機関誌『水の文化』7号
水の文化楽習プログラムを考える

関わりを育んだホタル調査

くらしの眼から環境を見る。これを「生活環境主義」と名付け、琵琶 湖をフィールドに実践活動をなさってきた嘉田由紀子さんと小坂育子 さんを琵琶湖博物館に訪ねました。いわゆる環境学習とは違う目線と 活動を、感じ取っていただきたいと思います。

嘉田 由紀子さん

滋賀県立琵琶湖博物館研究顧問
嘉田 由紀子 (かだ ゆきこ)さん

1950年生まれ。京都大学大学院、米ウィスコンシン大学大学院修了、農学博士。滋賀県琵琶湖研究所主任研究員、滋賀県立琵琶湖博物館総括学芸員を経て、京都精華大学教授。環境と人間の関わりの比較文化論、特に日本・アメリカ・アフリカの三文化比較、住民参加による環境保全の理論と実践、地域研究・交流拠点としての博物館、が研究テーマ。 著書に『生活世界の環境学』農山漁村文化協会 1995年、『水辺遊びの生態学』農山漁村文化協会 2000年、他多数。



小坂 育子さん

水と文化研究会事務局
小坂 育子 (こさか いくこ)さん

1947年生まれ。志賀町立図書館(司書)勤務。滋賀植物同好会会員として、滋賀県の植物調査にも参加。地域ではまちおこしの会や更正保護活動に参加し、私たちが暮らす身近な水環境を支点にして子供の環境・暮らしの環境を見つめていきたいと活動を進めている。 共著に水と文化研究会編『みんなでホタルダス―琵琶湖地域のホタルと身近な水環境調査』新曜社 2000年がある。

水の文化からホタルを見る

ーーまず、嘉田さんの考える「水の文化」について教えていただけますか?

嘉田 私たちの活動の対象であるホタルを例にとってみても、語れると思います。

認識という側面から見れば「ホタルはきれい」という、一般に定着した共通認識で終わってしまいます。一歩進めて、「でもホタルはどういう所に棲んでいて、そもそも日本人は何でホタル好きなんだろう」と考えを深めていけば、ホタルと日本人との関係性につながり、価値観にまで行き着きます。

水の文化とは、水と人の関わりに潜む認識と関係性の問題であり、そこに潜む価値観の問題。これらがトータルに凝縮されたものだと思っています。

小坂 私たちは平成11年(1999年)デンマークの『湖沼会議』でホタルの発表をしました。その時ホタルについて聴衆はほとんど気にしてくれず「何でホタルなの?」と言われました。ヨーロッパではホタルを気にしません。アメリカでも同様でまったくの無関心。アメリカに行った時に「ホタルは?」と聞いたら、「猫が追いかけているよ」と言われたくらいで、彼らにとっては興味の対象ではないのです。だから、日本人がホタルにこだわるのは、日本人の価値形成と深く関わっていることだと思います。

その代わり、アメリカではホタルではなく鳥なのです。湖の周辺で共同調査をしようという時に挙げられる鳥、たとえば「ルーン(loon )」という「キキキキッ」と、すごい鳴き方をする鳥。「crazy like loon 」、つまり「ルーンのようにうるさい」という言い回しに、日常の生活の中で使われています。ただ、その鳥は姿を見せません。けれど音は聞こえる。音で、いるかいないかが分かる。だから住民参加の調査にはいいわけです。

また、自然度の高い湖でないとルーンはいません。今、ルーンは開発の波に乗ってカナダの方に追いやられ、絶滅危惧種に近いのです。いろいろな条件から、アメリカではルーンという鳥は文化化された鳥として認識されています。

嘉田 そうですね。それに比べて、日本では鳥にはあまり興味がありません。それよりもむしろ日本人の興味の対象は虫なのです。虫好きという点では、日本は世界に冠たる国で、肝心の母国フランスではほとんど読まれていない『ファーブル昆虫記』が、世界で一番読まれているということからも、日本人の虫好きがわかります。つまり虫と人の関わりに、日本では大変特殊な価値観をおいているのです。これは中国からの影響もありますが、それがだんだんに日本化し、「鈴虫」や「ホタル」といった生き物が文化化されてきたわけです。

小坂 先日、「ホタル関連文献目録」を水と文化研究会のメンバーの遊麿正秀さんが作ることになり、ホタルという名前の付く小説や団体などを調べたら、ものすごい数があって、我々もびっくりしたんです。

嘉田 三千だったかな。ホタル一種とってみても、これだけの蓄積があります。

小坂 いろんなものにホタルのタイトルがついている。「ホタル川」とか「ホタルの光」とか。いわばホタルは文化昆虫で、それだけ生活に入り込んでいるということですね。

嘉田 どうも日本人がホタルに求める価値観というのは独特で、和泉式部の詠んだ歌にも典型的に表れています。「物思えば沢のホタルもわが身よりあくがれいずるたまかとぞみる」これは和泉式部が貴船神社にお参りした時に詠んだ歌です。ホタルにわが魂を乗り移らせる、つまり、自分がホタルになったという、これは日本特有の人間と動物の間を行ったり来たりする感覚です。これは欧米にはありません。

また、水の谷川には、はかない、一瞬のきらめきのような輝きがある。日本は谷川文化ですからね。国土の七割が山でしょう。そういう点から考えると、風土的・歴史的にホタル一つが持っている価値というのが、精神文化にまで深くつながってくるのではないかと思います。

ーー同じ事が、ホタルではなく水についても言えるということですね。

嘉田 その通りですね。水というのは何もかも含みうるものです。形はどうにでもなる、丸くもなれば平らにもなり、いわば人の望みに沿うような形で入り込みます。物に沿う力と流れを持ちながら、一旦荒れ狂ったら手におえないという、両義的な存在です。清濁併せのみながらも、やはり太陽の光で蒸発していく時には、ピュアな水の分子になっていきますよね。この辺も面白いですね。

それから、日本の思想というのは、目の前で米を作るために水が必要だと思いながらも、水を単なる物質としては見ていないわけですね。水の中には神様がいるし、生き物もいるし、水そのものが持っている風景としての価値とか、いろいろな意味を見いだしている。そういう事を考えると、日本を理解するキーワードは、やはり水ですね。

食べ物からみてもわかります。たとえば中国では生水を飲みませんよね。それに、水の味が悪いと都合が悪い中国料理があるかと考えてみると、あまりない。味付けも濃い。でも、日本の料理では豆腐も、酢も、お酒も、日本食の薄味で素材の味を生かすためには、水の匂いが非常に問題になります。

関西地方の現状を言えば、京都で琵琶湖の水の臭いになぜこれだけ敏感になるのかと、皆さん思われるでしょう。夏場になってプランクトンが発生して、真っ先に苦情が出るのがお蕎麦屋さんからです。素麺やお蕎麦にプランクトンの匂いが付いてしまうことを嫌うのです。さらにお豆腐屋さんなど、水を大事にする産業があります。お米そのものも、同じです。

それに対してヨーロッパは火の文化なんですよ。台所の中心が火なのです。一方、日本は台所の中心が水でしょう。関西でミズヤと言ったら、台所のことを指します。流しがなくても洗い場を取り込んでいたら、そこが洗い場で台所です。昔の家は、流しがなくても川が流れていればそこが台所だったのです。実際に琵琶湖博物館の中に展示されている「冨江家」がそうなっています。子供達が来て「この家のどこが台所?」と聞くから、「ここよ、この川の所が台所」と言うんですが、ミズヤ=水屋=台所なんです。水がなければ台所は成立ちません。もちろん火も大事にしますが、日本の場合は比重として、いかに水に重きが置かれているかが分かります。

滋賀県立琵琶湖博物館

滋賀県立琵琶湖博物館

水は、社会の関係を映し出している

嘉田 東南アジアも日本も、その『水』が生産組織とつながっています。だから、社会の関係を水の中に表現するのです。

日本の地域社会の特色は何かというと、まず地理的な境界がしっかりしていること。境界争いはなぜ起こるかというと、山の幸や水を、自分たち村落の境界内で自主管理したいという、一種の資源の囲い込み意識からです。以前、「地域環境アトラス」というデータベースをつくりました。大字(おおあざ)の境界と水系の境界を重ねてみたことがあります。見事です。水系の境界が字(あざ)の集落境界とぴたっと重なりました。

日本の村についてみると、たとえば湖に川が注いでいる。その川に山から水が流れ込んでくる。その場合、山のてっぺんまでを自分たちの領域にするんです。これを平面で見ると、川が水を集めてくる集水域イコール地域境界になります。

「ここから向こうは隣村。こちらはうちの村。だから境界争いをしない」という暗黙の了解が双方でできてくるんです。もちろん、多少の例外はありますが。

この地理的な重なりと、水を集めてくる領域と、自分達の社会組織としてこの水を管理する領域が自律的に出来てくるわけで、溜池などは中間的な溜め場になる。これをどのように組織として管理していくかですが、水番とか、井頭(ゆとう)とか水世話とかいった人達が、村の中の水を公に管理する役を受け持っている。水は村のものですから、村の水世話とか水番が公に公平に皆に分ける。その人しか、水の入り口は触われないんです。

ーーこの場合の組織について教えてください

嘉田 村落共同体という言い方をしますが、例えば、ここ琵琶湖博物館の地番は、草津市下物(おろしも)町で、1955年(昭和30年)の以前は常盤村でした。明治23年までは下物村だった。これが、この地の村落共同体としての基礎的地域社会です。

たとえば、村が六十町歩の田圃を六十軒で耕作しているとします。税金を支払う義務者は、年貢村請制といい、村になります。どこかの家の収穫が悪くて年貢を納められないとなれば、村の他の人が村全体として補充しなくてはならない。これは、上位の支配者にとってみれば楽ですよね。個別に税金を集めなくていいのですから。つまり、村は徴税機関でもあるわけです。ただし、今年は干ばつだからといって、減免要求を出すにしても、それは個々の農家が出すのではなく、村として出すわけですね。また税金を取る組織であると同時に、裁判もできる法人格も持っているのです。村には、会計、水番、堤防番などの代表者がいました。漁業の村ですと漁業関係。また、氏子総代などの神社関係、寺院関係など、一種の機能的アソシエーション集団をコミュニティ全体が抱えていたわけです。

ーーコミュニティというのがポイントですね。

嘉田 それぞれの機能を抱え込んだ村がコミュニティになるのです。だから、水番というのは、水利組織のアソシエーションになるわけです。これは村の下部組織になります。ただし、水番も、たとえば一つの川を隣近所の四つの村と一緒に行ったら、これは水利組合の連合組織ができてきます。漁業でも場合によってはいくつかの連合組織ができる。けれども、いつも基礎社会は村なんです。

当時の下物村は、裁判もできて、土地も所有できました。それが、周辺の村と合併され、常盤村ならば常盤村が行政体になり、字は制度外の存在になってしまうのです。裁判もできなくなり、管理する権限もなくなっていきます。そして、単なる大字という地名を担う存在に、地方制度の上ではさせられます。でも、村に住んでいる人にとっては、洪水はあるし、水の問題、漁業の問題、山の問題など、今まではみんな共有でやってきたことを、違う組織に召し上げられたら困るわけです。

魚でもそうです。ここに、水と魚と森、これをいかに共有の形態に残していくという所で、明治政府と入会紛争が出てくる。慣行水利権も、水の権利を行政から許可されるのではなく、自分達が慣行的に持っていた権利として、いわば生活権として認めてほしいということで、村を中心に水利組合ができてくるわけです。漁業権も、生活権として漁業組合ができてくるのです。

漁業権を付与する組織もたくみで、明治二十年代、三十年代と漁業権紛争がたくさんあり、政府は全部公として国有化にしたかったんです。太政官布告で。近代官僚制に則って、漁業は国が権利を持って、それを一つ一つ許可するという許可漁業権のような形にね。しかし、抵抗が大きくてそれはかないませんでした。そこで、考えられたのが、明治の漁業法を作るときにローマ法でいう「個人的な私有関係」を残しながら、そこに「実在的総合人」という「法人でなくても実在として存在している組織には権利を与えましょう」という実在的総合人という概念を作り出し、その実在的総合人に漁業権を与えたのです。この漁業権は財産権なんです。その結果、きわめてたくみに、今までと同じように、村の側で権利を持ち続けることができたわけです。ただし、名前は違って、漁業組合になったり水利組合、あるいは森林なら森林組合とか名前は変わるんですけど、実態は村なんです。

ーーこのような村落のあり方というのは、日本独特ですか。

嘉田 東南アジアなどでも、焼き畑のような生産様式は、いわゆる共有の形態、日本でいう入会を保っています。ただ日本は制度としてかなりきっちりしています。

実在的総合人による所有形態を「総有」といいますが、例えば土地を所有する時に土地台帳があり、ここで個人の所有権は、国家の認定と直接対応するわけですね。ところがこの総有は、個人と国家の間に実在的総合人という組織があり、国家は組織に権利を与えるのです。組織の成員権イコール所有権であったり、利用権であるわけです。例えばある村が百ヘクタールの山を持っていると、その村に住み続け、村の成員である限り、百ヘクタールの一部分を使用することができます。逆に、たとえば都会に移動するからと、日常的にその山を使用しない場合に、「私に百ヘクタールの百分の一を持ち出させてくれ」と言ってもダメなんです。これが持分共有と総有の違いです。

近代法でいう持分共有なら、現在のマンションでも百分の一の権利があると、その権利で取引ができますでしょう。それは個人所有の上に載っている共有なのです。それに対して総有というのは、集団所有の上に載っている。つまりそこに住むことによって燃料が必要だ、わらびも必要、家を造るのに木も必要、そういう居住して利用することが許される、生活の必要を賄うための財であるわけです。

だから、商品化を前提にしていない。大事なのは使用価値なのです。使用価値の上にあるのが総有の大事な所。ただし魚の場合には、商品化することは可能です。魚の場合は総有の組織が漁業組合になるわけです。漁業組合に入っていることによって、たとえば川口の簗(やな)の魚を捕る仲間に入り、仲間の分け前をえることができます。でも組織に属していることが必要なんです。魚は移動するのでたいへん難しいです。ただ、日本の漁業権のように地域社会と密着した漁業権は世界で見ても珍しいんですよ。外国では魚はフリーアクセスが多いのです。集団に帰属することで、その成員であることにより共有資源へのアクセスが可能となるケースは、アジア・アフリカ地域には意外と多いのです。

ーーそうですね。なかなか権利確定は難しいですよね。

嘉田 それが、先程言った境界なのです。陸地の境界がありますでしょう。その境界を海に伸ばして、この延ばした先、これはどこまでも、ではないんですよ。地付権といいますが。例えば湖の上で事故があった時に、その場所を新聞記事に載せる時は、下物町「地先」という表現をします。地先が地付権、つまり水の上にもきちんと境界があるのです。

ーー琵琶湖の場合は境界を伸ばしていくとどこかで交わりますが、海の場合はどうですか?

嘉田 海の場合も原理的には同じです。地付権というのがあります。ただし、無限ではなくてこれは慣習で決まっていまして、たとえば、水底が見える範囲までが地先であるという習慣がある所もあれば、竹の竿が立つまでという所もあります。昔の竹竿は、せいぜいが五〜六メートル位ですから。水底が見えるというのは、生態的な意味があるんです。太陽の光が届く所でしょ。そうすると、地付きの資源、つまり魚以上に大事なアワビやサザエがある所、これがどこの村のものか、明確に決まっていくのです。その沖合いまで、とは言いません。これはそれぞれ地域の伝統であって、極めて個別の地域性の色合いが強くなります。

琵琶湖で例を挙げますと、沖合いは堅田が管理していました。これは不思議ですけれど、足利尊氏が与えた権利ということで、堅田湖族(海賊ではなく)が琵琶湖中を回り「おまえの所のえりは長いぞ」「網漁業をしてはいけないぞ」と警察のように秩序形成をしていたわけです。そういう湖上特権を持っていたのです。堅田は、中世の比叡山と一緒になり、寺内町のような形の独立自衛都市として存在しました。堺と堅田が有名です。

中世から江戸初期にかけて、日本海から船が通りますね。京へあがる荷物のために、大体琵琶湖で三千艘の輸送船(丸子船)があったといいますから、堅田の沖で税金を取っていたのです。ですから、足利尊氏にしろ織田信長、豊臣秀吉にしろ湖上を動く時に、堅田とか沖島とかの人を船を動かすため労働者として使っていたので、権利の後ろ盾をした。今でも沖ノ島には、織田信長が権利を与えるという書状がありますよ。

北船木のお宮さんには、源頼朝の綸旨(りんぜい)があります。私も、見せてもらいました。歴史学者の網野善彦さんは疑文書だと言っていましたが、疑文書でも社会学的には意味があるわけです。ちゃんとそれによって、いまだに北船木の特権的漁業権は機能しているからです。北船木には安曇(あど)川があり、たくさんの魚が捕れました。春にはアユ、夏はハス、秋にはマス。三種の魚が湖から皮に上がって来ます。

琵琶湖の魚は五十数種類いますが、産卵時には、みんな人間側に近づいてきます。これが琵琶湖での生態系の特色で、田圃に入ってくるものもあれば川に入ってくるものもある。その川に入った所で簗を仕掛けると、一網打尽なんです。とても有利な漁場です。川の出口の漁場をどこが取るかというのが大事で、安曇川でいうと北には北船木があり、南には南船木があります。川から見たら地理的には同じ距離です。それなのに安曇川の魚を南船木の人達は一匹も獲ることができない。

ーーなぜですか?

頼朝ですよ。(笑)今でも生きてるんですよ、ちゃんと。

ーーすごいなあ。

嘉田 すごい所です、近江という所は。漁業権というのはそれぐらい奥が深いのです。今でも北船木は二百戸ほどありますが、二百戸全てが漁業組合の組合員なのです。村の成員イコールほとんど漁業組合員です。ですから北船木で漁業をする権利は、村の中で漁業組合の組合員にならないといけないわけで、組合員になるには村入りする必要があります。組織の成員になることによって権利がある。これは個人所有でない。これが先程から言っている総有です。

水とか山とか、いろいろな所で問題になっている環境系のマージナルな部分、「私的所有」から離れていく部分は共有的に管理をしている所が多く、これは単に利益を得るだけではなく、義務もきちんと行っているわけです。山だったら下草を刈らなくてはいけない。川を使う人達は、水害も自主管理をしていたので、『水と人の環境史』(注1)という本にも書いてありますが、雨が降ると村の役員、堤防委員、区長さん達は夜中中見回りです。今でもやっていますよ。堤防がどこかで危ないというと、今だったら夜中でも、電話で呼び集めて十六歳から六十歳くらいまでの人を呼び集めて、シャベル持ってこい、です。そして土嚢を積んで、一時的な応急処理をします。昔はそれだけではなく、後々の補修まで全て村が行っていました。要するに自分達の川なんですよ。

(注1)『水と人の環境史』
鳥越皓之・嘉田由紀子編『水と人の環境史』御茶の水書房、1984年

  • 琵琶湖博物館前景

    琵琶湖博物館前景

  • 博物館はたとえていると、大きな樹木。良い実を実らせるためには、豊かな研究や資料が必要。ー琵琶湖博物館の活動イメージを表した図 『滋賀県立琵琶湖博物館案内』より

    博物館はたとえていると、大きな樹木。良い実を実らせるためには、豊かな研究や資料が必要。ー琵琶湖博物館の活動イメージを表した図 『滋賀県立琵琶湖博物館案内』より

  • 子供が楽しむ「情報利用室」

    子供が楽しむ「情報利用室」(左)と「図書室」(右)

  • 琵琶湖の生い立ちを展示。展示室入口には化石がはめ込まれており、自由に触ることができる。

    左:琵琶湖の生い立ちを展示。展示室入口には化石がはめ込まれており、自由に触ることができる。
    中央:古琵琶湖層から発掘した化石コレクションも展示されている。
    右:博物館の建設時に行ったボーリング調査を、そのまま再現。湖の地層がよくわかる。

  • 左:「琵琶湖の自然史研究室」地質+化石だけでなく、それを研究するプロセスを展示している。右:「魚類化石研究」コーナー。

    左:「琵琶湖の自然史研究室」地質+化石だけでなく、それを研究するプロセスを展示している。
    右:「魚類化石研究」コーナー。

  • 琵琶湖博物館前景
  • 博物館はたとえていると、大きな樹木。良い実を実らせるためには、豊かな研究や資料が必要。ー琵琶湖博物館の活動イメージを表した図 『滋賀県立琵琶湖博物館案内』より
  • 子供が楽しむ「情報利用室」
  • 琵琶湖の生い立ちを展示。展示室入口には化石がはめ込まれており、自由に触ることができる。
  • 左:「琵琶湖の自然史研究室」地質+化石だけでなく、それを研究するプロセスを展示している。右:「魚類化石研究」コーナー。

(プライベート)と公(パブリック)の間の共有(コミュナル)

ーーそれは漁場でも同じですか?

嘉田 同じです。たとえば、魚場の場合は湖岸を歩くと松林がありますでしょう。誰が植えたんだろうと調べてみると、多くの場所は漁師が植えたんです。魚付き林です。特に川の入り口、例えば知内川では、両側が松林です。ここは延享年間から現在まで村が日記を付けているんですが、最初に村の日記をつけた庄屋さんは、「後世に村の出来事を知らせたい」とちゃんと書いてあるんですよ。今でもずっと書き続けていますよ。つまり、村が自分達の地域を管理しなくてはいけないという主体性を持っているのです。そういう、村の日記をひとつずつ見ていくと、明治四十何年かに「湖岸に松を植える。魚付き林のために」という記述がある。これを発見しまして、「ああ、あった、これやー」という話で。触れているんですよ。ちゃんと。ですから、今、漁師が山に木を植える活動をしておりますが、明治から、というか江戸時代からやってきました。木を植えることで木の葉が落ち栄養分になるし、木陰になります。魚は木陰が好きですから。川の入り口に作れば魚がしっかりよってきて、それで川で産卵すれば、簗にもたくさん入ります。だから、それは自然に放置したのではなく、自分達の漁業活動に都合のいいように手を加えた人為的な自然なんです。わたしたちの研究仲間が、これらの日記を全部活字にしています。知内村には義務人夫と有償人夫があり、義務人夫は年に四日間出ないといけません。まず春先の水路掃除と、それと夏の草が生えた時の床堀(とこぼり)という水路の掃除、それから八月上旬のお墓の草刈などをすることになっています。これは、全戸が出なくてはなりません。そうやって、自分達の川や道の自主管理をしているのです。役場に頼むのではないのです。自分たちでやるんです。

それから、これは今はやっていませんが、境参(さかまい)りといって、山の境界が分かるように、境界の木を切る作業もありました。地域によっていろんな呼び名がありますが。

このように、集落のいわば生活空間を共有的に守るための義務的な仕事がたくさんあり、それが結果としてそこの資源を利用させてもらうという権利とセットだったわけです。こういうことは、こちらが知っていて聞かないと、けっして出てこないんですよ。ほとんどの近江の村は、村としてまだちゃんとしていますから。

ーー今おっしゃった部分は、プライベート-コミュナル-パブリックの、コミュナルの部分ですね。その時々によって、三者の関係は変わってきましたけれども、コミュナルの部分は存在し続けてきたわけですね。

嘉田 私は「コモンズ」ではなくて「コミュナル」と言っています。「コモンズ」という翻訳は誤解が多いのです。江戸時代にはコミュナルが圧倒的に強いですね。それが明治政府ができてから、だんだんに森林を官有地化していくわけです。東日本では、比較的官有地の比率が高い。これにはいろいろな要因があるんですけれど、地主-小作関係が厳しく、村の中がより階層的で、私有制度がきつかったというような解釈もされています。それに対して西日本では、個々の家が平等で、家連合としての村落が比較的同質的だった。だからピラミッドじゃなくて、家同士の横のつながりが強くなったのでしょう。

ーーネットワーク型ですね。

嘉田 ネットワークと集団はまた違うのですが、ネットワークというのは境界がないのです。それに対して、村は極めて境界がはっきりしています。内と外がはっきりしているから集団であって、ネットワークではないのです。集団的な自主管理組織としての村が、大字になり、自治会になりして、だんだん公権力が入ってきます。

山を官有地化する、川を一級河川化する、道路も村が管理していたのを町道や県道にする。これは国の側が官有財産に組み込もうと一方的にしただけではなく、村落の方でも「川の管理が大変だから、一級河川にしてほしい」と陳情したり、道を村道から行政の方で管理してほしいと陳情をしていくわけですよ。自分達では管理しきれなくなって。

すると、川はだんだん遠くなって、国のものになっていく。今まで川の水を引くことは、内部の水利組合でできました。魚の部分だけは、今でもずっと漁業組合の管理のもとなんですが、水については違いまして、いわば水を一手に官僚支配の元に入れていくという動きが、昭和20年代〜30年代頃からありました。それを法律的に総仕上げしたのが、昭和39年(1964年)の河川法改正です。明治29年に河川法があるんですが、その時には慣行水利権を残していたものを、昭和39年には、もう農業水利の八〜九割は許可水利権になりました。その時から、地域を流れていた水がなくなっていくわけです。

どういうことかというと、許可水利権になると、たとえば建設省が農林省に許可水利権を出す時に、「米を作るためだから、四月から九月だけ水があればいいじゃないか、十月から三月は水はいらない」という。理屈はそうですよね、農業用水が単一機能になっていくわけです。ところが現場を見ると、農業用水の水は地域を流れて、生活用水になり洗い場になり、子供がいて、魚がいて、ホタルがいて、多機能な地域用水だったわけです。そういう言葉はありませんでしたけれど。それが、許可水利権になった途端、単一機能化した。そうなると冬、水がなくなるのです。ホタルは水田周辺の水路や集落内に多かったのです。

ーーそういうことが背景にあるのですね。

嘉田 明治以降の、水資源が国家管理化の中に入っていく過程で、起こってきた問題が琵琶湖逆水です。農家の人達も土地改良をしたら、ダムもできるし水は存分に入ってくると思っていました。これが他の全国の土地改良区と違う所です。

琵琶湖周辺の田圃は、干ばつにものすごく悩んでいるんです。山からきた水が、目の前にあるのに使えない。だから一旦下がってしまった琵琶湖の水を使うという、大変な苦労をしています。足で踏む、足踏み用水はご存じですか。あれね、一人が一日やって一反歩がようやくです。大変な労働力です。それで大正時代になってバーチカルポンプが入ってきて、重油で逆水する、それでもクリークまでは水は溜めておかなくてはならないでしょう、ですから、昭和初期でも琵琶湖から水を引いて欲しいという陳情がいっぱいでてくる。それが、琵琶湖総合開発で可能になったわけです。一番遠い所にあるのは、日野町で、延々と琵琶湖の水を三十キロも揚げています。それまで琵琶湖周辺で五万ヘクタールあった田圃で、昭和三十年代ですと、琵琶湖の水を使っていたのは、せいぜい数千ヘクタールもいかないかな、本当に湖岸ぎりぎりの所だけですよ。

川にダムができることで建設省の水利権管理が進んだ。「嘉田さんな、わしらこんなに冬水がなくなるとは思わんかった」と村の人は、水利権をもらう時に冬に水がなくなったと嘆くのです。工事するまでは、分からなかったことです。そのことに想像力がいかなかったというわけです。いいことばかり見えてね。「ああ、これで水の苦労をしなくていい。だから、ダムは作ってほしい。土地改良してほしい」と、いいことばかり見えて、冬水がなくなるなんて誰が想像していたか。でも、いざ工事やって、「あれ、冬水ないやないか」それで、農家の人が土地改良区に言いにいくと、「水代、お金を払え」。今まで無意識で使っていた地域用水が取り上げられてしまったのは、地域の方にもまったく原因がないわけではなくて、そこまでの想像力がなかったのです。

昔の人の生活を展示。粟津貝塚の上に縄文人の生活イメージを再現したもの。

昔の人の生活を展示。
左:足踏み水車 中央:江戸時代まで、湖上輸送の主役だった丸子船
右:粟津貝塚の上に縄文人の生活イメージを再現したもの。

生活環境主義

ーー嘉田さんが、琵琶湖博物館の創立企画段階から一番の目的に置かれたことは、今おっしゃったような世界を楽しく体験的に、子供たちに伝えるには、どうしたらいいのかということだと思うのですが。「水がきれいなこと」だけなら比較的簡単に伝えられますが、暮らし、歴史、目に見えない所有関係、その背景にある社会関係をどのように伝えるかについてはご苦労があったと思うのですが、いかがですか。滋賀県とのつながりはいつ頃からですか?

嘉田 そうなんですね。私が、初めて滋賀県の調査に来たのは、昭和49年(1974年)。アメリカに留学した時、修士論文のテーマにアフリカを選ぼうとしていたら、アドバイザーに「ユキコ、おまえは日本人なんだから、ちゃんと日本のことをやれ」と言われたのがきっかけです。

それで74年の夏休みに日本に帰って来て、農村社会の、特に技術革新がどう浸透していくか、それを受け入れる人の意識の変化、どういう条件で新しい技術を導入するのか、当時だったら田植機やトラクターをどうするのかなどについて研究しようと思いました。そこで、母校の先生に相談したら、「それはやはり近畿圏で、農村をちゃんとやるなら滋賀県だ」と言われました。紹介してもらって歩き始めたのが最初。

琵琶湖研究所が、昭和56年(1981年)に社会学、人類学の人も一人募集するというので、応募しました。そこが出発点です。

そこで「湖岸の人と湖の関わりを、社会学あるいは人類学でプロジェクトを立てて、考えてほしい」と任されたのです。誰も先人がいないのです。そこで湖岸を歩きながら出会ったのがマキノ町の知内という村。二百五十年の記録があるんですよ。これは、ちゃんとひもといて研究するのにいいということで、知内村にびっちりと通い始めました。それも一人では無理ですので、リーダーにお願いしたのが、鳥越皓之さん(筑波大学教授)でした。その他人類学、社会学、地理学の人達に呼びかけて共同研究が始まりました。村に入ってマキノ町の知内でいろいろ調査をしていくと、村の組織が大変しっかりしていて歴史もある。あそこは昭和32年までは川の水を飲み水に使っていたんです。

知内村というのは、百戸ほどの家があります。知内川の南には前川が流れている。三十ずつぐらいで小さな「組」というのに分かれています。この上の組、上知内(あげちない)でも三十二戸かな。ここでは知内川の水を昭和32年まで飲んでいました。なぜ簡易水道になったかというと、農薬を使い始めていけすの魚が死ぬとか、テイラーという農業機械を導入したせいで、泥が川に入ってどうも水が汚れる。それで、自分達で簡易水道を造りだすんです。

かなり苦労して水道をつくったのですけれど、昭和57年(1982年)の夏、私たちが村の中で調査していて、近くの子供にね「あんた、この川、あんたのお父さんやお母さん、子供時代飲んでたんだよ」と言うと「うそぉー。知らないー」って。「家で聞いたことなかった?」「そんな話、聞いたことない」「確かめてみいよ」と言うたら、二、三人女の子がいたんですけど、次の日にね「おばちゃん、やっぱり飲んでた」と。当時、前川はかなり排水路化していまして、各家から排水用の塩ビパイプを出して、かなり汚かったんですよ。でも、ほんの二十年前まで飲み水にしていたその川の歴史が語られていない。家の中でも、地域の中でも。これは大変なことだ、と思いました。

なぜ、前川が飲み水でいけたかというと、まず絶対に排水は川に流さない。それに朝早い内に水を汲む。洗濯は日が高くなってから。しかも下(しも)のものは、川では絶対に洗ってはいけない。おむつなんかはタライで洗って、それをお便所に入れて、お便所に入れたものを畑に持っていく。とにかく、排水を出さない。子供には「川でおしっこをしたら、おちんちんが腫れる。絶対、おしっこしたらあかん」で、万一おしっこしてしまったら、お清めの塩を流して、「水神さん、ごめんなさい」って謝らせる。毎月一日には清めの塩を流す。それから十二月三十一日の年末には、水の恩を贈る。

つまり、川が生きて、生活に使われていて、そういう伝統があるわけです。その伝統のことも、もちろん語られていません。飲み水にしていたことが語られていないのだから、伝統なんか語られる訳がない。私達が聞きに行くと、いっぱい話をしてくれるわけです。「こんな話なあ、家の若い者は聞いてくれへん」(笑)。

ーー語られないと、だんだんと川に排水を流すようになってしまいますね。

嘉田 そうです。なぜ、語らないかというと、一つは恥ずかしい時代だった、貧しくて。川の水なんか飲んで、下等だと思っていた。だって、水道化というのは文明化、都市化の象徴です。

小坂 わかるよ、わかる。「川の水なんか飲んでて、恥ずかしいわ」という感覚。やっぱり言いたくない。

嘉田 言いたくないよね。

小坂 誰かが言い出したら「実は、私もやん」と言えるけど、口火を切ってはやっぱり言わない。

嘉田 言いたくない。昔からかっこよく水使っていた、昔から電気ついてたよ。貧かったと思っているし、社会全体が農村貧しい、電化しなきゃ、水道化しなきゃ言って、都会中心のそういう情報が一方に、都市が上で農村が下って入ってくるしょう。

小坂 さんもそういう農村で育っているし、私もそういう農村で育っているから、「井戸水なんか恥ずかしい」「水道は上等な水」そういう気持ちがあるから、語れない。語らなかったら伝わっていかない。

それで、これは発掘しなきゃということで、『水と人の環境史』の本も、昭和57年(1982年)〜58年(1983年)に調査をし、ともかく本にしようとしたのが昭和59年(1984年)。当時ずっと行政の動きを見ていましたが、どうも琵琶湖の環境問題に関しては二つの見方しかなかった。

一つは、総合開発が始まっていましたから、水が汚い、汚れた、だから下水道を造ろうという近代技術主義。地元の人は、たとえば、下水道を造って全てがよくなるとは思わない。「この田圃見てみろよ。圃場整備して、水をだんだん流して、これでええんかいな。県はええんかいな」県がやることにもちゃんと疑問をもっているわけですよ。

それに対して、開発反対、生態系を守る、生き物のいのちが大事だという自然保護論。こういう自然保護派の人達に対しても、「自然、自然て言うけどな、あの葦原(よしはら)なんていうのは自然じゃないで。わしらが毎年刈って、利用して葦が生えるんじゃ」「自分達が使って利用して管理している自然を、都会の人は知らんと、まったく自然だと思っている。あれおかしい。」だから、自然保護派に対しても違うと思っている。行政とか技術者の言うことも違うと思っている。やっぱり、地元の人が生活者として見えている視点、これを残りもののカテゴリーではなく、第三の道としてちゃんと旗を立てようじゃないか。というのが、生活環境主義なんです。

近代技術主義で自然は管理する、水なんかきれいにできるんだという典型が、琵琶湖総合開発の時の、矢橋の帰帆島(きはんとう)。下水道を造って、排水が出て、湖を汚すと反対派の人が言った。その時に、京大の衛生工学の先生が、処理場の水を飲んだという有名な話があります。「私たちの技術を信じてください。下水道水処理技術で、どんな水でも飲めるようにできる」衛生工学の人の技術信仰は大変強いです。

それに対して、「そんなのおかしい。やっぱり生き物なんだ」といって生き物を見ている人は、「こんなにすごい生態がある。生物や生態系を守ることが環境保全だ」という。これが生物主義なんですよ。そういう生物学者や生き物の好きな人が持っている価値観では、生き物しか大事じゃないんです。「生き物が絶滅危惧種だから守らなあかん」そう言われながら、ここでも地元の人が疎外されている。やはりこの地でずっと暮らしてきた人たちが、関わりながら、利用しながら、結果として守るというところから生まれた知恵をちゃんと記録にして、次の時代に伝えることをやらないといけないと考えたわけです。

子供達の遊び場はどうなるんだろう。コンクリートの川よりも、生き物がいる川であって欲しい。でも、生き物がいるだけではなく私たちは、やっぱり、子供がいてほしい。私は特に母親でしたから、子供に遊んで欲しかった。うちの子供たちは、土日はいつも琵琶湖めぐりでした。やはり最後は人が関わって楽しんで、結果として、生き物も生態も環境も守れるというのが素直な望みではないでしょうか。欧米の価値観とは少し違うのです。

欧米は、それこそアメリカの国立公園の歴史を見れば分かりますが、ここからここまでは国立公園で原始自然、ここからここまでは人間。自然と人間をしっかり分ける。人間を排除して原始自然を守るという方法、この国立公園方式は、今ではものすごく批判されています。

ーーアジアはどうですか?

嘉田 アジアも植民地時代はそうでした。アジアのエリート達はアメリカやヨーロッパで教育されていますからしなくちゃいけない」「人が手を加えてはいけない」という方向に行きがち。最初に葦原に人が関わっていたのと同じように、日本の山でも原始自然はほとんどない。里山が見直されたのは、非常に日本的なことだと思います。比良山の山頂のスキー場を造るといった時に、自然保護団体が反対しました。あれは原始自然だから残さなくちゃいけないと。湿地帯があって、杉があって。私たちはとにかく現地に行かなくてはと、比良の山頂の所有村である、北比良という集落に聞きに行ったんですよ。「あの山の上の湿地、何かに使っていませんでした?」「あれ、もともとわしらの田圃や。減反で、放棄した」

ーー(笑)

嘉田 予想していた通りですよ。「あそこにある自然保護団体が言っているものすごい形をしている木、あれ何ですか?」と言ったら「あのな、まっすぐした杉いっぱいあったんやけど、あれは切り出して全部使うてしもうてん。今あるのは使いものにならんから残したんや」

ーー(笑)

嘉田 それを自然保護団体は地元の人に聞き取りしないものだから、原始自然としているわけですよ。同じ様なことが、屋久島や白神山地でもありますよ。やっぱり、そこに永く住んでいた人をまず尊重してほしいですね。それこそ、何百年、何千年いわば先住民で苦労して自然とつきあってきた人の意見を聞いて、暮らしを尊重もしないで、バッと暴力的に自然保護だ、というのは失礼ですよ。

地元の人々から最初に勉強させてもらう。「ご先祖様からどう関わってきたんでしょうか」ということを思い出してもらって、話をしてもらう。

その中から、地元だってあのまま放置していいとは思っていないし、どうにかしたいと思っているけど、世の中はいろいろ流れているし、どうしたらいいかわからない。意志決定できないわけですよ。そのプロセスを共有しながら、地域社会としてどうしていったらいいのかということを、よそ者はオズオズとオズオズと、「こういう方法はどうですか?ホタルもいいんじゃないですか?魚もいいんじゃないですか?」ということを、オズオズと話をしていきましょうということなんです。それが生活環境主義なんです。それを思い出してもらうのが博物館のひとつの役割とも思います。

ーー生活環境主義から言うと、今の「いわゆる環境教育」というのは、非常に偏った・・・

嘉田 理科教育の押しつけになってしまう傾向にありますね。地元の人が疎外されてしまう。

  • 研究報告書とパンフレット。 製作物は、常に“参加”を意識してつくられる。

    研究報告書とパンフレット。 製作物は、常に“参加”を意識してつくられる。

  • 「くらしの中の水を調べるコーナー」 左から洗面、流し、トイレ、それぞれの渦巻きには、そこに流されてしまうものをリアルに並べてある。

    左:「くらしの中の水を調べるコーナー」 左から洗面、流し、トイレ、それぞれの渦巻きには、そこに流されてしまうものをリアルに並べてある。
    右:同じ量の牛乳を、紙パックで運ぶとトラック1台、ビンで運ぶとトラック52台。 環境にはどちらが良いのでしょうか。

  • 研究報告書とパンフレット。 製作物は、常に“参加”を意識してつくられる。
  • 「くらしの中の水を調べるコーナー」 左から洗面、流し、トイレ、それぞれの渦巻きには、そこに流されてしまうものをリアルに並べてある。

ホタルダス調査

ーーそこで、ホタルの調査も、地元の人の話をまず聞くことからはじめていますね。

嘉田 「水と文化研究会」という会を1989年に仲間とつくりました。最初のホタルダスの調査表を見て下さい。第一号の調査票に、ホタルの分布を書いてもらうのと同じくらいのスペースに、ホタルの思い出を書いてもらっているんですよ。ここだったら、誰でもみんな書けるでしょう。つまりひとりひとりが参加できるようにしたわけです。それを、みんなが書いてくれて。この欄が私は一番おもしろかったし、今でもおもしろい。それを全て一からデータに入れて、報告書にして、報告書の一頁目に参加者の名前を全部入れたんです。それが第一号なんです。それが十号まで。ある見通しがあったんですよ。多分みんな、これ配られた時に、自分の名前探すだろうなって。

小坂 探しました。(笑)うれしかった。

嘉田 それからみんな思い出を市町村別にとにかくそのまま全部入れて、本にしてお返しをした。それで、ここにあなたがくれた意見がこういうふうになります。そうすると「あ、そうか。他の人はこういう風に言っているのか」といって見えてきますね。へたに取りまとめない。生のまま。ただし、匿名希望の方がいますから、調査表には匿名希望の選択肢を入れてあります。

小坂 ここを開けたら、もうズラーっと千人、二千人の名前が全部もれなく書いてあるんです。

嘉田 あの名簿を作るのは大変やった。(笑)名前まちがったらあかんし。

ーー小坂さん。最初「水と文化研究会」からホタルをやりましょうと言われた時は?

小坂 私は新聞に掲載されている記事で見つけたんです。おもしろそうやな、住民参加て書いてあるし、どうやって参加するんかなという、まったく今までにない未知の調査ということで、思わず申し込んだのが一番最初のきっかけです。

ーー何に惹かれたんでしょうか?

小坂 面白そうだ。住民参加という言葉じたいが、初めて聞いたんです。

嘉田 なかったよね。

小坂 だから、どういうふうに参加をするのか知りたくて…

ーーそれは何年頃ですか?

小坂 平成2年(1990年)です。滋賀県下でこういう調査をやっている。住民参加。どういう所でその意味が出てくるのか、まずそこに興味がありました。ホタルも、私自身が田舎で両親と田植えの後一緒に、「ホ、ホ、ホタル来い」と言って帰った記憶があったから、「ああ、そんなやったら、ちょっと最近そういえば見かけてへんな。一回見てみようか」という、そういう思いがあったりして。そんなことで、やり出したんです。でも、住民参加でも参加の意識が伝わってこないし、一人でいつも同じ川に出かけて、「ホタルいた、いやへん」というのを書き込んで帰ってくるだけ、そして調査し終わって事務局に調査票を送り返して。ところが、報告書が送られてくると、参加した人の名前がズラーっと。「これが参加や」と思って。それを見ていると、同じ思いでみんなが調査してたというのがコメントとして書かれてあるし、「これが住民参加というんか」と、そんなことでおもしろくなったんです。そして、一年たち二年たち「また、やろう。また、やろう」そういう意識が、十年という継続調査になったのです。

ーー十年間でのべ三千四百人の参加ですね。

小坂 日数にして四万五千日ぐらい、みんないろんなことを思いながら、ホタル観察に通い詰めたというんですか。そのデータが一号から十号まで。それの集大成が、『みんなでホタルダス』(注2)です。

嘉田 当時、二つのメディアを考えました。ひとつは、郵送。もうひとつは、パソコン通信です。パソコン通信は対話型で、「今日見てきたわよ、あそこで」「じゃあ、明日私も行くわ」という感じでした。パソコン通信に参加していた人が百人ぐらいいたかな。ホストは琵琶湖研究所の、大西行雄さんという方。ほぼ二人がフルタイムでしたね、ホタルダスの世話をする人が。

毎日三十通ぐらい来た通信の中に、「見に来い」とあったら見に行きたいし、「ホタルの伝説ない?」とあったら調べたくなるし、あるいは誰かに「調べて」と呼びかけた。

だから、夏はホタル。冬は雪。「蛍雪作戦」と言っていたんですが。この蛍雪作戦を大西さんと私で、琵琶湖研究所で三年間やりましたね。で、その時に、こういうことをきっかけに博物館のようなことができるんだとかなり自信を持ちました。

というのは昭和60年(1985年)〜61年(1986年)頃に博物館をやりたいと言って、琵琶湖博物館の構想を出すんです。それはさっきの知内の経験が原点です。なんでこんなに忘れられて、伝えられていないんだろう。それから、もう一つは、昭和59年(1984年)に、『世界湖沼会議』があったんです。『世界湖沼会議』があって世界中から人が来るのに、琵琶湖のことを知らせる場所がなかったんですよ。

(注2)『みんなでホタルダス』
水と文化研究会編『みんなでホタルダス―琵琶湖地域のホタルと身近な 水環境調査』 新曜社、2000年

  • 地域の水利用の調査結果がファイリングされた「水環境カルテ」が、作られた当時を再現したデスクに並べられている。

    地域の水利用の調査結果がファイリングされた「水環境カルテ」が、作られた当時を再現したデスクに並べられている。

  • 地域の水利用の調査結果がファイリングされた「水環境カルテ」が、作られた当時を再現したデスクに並べられている。

住民による調査は地域の通奏低音

ーーホタルダスの話に戻りますが、集めた調査票を、住民参加ですから、みんなでわいわいまとめたりすると思うのですが、そのステップを教えていただけますか。

嘉田 それは世話役という人たちでやりました。

ーー世話役が地域のリーダーになって、集めた調査票を見ていろいろ話をされるのですか。

嘉田 そうです。その思い出が面白い。だから、まとめて本にしようとしたわけです。それと、パソコン通信がおもしろかった。

ーー当時、パソコン通信はそれほど普及していませんでしたよね?

嘉田 完全に先駆者です。300ボー(baud)(注3)の時代からこの調査のために、入りましたから。つまり、当時わたしたちはメディアを自分のものにしないと、技術主義と自然環境主義で塗り固められているここの地域では、新しい思想は広げられないと考えていたのです。

ーーでも、当時パソコン通信というと、あまりお年を召した方には使われていなかったのではないですか?

嘉田 だからどちらかというとパソコン通信は若い男性です。結果的には、若い男性がパソコン通信で、女性やお年を召した方が手紙。私たちはメディアミックスと言っていました。それと新聞社にも協力してもらい、新聞記事の連載もしました。毎日新聞と朝日新聞です。新聞のマスメディアとミニコミであるパソコン通信と、それと旧メディアである郵送と、ファックスは一部でしたね。そういうような形のメディアミックスでした。ですから、パソコン通信の上で大変賑やかな議論をしていましたよ。それからデータもパソコン通信で送り込んで、その場で地図ができるなんていうことも、大西さんがソフトを自分で作ってやってくれました。

ーー当時でここまでするのは、すごい方ですね。

嘉田 すごい方です。大西さん、今は独立して自分で民間会社を経営しています。

小坂 パソコン通信見ると、なんか会話しているようで、「カータンなんとか」と名前が書いてある。ハンドルネームというのを後で知ったんですけど。その会話がものすごく双方向的で即時的。

嘉田 「カータン」て私なんですが、画面の上では男と思われていた。そこで、自然保護とは何かとか議論しているでしょう。

小坂 私らは、郵送の手段で書くのしか知りませんでしたから、ものすごい興味ありましたわ。

嘉田 それが、今や自分がやるようになっている。

小坂 何といってもこの調査そのものが、ものすごくわくわくする。そういう期待感というのか、好奇心というのか。

ーーホタルダスの参加者の年齢は若い方も多いですか?

嘉田 定着しているのはお年寄りが多いですね。学校ルートなどで入った人で定着している人は少ないですね。学校ルートで入った人達も、高校、大学で離れるんです。こういうテーマから。

ーーそれは土地を離れるという意味ですか。それとも興味的に離れるという意味ですか?

嘉田 両方ありますが興味的に離れる方が強いです。ファッションと恋愛です。そんな、ホタルなんてじじむさい、ねぇー。(笑)

小坂 おじん、おばんという感じ。

嘉田 おじん、おばんや。それは一遍離れていいと思っているんですよ。

ーー 一遍離れて、結婚して、子供産むと、また戻ってくる。

嘉田 わが家も典型ですよ。親についてこなくなったのは、息子たちが高校に入ってからかな。長男と次男の二人。今はホタル見に行こうよと言ってもついてこない。だけど、その内、孫ができるようになると、多分行くよ。行く行く言うて。だから、ライフサイクルの中で入っていく必要がある。それで、博物館もそうなんですけども、いろいろ調査とか、それぞれの家族のライフサイクルの中に、それこそ入って、すごく燃え上がる時もあれば、また静かに引いていく時もあって、一種の通奏低音のように準備さえしておけば、関わる人は関わっていく。そんなにワッと火のように燃えなくてもいいんじゃないのかというのが、今の私たちの十三年目の感想ですね。

小坂 今やっているのも、その人が個人的に興味をもって、たまたまその人が先生だったりして。子供達にという流れの中で、学校ぐるみで参加してくれたり。調査票も学校単位で返ってきています。

ーー学校は小学校と中学校ですか?

小坂 そうです。

嘉田 結局、かなり予想していたけれど、面白くなりつつあることは、かつては、みんな一人づつね、ぱらぱらで。パソコン通信の場合はネットワークになりますけれど、事務局に寄せるという感じになりますでしょう。事務局に情報を寄せる参加者はどちらかというと受け身だったんですけど、段々にそれぞれの所で輪が広がっていくんですね。例えば、信楽町の相良さんという方は、信楽町の中で字の会議があって、「ホタルの講師やってくれへん」言うて、講師に行くのに、「ちょっと、わし、ホタルのことわからんから、資料ちょうだい」言うたら、他の人につながる。一種の支部のような、支部とは言わないけれど、あちこちにできつつある。だから、熱心にやる人は、自分がやるだけではなく、地域に広げていく。そうすると、「あの人のやっていることだから」といって、広がっていって、今、核が十カ所位あるかしらね。市町村でやっている所もあるし、学校単位でやっている所もあるし。

(注3 )300 ボー(baud)
データの伝送速度の単位。デジタル信号とアナログ信号を相互に変換する時の1秒間の変調回数の単位。現在はこれが十四万以上となっている。

おつきあいが「気づき」の源

ーー面白いと思ったのは、グループリーダーの方のフェース・トゥ・フェース(face to face)のコミュニケーションがないと、信頼が生まれないので、こういう活動ネットワークが広がらないというのは、どこも同じだなということですね。

嘉田 やはり電子ネットとヒューマンネット両方セットです。

ーー両方で補完的に使わないといけないわけですね。

嘉田 そうです。もちろん株の情報とか、きわめて機能主義的に目的合理的に取られている情報は電子ネットでいいですが、そもそもホタルの調査のようなことは、コミュニケーション型、あるいは、コミュニティ型の情報なんですよ。目的はみんなのお付き合い。それで、よく、「調査の結果、どういうホタルの生態のメカニズムが分かったのか」と聞かれるんですけど、「それ以上におつきあいが大事なんだから」それで、博物館の方からは、研究じゃないと言われましたけれどね。

ーーでも、おつきあいにも、人によって「気づき」があるわけですよね。

嘉田 人文学をやる人間にとっては、気づきそのものが研究なんですけれど、生物やる方々にはわからない。だから、ホタルダスには研究成果がないと言われるわけです。

小坂 私はこの調査に参加していて、こんなに毎回成果をその時にまとめて、報告書を冊子として送ってきてくれるという調査は初めてだったわ。今まで、いろんなことしても、それっきりで「あれどこにいったんやろ」というのがほとんどの中で、これすごいなあと思った。だから、逆に三年ぐらいになると、待ってるもんね。まだ来ないかなあと。

嘉田 それは努力だけすればいいんです。原則を繰り返す。まず、頭の所で全員の名前を入れる。それから、必ず頂いた資料・情報はみんなで共有する。これが大原則で、それを外したら水と文化研究会の存在価値がない。それが「参加」の出発点。

ーーでも、それは嘉田さんにとっては、ホタルを媒介にして、コミュナルなものを、もう一度復活させていこうということが目的だったわけですよね。

嘉田 はい。そうです。生活環境主義の復権です。

小坂 見えないところで地域がつながったという印象は、個人的に受けました。何となく、「あー、つながったなあ」という。

ーーつながってから、逆に琵琶湖を見るまなざしは変わってきましたか?

小坂 みんなという仲間意識がでてきました。

嘉田 それこそ今だったら、湖北にいったら長浜やっている宮川さんに会いに行けばいいし、ここ行ったら、あの人にとか……。

小坂 点が線とか面になるような感じがあります。

昭和39年の冨江家を移築、再現。当時のくらしに“浸る”ことができる。 左奥で扉が開いているのが便所。一番右には水路の水を引き込んだ、カワヤと呼ばれる、昔ながらの洗い場と、ローラー絞り機付き洗濯機が同居している

昭和39年の冨江家を移築、再現。当時のくらしに“浸る”ことができる。
右:左奥で扉が開いているのが便所。
一番右には水路の水を引き込んだ、カワヤと呼ばれる、昔ながらの洗い場と、ローラー絞り機付き洗濯機が同居している

とにかく現場に行く!

嘉田 この後、水環境カルテをやります。水環境カルテは六百集落の水の調査です。最初から水環境カルテのようなものをやりたかったんですけど、昔の排水の仕方とか、川縁に階段が二三段あっただけで、そこから物語を紡ぐというのはとっても大変なんですよ。ほとんど誰も興味を示してくれませからね。ホタルだから新聞で応募しようと思ったけれど、「昔の生活用排水を調べましょう」で誰が応募してきます?

それで、私、あちこちで講演に行っていましたので、講演に行った時に質問をしてきてくれるような、元気な方のリストをもっていたんですよ。それは、かなりの部分は石鹸運動の人たちです。それとホタルダス調査の熱心な方、この人たちだったら、次は水環境カルテのような地味な仕事でもできるかなあと思ったんですね。だって、ホタルがいる所は水が大事だ。じゃあ、水を調べようとつながりますでしょう。

ーー次は、それをつなぎ合わせる仕事が出てくるわけですね。

嘉田 そうです。それが今、冬と夏の水かさを比べようという「水かさ比べ」に発展しました。ホタルと水環境カルテをつなぐのが「水かさ比べ」です。水量、季節によっていろいろと水の流れ方が違う。昔はここで洗い物をしていた。それは明らかにここで水が流れていた。でも今は水がない。洗い物もできない。水環境カルテでは、生活の中で水を使うということがなくなっている、一緒に生き物もいなくなる、生き物がいなくなると一緒に子供もいなくなるという一連の流れが見えてきました。

小坂 私達は水の量とホタルの分布が関係していることが分かってはいたんですが、まだデータにできなかったんですね。そしたら、守山市の四つの中学が一緒になって、カワニナの分布と水利灌漑システムの違いとホタルの分布を調べてくれました。ホタルのいる所は、河川の水が冬でもある。灌漑されている所で、ホタルのいない所は琵琶湖逆水。これは見事でしたね。農業する時にだけ水を流す所にホタルはいない。

嘉田 農業用水が目的合理的になった時に、ホタルはいなくなる。それで、よく「農薬が」と言うでしょう。ただ、やはり、水質以上に水量ではないかということも、気にはしていたわけです。それは、途中でいろいろと現場を見にいきますでしょう。例えば、湖北のびわ町という所から報告があって、「農業用水路にはホタルがいないけれど、排水路にはいる」と言ってきたんですよ。それで、一瞬、用水路の方が水がきれいで、排水路の方が水が汚いと思うでしょう。現場に行って見ますと、用水路は田圃の上の方にあって、U 字溝なんですよ。排水路は、下側にあって、雨水もあって、排水路はお金がもったいないんで、三面コンクリートにしていないで、側面二面だけで、下は砂がいっぱいあり、雨水とかがじぶじぶ溜まり水があるんですよ。「これ、単純だよね。こっちは水が無いんだもん。ホタルがいようがないよね」排水路は冬でも水がじぶじぶしている。「水質やない。水の有無や!」

ーーこれは行ってみないとわからないですものね。

嘉田 そうです。だからフィールドワークが大事で、とにかく現場に行く。話を聞く。

どんどん動き、自分が行けない時には、それこそ仲間がいるから、行ってもらう。パソコン通信でも電話でもネットワークがある。その「気安い」おつきあいの上にあるので遠慮せずに、お互いにいろいろ頼めるんですよ。この、人のネットワークが何をやるにも一番大事。

小坂 十年やってくると、仲間というか、大げさにいうと同志、だんだん綱が太くなっていくというのかな。

子供たちが触って遊べる「ディスカバリールーム」。

左:いろいろなテーマのおもちゃが箱に詰まっており、「ハンズオン」で楽しみながら、琵琶湖のことを「発見」することができる。
中央:ザリガニの中に入って、ザリガニの気分になれる。
右:子供たちが触って遊べる「ディスカバリールーム」。

関わることができる博物館

ーーこの琵琶湖博物館を見て驚いたのは、調べたプロセスから展示されていることです。

嘉田 「プロセス展示」です。

ーーそれと、エスノグラフィーの手法をそのまま応用されていること。

嘉田 「浸り展示」と呼んでいます。時代や状況にぴったり浸ってしまうこと。それも、クソリアリズムに徹する。実際に、農村展示の中のお便所で、クソした人が三人出ましたから。(笑)有名な話ですが。

ーーこうした展示の企画には、地元のみなさんは関わっていらっしゃるんでしょうか。

嘉田 大いに関わってもらっています。たとえば「みんなの声を聞いてみようよと」。ホタルダスの八十人インタビューのコーナーがありますけれど、これは水と文化研究会の中心メンバーの荒井紀子さんと、小坂さんの前に事務局をやっていた田中敏博さんの二人が、半年間かけて取材に行ってくれたんです。そうでないと、八十人の声を聞くのは大変でしたから。

小坂 インタビューに、田中さんと荒井さんが私の所に来てくれたのが、私がさらに深く関わるきっかけとなったんですけど。まあ、琵琶湖博物館というか「水と文化研究会」にはめられたなーと思うのは、私、「関わる」という言葉に弱いんですわ。「関わる」というのは、生死も共にすると、私の中では認識しているから。これを逆手にとられた(笑)。

嘉田 そや、私たち思うつぼやった?(笑)。コミットメントですよ。今、環境教育で一番大事なのはコミットメントです。コミュニケーションとコミットメント。そのコミットメントがきつくなり過ぎるとだめなんですね。義務になっては。もともとが楽しみのためにやっているのに、義務になったらいけない。できる範囲内で、楽しめる範囲内で。

ーーオピニオンコーナーやディスカバリーコーナーは面白かったですよ。

嘉田 みんな反対されましたよ、最初は。ディスカバリールームは、地元の守山に、子供博物館運動というのがあったんです。この運動をしていた斉藤スーザンさんというアメリカから来ている人がいました。私、アメリカの博物館を八十八年に子連れで見に行った時に、子供達がちゃんと動かすハンズオンに面白がったのです。あれがほしいなと思った。それでずっとアンテナを張っていたら、斉藤スーザンさんが子供博物館運動をやっていると聞いて、それでスーザンさんの所に行って「琵琶湖博物館に協力してください」といって、子供博物館運動に携わっている方に組織的に関わっていただいた。

ーー斉藤スーザンさんは、どのアンテナに引っかかったんですか。ホタルダスですか?

嘉田 いいえ、それは新聞を見て、直接電話しました。

ーーやはり、そういう動きをするファシリテーター(注4)というのがキーポイントですね。そういう方がどうも不足していると言われていますが。

嘉田 うちの博物館でも、次の若い学芸員が、どこまでファシリテーターになれるかが課題です。誰かが、ファシリテーターになってくれないと。例えば、生物専門の人も、川に行き生き物を見るけれど、そこにいる人になかなか話が聞けない。田圃に行って田圃の生き物を見るけれど、田圃の所有者に話を聞けない。だから、若い人に「田圃では何見てきた。ここの所有者は誰で、いつ水を入れて、いつ水を抜いているか、ちゃんと聞いてきた?」と聞くと「そんなの僕の仕事じゃないもん」。これは難しいことではないんですよ。その気になれば、日本語で話ができるんですから。行政も研究者も似通っていて人に興味が向きにくいのです。

ーーここで何を聞くべきなのかという常識が親から伝えられずに、思い至らなくなっている人も多くなっている気がします。「ホタルダス」のように、まず土地の人に聞いてみるということが、「気づき」を呼び起こす大きな役割を果たしていると思いますが。

小坂 例えば歩いている時、何かを見つけたとします。「これは何やろ」と疑問に思い、「分からんかったら聞いてみよう」と素直につながっていく。そして、聞いてみると話が他の所にも膨らんでいく。だから、「歩いて、見つけて、聞いてみる」そこまでいくと「面白くなってくる」はずです。

嘉田 今、お年寄りの方は、「自分の昔のことしゃべっても若い人は聞いてくれんし」と、ものすごく遠慮しているでしょう。でも、そういう所にいって話を聞くと、「よう話きいてくれた」と喜んでくれる。

小坂 今、志賀町内のある一人のお年寄りに聞き取りをさせてもらっていますが、そしたら、その家のお嫁さんが、「おじいさんの一代記を全部聞いてもうたら」というので、定期的に、ずーと、その人の生まれた時から、どういう暮らしをしているという話を。もちろん暮らしと水との関わりを含めて、聞きとらせていただいています。

嘉田 そういう一代記を聞かせてもらう。生活史ともいいます。子供でもいいですよね。こういう関係をこれからどんどん作っていきたい。「また宿題与えられた。わしもぼけてられん」となると、張りが出るし、こっちもうれしいし、みんないきいきしてきます。だから、思わぬ所でいろんな効果があるというのかな。それがまとまったら、また博物館の方で展示させてもらうとか、できたら本にするとかね。あるいは展示交流員の方に、「現場で何を語っているのか教えて」と言って本にするとか、フィードバックを作っていきたい。必ず自分たちに返ってくるものがありますから。日本は水の文化の豊かな所です。こういう蓄積は、単なるノスタルジーという意味を越えて、二十一世紀の水不足の時代、国際的貢献にも繋がると思いますよ。

小坂 水というのが人と人をつないでくれているんですね。そういう意味では、水というのは「関わり」ということに、ものすごい役割を果たしているんだなと思います。

(注4)ファシリテーター
人々を結びつけ、参加意識を引き出し、目的達成へのプログラムを作ったり、活動をまとめていく専門職。まちづくりや、市民活動の領域でよく用いられる。

床面には、琵琶湖周辺の写真地図。その周囲に並んだ、 昭和20 年代〜現代までのモノ、モノのオンパレード。

床面には、琵琶湖周辺の写真地図。その周囲に並んだ、 昭和20 年代〜現代までのモノ、モノのオンパレード。



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