽山もそうだし、三原もそうだけど、どこへ行っても、瀬戸内海沿いは本当にいい見晴らし台があります。見下ろす風景がきちんと選ばれていて、そこから眺め絵画と詩に表現したのです。風景を味わうという仕掛けがあったし、旅人たちはそれに乗って味わっていた。今の人達は、それをやらない。理屈ばかりで、感性で素直に風景を味わうことがない。

赤坂 そうですね。移動の時も飛行機にしろ、新幹線にしろ、外部環境とできるだけ接しないような移動をしますから。なかなか触れあうなんてこともないし、浸って味わうというのは正反対ですね。

深く味わいたい

進士 『建築雑誌』(社団法人日本建築学会発行)の新年号で、百人の建築家に、二十世紀にあったもので、残したいものと捨てたいもののアンケートを取ったページがあり、富田玲子さんが、「アルミサッシを捨てたい」ものとして挙げていた。私も、それはよく分かります。アルミサッシは完全密閉空間づくりに力を発揮しているが、アルミはエイジングもきかない、時間が経っても古くなって味わい深くならない。鉄ならさびるし、銅も緑青がでて、味わいが出てくるけど、アルミは汚らしい白っぽいサビ、酸化アルミでよくない。機能的ですよ。軽くて。だけど、味わいとか、歴史性を感じさせるものが一切ない。私は、この方はなかなか感性豊かだなと思いました。

山道 個人の感性もあると思いますが、住まい方や人生の時間の過ごし方など、もっと豊なもの、いろいろなものを味わいたいという欲求もあるのだと思います。楽しく楽なことだけでなく、もっと怖い事、恐怖ですね、恐れや畏敬が反対側にあって、双方を体験することによって、深い味わいになるということがある。そこで、川の中で遊ぶのは、水質的に安全にして、構造的に安全にしてではなく、恐い思いをして、片やそれに対して、もう少し工夫をするとか、技術を高める、それにより味わいが深くなるという仕掛けがほしい。川の中にはそういう条件が、いろいろな形で内包されている。そこに川の魅力があると思います。

進士 水の本質的な意味は、人間の生命の根源に関わるということですよね。だから、喜怒哀楽のように人間存在そのものなのです。喜びと悦びのちがい。心から悦ぶことができるのが、水の世界の本質なのですね。現代人はバーチャルな環境にとりこまれて、生の根源とは無縁になってしまっている。だから水を通して本当を体験したい。そう生きたいという運動になっていると思います。水がないと人間は生きていけない、という根源に戻る。近代が失ってしまったことをトータルに取り戻すということ。そこに、水の意味がある。そして海とか河川とか水のある空間に広がる。あるいは水を仲介にすれば、過去の文化の継承も、現在も、そこでものを考えることができる。

――今、水の体験を味わえる場がなくなって、原体験派と若い方の世代間交流に、かなりのギャップがあるのではないですか。

山道 場がないのではないのですよ。その場を味わうノウハウが二世代三世代、途切れてしまっているのではないかということです。というのは、プール世代がノウハウを伝えなかった。場は工夫すればいろいろなところにあるわけですよ。日本中の川が全てコンクリートではないので。そこに行って川で子供が何をするか調査すると、石を投げるしかしない。入っていこうとしないようです。

進士 川原に入るのに靴に靴下で入っているんだって?

山道 そう。川に入りどう歩くか。流れの速さや深さを見て、対応の仕方や、歩き方など細かいニュアンスがあるわけね。それが今の子供達には分からないんですよ。

進士 私は子供の頃、越前平野のど真ん中の、日野川という大きな川の近くにいました。夏になると毎日のように川に行きました。砂利の上を歩く。泥やススキなどが生えていたりするから。安全を考えて石の上を素足で歩くんだけど、砂利は焼けるように熱い。夏の川原の石は焼けるように熱くてやけどしそうとか、田圃の中に入ったら粘土の、ヌルッとした土のぬくもりとか、ヒルが吸いついてね、これが結構気持ちいいような気分で、でもヒルを取るのは大変だけど。そういう感覚、これが五感ですよ。現代人は、例えばグラフィックデザイナーは、模様を書けばそれが視覚に反応すると思っているし、聴覚はB・G・Mを流せば満たされると思っている。そうではなく、本当の五感はもっと深いものです。それが今、五感を感じさせるようにデザインしていない。全部分析的で、メカニカルで、専門家の浅知恵の結果です。本当の自然に戻ればいい。そこには全てが揃っているのだから、そこから入っていけばいいということです。プール世代は、泳ぐ機能を分けられてしまったわけでしょう。ノウハウとはいうけれど、人間も生き物だからその場に置けば、一週間ぐらいで勘が戻ると思う安心感はある。だから、そういう所に、どんどん子供たちを放り込めばいい。全身で五感を含めて、五体をフル稼働して地域地域の場所を生かすような体験でプログラムを作っていけばよいでしょう。

赤坂 五体というと・・・?

山道 五体で何をやるかと言うと、今、リーダー養成のために、多摩川源流で仲間が沢登りのコースをつくっています。これにはリーダーがきちんといるのですが、手と足とありとあらゆる機能を使って、数百メーターの沢を登らせるのです。それはもう、自分の持っている機能や知恵を使ってやらないと、滑ったり怪我したりするので、サポーターがきちんと指導しながらですが…。

進士 今の子供達には迷惑なことだけど、親や先生達が安全にし過ぎてしまった。安全、効率ばかりが言われます。めずらしいことに、文部科学省と国土交通省が一緒に、都市の公園を環境体験の場所に造りかえようということで、そのマニュアルづくりの研究会を開き、間もなくこの成果は本になる予定です。その研究会は、私が座長をしたのですが、行政と市民側の論議の相違点は安全と体験のかねあいですね。水のことを考える上でも、アメニティとセキュリティというテーマは普遍的なものなのです。

山道 短期的に見ればマニュアル作っておいた方が安心かもしれないけど、長期的に見ればね、そこでノウハウを獲得することが永い人生の中では、安全というかね。プールで泳げても海で泳げないという人は結構いますからね。アメニティとセキュリティをどうつなげるかが課題ですね。

 

教育と体験のあいだにあるものを伝える−
その背景にあるメッセージを感じました。その熱い思いの出発点は、三者三様、子供の頃に味わった、さまざまな水との原体験にあるのでしょう。
子供の頃の思い出を語るみなさんの楽しい語り口が印象的でした。



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    機関誌 『水の文化』 7号,進士 五十八,赤坂 信,山道 省三,環境学習,環境教育,造園,河川敷

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