機関誌『水の文化』6号
天然ガキをよみがえらせた大造林

パイロット・フォレストの現場から

昨年7月に、現在のパイロット・フォレストを訪れました。そして、標茶営林事務所で往事の班長の一人、下鳥昇氏(元太田造林事務所班長)を囲み、パイロット・フォレストを守る現在の人々のお話をうかがいました。

評論家・立正大学教授・日本福祉大学客員教授
富山 和子 さん

  • 下鳥 昇さん

    元太田造林事務所班長
    下鳥 昇さん

  • 木下 喜博さん

    前北海道森林管理局指導計画第三課長帯広分局、現北海道森林管理局調査官函館分局
    木下 喜博さん

  • 上村 哲也さん

    根釧西部森林管理署次長、標茶パイロット・フォレスト営林事務所所長
    上村 哲也さん

  • 菊池 健治さん

    根釧西部森林管理署長
    菊池 健治さん

  • 下鳥 昇さん
  • 木下 喜博さん
  • 上村 哲也さん
  • 菊池 健治さん

丸太を焼いてまず道を作る

下鳥 私は昭和32年(1957年)にパイロット・フォレストの造成が始まった時点からいました。今、パイロット・フォレストとなっている地域は、造成が始まる以前は不毛地帯と言われ、湿地が邪魔をして誰も足を踏み入れることができませんでした。林野庁が、「放っといてももったいないので、何とか人が入り、木を植えられないか」ということから始まったようです。それで丸太を挽いて木橋を渡し、事務所を作り、造林が始まった。

あそこは私が来る前から調査をしていましたが、棒をつき刺しても届かないくらい、ドンドン沈んでいく所です。そこに丸太をぎっしりと敷いていきました。毎日たくさん車が通ると、何回も橋が切れる。常に丸太の置き場所を整理しておいて、その度に人を配置して作り直します。それが五〜六年続きました。丸太を横にぎっしりと敷いて、そこを車が通るようにしたのです。浮橋で。木は地元からもってきました。丸太を縦に敷いて、それから横に並べていくんです。下に縦に丸太を敷いて、その上に横にはさんで井型にしていくんです。そして、はさんだ部分をとめます。

木下 最初からパイロット・フォレスト内の事業所に寝泊まりしていたのですか。

下鳥 最初からです。あそこには官舎もありましたから。二十人くらいです。

作業員宿舎の人が百五十人はいたかな。造林をする者、土木作業をする者。苗畑もあそこに作りました。

富山 同じ場所に苗畑を作ったのですね。苗畑は、最初は実生ですか。そうすると苗を作るまでにも四年くらいはかかりますよね。

下鳥 四〜五年はかかっています。

水を背負って火を入れる

富山 一番苦労をされたのが、入り込むことですよね。その後にも大きな苦労がありましたでしょう。

下鳥 造林をするまでの調査もありましたし、火入れもしました。山一つ百ヘクタールですが、春と秋にはいっぺんに火を入れました。一つの山を八十〜百ヘクタール燃やすとすると、その周囲二〜三キロメートルを刈るのです。そして、作業員に水を背負わせ、火たたき棒を持たせて配置させる。それから順番に火を入れていきます。

木下 失敗はありませんでしたか。

下鳥 しょっちゅう隣まで燃えていましたよ。

木下 具体的に、どのように植えていったのですか。

下鳥 裸の山に対して、綱を引っ張って二メートル二十七センチをきちんと計り、曲がらないように植えていきました。当時は、大型機械を入れるので、デコボコがあっては困るので。

上村 植えた後に草が生えてくるのを下から機械で刈っていくので、ラインが曲がっていると機械が走ったときにはみ出てしまい、一緒に苗木を切ってしまう。真っすぐにするのに苦労したんですよね。

菊池 真っすぐにするのは、コンパスか何か使ったの。

下鳥 いいや。目で見てです。百メートルの網を引っ張り、植えるところに鍬で線をつけたら、そこを掘っていく。

森林を造った誇り

木下 生活はどうだったんですか。

下鳥 あの頃は一週間も十日もパイロット・フォレストから出てこられなかったんです。子供が風邪をひいても簡単には。

木下 苗木を運ぶのはどうしたのですか。

下鳥 苗木はある程度は背負い、一〜二キロを歩きました。一梱包に三百本くらい入っている。それを、一度に二つくらい背負って行くんです。

富山 苗木は下に根がついているでしょう。

下鳥 それでも全部かつぎました。現地までは車が行かないから。機械も二十キロはあるし、油でしょ、ノコギリでしょ、自分の弁当でしょ。皆で分担して背負って行くのです。

富山 火入れとは別に、山火事との戦いはありましたか。

下鳥 あったね。あれは昭和34年の五月で、三〜四日燃え続けました。当時は、自衛隊も出動しました。

富山 植林したものがやられたことはありますか。

下鳥 昭和49年に燃えました。

木下 その時も結構大変だったんですよね。帯広局からも消火の応援に職員が来て。

下鳥 そうだね。これが一番大きかったな。火にまかれそうになりました。この時は火が二十〜三十メートル一気に上がったので、逃げる暇がありませんでした。迎え火というのをやるんですが、それをやる前に一気に上がったので、出来なかったんです。

上村 十九時半ですから夜ですね。

下鳥 この頃には道路も出来ていました。昭和三十四年の火事の時には道路という道路がなかったんですが。

富山 消火はどのように行うのですか。

上村 十リットルくらいの水を背負い、手動のポンプのようなもので撒く。後は火をたたいていくんです。

富山 我々は、ただ木を植えればいいと思うだけで、そういうご苦労は伺わなければやはり分からないものですね。このパイロット・フォレストに関わってきた特別の思いはありますか。

下鳥 やってしまえばね、よくやったなとは思うけれども。やはりパイロット・フォレストを造った誇りというものはあります。ケガ人を一人も出さなかったということも。ちょっとしたケガや車での事故はあるけれど、人が死んだということはなかった。小さなケガはしょっちゅうあったけれど。

木下 下刈りは大変でしょう。

下鳥 そうだね。炎天下の下刈りはね。木がなくて暑いんです。飲み水も、川の水を汲んでいる暇がない。一人が専門に水を背負って、皆を回るわけ。機械を背負った人が二十人くらいいたけど、皆に順番に水を飲ませながら仕事をしたね。機械を背負っているから暑いし、汗が乾いて真っ白くなって。体はグシャグシャ。機械も重かったですよ。七〜八キロはありました。当時の機械は性能もよくないし、相当な苦労だったですね。

木下 女の人も同じことをやったのですか。

下鳥 いや。女の人は苗畑の仕事と簡単なところの下刈りの仕事です。機械は使わずに鎌でね。過酷な仕事だから大変ですよ。段々と年を取ってくると手が上がらなくなってくるし。縄張りも二百〜三百メートルも真っすぐに山の上から下までですから。

木下 当時、作業員はどのくらいいたのですか。

下鳥 定期作業員も入れて百五十人くらいはいました。

富山 皆、道内の方ですか。

下鳥 作業をする人はほとんどが内地の人です。内地から募集をしたんです。地元の人もいたけれど四分の一くらいで、ほとんどが宮城の人でした。夏場だけ来て、冬には帰っていきました。

木下 間伐はいつ頃からやりましたか。

下鳥 間伐は昭和46年(1971年)からかな。思った方向に、なかなか倒れなくて。チェーンソーで倒したけれど、当時はまだ木が細いから思った方に倒れない。同じ方向に倒さないと、引き出すのが大変になります。倒した木を二〜三本づつ積んでおく。それをトラクターが入って来て回収するんです。

木下 熊がいたという話は。

下鳥 熊はいましたね。捕ったこともあります。火入れをしている時に、南斜面から吠えて出てきたことがあって。次の年に行ってみたらもう一頭いたな。穴から顔を出していて、鉄砲で撃ちました。もともとは沢にいるんですが、火を入れたので出てきたんです。普段は全然出ないです。

富山 当時、新聞記事を読むと、木を植えるということに対して、社会全体が期待していたようですね。

下鳥 それはありましたね。

木下 この辺の農家の人達というのはかなり期待をしてましたよね。気候も厳しかったから。

下鳥 私が来た頃は、道路も舗装がされていなかった。建物もなかった。畑作だったけれども、みすぼらしい生活でした。

木下 すると、その人達の働き場所でもあったということですか。

下鳥 地元の人は助かったのではないでしょうか。近郊の農家の人はほとんどが来ていて、苗畑にも八十〜九十人いました。地元の人達は何らかの形でパイロット・フォレストに携わっていましたね。若い人は造林、女の人達は苗畑。それぞれの形で働いていました。

富山 苗木はどこからもってきたのですか。

上村 苗木を養成していた帯広・弟子屈・釧路の上尾幌、雪裡から持ってきたんですよ。

富山 民間で木を植えるということは、かなりやっていたのですか。

下鳥 森林組合もやっていましたし、釧路営林署の前の営林区署の時代から取り組んでいました。大正末期や昭和初期の頃から植えていたようですね。かなり早くから木は植えていました。戦前から植えていて、戦争が終わって、造林と馬の育成とを目標にしていった古い歴史があります。

タンチョウも養って

富山 こうしてご苦労されたパイロット・フォレストの現在についてうかがえますか。

木下 現在はどうかということですが、造成計画が始まってから植えてきた木も三十〜四十年に育っています。ちょうど二〜三回目の間伐をやっています。今のところ、毎年二万立方メートルくらいの間伐を行う計画です。

今後はトドマツ、エゾマツに樹種転換をしていく計画があります。二十年目に検討委員会を作り、その時にもトドマツ、エゾマツに転換していこうという方針が出されました。それ以来カラマツからトドマツ、エゾマツへ変えていく方向で取り扱っています。今は千七百ヘクタールが複層林に変わってきています。

パイロット・フォレストができ、環境にもいい影響があったでしょうということですが、その辺については定量的データでなかなか示されていないのが残念ですが、森林が出来たことで、土砂、特に細かい細粒砂という、水に溶けた土が湿原に流れ込むのを押さえています。大量の雨もビシッと土に染み込む。水源かん養機能が向上しているのだろうと思います。

タンチョウの例もありますし、野生生物の生活環境の場としてもかなりの役割を果たしているということでは、評価できると思います。パイロット・フォレストの下流に厚岸湖がありますが、カキやアサリが採れます。そこも昔は雨が降れば、赤い水がどっと出てきたそうです。パイロット・フォレストができてからはそういうことはなくなりました。

厚岸のカキ

木下 少し昔の話ですが、大正時代に厚岸湾でカキが採れなくなった時期があったそうです。また、昭和13年頃北大の教授が、別寒辺牛川が厚岸湖に注ぐところではカキが採れなくなったと言っています。

上村 それ以来、パイロット・フォレストとカキが結び付けられて考えられてきています。

富山 地元厚岸湾の漁業の人達の反応や反響はどうだったのですか。

上村 直接パイロット・フォレストに感謝をしているわけではありません。しかしパイロット・フォレストがあったからこそ、ボランティアも含めて「自分達で森を造っていかなければいけない」という発想に結び付いているんだと思います。パイロット・フォレストの下流になるのですが、森林が伐採され、二十年以上放置されていた土地を町が買い取りました。ここに漁民の人達が、自分達で木を植えようという動きが続いています。ですから、森林と漁業の関係というのは、おそらく体で感じて、こういう動きにつながっているのではないかと思います。

富山 私はたまたま早い段階で、パイロット・フォレストを見せていただいているからなのかも知れませんが、森林と、漁民の森との関係の草分けだと思っています。漁民の方は、早い時期に意識はあったのではないですか。

上村 「以前は雨が降ると川に真っ赤な水が出たが、今は出なくなった」と昔の文献にありますが、森林の重要性は重々承知されていると思います。ただ非常に難しいのが、森林が出来る一方で大きな開発もあり、定量的な変化が出にくいということです。林業者と漁業者だけが手を組んでもだめです。農・林・水の皆で考えていかなければいけない。町側が皆に声をかけて、流域の環境保全をしていきましょうと。今後のボランティア植樹についても積極的にやりましょうという話につながっています。

木下 四十年前の技術者の記録を見ますと、この厳しい環境の中で、寒冷地農業の経営を安定させるには、多角経営以外に方法はないという考えの基に国有林が率先して森林の造成をすることが、農家林の造成につながるとあります。

もう一つ、カキが急激に減少したのは、パイロット・フォレストの区域を含む森林の荒廃ではないかということもあり、この森林を回復させることが、天然のカキの増殖や環境改善に大きく影響するという話です。それもパイロット・フォレストの目的です。当時の担当者が、単に木材生産だけではなく、森林の持っている多面的な機能を、総合的に発揮していこうと考えている記録は残っています。当時の人達がどこまで意識をしていたかは別として。

富山 そういう先見性はすごく大事ですね。私は当時の新聞記事で「宝の山を作ろう」という見出しを見たことがあります。戦後の復興期当時は、社会全体が造林ムードにあったのでしょうね。営林署の方々だけではなく。木下日本全国、国有林だけではなく、民有林も含めて、拡大造林への意欲はありました。

下鳥 昔は一林班のいた方までカキはいたね。私が一林班で造林をしていたとき、カキの殻が出てきたよ。富山一林班というのは、どの辺りですか。

木下 パイロット・フォレストの一番下流のところです。

富山 では海水も上がってくるのですか。

下鳥 ええ。カレイも上がってきているから。昔はカキもいたのではないかな。そんなには大きくはないけれど。

富山 一種の貝塚のようなものですか。

下鳥 そうですね。植え付けをしようと思ったら出てきたから。

木下 湿原は元は海だっだんですよ。日本全国どこも、木を植えるというのは大変だったと思うのですが、やはりここは面積が非常に大きかった。一万ヘクタールというと鳴り物入りの大企画。昭和32年(1957年)くらいですから、国有林としても一番いい時代だったんですよ。

富山 内部の人間にも「やるぞ」という意気込みがあったのでしょうね。

木下 それはすごかったと思います。パイロット・フォレストでは先程の野鼠の対策や浮橋もそうですが、積極的に工夫をしていきましたから。単に木を植えなければいけないということではなく、パイロット・フォレストを造るという、当時の職員の使命感があったんだと思います。

下鳥 毎日のように五〜十人のお客様がいました。当時は毎晩十二〜一時頃まで。電気がないので、発電機で電気をつけて研究をする先生方もおられましたよ。

富山 一番うれしかったことは。

下鳥 一万ヘクタールを見渡して、全て人間が造ったんだと思うと感動しますね。

富山 現代の人達に語り伝えたいということはありますか。

下鳥 自分の子供達には、ここで仕事をしたんだといって見せましたが。

世界各国から見学者が

木下 今後の話なんですけれども、生態系としても豊かになっているというところに着目し、より一層生態系としての機能の維持を重点においていこうということになっています。それが四十周年にあたり、我々が考えたことの一つです。具体的に何をやるかということですが、一点めは水辺林の整備を積極的にやっていこうということです。そういうことをすれば、生物多様性の面からは野生生物の保護ができますし、水土保全機能の面にもかなりの力を発揮できると思います。二点目は、やはりパイロット・フォレストですから木材の効率的な生産を行っていくことです。三点目は、地域への一層の寄与。今後はパイロット・フォレストを活用し、地域へ貢献をしていきたい。その一つの流れとして、先程もお話をしましたがボランティア植樹。地域の人達が森造りに積極的に参加していただけるようにしていきたい。合言葉は、「よみがえる大地からうるわしい大地へ」ということで、よみがえった森林を今後、素晴らしいものにしていく。そんな風に活用していこうと考えています。

富山 これからの苦労は予想されませんか。

木下 一つには、四十年で山が出来たということは、これから四十年かけて次の山を造っていかなければならないということです。それにはお金も必要になるし、これまでと同じように皆伐して植えていくということは難しいですから、いろいろと知恵を出していかなければいけない。今後は、積極的に複層林を造ろうとしています。

二つ目は間伐をした木材の値段が非常に安いということです。四十億円かけた山ですので、せめて四十億円は稼いで欲しい。

富山 お金には換えられませんね。海の資源を養い、漁業がどれだけだというシミュレーションをやれといわれてもなかなか難しいでしょう。

木下 木材だけでお金をかせぐのは大変です。

富山 そういう意味で、高く評価されないともったいないですね。

木下 初めて見た方は気が付かないかも知れないのですが、十勝や帯広周辺のカラマツに比べると、パイロット・フォレストのカラマツは成長がよくない。パイロット・フォレストをあれだけ造ったが使い途がない、というようなことが、林学関係の雑誌に載っていたことがありました。しかし厳しい気象条件の中であそこまで育ったことを見落としているわけですね。

富山 今まで放っといたらどうなっていたかということと比べて欲しいですね。実際に植えてきた立場からはどうですか。

下鳥 自分達は、植林をしたから山が立っているんだという誇りを持っています。来た当時は、別寒辺牛川があふれるほどだったんですよ。パイロット・フォレストができてからは水が浸透するようになって水かさも減りましたが。酪農が発達し、牛を放して、雨が降れば浸透しないで臭いになって、全部が川に流れていく。だから厚岸湾にヘドロがたまったのではないでしょうか。

富山 ここには、林業関係以外の方も見学に来るのですか。

上村 世界各国から来られますよ。中国、タイ、ブラジル、パプアニューギニア、インドネシア、ベトナム、タンザニア、ガーナ、ホンジュラス、マレーシアなど。

富山 これから木を植えたい方々ですね。

上村 それからこの近辺の小・中学生の森林教室。平成10年(1998年)には六二二名来ました。九年が四六二名、八年が二九一名ですからウナギ昇りに増えています。

木下 四十周年を記念して、音楽祭もやりましたよ。やはり一般の方々にもパイロット・フォレストを見てもらう機会を作らないと。

富山 立派な望楼もあるし、道も出来ていているのだからすごいと思います。一本、一本植えていって。皆、日本を敗戦からどれだけ復興させたかという歴史認識がありません。学校で教えない。そこがおかしい。こういう森林を造らなければどうなったか。

木下 何もしなければ多分牧草地に開発されていたと思います。

富山 問題はもう一つ、別寒辺牛湿原が牧場開発の影響を受けるかどうか、こういう森林を造らなかったらどうだったか、少々乱暴でもそういうのが分かると面白いんですけど。「これがなかったら今頃湿原はあんなに綺麗に残っていないぞ」、「昔はあんな綺麗な湿原は出現していなかった」等、分かると良いですね。

下鳥 そうですね、泥を被っていたかも知れないですね。

(本インタビューは平成11年7月に行われたものです)



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