機関誌『水の文化』6号
天然ガキをよみがえらせた大造林

天然ガキをよみがえらせた大造林
日本列島全体が魚つき林である

富山 和子さん

評論家・立正大学教授・日本福祉大学客員教授
富山 和子 (とみやま かずこ)さん

群馬県に生まれる。早稲田大学文学部卒業。水問題を森林・林業の問題にまで深め、今日の水、緑ブームの先駆となる。また「水田はダムである」という重大な指摘を行ったことでも知られる。著書『水と緑と土』は環境問題のバイブルといわれ、四半世紀を越えるロングセラー。自然環境保全審議会委員、中央森林審議会委員、河川審議会専門委員、海洋開発審議会委員、瀬戸内海環境保全審議会委員、中央公害対策審議会委員、林政審議会委員、食料・農業・農村基本問題調査会委員。環境庁「名水百選」選定委員など歴任。「富山和子がつくる日本の米カレンダー、水田は文化と環境を守る」を主宰。 主な著書に『水と緑と土』(中公新書)、『水の文化史』(文藝春秋)、『日本の米』(中公新書)、『川は生きている』(講談社、第26回産経児童出版文化賞)、『道は生きている』(講談社)、『お米は生きている』(講談社、第43回産経児童出版文化賞大賞)、『水と緑の国 日本』(講談社)などがある。



山口 夏郎さん

財団法人国際緑化推進センター専務理事
山口 夏郎 (やまぐち なつろう)さん

1961年 東京農工大学林学科卒業、同年林野庁入庁。1963年4月から1965年8月まで、帯広営林局標茶営林署大田綜合造林事務所の第3代目主任として、パイロット・フォレストの造成に従事し、当初計画どうりパイロット・フォレストを完成。その後、北見営林局管内留辺蕊営林署長、札幌営林局計画課長、林野庁特用林産室長、同森林保全課長、同基盤整備課長等歴任、1991年旭川営林支局長を最後に林野庁を退官。 退官後、林野庁より「地球環境の形成に大切な熱帯林の保全造成に、民間ベースでの取り組みを促進する必要がある、そのための団体づくりを」との要請により、現在の(財)国際緑化推進センターの設立、運営に従事。現在にいたる。

一万ヘクタールの大造林。この不毛の原野での植林というものが、どれほど筆舌につくしがたい苦心の末の大仕事であることか、またそれが、国土の環境にどれほど重い意味をもつものであるかについて、都会育ちの私にも少しは理解できた。この森林はいずれ根釧原野を沃野に変え、この地方の気象をも変えていく。いや、もう変え始めているのかもしれない。(富山和子『日本再発見水の旅』)

私がパイロット・フォレストを訪ねたのは昭和44年(1969年)のことでした。国の「北海道の防風防霧林の総合調査」の調査団の一員として、北海道各地の防風防霧林を訪ね歩く途上、当時開始されたばかりのこの大造林事業の現地に、立ち寄ったのでした。

実はこの旅行が、私の初めての北海道旅行であり、そして初めてのフィールドワーク、水や緑に関する研究の最初の仕事だったのです。森林の働きについても、木を植えるということの如何に大変なことかということについても素人の私にとって、この旅行は何から何まで新鮮な驚きの連続でした。

とりわけパイロット・フォレストを訪ね、そこが、かつては人の入り込むことすら出来なかった荒れ地であり、先ずそこに入り込むことに、どのような苦労が重ねられたか説明を聞くにつけ、心打たれたものでした。私が訪ねたのは、植林が始まってから十年ほどの頃でしたが、中心部に建てられた望楼に上れば、地平の果てまで一面のカラ松の若木だったのを覚えています。

この根釧原野の印象は強く心に残りました。が、のちになってこの植林が、厚岸湾の天然ガキをよみがえらせたという事実を知り、いっそう私には特別の思いで思い出す存在となったのです。

「わが国の森林全体が魚付き林である」といった犬飼哲夫博士の言葉もありました。博士はすでに昭和12年(1937年)、厚岸湖のカキが絶滅したのは内陸の森林の荒廃にあったことを突き止めていた人でした。日本列島の七割を占める森林。その存在の重い意味が改めて迫ってくる思いでした。

私はこの話を「森林は海の魚を養う」との題名で『森は生きている』に書き、つづいて連載中の雑誌『旅』に、NHKの「テレビコラム」にと立て続けに世に紹介し、そして上記『日本再発見水の旅』に収録したのでした。

それだけに、その後急速に森林と海との関係が世に理解されるようになり、研究も進みマスコミでも話題にされ、漁民の森が全国に育ちはじめるなかで、おおもとの根釧原野の歴史的事業が忘れられがちなことが、気になってならないのでした。

当時の関係者がどんどん現場を離れ、世を去って行かれます。いま記録に止めなければ、という思いがありました。それに、私が見たあのカラマツのひょろひょろした若木の造林地が、いまはどのような森林に育っていることだろうか、との思いもありました。

そこで平成11年(1999年)七月、私は現地を訪れたのでした。実に三十年ぶりのことでした。

立派に立て替えられた望楼に上って、見渡す限りの鬱蒼たる樹海に圧倒されました。そして、当時を知る関係者の皆さんにもお会いすることが出来ました。以下はその報告です。

ご登場頂くのは、パイロット・フォレスト事業の三代目の主任を務められ、現在はその造林の技術を生かして海外の造林指導に当たっていられる山口夏郎氏と、当時現場の班長としてご苦心をされた下島修氏、そして現在事業を受け継いで現場の仕事に当たっていられる林野庁の責任者の方々です。

北海道の厚岸湾。その奥にある厚岸湖は、昔は天然ガキの宝庫であった。周囲に残る貝塚は実に大規模なもので、アイヌはもちろん太古から、カキが食べられていたことが知られている。明治13年頃にはカキの缶詰工場があり、カキは中には三○センチもの大ガキがあったという。厚岸湖のカキは、十勝の鮒、天塩の蜆とともに「蝦夷の三絶」といわれて有名であった。ところがその後しだいに減り、昭和5年頃には絶滅状態となった。

乱獲もあったろう。だが、はるかに大きな原因がほかにあった。森林の荒廃である。

この厚岸湾にはベカンベウシ川という川が注いでいる。その上流一帯に、明治になると開拓団が入り、屯田兵も来て、森林を払い火入れをし開墾をすすめた。だが気候に恵まれず作物が実らず、窮した入植者たちは、ひたすら森林を伐ってその材を売るしかなかった。こうしてかつてはうっそうとしていた森林も、一面の笹原、葦原に変わったのである。根釧原野はそうした荒廃地であった。

当然ながら雨が降ると大量の土砂を運び出し、湖水は濁るようになった。細かい粒子の泥におおわれ、カキの子は窒息してしまう。が、それ以上に致命的なのが水温であった。カキが産卵する八月、湖の水温は二五度に保たれていないといけない。水温が冷たいとカキは卵を生まずに冬を迎えてしまうのである。

ところが森林がなくなってから、冷たい水が一度に出てくるようになった。ほんの二、三度の違いであっても、産卵には決定的である。

このため漁民たちは、以後は宮城県などから種ガキを買い入れて、カキの養殖にはげんで来たわけであった。

それが、十年ほど前から再び天然ガキが育つようになったのである。それが、パイロットフォレストのあの大森林のおかげであった。

(富山和子『日本再発見水の旅』文藝春秋1987年)

パイロット・フォレストとは
1957年(昭和32年)、標茶町、厚岸町にまたがる約1万ヘクタールの広大な原野に、大森林を造るという造成計画が始まりました。拡大造林により木材生産力を増やすことが主目的でしたが、この他にも、寒冷地農業を安定させるために、林業を含めた多角的農業が望ましいという考えの下に、この森林造成過程が農家林造成意欲を高めることにつながることも目指していました。さらに、別寒辺牛川(べかんべうしかわ)上流域に森林を造ることは、農産物の生育の障害となっていた夏の霧の軽減や、厚岸湖のカキの増殖環境改善に好影響を与えるものとして、農業・水産業からも期待を寄せられていました。この先駆的な造成区域を「パイロット・フォレスト」と名付けたものです。

  • 1957年設立の標注
    帯広営林局編『造林10年パイロット・フォレストの歩み』昭和40年刊

  • パイロット・フォレストとは

    パイロット・フォレストとは

  • パイロット・フォレストとは

寒冷の泥炭地で成し遂げた一斉造林

富山 「森林は大事なもの」とか「木を植えよう」ということを、都市に住んでいる人は簡単にいいます。でも、そこにどんなご苦労があり、木を植えるということがどういうことなのか、なかなか分かりません。そこで、今日は山口さんのパイロット・フォレストでのご苦労をうかがい、みなさんにもお伝えしたいと思っています。

パイロット・フォレストに関する資料を集めてみますと、当初、木を植えるということに気持ちが燃えているというムードが、時代背景にあるようですね。まず、この事業の始まる経緯と当時の社会的要請についてうかがえますか。

山口 パイロット・フォレストの事業が始まったのは昭和29年(1954年)だと思います。当時、未立木地を解消しようということで拡大造林(注1)が始まっていました。特に、根釧原野は草原地が多く、未立木地が多かったわけです。現在の、パイロット・フォレストの辺りが一万ヘクタール以上も原野のままで利用されていない。しかも、周囲は湿原に取り囲まれています。冬は湿原が凍り、その上を渡ることができるのですが、春から秋の間は湿原が融けて渡れない。でも、昔はそこにも森林があり、地域の人たちはそれを利用していた。また、開墾するのに火入れをしていた。しかし、火が漏れたらそれを消さずに放置し、それが大火になることが何回もあった。そのため、未立木地になったという経緯があります。

当時、農業が別海村でパイロットファームという事業を始めていました。それに対抗して「林業でも始めようではないか」という声が出て、「パイロット・フォレスト」という名前の下に、一斉大造林が始まったのです。

このパイロット・フォレストの特徴は何かというと、広大な荒れ地を大規模に緑化しようとしたことです。そのために、いろいろな樹種を組み合わせるのではなく、「早く確実に育つ木を植えよう」という発想で取り組みました。そこで見つけだした木がカラマツです。アカエゾマツやトドマツなど、従来の樹種も植えました。ところが、どうも成績がよくない。結局は、カラマツで一斉にいこうということで、32年(1957年)からカラマツを植え出しました。カラマツを植えたということが、ここでの成功の大きな要因の一つです。

私は昭和38年(1963年)〜40年(1965年)にかけて主任として赴任したのですが、その時、昭和29年(1954年)頃に植えたトドマツ、これが十年たっても下刈り(注2)をやめるわけにはいかない状態でした。成長が遅いものですから、草に負けてしまうのです。それに、何回も山火事が入っていますので、土地が痩せています。このため、手入れを毎年何回もやりました。今見ると、立派なトドマツ、エゾマツの林に見えますが、これには本当に泣かされましたね。でも、今では立派な林になっています。

カラマツはその点では楽でした。一斉造林をする時に、いろいろな方から「なぜカラマツばかり植える。もっと他の木を植えろ」と言われました。パイロット・フォレストでは様々な実験もしており、外国の樹種も含めて松の類や、広葉樹の類など、植えられそうなものをいろいろ集め、植栽試験をしました。でも、これという木は結局残りませんでした。やはりカラマツ以外は駄目。広葉樹についてもドロノキやシラカバを植えたりしました。しかし、広葉樹というのは育てるのが難しく、人間が植えるとうまく育たない。自然に出てくる雅樹の方がはるかに成長がいいのです。

(注1)拡大造林
拡大造林天然林を伐採した跡地や原野に植林すること。戦後の膨大な木材需要に応え森林の生産力を飛躍的に高めるために、1950〜60年代の終わりにかけて、未立木地への造林や、老齢天然林を伐採してスギ、ヒノキ、カラマツ、アカマツなどの成長の早い針葉樹を植えることが国の政策として進められた。当時は外材の輸入も少なかったため、国産材価格も上昇したため、造林ブームが到来し、全国で毎年約三十万ヘクタールにおよぶ造林がなされた。
(注2)下刈り
下刈り森林の世代が更新する段階で、目的樹種の成長を阻害するような雑草木を取り除く作業

漁業関係者が参加して森林整備を継続的に行っている市町村

漁業関係者が参加して森林整備を継続的に行っている市町村

林業の成果は百年単位

山口 植えるためには、まず、地面を整地します。これを「地ごしらえ」と言います。地ごしらえをする時に、火入れをして灌木やササ、草などを全部燃やしてしまいます。火入れをすると、その後にシラカバや、ダケカンバなどの雅樹がよく出てくる。カバが途中で出てくると、目的とする樹種はカラマツだからと、それを一所懸命に伐ってしまいました。今になってみると一緒に育てればよかったと思いますが、それでもカラマツが立派に育っている。当時、いろいろな批判を受けました。でも私は、「ここはカラマツしか無理だ。こんな所を森林にしようと思ったら五十パーセント育てば合格点だ。その覚悟でやっているのだから、今、いろいろ言っても始まりません。一度、森林にして、それから後でゆっくり考えてください」と、当時パイロット・フォレストに来る方には言っていましたね。

広大な土地を一気に緑化することはかなり危険を伴いますが、やってみると、カラマツが九十パーセント以上残り、森林となりました。大成功です。そういう意味では、日本は、拡大造林、一斉造林を行って、この技術への自信がある程度持てるようになりました。その後、日本政府は海外林業協力事業としてフィリピンのパンダバンガンや、インドネシアのパレンバンの奥で大規模な造林地を造ったりしましたが、どれもパイロット・フォレストの技術につながっていると思います。インドネシアでは、日本の協力事業で造ったアカシアマンギュウムの大規模造林地が立派に育ったのを見て、現地側が、今ではものすごい勢いで植えています。そのような技術は、パイロット・フォレストから流れていったと言えるでしょう。

結局、早く育つ木を植えて、一度、林にして、その後のことはゆっくり考える。林業の宿命というのは、どんなことがあっても自然に逆らうことはできないということです。農業と違い、ハウス栽培はできませんし、一年間の短期決戦でもありません。五十年、百年の決戦ですから。だから今になってみて何とかなっていますが、これがいつまでも安全かどうかは、私としてはまだ疑問を持っていますけどね。

ただ、パイロット・フォレストは条件が良かった。山岳地形ではなく丘陵地形だったため、作業管理が容易だった点です。これが傾斜地や荒れた所なら大変です。造林事業というのは地面を人が這いずり回る仕事ですから。パイロット・フォレストでも木を植えるのに機械化を試みましたが、ほとんどは人が一本一本植えました。木を植えるということの大変さは、一本一本苗木を植え、植えた一本一本の面倒を見てやらなくてはならない。周りの草を刈り、「早く育て、早く育て」と念じて育てる。一ヘクタールに二千五百本植えましたが、その二千五百本を一本一本面倒を見て歩くわけです。

湿地をわたる浮橋 昭和39年
帯広営林局編『造林 10年パイロット・フォレストの歩み』昭和40年刊

作業員が鍵

山口 当時、道づくりが遅れていたため、作業は事業所のそばから植えていったものですから、作業面積が広がるにつれ、作業現場がだんだん遠くなっていきました。道の造成がついてこないため、現場に辿り着くのに時間がかかり、大変な苦労をしました。昭和38年当時、直営だけでも約百五十名の作業員がいましたが、作業員が一時間もかけて、苗木を担いで湿原を渡っていました。そこで、私が赴任してまず始めたことは、道づくりでした。

当時は、大型機械造林作業というのがこのパイロット・フォレストの看板で、トラクターで地ごしらえをしたり、植付をしたりしました。全国からたくさんの人が見学に来ました。ところがこの大型機械作業は思ったより能率も悪く、経費もかかる上、よく故障する。そこで、「もう大型機械作業は諦めよう」と決めました。片っ端から道作りを行い、人や機材を現地まで運ぶ体制を作りました。そして、出来高作業制をもちこんだわけです。作業員を説得するのに非常に苦労をしましたが。作業員の中から希望者を募り、六十名だけ刈払機を持たせて、出来高作業にしました。あとは鎌を持たせて一日いくらで働きなさいと。出来高の人達には、刈れるだけ刈れ、仕事しただけ払うからと言ったら、これが実際にやり出したらものすごくはかどり、標準工程の二倍、三倍ぐらい進みました。

富山 作業員は地元の方々ですか。

山口 当時は高度成長が始まった時期で、内地からの作業員がだんだん採用できなくなり、地元の作業員に移り変っていった時期でした。地元の人による造林専業作業員が生まれ始め、プロ化し、造林作業で収入を稼ぎ、生活をしていく。農家の方もいましたが、農家を止めて標茶の町に住むという方も出てきました。

当時、エネルギーが石油へと転換し、炭鉱閉鎖も始まり、炭鉱閉鎖で職を失った方が造林の仕事についたこともありました。でも、炭鉱労働者にとっては、造林の仕事はなかなか厳しい様でした。なぜかというと炭鉱の仕事というのは、坑の中で、場所を動かずに採掘する。ところが造林というのは、屋外の炎天下で一日中、地べたを這いまわっている。仕事がまったく違う。これは、農家の方でないとできないわけです。結局、地元の農家の方達を集めました。

【人力による下刈作業】
  • 左:人力(鎌)による下刈作業 昭和34年 中央:刈払機は鎌の代用ではない。ナタや腰鋸の役割をもはたしている。昭和34年 右:刈払機講習会 昭和34年

    左:人力(鎌)による下刈作業 昭和34年 中央:刈払機は鎌の代用ではない。ナタや腰鋸の役割をもはたしている。昭和34年 右:刈払機講習会 昭和34年

  • 左:火入れ作業 右:地ごしらえの風景 昭和33年頃

    左:火入れ作業 右:地ごしらえの風景 昭和33年頃

  • 刈払機による下刈作業 昭和37年 チェンソーによる倒木処理−大型機械作業には伐根や大きな倒木が非常に障碍となる。昭和39年

    左:刈払機による下刈作業 昭和37年 右:チェンソーによる倒木処理-大型機械作業には伐根や大きな倒木が非常に障碍となる。昭和39年
    帯広営林局編『造林10年 パイロット・フォレストの歩み』昭和40年刊より

  • 左:人力(鎌)による下刈作業 昭和34年 中央:刈払機は鎌の代用ではない。ナタや腰鋸の役割をもはたしている。昭和34年 右:刈払機講習会 昭和34年
  • 左:火入れ作業 右:地ごしらえの風景 昭和33年頃
  • 刈払機による下刈作業 昭和37年 チェンソーによる倒木処理−大型機械作業には伐根や大きな倒木が非常に障碍となる。昭和39年

歴史の要請による一斉造林

山口 私が赴任した当時のパイロット・フォレストには五ヘクタールの苗畑があり、三十名程の女子作業員が働いていました。その苗畑では、種をまいて育てるのではなく、他所の苗畑で作った幼苗をもってきて植え替え大きくし山に出す、床替苗畑でした。なにしろ多量の苗を必要としたため、山元にまで苗畑があったのです。

富山 何年生の苗を使うのですか。

山口 カラマツですから、だいたい三年ぐらいの苗ですね。普通は四十センチぐらいの苗ですが。カラマツはトドマツと違い五年も六年も養成期間が要りません。早く育つ。直営で苗木を全部作るというのは非常に大変なことなので、民苗を買う。民間もカラマツを育てており、それを買ってました。

富山 当時そんなに需要があったのですか。

山口 当時は、拡大造林の時代ですから需要があったのです。パイロット・フォレストの最盛期には一年に二百五十万本近い苗木を植えていました。

富山 当時は、木を植えようということが社会的なブームでしたね。

山口 そうですね。ブームがなぜ起きたのかというと、北海道でいえば昭和29年(1954年)の台風(注3)で未曾有の風倒木が出た頃でした。ちょうどその頃、朝鮮戦争や三白景気(注4)でパルプ産業が非常に活気づいていました。この風倒木がパルプ産業にとって都合がよかったわけですね。このおかげでパルプ産業はますます栄えました。そしてこの頃高度成長が始まる兆しが出てきました。

高度成長が始まると紙の需要も伸びましたが、その他に戦後のバラック建て住宅を本格建築に変えていくということで住宅需要が増え、猛烈に木材需要量が増えました。昭和37年から木材の自由化を行い、海外から木材を輸入せざるを得なくなる。これに対応するためには、とにかく木材を作ろうということで、拡大造林が始まる。ですから未立木地があれば積極的に植える。過熟天然林は伐り、成長旺盛な人工林へ切り替えて生産力を上げようというのが当時の方針でした。だから、全国で一年間で三十数万ヘクタールという造林ができたのです。今になってみればよく植えたと思いますが、当時は、馬力があったから植えられた。パイロット・フォレストでも七千三百ヘクタールを十年足らずで植えていますからね。平均すると一年で七百三十ヘクタール。七百三十ヘクタールなどというのは、今では大変な話です。労働量も確保できませんし、苗木も作れない。今の力ではとうていできないですね。造林というのは、人が余っている時でないとできない。昔から景気が悪くなり賃金が安くなり、労働力が余る。その時は木を植えようというのが造林の鉄則です。これが、高度成長に入ると人手不足になり、労賃が上がり、植えられなくなってしまった。林業コストが高くなり採算割れになってしまう。

富山 日本の歴史の中でこれほどの規模の造林が一度に行われたというのは他にありませんね。

山口 おそらく初めてですね。初めてであり、最後でしょうね。海外では、フィリピンのパンダバンガンというのは日本が林業の面での国際協力を始めた最初の所です。パンダバンガンでは一万ヘクタールを植えていますが、あの植え方もパイロット・フォレストと同じです。造林に関していえば、海外を日本が真似たということはありません。日本は木を植える歴史は長いものですから。ただ、木を植える歴史は長かったんですが、未立木地というか裸地、山火事で荒れたり人が荒らした後の裸地を、一斉に短期間に植えるというやり方は初めてです。

ですから、パンダバンガンも、パイロット・フォレストをケースとして、林野庁は植えようという気になった。インドネシアのパレンバンの奥をやったのも同じこと。結果的に途上国の方もこういう植え方もあるのだということを覚えていった。

富山 戦争中、日本は中国で相当植えたようですね。

山口 植えていますね。木を植えるというのは日本人の特性ですかね。今でも太平洋の島、ミンダナオとか台湾には昔日本の軍人が植えた森林があるそうですね。インドネシアのスマトラ島のトバ湖の周辺に立派なメルクシ松の林があります。これも、日本の陸軍の人達がかつて植えたものですね。日本人は木を植えるという習性を持っているんですね。木を植えることに日本人は郷愁があるのですかね。日本人の行った所は木が植わっている。

(注3)昭和29年(1954年)の台風
この年の台風15号は各地で強風の被害をもたらした。津軽海峡では瞬間風速57 メートルの突風により洞爺丸が転覆し千百五十五名の犠牲者を出した。いわゆる洞爺丸台風である。
(注4)三白景気
三白景気朝鮮特需により、紙 パルプや繊維、製糖産業が活況を呈したことの呼称。

【機械による下刈作業】
  • 大きな倒木などはアングルドーザで寄せ集める。火入れの周囲防火線作設にもアングルドーザが役に立つ。

    大きな倒木などはアングルドーザで寄せ集める。火入れの周囲防火線作設にもアングルドーザが役に立つ。
    昭和37年 帯広営林局編『造林10年 パイロット・フォレストの歩み』昭和40年刊より

  • 左上:ロータリースラッシャーによる刈払。大きなナタが二枚プロペラの様に回転する。昭和35年
    左下:ウニモクに取り付けたチエンスラッシャー(ロータリー)鎖鎌の要領でブッシュに巻き付けなぎ倒す。昭和36年
    右:ローターベータが行間を耕耘し、残りの雑草を刈払機が刈払いながら後を追う。昭和37年
    帯広営林局編『造林10年 パイロット・フォレストの歩み』昭和40年刊より

  • 当時使用されていた機械が並ぶ、現在のパイロット・フォレスト内事務所。

  • 大きな倒木などはアングルドーザで寄せ集める。火入れの周囲防火線作設にもアングルドーザが役に立つ。

離れ里に七百名が集まると

富山 日本人がなぜ木を植えてきたか。そのナゾ解きを私は致しました。それが『日本の米』なのですが。他にもご苦労があったでしょう。

山口 そうですね。当時のパイロット・フォレストの本拠地は営林署のあった標茶町ですが、近くの都市としては釧路でした。釧路まで行くには大変な時代でしたから、皆この山の中で生活をしました。私が引き継いだ時点でも、事業所には直営だけで百七十名ぐらいの人間がいました。その他、造林請負業者関係が三百名程度。そして、法務省との取り決めで受け入れていた刑務所の囚人達が六十名程、さらに、土木事業関係の人達まで入れると最盛期には五百人を超え、七百近い人間がいました。この七百人が一つの島みたいな中に生活しているわけです。主任だった私は、この七百名の人達の生活の面倒を見なければなりません。病人が出たら病院に運ぶのも仕事。パイロット・フォレストは、私の常駐している事業所から現場の最先端まで二十キロ近くありました。そこには、直営や請負などの作業地十数カ所が分散しており、毎日それを見て回るというのは大変でした。毎回、百キロ以上をオートバイで回りました。これは、疲れました。

皆も山に泊まり、楽しみは何もない。電気は自家発電。下手をすれば酒を飲んで喧嘩をするのがオチですから。それを、喧嘩させないように監督しなければいけないし。だんだんと皆良くなっていって、規律もできるようになりましたが。大集団ですから大変でした。

富山 造林技術上の問題は。

山口 やはり、野ネズミ。野ネズミというのは原野を拓く時には大敵でしてね。それで、地ごしらえとして、火入れをするわけですが、それによって、鼠を駆逐してしまう。火入れの後、造林地の周囲に防鼠溝(ぼうそこう)といって溝を掘る。その溝の中に何メートルかごとに墜落缶と言って鼠がその中に落ちる缶を設置する。鼠が入ると先ず溝に落ちる。溝を走ったら十メートルも行かないうちに墜落缶に落ちてしまう。缶なので上がれないため、ネズミはそこで死んでしまう。そうやって入ってくるのを防ぎました。一つの造林地が五十ヘクタールもあると、その周囲全てに溝を掘るのは大変なことでした。

古くなり、溝が枯草などで埋まってくる。それを掻き出して堆積物がないようにしないとネズミがすぐ造林地へ渡ってしまいます。草が少しでも垂れていると茎の上をすっと渡ってくる。だから常に溝の管理をしなければならない。一方では、溝があるため人間が作業に入った時にうっかりすると足を踏み外して挫いてしまう。これも困る。そのうちに殺鼠剤をヘリコプターで撒くという技術ができました。

それと、ウサギにも手こずりましたね。冬になると野ウサギがいっぱい出てくる。ウサギというのは冬になって餌がなくなると、カラマツの幹の周りを食ってしまい、カラマツが枯れてしまう。それでウサギの罠かけをする。イタチを放して野ネズミやウサギを追うということもやりました。当時、林野庁は日光にイタチの養殖所をもっており、そこからイタチが送られてきて、何回か放しました。放したけれど、どこに行ったのか、生きているかどうかもよく分らなかった。イタチは害にならず、逆にネズミなどを食べます。ネズミの天敵ということで一生懸命増やそうとしたのですが、あまり増えた形跡もなかったですね。数十匹ですから。数百匹単位なら別でしたでしょうが。何せ、当時は釧路空港までイタチをお迎えに行きました。飛行機で来るんですから。当時、人間様でもなかなか乗れない時でした(笑)

虫の被害や病気の害、これも警戒しましたね。一斉造林したため、病気が出ると全部にかかってしまいますから。

【浮橋の施行から車道の完成】

写真は全て、帯広営林局編『造林10年 パイロット・フォレストの歩み』昭和40年刊より

  • 左:深さ10m以上もある泥炭層の湿原には、丸太や角材を方形に組んだ上に、粗朶を敷いてその上に土盛を行い、泥炭の上に路体を浮かせた特殊な工法がとられた。昭和37年 中央: 方形に組まれた丸太の上に三重に粗朶を敷きその上に土盛りを行う 右:この浮橋は洗濯板または電気アンマの道と愛称された。敷きつめた丸太があたかも洗濯板のように見え、上を自動車で走ると電気アンマでもかけた様に振動したからである。昭和33年

    左:深さ10m以上もある泥炭層の湿原には、丸太や角材を方形に組んだ上に、粗朶を敷いてその上に土盛を行い、泥炭の上に路体を浮かせた特殊な工法がとられた。昭和37年
    中央:方形に組まれた丸太の上に三重に粗朶を敷きその上に土盛りを行う
    右:この浮橋は洗濯板または電気アンマの道と愛称された。敷きつめた丸太があたかも洗濯板のように見え、上を自動車で走ると電気アンマでもかけた様に振動したからである。昭和33年

  • 左: 湿地に丸太を浮かべただけの浮橋であるから重量物の運搬で再三沈下補修が行われた。 中央:土盛りもされたが下から噴き上げる水で泥濘と化してしまう。 右:さらに沈下は繰り返された。 右から二枚目上:昭和33年から林道事業で特殊な施工がなされ漸く安定した。 右から二枚目下: P.F.唯一の岩石露頭である1林班より砕石を運搬して完成した浮橋。昭和37年

    左:湿地に丸太を浮かべただけの浮橋であるから重量物の運搬で再三沈下補修が行われた。
    中央:土盛りもされたが下から噴き上げる水で泥濘と化してしまう。
    右から二枚目:さらに沈下は繰り返された。
    右上:昭和33年から林道事業で特殊な施工がなされ漸く安定した。
    右下:P.F.唯一の岩石露頭である1林班より砕石を運搬して完成した浮橋。昭和37年

  • 左:砂利のないP.F.へは、約22kmはなれた標茶町の砂利採取場から搬入された。昭和37年 中央後ろ:ジープ道の拡巾整備はアングルドーザの大切な役目である。昭和38年 中央前:ロードスタビライザによる補修。昭和38年 右:ロードスタビライザにより撹拌した路床をメッシュローラーで鎮圧。昭和38年

    左:砂利のないP.F.へは、約22kmはなれた標茶町の砂利採取場から搬入された。昭和37年
    中央後ろ:ジープ道の拡巾整備はアングルドーザの大切な役目である。昭和38年
    中央前:ロードスタビライザによる補修。昭和38年
    右:ロードスタビライザにより撹拌した路床をメッシュローラーで鎮圧。昭和38年

  • かつて電気アンマと愛称された丸太の浮橋と平行してコルゲートパイプを装した新しい林道が出来上がり、その上を砂塵とともに車が走る。昭和38年

    かつて電気アンマと愛称された丸太の浮橋と平行してコルゲートパイプを装した新しい林道が出来上がり、その上を砂塵とともに車が走る。昭和38年

  • 左:深さ10m以上もある泥炭層の湿原には、丸太や角材を方形に組んだ上に、粗朶を敷いてその上に土盛を行い、泥炭の上に路体を浮かせた特殊な工法がとられた。昭和37年 中央: 方形に組まれた丸太の上に三重に粗朶を敷きその上に土盛りを行う 右:この浮橋は洗濯板または電気アンマの道と愛称された。敷きつめた丸太があたかも洗濯板のように見え、上を自動車で走ると電気アンマでもかけた様に振動したからである。昭和33年
  • 左: 湿地に丸太を浮かべただけの浮橋であるから重量物の運搬で再三沈下補修が行われた。 中央:土盛りもされたが下から噴き上げる水で泥濘と化してしまう。 右:さらに沈下は繰り返された。 右から二枚目上:昭和33年から林道事業で特殊な施工がなされ漸く安定した。 右から二枚目下: P.F.唯一の岩石露頭である1林班より砕石を運搬して完成した浮橋。昭和37年
  • 左:砂利のないP.F.へは、約22kmはなれた標茶町の砂利採取場から搬入された。昭和37年 中央後ろ:ジープ道の拡巾整備はアングルドーザの大切な役目である。昭和38年 中央前:ロードスタビライザによる補修。昭和38年 右:ロードスタビライザにより撹拌した路床をメッシュローラーで鎮圧。昭和38年
  • かつて電気アンマと愛称された丸太の浮橋と平行してコルゲートパイプを装した新しい林道が出来上がり、その上を砂塵とともに車が走る。昭和38年

森林造りはクルクル変る世論についていけない

富山 昭和50年(1975年)頃でしょうか。札幌に講演に呼ばれたときのこと。主催者側の新聞記者がパイロット・フォレストを批判して「あれは失敗だ」というのです。カラマツばかり植えて、生長しても売り物にならないと。油分が強くて加工が難しいからです。そこで私、お答えしたものです。「素材が変われば技術もどんどん進む。今は石油の時代、石油技術が進むが、素材が木材の時代になればカラマツの油なんて簡単に克服できる筈。それでも売れなければ何十年でも何百年でも置いておけばいい。樹齢を経た信州のカラマツは、テンカラと呼ばれて、それこそ銘木中の銘木ですよ」と。今はまだ石油の時代ですが、加工技術は克服されましたね。が、当時都市の自然保護論者やマスコミから、随分心ない批判が上がっていたのを覚えていますよ。

山口 森林造りというものは息の長い仕事ですから、時代がクルクル変わるのには簡単にはついていけません。ところが日本の森林は戦後、常に世の中の要求に動かされてきました。特に国有林はその典型です。パイロット・フォレストを作った時代は拡大造林の時期でした。土地が空いていたら木を植えろという時代で一生懸命植えた。しかし、世の中が落ち着いてくると「天然林がいい」とか、「広葉樹がいい」とかいう話になってきました。でも、すでに人工林にした所を元に戻せと言われてもできません。クルクル時代の要求が変わっても、森林というものはなかなか対応できません。昔と違って、現代は変化が早いですからね。

自然というものは早く変化する時代の要求に対応しにくいということをどうやって分かってもらえるか。私は、それを、いつも考えてしまいますね。

【植え付け】

写真は全て、帯広営林局編『造林10年 パイロット・フォレストの歩み』昭和40年刊より

  • 左: 穿孔施肥器による施肥 昭和39年  左から二枚目:オーガーによる植え穴堀作業 昭和39年 右から二枚目:鍬による植えつけ作業 右:植付予定地に到着したカラマツ苗木

    左: 穿孔施肥器による施肥 昭和39年  左から二枚目:オーガーによる植え穴堀作業 昭和39年 右から二枚目:鍬による植えつけ作業 右:植付予定地に到着したカラマツ苗木

  • 左: カラマツの床替作業 昭和35年 中央:ウニモクによる消毒作業 昭和34年 右:ツリープランター

    左: カラマツの床替作業 昭和35年 中央:ウニモクによる消毒作業 昭和34年 右:ツリープランター

  • 左:滝川局長ツリープランター試乗の図 昭和35年頃

    左:滝川局長ツリープランター試乗の図 昭和35年頃

  • 左: 穿孔施肥器による施肥 昭和39年  左から二枚目:オーガーによる植え穴堀作業 昭和39年 右から二枚目:鍬による植えつけ作業 右:植付予定地に到着したカラマツ苗木
  • 左: カラマツの床替作業 昭和35年 中央:ウニモクによる消毒作業 昭和34年 右:ツリープランター
  • 左:滝川局長ツリープランター試乗の図 昭和35年頃

子育てと同じ

山口 こういう仕事は農業も同じでしょうが、世の中の人がちやほやもてはやすような仕事ではない。誰からも特に評価を受けないでも、地味にこつこつとやる人がいて初めてできる仕事なんです。・・・はっきり言って、これからは、やる人はいないだろうと、私はみています。なぜかというと、我々国有林の人間が非常に悪いように言われていますけれど、現場で一緒に働いた仲間や、私の下で働いた職員・作業員達は、はっきり言って素朴ですよ。ネズミ色の作業服を着て、純朴で、ただまじめにこつこつとよく働いた。あんな人達はもういない。でも、そういう人たちがいたから、パイロット・フォレストも森林も造れた。

私と一緒に苦労を共にした連中がまだ三十名ぐらいは、現在でもパイロット・フォレストで働いています。彼らはこつこつと働いてくれました。そうした連中もだんだんと辞める歳になり、あと二〜三年で一人もいなくなってしまうでしょう。

富山 海外の植林現場で、そうした人々は育っていますか。

山口 海外でも木を植え、木の面倒を見るのは地元の農民達です。森林造りが非常に難しい。どういう点でかというと、生活が貧しい所ではできない。貧困地域ですと、食べることが先になってしまう。例えば、ある所の話ですが、住民達がせっかく植えた造林地に火をかけて燃やしてしまった。燃えてしまえばまた植え直すだろう。そうすれば、また雇ってもらい、賃金をもらえると思っているからなんです。だから、ある程度の所得レベルにこないと本当の森林造りはできません。かといって、それ以上に豊かになっても、またできない。

富山 昭和58年(1983年)秋に、フィリピンのパンダバンガンの植林現場に一週間ほど滞在したことがあります。そこで、自分の植えた木が育つと放火する事実を知りました。これはもう、文化の違いですよ。木を植える文化とそうでない文化との。そのことはやはり『日本再発見水の旅』に書きました。日本人なら、自分が一所懸命植えた木を、まさかそこまで、と思うのです。

山口 そこまではしないでしょうね。

しかし造る馬力はもうない。やはり故をなくしてしまいましたから。若い達は都会育ち、田舎の故郷がない。故郷のない人には森林などはもう遠いものですよね。

そういう隠れた労働を行ってきた玄人を、それなりに皆が大事にするということが大切です。つまり、素人さんをあまり大事にされては困るんですよ。プロを大事にしてもらわなければ。これからの時代というのは、国際競争が厳しくなれば、プロでないと競争に勝てない。プロを求める時代にこれからはなると思ってます。そういう目で最近見ていると、職人というものが、見直されてきている感じはします。

富山 見直されてきているが、きちんとした体制にはなっていない。

山口 それはもうしょうがない。やはり汗の大切さというのはあると思う。その汗の大切さをやはり重んじてくれないと、皆さん汗をかかない。

【病虫害獣防除】

写真は全て、帯広営林局編『造林10年 パイロット・フォレストの歩み』昭和40年刊より

  • 左:北大の太田講師が中心となり野ネズミの生態調査が行われた。 中央:ウニモク装着のスーパーモノキュレーターによる病虫害防除。昭和39年 右: エゾヤチネズミの棲息しやすい低湿地帯との間に設けられた防鼠耕。昭和35年

    左:北大の太田講師が中心となり野ネズミの生態調査が行われた。 中央:ウニモク装着のスーパーモノキュレーターによる病虫害防除。昭和39年 右:エゾヤチネズミの棲息しやすい低湿地帯との間に設けられた防鼠耕。昭和35年

  • 左上:ネズミに食害されたカラマツ 右上:エゾヤチネズミ 左下:ウサギは毒餌撒布のような一網打尽の方法はとれない為、針金ワナをかけて歩く事が必要。スキーターは冬期の行動の為に有効であった。 右下:野ウサギの足跡を追って

    左上:ネズミに食害されたカラマツ
    右上:エゾヤチネズミ
    左下:ウサギは毒餌撒布のような一網打尽の方法はとれない為、針金ワナをかけて歩く事が必要。スキーターは冬期の行動の為に有効であった。
    右下:野ウサギの足跡を追って

  • 左:ヘリコプターによる毒餌撒布 昭和37年 中央:天敵の利用(イタチの放し飼い)昭和38年 右:冬期の重点的毒餌撒布

  • 左:北大の太田講師が中心となり野ネズミの生態調査が行われた。 中央:ウニモク装着のスーパーモノキュレーターによる病虫害防除。昭和39年 右: エゾヤチネズミの棲息しやすい低湿地帯との間に設けられた防鼠耕。昭和35年
  • 左上:ネズミに食害されたカラマツ 右上:エゾヤチネズミ 左下:ウサギは毒餌撒布のような一網打尽の方法はとれない為、針金ワナをかけて歩く事が必要。スキーターは冬期の行動の為に有効であった。 右下:野ウサギの足跡を追って

スギ、ヒノキの復権を

山口 昔から造林は不景気な時に行えと言われております。人手を要する作業ですのでごく当たり前のことですね。しかし、造林というのは、すぐ金になるものでもなく、五十年、百年後でないと金にならない。その時でも果たして投資したお金が勘定が合って帰ってくるのか、利殖として優れているとは仮にも言えないでしょう。どう計算しても採算のとれる投資先とは考えられません。

一部の古い林業地で、商業資本が投資として森林所有者となった所もありますが、一般的には算盤勘定抜きでご先祖様から引き継いだ森林を伐らせて頂いたから、植えておかなければと植えたり、地域の旦那衆である森林所有者が、凶作等で困窮した地域の救荒事業の意味も含めて造林したりしたものでしょう。造林するのに、算盤勘定から植えたのではなく、孫子の代には役立つかも知れない位の気持ちで植えたのではないでしょうか。

今、わが国ではスギ、ヒノキばかり植えてと一千百万ヘクタールの造林地に非難が集まってますが、これが百年も経ってご覧なさい、百年生のスギ林の姿は想像しただけでも素晴らしいものですよ。スギ、ヒノキの森林も百年経つと、ちゃんとその間に広葉樹も入ってきます。それで非常にいい山ができるのです。

人間も歳をとるにしたがって丸くなるというところがありますが、森林もそれ相応に、やはり歳をとれば、自然とマッチした山になります。そういうことが大事であって、若いうちだけ見てものを言っても困ります。今ある千百万ヘクタールのスギ、ヒノキを中心とする造林地も、「では広葉樹を育てればいい」ということで、最初から広葉樹が育ったかといえば、育たなかったんですよ。広葉樹というのは非常に育てるのが難しいのです。古くからケヤキなどは造林されてきましたが、ケヤキにしてもよほどの土地ではないと育ちません。神社の境内とか、参道のわきとかには植わったケヤキが見られますが、山の斜面に林を造るのは難しいのです。では、カンバだったら何とかなるか。カンバというのは、それこそ山火事を起こして後を放り投げておけば出てきますが、人間が植えてもうまく育ちません。木の種類は大変多く、それぞれ性格が違います。気候、標高、土壌、陽光などに対する適性も異なり、集団で育つもの、単独を好むもの、などそれぞれの性格を知ってからでないと造林できません。スギやヒノキなどは早くから研究され造林技術も確立されておりますが、広葉樹はまだまだです。しかし、針葉樹の林でも時間がたつと自然に広葉樹が混ざって育って行きます。だから、森林が育つには時間が要ります。

富山 今、懸命に山に踏み止まっている人たちはかけがえのない国土の守り、文化の土台。真っ先に文化勲章を差し上げたいほどです。その人たちの意欲をなくさせ、山から追い出すようなスギ、ヒノキバッシングはそれだけで破壊です。勿論広葉樹も大事ですが。昔から先祖たちが国土保全のため、水のために植えてきたのは大抵はスギ、ヒノキ。また戦後の拡大造林のスギ、ヒノキが、平六渇水でどれだけ私たちの生命を救ったか。平六渇水のとき私は長良川筋をNHKの「BSテレビ紀行」でレポートしました。名水の里、郡上八幡町では、森林開発公団の植えた三十年生のスギ山からは滔々と水が出ているのに、五、六十年生の天然林の山々からは水が涸れている。明暗を分けていました。この番組は反響が大きくアンコール放送され、計三度も放送してくれました。私が「阿蘇の水を作る話」として世に出した熊本県の森林。これもスギ、ヒノキが中心です。むろん二百年も経てば広葉樹も侵入しています。平六渇水ではこの山だけが水を涸らさなかった。地元のテレビ局は「涸れなかった川」と題して特別番組を組んでいる。昨年、香川県の講演でこの話をしたら地元のお年寄りが、「うちの県では昔から、水のために松を植えた」といわれる。なるほどと思いました。その土地にはその土地なりの知恵や技術があったわけで、そのことに先ず謙虚にならねばと思うのです。大体私たちは今、スギの水に養われている。おかげで餓死しないで済んでいるのです。

「山のこやしはわらじかな」

山口 昔に比べ造林面積は大幅に減ってきました。それは植える所がなくなってきたことと、造林するのは費用がかかりすぎる。だから皆伐して植えることはしない。金の掛からない方法は択伐(たくばつ−一斉に伐採せずに切るべき木を選択していく方法)で伐ればいい。つまり、裸にしないように伐ればいい。ただ現実には択伐というのは非常に難しい森林管理の技術でして、よほどの人がうまくやってくれれば、いい森林ができます。これ以上置いたら、この木は腐ったり倒れたりするだろうというところで、「これは伐ろう。この木はまだ若いから置いておこう」といろいろ考えながら伐る。二十パーセント、三十パーセントと伐っていく。次の育つ木を育てるようにしていく。まあ言うなれば、人間も歳をとったら後進に道を譲りますが、あれと同じことをやるわけです。それを人為的に「この木は今伐ったらちょうどいい。伐れば今使える。これ以上おいてしまうと使い途もなくなり,ただ朽ちて果てる。」あるいは、「この木はこちらの若い木を邪魔しているから、もう伐ったほうがいい。」と、いろいろ考えながら選んで伐るわけです。ただ、それを誰もがきちんとうまくできればいいのですが、経済合理性の判断が入ると、金になる木を優先的に伐るようになります。そうすると、森林造りは崩れてしまう。

望ましいのは、一番最初に択伐する時に、本当に邪魔になる木を一遍に伐る。その次からは金にもなり、邪魔にもなる木を伐れるという形がとれる。ところが、なかなかそれは実行できない。森林造りと子育てとが同じというのは、そこなんです。子育てというのは辛抱なんです。森林造りも辛抱。

富山 森林を見分ける目というのは、熟練を要するでしょう。

山口 森林を見る目は、熟練しないと分からないですね。「山の肥やしはわらじかな」という言葉があります。森林をちゃんと育てるのに一番の肥やしは、わらじを履いてせっせと森林を歩いて回り、森林を良く知ることだということなんです。歩いて見回るということが大切なんです。今は悲しいかな、歩くということがなくなってしまいました。林道が入り車で行く。歩く距離が制限されます。車を降りて、また車に乗って帰らなければならない。昔は歩きましたから、沢を越えて反対側の沢に出て、「そっちに泊まってしまえ」というような調子で山を歩けました。

現在のパイロット・フォレスト内の林道

現在のパイロット・フォレスト内の林道

裏方こそ主人公

山口 やはり物事というのは、表に出る人だけがやっているわけではない。パイロット・フォレストでいちばん貢献したのは三人の作業班長です。彼らは黙々と働いてくれました。作業員ですから口はうまいわけではなし、知識があるわけではない。仲間には突き上げられながらも頑張った。この三人がいちばんの功績者だと思う。陰に隠れた人間というのがどこかに必ずいる。表部隊というのもあるし、裏部隊というのもあるし、肝心なところは裏部隊が支えているんです。

富山 土台が大事ですねえ。しかしこれからどうなるでしょうか。

山口 パイロット・フォレストについて言うと、今、かなり湿地に木が生えている。私が入った頃に比べると、湿地が乾燥してきました。その頃は、春先になるとあの湿原地帯は全面的に水浸しになる。木もあまりなかった。冬になるとその水が引き、枯れた葦が出る。これに火が入ったら消しようがない。またよく燃える。湿原がずうっと入り組んでいるので、火は幾らでも奥深く進入で行き、消しようがない。

それが、今から五年位前に見に行ったら、かなり乾燥してしまっている。川は川として流れているという感じがするようになりました。それはカラマツがあれだけ育ったから、蒸散させているのだろうと思います。だから森林というのはある面で水を蒸散させるという面もあるし、水を蓄えるという面もある。蓄える能力というのは土を作る能力です。土を作らない限りは蓄えられないですから。

今、地球温暖化問題で、炭素を固定する吸収能力の問題が取りあげられているわけですが、木を植えれば、木が炭素を固定してくれると思っているわけです。ところが、実は、土壌の中に膨大な量の炭素が固定されるわけです。落ち葉や枯れ枝がたまって。これを、やっと今、問題にし始めています。

【望楼とその付近】
  • 望楼から望む昭和33年頃の風景

    望楼から望む昭和33年頃の風景

  • 左:四代目望楼
    左から二枚目:三代目望楼 夏のカラマツの葉が茂った時には、同じ位置から望楼を撮す事が出来なくなってきた。
    右から二枚目:二代目望楼は木製で、針葉樹は皆無のため、別寒辺牛川沿いに生立していたヤチダモを伐採し、道もないので職員など、人の力で丸太を曳き上げ手作りで完成させた。昭和30年
    右:昭和29年、山火事見張用として、民地界付近の高所に、ナラの立木に梯子を取り付けて登れるようにした。
    上段及び下段右三枚:帯広営林局編『造林10年 パイロット・フォレストの歩み』昭和40年刊より

  • 望楼から望む昭和33年頃の風景

これからの宿題

山口 まあ、パイロット・フォレストの成果はなんですかと聞かれると、何十年後にならないと分からないわけですが、昔から、森林を造った人は、自分の代は期待していない。孫の代か、そのあとか、わからないが、いつか誰かが恩恵を受けるだろうというくらいの考えをもたないと植えられないです。ご先祖様に頂いた木を伐ったから、植えなくてはならないという感覚で植えています。その感覚がなくなったら、森林造りは終わってしまうんですよ。そこが、今、途切れています。

森林所有者の後継者はいても、森林を管理する後継者というのはだんだんいなくなる。これからは森林を公的に管理するという話が進んでいますが、その場合でも、現場で森林を守る人を配置しなければなりません。山の中でいつまでも生活するという時代ではなくなってしまっていますからね。子育ての面からも、日常生活の面からも。そういう意味では、どうしたらよいか、簡単には答は出ないですね。林野庁の職員も減ってきていまして、営林署数も三百あったものが、今は九十位ですから。職員も年を取り、若い人の採用も減っていますし。広い面積を車で回って一日終わりという感じでしょ。山を歩いて管理するという感じではないですね。これから森林が段々中高年になっていった時に、植えた木というのは始末の悪いことに、自然の木だったら、いろいろな太さのものが多様に混じっている。ところが、人間の手で植えた山というのは、同じ大きさの苗木を植えたわけです。二千五百本なら二千五百本。それが、同じ勢いで育っていくわけです。最初小さい内は、枝も触れなかったものが、段々、枝が触れ、混み合って来て、やせたひょろひょろした木に育ってくる。そこで間伐をして、競争を緩和するため人為的に間引いてやらなくてはいけない。間伐しないとどうなるか。それが、これからですよ。なまじ、手を加えない方がよいという考えならば、最初から手を加えない方がいいのです。人間が植えた森林である限り、これはしょうがない。手を最後まで加えねばならないんです。だから、最初から手を加えないでいくのであれば、三千本も植えないで、五百本位を植えて、その代わり、それらの木が大きく育つまでの間、土砂崩れが起きても知らないよという覚悟でやれば、いいのですけどね。

森林というのは、早く枝が触れあって、我々はこれを「うつ閉」というのですが、枝が早く地面を覆う方がいい。そうすると、競争が始まり上に伸びる。それを間伐を繰り返して、太らせながら上に伸ばしていく。そして森林を造る。そのうつ閉に時間がかかると、空いている土地ができる。そこに、草が生えたり、蔦が伸びたり、木が草に負けてしまう。一向に森林にならない。大雨がふれば、崩れてしまう。それを防ぐために、早く混み合うようにしながら、その混み合いを人間の手で調整するのが間伐です。間伐ができなくなっていく。そういう森林が増えるとどうなるか。

植えた木は、途中で手を抜いていいだろうというわけにはいかないんです。三十年位手をかけてきたのが、ある日突然手を放してしまう。これでは、せっかくの森林はつぶれてしまいます。山村に人がいないとそうなってしまいます。

パイロット・フォレストも、どう変わっていくのか時間がたたないと分かりません。十年で造った森林ですが、これから五十年後、百年後には、その時々の人達が過去の経緯も知らずに、良い森林だなあと思ってくれるでしょう。森林というのは忘れた頃に、その時の人たちに利益を与えてくれる。利益を受けた人は、また、後の人が利益を受けられるように植えていかなければならない、というのが日本の考えなんです。この考えが森林造りを支えてきたのです。これが途切れたら困りますね。

【機械化への挑戦】
自分の手で小修理を行う作業員 昭和38年

自分の手で小修理を行う作業員 昭和38年 帯広営林局編『造林10年 パイロット・フォレストの歩み』昭和40年刊より



PDF版ダウンロード



この記事のキーワード

    機関誌 『水の文化』 6号,富山 和子,山口 夏郎,北海道,根釧原野,水と社会,産業,森林,緑化,造林,パイロット・フォレスト,機械化,林業

関連する記事はこちら

ページトップへ