機関誌『水の文化』12号
水道(みずみち)の当然(あたりまえ)

阪神淡路大震災 蛇口の水が止まった時

阪神淡路大震災 蛇口の水が止まった時

「阪神淡路大震災記念 人と防災未来センター」の展示

1995年(平成7年)1月17日から7年余りが経過しました。この日早朝に起きた阪神淡路大震災は6千数百名の死者、3万5千名の負傷者、20万戸の倒壊家屋という大惨事となりました。日頃はあるのがあたりまえと思っていた水道も大きな被害を受け、その日から水は「出るもの」ではなく「獲得する」ものに変わりました。当初から復興のまちづくりに力を注いできた小林郁雄さんに、暮らしのライフラインとしての水道のあり方についてお話をうかがいました。

小林 郁雄さん

株式会社コー・プラン代表
阪神淡路大震災記念 人と防災未来センター上級研究員
小林 郁雄 (こばやし いくお)さん

1944年名古屋生まれ。神戸大学工学部建築学科卒業、大阪市立大学工学研究科修士(都市計画専攻)修了。阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワーク事務局の中心メンバー。

阪神淡路大震災記念 人と防災未来センター
背景の資料ボックス(右)や瓦礫そのものの展示は、訪れた人の心を揺さぶる。建物の外壁には震災の日時1995.1.17 5:46amが大きく画かれている。 阪神・淡路大震災の経験と教訓を後生に継承、国内外の災害による被害の軽減に貢献することを目的に2002年4月にオープンした。展示施設だけではなく、膨大な資料の収集センターとしても機能しており、「震災からの復興をたどるコーナー」「震災を語り継ぐコーナー」「震災の記憶を残すコーナー」「震災から学ぶコーナー」などが常設されている。
ホームページアドレスhttp://www.dri.ne.jp/

水で本当に困ったこと

震災直後、水で本当に困ったのは消防。防火用水は30分ぐらいしかもたなかったので、それ以外の所は初期消火ができずに手遅れになりました。火事と言えば長田地区辺りがクローズアップされていますが、面積当たりの発火件数はどこもそれほど差はありません。ぼやの内に消すことができたか、燃え広がらなかったかどうかの相違です。結構、消さずに避難している人も多かった。地震が起きたのは早朝。いったんは逃げて、自分の知らない間にだんだん燃えてきて、お昼頃に帰ってみたら家が焼けていたという話がたくさんあります。火事は消防署が消してくれると基本的には住民は思っていますからね。自分たちで消していれば消えていたものも、結構ありますよ。トータルとして見れば、使える水や消防力以上に消火できない火災が発生したということですが、実際にかけつけた消防車はそんなことはわかりません。そんなことは、今だからこそわかるわけで、災害が起きた当初はわからないです。

一口に被災者と言っても多様で、条件もいろいろでしたから一般論は言えませんが、うちは自宅が集合住宅でしたので、断水してもとりあえずはタンクに1杯分の水はある。蛇口をひねれば、まだ出るわけです。すぐに蛇口が止まったわけではありません。自分のうちの風呂桶1杯分は確保したい、と思われた人もいるでしょうが、「はしたないことはやめとこ」と思ってうちではやりませんでした。飲み水は誰も心配していなかったですね。飲み水はビールもある(笑)。というのは冗談にしても、自動販売機もコンビニもありましたので。水が心配で、コンビニに買いに走った人も当初からいたようです。

予測がつかない飲み水

地震が起きた時点では何日水道が止まるのか、予測がつかないわけです。だからすぐに危機感がわかない代わりに、逆に不安感もある。「1週間はもつかな」とか「3日ぐらいで出る」とか言っていました。いつごろ復旧したかと言うと、うーん意外と忘れてしまうものですねえ。ああ、4月17日に復旧しています。結局復旧までに3ヶ月かかりました。ただ、これは全体復旧ですから、おおよその地域の断水期間は1ヶ月程度でしょう。それに対し、電気は早かった。私のところは、その日の夕方にはテレビを見ていたと記憶しています。給水車も、来たのは1週間ほどたってからですね。全国の水道局から来ていました。

実際に水に困り始めたのは2、3日たってから。洗濯、風呂などのいわゆる雑用水で、飲み水ではありませんでした。一般的には水洗トイレが一番大変だったようです。私の事務所の場合には井戸水が使えるトイレが利用できたのでそれほどでもありませんでした。ただ、水量はそう多くなかった。1日使うと次の日は溜まるまで出ないとかいうこともありましたね。ただ、電気がこないとポンプは動かない。そこがネックになりました。

風呂の水が残っているとトイレの水も、小便をしても流さないようにして大体2日間はしのげます。家族3人の規模での話です。2日でなくなると、あとは、水をたずねて何千里。あるところにはあるのです。どこからともなく「神戸大学には井戸がある」とか、噂や伝言で情報が回ってくる。ああいう時は、本当にクチコミの力がすごい力を持っていて、とても早く伝わるんです。そこにはバケツで汲みに行ったけれど、2回くらいで出なくなりましたね。近所の崖の下に、地震の影響か湧き水が出ていて、2〜3分でバケツ1杯溜まる。そこは1週間くらい通いました。

川の水も利用されていました。新神戸駅前の新生田川や、都賀川で洗濯をしていた人も見かけましたよ。しかし洗濯や汚れた食器を洗うための水としては、川の水は濁っていますから、もうすこしきれいな水が欲しくなる。トイレはともかくとして、水質が気になってくるんですよ。結局、飲み水は、給水車の水や煮沸した井戸水を飲んでいました。洗い物の水と合わせて、ポリタンク2 つくらいを1日に使いましたね。

地震が起きて1週間後に、明石に住んでた妹の家に風呂に入りに行きました。明石はほとんど被害がないし、六甲山の裏も何ともない。大阪も大丈夫。僕らは必死の思いで西宮まで歩いて行って、電車で梅田に着いたとたん普通の町の普通の生活があったのでびっくりしたことを覚えています。明石や大阪に行けば水も普通にあって風呂にも入れるのに、なぜか神戸を離れられなかったのは、今冷静に考えると不思議です。まあ、私は仕事柄離れられなかったわけですが。

いつのまにか生まれる秩序

水をどうやって上の階に運ぶかは、みなさんとても苦労されたようですが、子どもがずいぶんと手伝いましたね。バケツではこけますから、水を運ぶのにはポリタンクを使うのがいい。でもポリタンクは普通の家にありませんし、あっても灯油用。そこで、ビニール袋をダンボールの内側に入れて水容器にするという知恵が生まれました。これが、お父さんと子どもがする最初の仕事でした。ここまではいいが、実際に水を運ぶのが大変なんですよ。

特に高層住宅に住んでいる人。電気が復旧してもエレベーターは点検の都合上止めていたところが多かった。このような住宅で、7〜8階に住んでいるおじいさん、おばあさんしかいない世帯には、下の階の若い子どもが水を運んでいましたね。こういうときには金持ちも学者も関係ありませんから「自分の水は自分で運べ」ですが、お年寄りなどへの配慮はしっかりあったようです。でも、これで腰を痛めた人も多いようです。別に日頃から隣同士でつきあいがそんなにあるわけではないのです。ただ、こういう時だから、助け合わねばならんなということですよ。

「震災ユートピア」という言葉を、ご存じですか。無差別、平等。お金があっても役に立たない。物も売っていないから、3ヶ月くらいは被災地の中ではほとんどお金はいりませんでした。おなかがすいても避難所になっている小学校や公園に行けば、炊き出しがある。救援物資もきますし、交通機関もない。ですから、その間は、お互いに譲り合うとか、助け合うとかいうことがごく普通であったわけです。

信号もついていませんからね。そのまま交差点に突っ込んでいけばぶつかりますから、車もお互いに譲り合う。不思議なことに、きちんとルールができてくるんですよ。「相手のことを思いやらんと、はじまらん」ということです。

写真左より ・飲食店前の車には、大きな水タンクが積まれていた。 ・給水に利用された消防用の消火栓の臨時の蛇口。 ・雨水貯留タンクが使われている給水所(長田区真野)。 ・再開された、長田区鷹取の銭湯。

左上:飲食店前の車には、大きな水タンクが積まれていた。
右上:給水に利用された消防用の消火栓の臨時の蛇口。
左下:雨水貯留タンクが使われている給水所(長田区真野)。
右下:再開された、長田区鷹取の銭湯。
震災時の写真はすべて、まちづくり会社コー・プランの膨大な写真資料の中からからお借りしたものです。

震災文化としてのまちづくり協議会

震災復興を住民参加のまちづくり協議会で行おうと、私たち仲間で立ち上げたのが「阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワーク」です。『きんもくせい』というニュースを、被災して約3週間後の2月10日から2 週間に1回出していました。復興の現場で誰が何をして、それに対しコンサルタントやプランナーがどのような協力をしたかなど、職業上知り得たことですから本来は外に出せません。ただ、そういうことを言っていられる状況ではなかった。他の地区でも初めての事態に直面していることがたくさんあり、各地区のまちづくり協議会が協議会毎にそういうニュースを発信していました。そこで、これらを全部まとめて知らせることにしたのです。『きんもくせい』は、1997年(平成9年)の8月27日に50号をもって終刊しました。震災以前からまちづくり協議会が機能していて、仲良く日常的な活動をしていた地域は、震災直後から救出支援復旧活動が始まり、秩序だった復興まちづくりが行われましたね。

われわれも関東大震災を記録としては知っていましたが、いざ大震災に対応しようとなると何一つ役に立たない「知識」でしかありませんでした。記録を知る知識ではなく、身に付いた「文化」として位置づけなければ忘れてしまいます。病気になる前に病気の用意をしておくほど人間は余裕があるわけではない。だから、文化として見にしみこませることが大事というわけです。それが震災文化、非常時システムの日常化で、まちづくり協議会はそのような役割を果たしたと思います。

左:神戸市兵庫区の松本地区まちづくり協議会がつくった「せせらぎ」。きんもくせい」の終刊号と、創刊から終刊までを一冊にまとめたもの。この内容は以下のホームページで公開されており、誰でも利用することができる。

左:神戸市兵庫区の松本地区まちづくり協議会がつくった「せせらぎ」。
右:「きんもくせい」の終刊号と、創刊から終刊までを一冊にまとめたもの。この内容はホームページで公開されており、誰でも利用することができる。

やっかいなものを面倒みなくては

ーー震災後、ライフラインとしての水道について、見方は変わりましたか。

見えない巨大システムは危険ということですね。自分たちが「見えて」「制御可能なもの」でないと、なんぼ整備しても壊れる時は壊れます。思いもかけないことが起こるのが災害で、想像がつく範囲内での危機管理は災害対策とは言わないですよ。銭湯は井戸水を使っていますし、ガスではなく重油や薪が燃料ですから、早いところでは1週間くらいで営業を始めていました。このことは、上水道、ガス、電気という通常のライフラインだけに頼らなかったところが災害に強かったということの証しでもあります。

水道も大規模なシステムで対応しようとするのではなく、小規模で分散した形で対応することが望ましいと思いますね。住民それぞれの自律生活圏の単位で。コンパクトタウンともいいますが、小規模分散自律生活圏の多重ネットワーク社会。ものごとは小規模に分散して「自分で面倒をみることのできる単位」にないといけない、ということです。震災復興のキーワードは、「自律と連帯」です。自律と連帯はコインの表裏で同じことです。自律だけしてもしょうがないし、連帯もそれぞれがきちんと自律としているから連帯の意味がある。

水道も、巨大システムとして作るのではなく、それぞれの地域で水路を管理できるようにするとよいでしょう。サスティナブルを目的とするならば、水源も無理に統合することはないでしょうね。水道も井戸も川も共存していていい。震災後、居住者はそういうコンパクトタウンが重要だという考え方になっていると思います。それぞれの単位がちゃんとしないと、誰も面倒見てくれないということ。コンパクトタウンの中で、水をどう位置づけるかは課題ですね。

例えば、兵庫区の松本地区では「火事の時に水があったら」というつぶやきから、路の脇にせせらぎを造り、高度下水処理水を放流しています。流しっぱなしです。富栄養化で1 週間に1回ぐらい掃除しないと藻だらけになってしまう。でも、「やっかいなものを背負い込まなくては始まらない。掃除できないくらいなら、やめてしまえ」と、まちづくり協議会の会長は言っています。「掃除するお蔭でみんな仲良くなれるし、毎日顔合わせるからおじいさんも元気になる。これが災害の時の連帯のもとだ」と。掃除ができないなら、せめて応援や声援だけでもしてくれと言っています。まちづくりとは、本来そういうものだと思います。

「水」

20日以上が過ぎて思うこと

2月4日(土)は立春。この日の夕方、待望の「水」が出た。毎朝台所にたつ時、出ないとわかっていても、一番最初に水道の栓をひねるのが日課になっていた。その日もやっぱり出なかったので「ああ今日もまだか」ともはやちょっと慣れっこになってしまっていた。

電話と電気が3日目(1月19日)にほぼ同時に使えるようになり、それから2週間「水」をどうやって工面するかがそれぞれのお家の一大事だった。

朝晩顔を洗った後の水、食事の後の最後のすすぎ洗いの残りの水、洗濯(手でする)のすすぎの最後の水などは、トイレに使うためバケツにためて取っておき、節約を心掛けた。

最初は給水車や給水場所がなかなか分からず、いろんな人が道で行き交うたびに情報を分け合い、延々と歩きそれでもとうとう「水」にたどり着けず、新神戸の南側の噴水の水を汲んだことがあった。家の近くではわき水があると教えてくださった方があり、何度か汲んで風呂桶をいっぱいにしたこともあった。事務所の近くに給水車が来てくれるなり分けてもらうようになってしばらくしてその給水車は久留米のナンバープレートなのにやっと気づいた。「いつまでいらっしゃるのか」と聞いたら、「2月17日までです。」とおっしゃった。本当に頭が下がる。

地震の前は水洗トイレの水が一回にいったいどのくらい必要なのかなどということは全く考えたことがなかった。今回そのたびに「水」を汲む必要にせまられてはじめてバケツ一杯が一回に流れてしまう量とわかった。用を足した後レバーをひねり、せっかく一杯にしたタンクの「水」が一挙に流れてしまうのを見ながら、なんともいえない気分になった。

「飲み水」はペットボトルの2リットルが5本あった。昨年夏の水不足の折りに買い置いた6本入りの箱が1本使っただけで健在だったので助かった。5本あるといっても、不安がつのり、1日目(1月17日)2日目(1月18日)は開いているお店で「水」や「お茶」のボトルを探したけれど、ほとんどなく『まぁいいか。5本あるからなんとかなるわ』と2人とものんきにかまえていた。あれから半月、あのまま「水」を調達できなかったらどうなっていたかわからない。幸い友人たちが「水」を届けてくださったり、夫の事務所の「水」が1月最後の日曜日(1月29日)に出て事なきを得たようなことだった。

今後、復興が進み、日常がよみがえるとこんなに苦労した「水」のことも忘れてしまうかもしれない。人間が生きていけるのは、苦しいことやつらいことを忘れられるからと聞いたことがある。でもしばらくでも忘れないでいよう。

たくさんの方たちに分けてもらった「水」のこと、苦労して使った「水」のこと、流れる音があんなにさみしい音と気づいた「水」のこと、そしてみんなで「水」の情報を分け合って凌いだことを。

1995年2月4日(土)
まちづくり会社コー・プラン
天川佳美

まちづくり会社コー・プランニングの天川佳美(あまかわ よしみ)さん。

まちづくり会社コー・プランニングの天川佳美(あまかわ よしみ)さん。阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワークの一員として、復興活動に携わった。上の文章は、そのさなかに書かれたもの。

  

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