機関誌『水の文化』8号
舟運を通して都市の水の文化を探る ヨーロッパ編

空間と水の文化〜 未来を創るために歴史を活かす知恵 〜

「舟運から都市の水の文化を探る」―実はきわめて現代的なテーマである。 本研究を率いてきた陣内秀信氏に、この研究の成果について語っていただいた。

法政大学教授
陣内 秀信 (じんない ひでのぶ)さん

1947 年生まれ。東京大学大学院工学系研究科建築史専攻修了。工学博士。1973 年イタリア政府給費留学生としてヴェネツィア建築大学へ留学。ユネスコ・ローマセンター、東京大学助手を経て1982 年より現職。専攻、ヴェネツィア都市形成史、イスラム都市空間論、江戸・東京都市空間論。サントリー学芸賞、建築史学会賞、地中海学会賞他を受賞。 著書は、『ヴェネツィアー都市のコンテクストを読む』(鹿島出版会)、『都市を読む・イタリア』(法政大学出版局)、『江戸東京のみかた調べ方』(鹿島出版会)、『水辺都市ー江戸東京のウォーターフロント探検』(朝日新聞社)、『ヴェネツィアー水上の迷宮都市』(講談社)、『都市と人間』(岩波書店)、『中国の水郷都市』(鹿島出版会)、『南イタリアへ!』(講談社)、『イタリア小さなまちの底力』(講談社)等多数。

研究プロジェクトの出発点―港のもつ独自性

ーー まず、当初の研究の目的や関心はどのようなものだったのですか。

陣内 水と空間という研究対象は、いろいろな学問的関心を集めて一本の調査プロジェクトにすることが求められます。 特に私の専門でもある建築学、建築史の分野では、水の側から都市を見るという発想がまずなかった。

ーー この「水の側から見る」というのは、どういう意味になりますか。

陣内 こういう例え話しが、分かりやすく、重要かなと思うのですが、港というのは文字通り、元は船、今は空港やテレポート等の言葉が用いられるように、人とものと情報が集まってくるという機能が、交通手段によって変わっていくという見方がありますね。この中で、古代から近世、近代初期までメジャーだったのが船だった。そして、鉄道もありますが、国際関係のネットワークができてくると空港が重要になってくる。

ここが問題だと思うのですが、港というのは元来、町の真ん中に入ってきていたんです。そして都市は、港の周りにでき、いろいろな要素を集積させていく。市場、倉庫、公共的空間、館、劇場…、そういう多様な施設ができ、空間のネットワークができ、配置ができあがる。そして、一つの都市形態をつくりだす。しかも、地形を非常に上手に利用して、まとまりのよい都市をつくり、ドラマティックな演出までする。

「水の側からアプローチした時に、どのようにかっこよく見せるか」ということです。

総合的に都市づくりと結びついた港のあり方が、どこにもあったのです。ですから、港町は人の流れや人間の心理も結構考えられていて、都市のもつ魅力のボルテージも高い。このため、今そこを訪ねる人にとっても、空間の居心地がよいわけです。そういう空間のコンテクスト、風景のおもしろさが港にはある。

ところが、空港の場合は、今挙げた要素が全くない。まず、空港は都市の外部にあるでしょう。どこも、都市へのアプローチが快適ではない。空港と、都市の他の諸施設とのつながりがない。これは、いくら人が物理的にたくさん運ばれ、頻繁に訪れるようになっても、都市との出会いとか、ドラマティックな体験とかが生まれない。空港ができあがることによって、まちづくりがある方向に形作られるというメカニズムはまったくない。そういう意味では、空港は港と同じ役割を果たせないと思いますね。

駅は、まだそういう役割は果たしていた。それでもヨーロッパを見ても分かる通り、駅はまちの外に出来ている。それに対して、港町というのは都市の魅力を産む役割を果たしていた。だから、港町というのはやはり重要だと思うのです。しかし、近代後期になると、港は忘れ去られてしまいました。

いつのまにか日本の研究者の意識から「水」が遠ざかっていった

陣内 戦後の日本人の意識の中で、水は忘れられていきます。特に、1960年代。高度経済成長で水の汚染が進んだこともあります。こうした背景があって、建築の分野でも、水の側から都市を見るということは行われてこなかったわけです。

また、水辺にある町の町並み保存というのは盛んに出ては来るのですが、そういう町並みは水辺ではなく、水辺から一本内側にある街道・主要道路に沿った建物を見ているわけです。本当は水辺とセットで見なくてはならない。

また、都市史の分野が登場し、ようやくヨーロッパでも水の流れを意識するようになるのですが、都市史そのものが出てきたのが七十年代です。日本でも都市史の研究者が活躍するのはそんなに遅くはないですよ。それでも、都市史図集等があり、港町という項目もあるにはあるのですが、港そのものがなかなか出てこない。もちろん現状の港町を調査したものもほとんどなく、港町の記述は本当に乏しかった。空白地帯です。

そこに、歴史家の網野善彦さんの、「百姓の中に漁民もいた」とか、「港から歴史を見なくてはいけない」という一連の指摘は大きかったですね。日本の都市の源流に港や川があるという、農本主義ではない海の民・川の民を見るという視点は重要な局面を切り開いた。でも、空間的な像は結ばれていない。それは、本当はわれわれ建築の側が行わねばならないけれど、遅れていた。

それと、舟運も流通ですから、海運史、交通史、船の歴史に関する既存研究はありました。でも、港町の歴史にはなっていなかった。ようやく日本福祉大学の知多半島総合研究所の方々の仕事で、回船問屋の文書を分析して、流通のしくみ、舟運と結びついていた町の経済のディテールが少しづつ分かってきた。

江戸という都市は、中世の一寒村に徳川家康がやって来て、大規模に都市を開発したというイメージが強い。しかし、舟運の研究からの指摘で、中世における品川の港、江戸の港は想像以上に大きかったのではないかと言われてきています。それも、関西と、伊勢・知多などとのネットワークがあった。常滑の中世のやきものが品川で出土したそうですね。そういう中世からの人、もの、情報の交流の中で、物理的にも立派な港の機能があって、だからこそあれだけの大江戸の発展ができたのではないかという説を唱える若手学者が出てきまして、説得力がある。こうして、もともと東国ともつながっている。そういう成果がようやく出てきたので、場所としての都市をサーベイして、もろもろの学問の性格を結びつけていくことは、総合研究プロジェクトとしては非常に重要で魅力的でした。

近世日本における舟運ネットワーク

近世日本における舟運ネットワーク

大きな成果―中世的な空間の発掘と再評価

ーー そういう魅力的な研究の過程で、わくわくするような発見をいくつか挙げるとしたら、何ですか。

陣内 一つは、「中世的な空間」が感じ取れる場所に出会えたことですね。実際、港町には中世起源のものが多い。例えば、尾道の奥の方。表側は近世にかなり計画的に整備された空間ですが、その奥に寺がたくさんある。海から山に上がっていく筋が古いということで、地元の郷土史家に案内して頂いて実感できました。その奥の方の迷宮、まさに「ここは、どう見ても中世だ!」という空間が残っている。鞆(とも)にもありました。ヨーロッパの中世都市であるアマルフィとそれらがよく似ています。

それともう一つは、花街みたいな場所が、堂々と町の中心地帯に展開していて、悪びれないで自慢している。これは御手洗(みたらい)でしたね。これはヨーロッパにはない日本の文化ですね。なかなか評価は難しいですけれどもね(笑)。ただ、遊女について研究する女性研究者も出てきています。

もう一つ気がついたのは、日本の都市を考える時に城下町という規範、カテゴリーがみんなの頭の中にあるんですね。それを近代も支えたんですよ。城下町が県庁所在地になったりして。

ところが港町というのはもっと古い。だから、中世からのネットワークを作り、富やノウハウを蓄積し、まちづくりのノウハウを蓄積し、空間を造ってきた。それが、城下町の幕藩体制の秩序から、ある自由度というか、ある距離を保ちながら、マイペースで自身のコスモロジーをもって町を造ってきた。

しかも富もあるから、文化がのびのびと展開する。その象徴として花街も展開する。そういう華麗な、質の高い文化をみんな見ないで、城下町の堅苦しい面ばかり見る。明治になるとそれが主流ですね。そして、産業化が始まり鉄道も張り巡らされると、そちらの方が加速されていく。このため、歴史ある港町が衰退していく。それをもう一回評価しなくてはならないというのが、調査を進めるなかで、段々と感じてきたことですね。

そのような場所はたくさんあるんですよ。庵治という場所もわれわれが発見したというか、全国レベルではほとんど話題にならない地域です。でも、この小さな町に、ものすごい蓄積があるんですよ。感激しました。そういう場所を、もっともっと掘り起こして、日本の都市の流れの歴史認識の仕方に大きな一石を投じる必要があると思います。

中世港町の都市構造を今でも色深く残す尾道 フィールドワークルートと主な要素プロット図

中世港町の都市構造を今でも色深く残す尾道 フィールドワークルートと主な要素プロット図

水の空間―日本とヨーロッパでは何が違うのか

ーー ところで、水辺の空間を地元のひとびとがどのように使いこなしていったのか。各都市を比較すると異なりますね。

陣内 まず、今号でも取りあげたイタリアのブラーノ島の例から始めましょう。漁村の島でレース編みが有名な土地ですが、今はかなり観光化しています。漁業だけではなく、バポレットという近代の水上バスの交通システムができたことによって、帆船と手漕ぎ船だけの時代に比べ、移動が容易にできるようになった。ヴェネツィア本島は観光地ということで雇用がいっぱいあります。そして、ブラーノ島のガラス工場。周辺の島々にはたくさんのリゾート地もある。そういう所にブラーノ島の人が通うようになり、ブラーノ島の漁師が一種の勤め人になったわけです。それが経済を活性化させた。離れ小島だった所が水上バスを使うことによってネットワーク化して、通勤可能な良い住宅地になっていった。その時に本当に古い町並みや路地をよくキープしているわけです。

かつては貧しい方が多かった土地ですが、今はすごいリッチ。そして、空間を上手に使っている。裏側のカンポと呼ばれる広場には相変わらず洗濯物を干したり、路上で魚を焼いたり、モップで路地を全部清めたりと相変わらず昔ながらの生活様式があるのです。

でも、中は東京のショールームに持ってきてもおかしくないようなものすごくモダンな家具を入れている。そんな家が並んでいるのです。

そして、漁業をホビーで行っている人がたくさんいる。つまり、昔にできた空間や環境を、豊かな時代になった時に、個性的でうまい使い方をしているのです。漁業もかつてはプロの漁師ばかりだったのが、今はリタイヤした人とか、勤め人がホビーで行っている。楽しんでいるわけです。

いっぺん出来た空間構造を、現代の機能や用途や意味に変えて使いこなしているという知恵。これで豊かさがどんどん蓄積されます。こういうメカニズムがヨーロッパにはあることを強く感じましたね。

オランダのホールンもそうでしたね。東インド会社の舟運で施設をたくさん造って、まち全体を建設し、運河を造り、広場やマーケットを造り、商館・倉庫を造った。そういう舞台装置が整っている。もともとのオリジナルな機能は現代ではいらなくなったわけです。けれど、時代に合わせて新しい機能を入れている。修復して、使いやすくしている。水辺の空間は、かつて物を運んだ帆船がプレジャーボートとなって、ちょっと外まで遊びに出かけるとか、あるいは水上生活―セカンドハウスに使うとか、パーマネントにそこに住むとか。それはものすごく気分がいいし快適で、最高の贅沢なんですね。そういうホールンにしかない要素を、うまく使いこなしている。

当然ながら海に開いていて港をもっているまちというのは気分がいいですから、自然と歴史が一体となっているというのが最大の観光価値を現代に発揮することとなる。自然だけでもだめ、建築や文化財だけでもだめ。両方もっているというのが強いわけですね。

つまり市民の生活の中でも使われるけれど、それが同時に観光客も引っ張る。これが同居している。同じことはアムステルダムでも感じましたね。

アムステルダムの運河は舟運ではほとんど使っていません。けれど、水を別の機能、用途として活用しているわけです。別の船が走っているのですが、それは観光船だったり、パーティー用の船や遊びのボートだったり、水上生活者(一番リッチなセカンドハウスとして)が使ったり、そういう現代ならではのくらしがある。

つまり、水の環境というのが、今のアメニティや風景論などから見た場合に、一番よい空間に転じているわけです。ブラーノのような漁師町やリッチなオランダの都市もこのようなことを行っている。これらは日本に一番ない点で、感銘を受けましたね。

やはり、日本が豊かさを目指し、住んでいる人のプライドと充足感というものを考える時に、これらの都市と人々のつきあい方というのは、非常に重要な視点を提供するものだと思います。ブラーノなどは、日本の中小地方都市を考える場合の重要なモデルだと思いますね。

  • イタリアでのフィールドワーク。スタンディングでは追いつかなくなると、路上で資料を広げることになった。

  • 江戸中期に新たにつくられた港町、御手洗を高台より望む。

    江戸中期に新たにつくられた港町、御手洗を高台より望む。

  • 江戸中期に新たにつくられた港町、御手洗を高台より望む。

豊かな水の空間は人々が選び守るもの 保存は適正規模の開発

陣内 ヨーロッパでは舟運が機能しなくなった後、港町が次のステップでまた蘇ります。文化財、歴史的な建物を大事にするというのも1960年代〜70年代の経験です。アムステルダムの例を話しますと、ここでは、「古い建物を壊すかどうか」という点を巡って、70年代に闘争があったわけです。相当にガンガンと議論を行って今の状態まで来たのです。ですから、どんどん破壊される時期もあったのです。

ーー でも、アムステルダムの人々は、そこで「保存」を選び取ったわけですね。

陣内 そうです。ただ、「保存」が、同時に質のの高い適正規模の開発」でもあるわけです。外側を保存しながら、中をうまく変えていく。日本にはそれができなかった。重要だとは分かりつつも、経済の誘因が強すぎて。でも、違う目で見ると、一番の経済財となる文化財を壊してしまっている。つまり、長期的に見ると損をしている。空間をストックし、それが次代の質の高い生活空間や満足につながるのに、短期的視点でそれらを壊している。これは大損失です。まだ気付いていない。このような目で見ると、日本のウォーターフロント開発というのは非常に底が浅く、消費的で表層的ですね。

ブラーノの人たちは、こういう考え方をごく自然体で行っている。論争したり、リーダーに率いられてというわけではありません。みんなが当たり前と思うコモンセンスで、そのように空間を使ってきた。もちろん、それはイタリアという全体の文化的風土があることは確かです。60年代、70年代、ヴェネツィアがそのように評価され、それがブラーノにも及んだという面はあります。つまり、70年あたりをターニングポイントとする、連携した価値観の変化だとは思いますが。

アムステルダム。ヴェネツィアのカナルグランデと同 じように河岸までファサードを迫り出したスタイ ル。建物上部には荷上げ用ブームを格納する小さ なドアが見える。右から 3 番目の建物の2 階の掃 き出し開口は、荷を収納するためのものであったと思われる。

アムステルダム。ヴェネツィアのカナルグランデと同 じように河岸までファサードを迫り出したスタイ ル。建物上部には荷上げ用ブームを格納する小さ なドアが見える。右から 3 番目の建物の2 階の掃 き出し開口は、荷を収納するためのものであったと思われる。

水の空間を評価するコモンセンス

ーー アムステルダムの人々は、議論の末、「保存」という一種の適正規模の開発をコモンセンスとして選び取りました。日本で、そのような考え方に合意は得られるのでしょうか?

陣内 みんな全国でがんばってはいるけれど、なかなか通らない。短期的な視点による開発にお金が注ぎ込まれています。私たちが以前調査した鞆(とも)の町の埋め立て架橋などもその例ですね。

ーー そういうコモンセンスは、日本にあったのでしょうか?

陣内 確かに時代、時代で短期的な経済に重きを置くことは多かったと思いますが、江戸時代はもっとバランスが取れていたと思います。

近代の大きな変化について指摘しておいた方がよいと思うのですが、江戸時代には地域でまとまりのあった地域経済やネットワークがありました。それが近代になって、中央集権、一極集中に向かって全国が再編成され、地域経済が弱体化していきます。

本当は川沿いで流域の運命共同体的な強い絆をもった地域経済、ネットワークがあったのですが、それらは今やズタズタになって、東京を向いています。瀬戸内でもそうです。例えば、三原、竹原、尾道、このエリアは船でみんなつながっていたはずですが、今はみなバラバラです。北陸でも同じことが言えるようです。 本当はまとまった地域があり、都市が自立し、その中にそれを支えるリーダー、旦那衆がいて、バランスがとれていたのです。経済だけ突出していたわけではなく、町家も蔵も整える、景観も美しくする。町を大切にする、そういうコモンセンスはあったのです。

イタリアのルネサンスで重要だったのは、文化を担ったのが、みんな都市貴族だったことです。自分のパラッツォや公共建築に投資する、責任をもって自分がリードしてまちを育てるというスピリットを持っていた人たちがいました。それが、日本の江戸時代にも存在していたと思います。三国などはそのよい例でしょう。

三国の調査でおもしろかったのは、回船問屋の人たちが屋敷を立派に造り、そういう役割を果たし、町並みも美しい。美意識も高くて、水琴窟のようなすばらしい文化の高さも味わえる。それは町を歩いていると自ずと肌で感じる質の高さですね。

そういう場所を造った旦那衆は舟運ネットワークで結びついていて、意識の範囲は非常に広い。かつて繁栄した町はみんなそうで、そのことが重要です。近代は、そういう文化を壊していったのです。

港は旦那衆スピリットを生みだしやすかった

ーー そのような旦那衆が育ちやすかったかどうかという点は、舟運で発達した都市と、陸上交通で発達した都市の大きな違いと言えるかもしれませんね。

陣内 そうですね。事実として舟運で栄えた都市が日本では多かった。ですから、日本だって町をりっぱに美しく造って、質の高いものにしていくというコモンセンスは旦那衆にあった。それと、その気分は職人にも受け継がれていた。そういうものが、いろんな階層を通じて横断的にも縦断的にもあったのではないか。そのトータルシステムが解体されていくのが近代なわけです。

今、もう一度、地域が重要だとか、各都市の個性が重要だとか、理屈の上で言われています。でも、どうも実体がまだまだ伴わない。ここで何が重要かというと、かつてあったものをノスタルジアとして思い出したり、記述することではないのです。可能性のモデルとして、現代にもう一度蘇らせたり、再構築するための一つの手本として、自分のイマジネーションの中で、かつてそういうものがあったということを知っておくことが重要なのです。方向性やゴールというものが見えていないと、先に進みませんからね。

そういう立場から考えると、日本の舟運の研究はどうしても、かつてあった価値の体系とか空間の体系とか、水と人間と都市が一体となって出来上がっていた有り様を再構築するという立場から行われます。バンコクや蘇州周辺だと、まだそういう舟運で生きている都市の過程を克明に記述し、それを評価することができる。でも、それは変容しつつあるわけです。この変容プロセスも見なくてはならないわけですが、とにかく、生きている姿をヴィヴィッドに描けるという段階にいてくれるわけですね。そこに面白さがある。

日本の場合だと、もう少し知的操作を加えなければならない。例えば、東京の場合ですと、フィールドワークをしても、復元的に再構成してやらないと姿が見えてこない。今回の日本の港町も若干そういうきらいはあったけれど、それでも東京に比べればはるかに生きた町の姿があった。

ヨーロッパの場合は、一回廃れてしまった舟運を、別のフェーズで蘇らせたり、空間を現代の新しいニーズに合わせて上手に使っている。今の方が豊かそうでリッチに見えるというケースさえある。しかも、アムステルダムやヴェネツィアは、かつての中世や近世の港町の姿が見やすい。ものが残っていますからね。水門も閘門も跳ね橋も、倉庫も。

葛飾北 斎作『富岳三十六景江戸 日本橋』。近世日本の舟運 の一端を伺い知ることができる。

葛飾北 斎作『富岳三十六景江戸 日本橋』。近世日本の舟運 の一端を伺い知ることができる。

港町の知恵を将来に活かす

ーー 港町に見られるような中世的な価値。これを具体的に、どのように将来に生かせるでしょうか。

陣内 まず、大きな視野から話しますが、最近、アジアの海のネットワークが重要だと語る人が増えています。こうした方々を支えている考え方の根底には、二十一世紀は国民国家ではなく、個人や都市がネットワーク化して自由な交流が必要だという意識があるわけですね。かつての東南アジアや地中海やインド洋では港町が点々とあって、その間を自由に行き来していたわけです。テリトリーや国境に拘束されずに。そういうことを見直すことが必要で、そのためには歴史的なあり様を見つめ直し、それを将来に生かすことが必要ではないかということを、毎日新聞に書いたことがあります。

私は、日本の中でも同じことが言えると思います。瀬戸内海、北陸、関西と伊勢と江戸、そういうネットワークで地域が結びついていた。日本の中で地域が重要と言われながらも、戦略、やり方というものがない。北陸でも感じたのですが、隣同士の地域の行き来があまりなくなってしまっている。みんな東京に行って。

イタリアでおもしろいのは、ブロック毎の経済が活気がある。だから、世界への発信も州毎に行っています。ベネト州、ロンバルディア州、トスカーナ州。日本は町毎に行っているので、世界に発信できないですよ。だから、まず舟運からの発想で、地域的同士の構造的なつながりがあったわけですから、その代わりを作らなくてはならない。それをどうやったらできるか。交通インフラだけではなく、プロモーションを行うしかけもあるし。

ーー 「旦那衆を生み出すしかけが港町」という指摘は斬新ですね。その旦那衆が現在はいなくなってきているわけですが。

陣内 かつてほど東京に依存しない構造はできているなと思うことはありますよ。先日も、石川県の小松を、地元で活躍している建築家二人に案内してもらったのですが、二人とも東京に出てきて勉強したジェネレーションです。金沢工業大学などの地元の大学の建築学科はまだなかった。その後、金沢に出て、東の郭のお茶屋をうまくデザインし直して、しゃれたレストランにしている建物があったので、「これはどうしたんですか」と聞くと、金沢工業大学出身の方が設計しているという。このような例を見ますと、地元で勉強し地元で育つという、人材を育成できるという分権化が進んでいると思いますね。地元に愛着をもち、地元で学び、地元で表現できるという場が作られていけば、ある意味で、ドイツやイタリア型の地方分権が進むと思います。ただ急速には進まないわけで、今までの大企業中心で動いてきた体質を作り替えていけるかという問題ですね。

今、栃木の足利とおつきあいしているのですが、あそこは織物工業で有名な所です。国際交流も行い、イタリアのコモに明治からずっと人を派遣していた。ところが、大企業中心となり、旦那衆がだめになり、企業の下請けになってしまったということで、地域経済も文化も停滞してしまったわけです。日本全体で同じことが起きたわけです。でも、旦那衆スピリットはまだあるんです。だから、起業家、彼らはマイクロビジネスと言っていますが、それでまたこの十年ほど、彼らはコモと交流して、学ぼうとしているのです。こういう中から旦那衆スピリットは蘇ってくると思うのです。

ーー 旦那衆の源は港町にあった。そして旦那衆スピリットが根付いていると、自分達のくらす町を、自分達の集合財として見ることもできるようになるのでしょうね。

陣内 そうですよ。やはり江戸時代にあって富を生み出すのは物を動かすことだったわけで、その拠点が港町だったわけですからね。足利は内陸部にあって織物で稼いだわけですが。

研究からのメッセージ

ーー 四年間に渡る研究を踏まえたメッセージを伝えるとしたら、どのような言葉になりますか。

陣内 私は、港町というのは

(1)水・自然との共生のモデルであり、そのためには(2)舟運という視点を見直すことが必要であると考えています。このことが(3)水辺の再生や活用につながり、それは(4)美しい風景を生み、都市のアイデンティティづくりにつながっていくのです。

さきほど空港都市の話しを出しましたが、(1)〜(3)は空港都市では作れないわけです。そして、ここが重要なポイントなのですが、(1)〜(3)をこれから創り出すことは難しいのです。だからこそ、集積されているものを母胎に行う必要があるということです。こういう蓄積の上に新しい機能を加え新しい要素で再生するというメカニズムで都市はいままでできてきた。京都もそうです。それが分かってきたわけです。だから、いま、完全な更地に都市を造るなど、誰も納得しません。ニュータウンとか、新都心とかが成り立たないのも、そのあたりに原因があるのでしょう。

この立場から見ると、水の都市というのは、その可能性をものすごくもっています。これをぜひ生かしてもらいたい。そういう発想を、港町でこそ率先して生かせることを示すべきだし、それをモデルとして示したい。特に、単なる観光価値ではなく、人が集う空間、もてなす空間という点に注目したいですね。

私たちが考えているこのような水の空間価値は、心情的には日本の方も分かっていただけると思うのです。でも、ヨーロッパに行くと、それを見事に理解して実践までしている。これは、正直言って、いまの日本に危機感を感じます。アメリカでもそうです。日本だけですよ。逆の方向に向かっているのは。

ーー なぜ、日本では水の空間を守るための都市のコントロールができないのでし ょうか

陣内 気持ちの中では分かっているんですよ。良識ある方がたくさんいらっしゃる。気分もそっちに向いているのだけど、 現実はそうはいかない。

ーー 日本は「水の国」と言われ、いろいろな慣習が生きていると言われながらも、 実際に自分達が住む都市をコントロールすることができない。不思議ですね。

陣内 そうですね。この研究は、結果的には、日本の都市のありかた全部に問題提起できる広がりをもっていると思いま す。それを、象徴的に「水の都市」というところからアプローチしてきたわけです。水の都市には個性があり、蓄積がありますからね。なぜ、それを生かせない のか、情けないという言い方はできるかもしれませんね。

ヴェネツィア、カナルグランデ沿いにあるグッゲンハイム・コレクションの裏手。一歩奥にはいると、庶民の「水の文化」としての空間が残っている。

ヴェネツィア、カナルグランデ沿いにあるグッゲンハイム・コレクションの裏手。一歩奥にはいると、庶民の「水の文化」としての空間が残っている。



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