機関誌『水の文化』14号
京都の謎

歴史人口学から見た京都水と町衆が生み出す暮らしの勢い

浜野 潔さん

関西大学経済学部教授
浜野 潔 (はまの きよし)さん

1958年生まれ。慶應義塾大学大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。京都学園大学を経て2002年より現職。 主な著書に『人類史のなかの人口と家族』(共著、晃洋書房、2003)他。古文書に埋もれた庶民の一生や気候変動の歴史人口学研究を、京都をフィールドに精力的に展開している。

――浜野さんと京都の関わりからお話をうかがえますか。

京都には宗門改帳が残っている

私は、京都をフィールドに歴史人口学という学問を専攻しています。これは昔の史料をもとに、出生や死亡、結婚、移動、家族など人口にまつわる事柄を調べようというもので、第二次世界大戦後にフランスやイギリスで生まれた学問です。現在は人口統計が整備されていますが、英仏では古くとも19世紀半ばまでしかそろっておらず、それ以前はどのように人口が推移してきたのかわかりませんでした。ただ、両国はキリスト教国ですから町に教会があります。教会ではその教区に住んでいる人の洗礼、結婚、埋葬などの「教区簿冊」という記録を残していて、それを人口推計に使い始めたのが出発点です。

この結果いくつか興味深いことが判明しました。例えば、当時フランスで進んでいた少子化は急に起きたものではなく、どうもフランス革命(1789年)のころから始まったという事実です。少子化は長期にわたる伝統になっていた、ということがわかってきたのです。その研究が非常に注目されて、世界各地に広がっていきました。

日本で、この分野を本格的に伝えたのは速水融(はやみあきら)氏(現・麗澤大学教授)です。速水氏は「これは日本にも応用できるぞ」と考えました。なぜなら、日本には教区簿冊はありませんが、反対に、江戸幕府がキリスト教を取り締まるために作らせた「宗門改帳(しゅうもんあらためちょう)」という史料が全国にあったからです。

宗門改帳には、各町の家数、寺の宗派、どこのお寺の檀家であったか、屋号と人名、そして判が押してあります。判は個人が押す場合もあれば、寺が押す場合もあります。何の変哲もない人口台帳です。1671年に江戸幕府が全国に(幕府直轄領を除く)宗門改帳を作成させる法令を出し、1870年(明治3)ころまで全国で毎年作られてきました。

この宗門改帳が京都では町単位で山のように残っているのです。町の史料というものは町の年寄をした人や、それを引き継いだ個人が持っています。残っていない所もたくさんありますが、京都には数百の町があり、みんなちょっとした文書は残していますから、現在でも膨大な量が存在しているのです。

京都市が『京都の歴史』(1969〜76年)を編纂した時に、編者の一人であった林屋辰三郎氏のアイデアで、各家の文書の写真撮影をさせて頂いて製本しました。これは京都市歴史史料館に保管されていて、自由に誰でも閲覧できます。中学生が自分の町を調べに行っても、簡単に見ることができます。私は、東京から京都に移ってきて、この史料群を見つけた時に、一生京都にいようかなと思ったのです。

東京では、このような史料はまず見つかりません。江戸の史料はほとんど関東大震災や空襲で灰燼に帰しています。江戸は京よりも人口が多く、宗門改帳も多くあったはずですが、数冊しか見つかっていません。京都は一つの町で50冊くらい残っている所は、ざらにありますからね。

  • 宗門改帳 表紙

    宗門改帳から復元した住民基本台帳
    宗門改帳 表紙

  • 宗門改帳 中身

    宗門改帳から復元した住民基本台帳
    宗門改帳 中身

  • 宗門改帳から復元した住民基本台帳

    宗門改帳を一点一点集めて、家ごとに台帳化したのが、BDS(Basic Data Sheet)。このBDSは西陣にある花車町の史料、熊野屋文蔵、妻のやそ、以下15名の記録。文政9年(1826)以降、名前の明記してある年には( )が記入されている。当初、宗門改帳に年齢の記載の必要はなかったが、天保15年(1844)以降、記載されるようになる。あとで年齢がわかれば、遡って年齢をうめることができる。
    途中でいなくなるのは死んだのか、どこかへ行ったのか、ここではわからない。10歳程度でいなくなった場合、奉公に出た可能性もある。これを一軒ずつ作成してコンピューター入力すると、各年の人口を出すことができる。 英仏の教区簿冊では、教会の洗礼、埋葬のような、その時点の変化だけが記入されているので毎年の人口はわからない。しかし生まれてすぐに洗礼するので、1週間後に死んだとしても出生記録は残り、かつ1週間後の埋葬の記録も残ることになる。一方、宗門改帳には生まれてすぐ死んだ人は書かれていないため、乳児死亡がとらえられないという欠点もある。

  • 上京区千本今出川の北、現在の花車町

    上京区千本今出川の北、現在の花車町

  • 京都の人口趨勢 花車町の世帯の転入率と転出率

    京都の人口趨勢 花車町の世帯の転入率と転出率

  • 宗門改帳 表紙
  • 宗門改帳 中身
  • 宗門改帳から復元した住民基本台帳
  • 上京区千本今出川の北、現在の花車町
  • 京都の人口趨勢 花車町の世帯の転入率と転出率

江戸時代の京都は町衆の自治都市

京都の場合、千年以上も続いているという言い方がされます。しかし、古代の京都は中国を真似た律令制度というトップダウン制度がなかなかうまく機能せずに、どんどん崩れていきました。左京は栄え、右京は人が住まなくなるという現象も出てきます。こうして当初の古代都市はどんどん衰退していきました。その過程で、例えば室町幕府ができれば、幕府権力が一時その中で新たな都市形成を行う。造っては衰退するということを繰り返した、と言うのが正確でしょう。

古代の京都と、中世末以降の町衆の京都は違う、というのが私の考えです。そして、町衆の自治の伝統を基礎につくられたのが近世の京都です。

それに対して、大坂、江戸はそれほどの歴史がない。江戸や大阪との比較はなかなか難しいのですが、例えば、江戸時代中頃、江戸から京にやって来たある狂歌師が、街路の美しさに非常に驚いています。美観や環境を守るというのは、幕府がそのような規制を加えていることはあまりない。むしろ住民による中からの規制があり守られていたのです。ですから、今でも京都では高いビルを建てると反対運動が起こりますし、バブルの時のような乱開発には批判が非常に強い。もちろん、東京でも問題になりましたが、おそらく京都ほど住民が大反対したということではないでしょう。

私は7年ほど前に東京から京都に移り住んできたのですが、町内会活動、自治会活動がたいへんしっかり残っていると思いました。これはなぜでしょうか。ある意味では、京都の持っている長い伝統だと思います。例えば、ある時「運動会がある」と言われましたので、「小学校の運動会ですか?」と尋ねましたら、「町の運動会がある」とおっしゃるわけです。町毎に運動会がある。最近まで学校の運動会などは平日に行い、むしろ町の運動会を日曜日に、メインの行事として行っていたのです。もちろん、子どもも町の運動会に参加し、すごく盛り上がります。なぜそういうことをするかというと、防災という面もあるのでしょう。よく言われるのは、「火を出すような人が町に住んでいたら大変だ」ということで、そういう意味で、町の規制は非常に強い。

江戸時代の京の人口は、あまり増えていないとよく言われます。京都に住むということは当時は大変なことで、その周囲の人、町が、人物を鑑定して居住許可を与えたから、無闇に増えることがなかったのでしょう。引っ越してくる場合、借家人であっても保証人を立てるという厳しいルールが、当時からありました。その保証人も、町の近隣に住んでいる人でないといけない。全然知らない人が保証人では信用しようがないからです。

江戸の初期に、鴨川の河川敷きが住宅地になりました。新地といい「新開発された土地」という意味です。当時の町の史料を見ると、「新地ができると心配だ」という記述が見られます。スラム化を防ぎ町の美観を維持するためにも、妙な人が入ってこないでほしい、と心配したわけです。

現在では、都市の人口が増えると地域経済が活性化するので、町に人口を呼び込もうとします。しかし、この考え方は、空間を高層化して利用することが可能という前提があってのことです。ところが、江戸時代に高層マンションなどありませんから、都市の人口が増えることは、そのまま過密を意味します。家主は家賃収入が得られますから人が住んでいてくれれば儲かりますが、過密は衛生環境の悪化にもつながっていきます。

当時は、町が行政組織になっており、寄り合いも投票もあり、このような人の出入りもコントロールしていました。年寄は現在の町内会長で、輪番制でなります。そういう町組織の強さは京の特徴です。行政はそのような自治組織にかなり丸投げしていたのが実態です。

――なぜ中世末期には各地に存在した町衆組織が、江戸時代にも残ったのでしょうか。

基本的に自治に任せるなら任せよう、住民自治でうまくいくならば、行政が介入する必要はないというのは、江戸時代の考え方です。裁判でも、奉行所のお白砂で裁きをということではなく、できる限り当事者が和解調停したほうがいいという考え方が根底にありました。

ただ、京都が武士の極めて少ない町だから、ということがやはり大きな理由です。江戸は百万都市と言われても、半分は参勤交代で全国からやって来る武士。彼らは役人でもあったわけで、つまり江戸は役人だらけの町で、いわば住民の半数が公務員という奇妙きてれつな町でした。京都には、京都町奉行所とか京都所司代という行政機構はありますが、たかが知れています。ですから、町衆に任さないとうまくいくはずがないのです。

川は行政機構で

では町衆の自治に任せないで、行政が介入する部分がなかったのというと、そうではない。それが川の問題です。

京都がこれだけ人口を抱えられたのには、水が重要な役割を果たしています。第1には、飲み水である井戸水、地下水。江戸は埋め立て地であるために、神田用水や玉川用水を造ってあれだけの人口を養うことができました。京都では、近代になってもしばらくは井戸水でした。明治の京都の水道事業開始は遅いのですが、逆に言えばそれだけ水が豊かだったのです。

第2には、運搬のために使われた高瀬川、西高瀬川などの水路は、流通の上で大きな役割を果たしています。

そして、第3に桂川、鴨川が農業用水として重要な役割を果たしていました。これだけの人口を養うために、京都の周囲の農村地帯では野菜を作っていました。現在の京都駅の南側の住宅地帯になっているあたりは一面の純農村でした。そこから採れるものが、行商の形で市中に運ばれていきました。食糧供給地がうまくいっていないと、京の人は満足に食事ができない。

こうした理由で、町奉行所などの行政機構は川に非常な神経を注いでいます。ですから、川についてだけは行政がトップダウン式に命令を下していたようです。

さらに、廃棄物の問題。よく、前近代のヨーロッパの都市では、道路の方々に屎尿が捨ててあって、臭かったと言われます。ところが、日本の都市では屎尿を堆肥に再利用していました。今と違って、ゴミもほとんどのものは再利用しましたが、それでも出るゴミは川に捨てています。リサイクルできないゴミを処理するシステムがなかったのです。すると、川が汚れたり、農業用水の取水堰などが詰まってしまう。そこで、行政でゴミ捨て場を用意します。これは住民自治では対処できないことですね。つまり、町同士の利害に関わる場所をどの町が提供するのか、空き地はあるのか、といった問題に町奉行所が出てきます。

町で異なる居住者の定住と移動

京都の文書を読んでいくと、同じ京都でも町々に特色があります。

例えば、西九条境内・志水町で職業を調べると、行商人が多い。あるいは料理手間働きというコックさんや、仕立て人。このような人々が住む町には、外からの転入がしやすい。借家人の率も高く、9割近い時もありました。家持はずっと定住していますから、増えるのは借家人です。天保期のしばらくの間は人口が増えています。

そのような人々の年齢を見ると20歳〜30歳台です。20歳台まではまず奉公人ですから、単身で転入してきます。そして、20歳台後半から30歳台にかけ独立し、所帯を持つ。都市で所帯を持つことは大変ですから、晩婚になります。

若いときは奉公人で間借りをしていて、やがて独立し行商人になります。初めは収入もたいしたことはないので、家もちっぽけなものです。それでも、お金を貯めると中心部に移動したり、いい職を探して、すごく動きます。ですから、借家人もどんどん引っ越しを重ね、移動します。

――だいたい、どのあたりから京に集まってくるのでしょうか。

九州、北陸など、かなり遠くからも来ています。農村の史料からはもっとよく分かります。誰がどこへ行ったということが詳しく出ています。例えば濃尾地方、今の岐阜県あたりを見ると、上層の農民、地主層になると子供が京に奉公に行っています。京都に行くと一口にいっても、田舎でただ無学で育った人には住めない所でした。例えば行商なら何とかなるかもしれませんが、それでも仕入れとか、お金のやりとり、工夫、ちょっと商売をするならば帳簿もつけられなくてはならない。教養が必要です。だから、きちんと教養があって学問ができるという人でないと、都市に行っても仕事があるかどうかわかりません。だから農村でも比較的豊かな階層から来ているのです。

ただ、やはり近畿が多いですね。よくわからないのは、近在の農村から来たのか、京都の他の町から来たのかがわからない。山城国としか書いていない。ただ、旦那寺がどこかを見ると、周辺の農村からも来ていることがわかります。極めて多いというわけではありませんが。雇う人は近くだから有利であるとは見なしません。仕事をできる能力がないと、だめなわけです。

もう一つ言われているのは、結構、コネの世界であるということです。ある村からたくさんやって来る。あるいは、親戚を頼って来る。京都におじさんがいるとか、伝手がないとなかなか難しいと言うことでしょう。そのへんが、江戸、大坂に比べて、京都は厳しかったと思いますね。

デフレの中でのブランド戦略

京都の商人は薄利多売はしません。買う人も限られているような金襴緞子などの高額商品を、目が肥えた大名や大商人達に販売するのです。売る側も長年の経験が必要です。ブランド商売ですから大量生産されたら困りますから、やたらに京に人が入ってきても仕事がありません。

そこへいくと、江戸は、薄利多売です。江戸中期以降に、ブランドを守るというので日本中が必死になる時代があるそうです。というのは、織物でも名産地の品に似せた商品が各地で作られるようになり、産地間競争が起きてきます。たとえば、米沢藩の上杉鷹山は特産の米沢織を藩士の子女にまで奨励しましたが、まがい物の横行に悩みました。そのため米沢織のブランドをどうやって守るか、藩でも必死になって考えました。いわば、藩に商社機能が備わっていたのです。農村からの年貢が取れなくなってきたので、だんだんそういうものに依存していくようになりました。

江戸前期は日本の人口が爆発的に伸びる期間です。新田開発で食糧の大増産が行われ、新田村が増え、さらにそれまでなかった城下町というものが全国で生まれます。城下町は、それまで農村に居住していた武士が、強制的に都市に集められた結果できた町です。つまり、「今までは兵隊だったが、明日からは公務員」というようなものです。ですから、それだけの人が明日から食べていかなくてはならないようになる。別の目で見れば、そこに、(自分たちが自給するための農業ではなく)都市人口を対象にした商品としての農業生産が成立してくるわけです。

特産物も、地域差があればあるほど売り込みがしやすい。そのためには、全国的な流通ネットワークが必要で、海運も整備されてきます。ここから、1600年代は高度成長が100年くらい続き、需要がどんどん拡大していきました。

ところが一転して、享保期(1716〜1735年、徳川吉宗の時代)から長いデフレに入ります。新田開発の余地がなくなり、低成長経済になっていきます。1800年代前半までの約100年はデフレ局面です。このあたりから、まさに京都の人口は横ばいになるわけですね。デフレ圧力の中で、商品のブランド力と質を維持するためには、やたらと人を雇わずに、できるだけ熟練度の高い職人を抱えたほうがいいと考えられます。では、実際はどうだったのでしょうか。

西陣の産業構造と人口推移

ここで京都の水ならではの織物を作っていた、西陣の話をしたいと思います。京都というのは、西陣を見てもわかるように、ブランドを大事にし大量生産しない工業都市でした。したがって、西陣地区の人口が増えると、西陣織の品質低下が考えられるわけです。西陣・花車町の宗門改帳からわかることは、まず、一定の人口が維持されているということです。ただ、これは人々が移動していないということを意味していません。動きは非常にあります。

西陣で作る高級品は増産できません。手間暇かけますから、人を雇っても急にうまくなるわけではないのです。そのため人を雇うのは何年かおきにして、時間をかけて一人前にすると、さらに何年か御礼奉公をしてもらった後に独立していくという雇用行動が生まれます。

奉公人は、西陣の中にたくさんいます。しかし、おそらく西陣という地域の中で奉公人を回していたのではないかと思うのです。つまり、西陣の人口の容量はほぼ決まっており、あまり外部から人が入ってこないということです。機織屋が増え過当競争になり、質が落ちるのを防ぐために、江戸時代中期になると株仲間ができます。機織屋の数が増えないのですから、人口が増えないのも当然です。

ただ、西陣の人口が増えていないのは衰退ではなく、工業のあり方がそのような人口構造を求めているのです。西陣の人々は、人をどんどん雇い、生産量を拡大することが自分たちの首をしめることをわかっていたのです。

天保期は、転入してくる人間より転出する人間が多くなります。これが、人口減少となって表れます。なぜ、天保の時に落ちるのか。従来は、天保の危機(1834、36年)と呼ばれる疫病の流行があり、さらにその後、天保の改革を進めた老中水野忠邦が奢侈禁止令を出し、絹物禁止令を出し、西陣にとって打撃を与えたことが原因と考えられてきました。そうであれば、天保の危機の後にさらに西陣の人口が減っているはずです。ところが調べてみると、天保の危機で人口は減っているものの、天保の改革では人口はほとんど減っていないのです。改革に関しては江戸ではうるさく取り締まりが行われたけれど、京都でそれが実質的に機能していたのかどうか疑わしい。これは通説に対する疑問点ですね。

さらに、開国(1854年)になると、国内で価格革命と呼ばれる現象が起きます。国内で生産していた生糸が、横浜から海外に流出するようになります。当時、たまたまヨーロッパで蚕の病気が流行り、絹糸の価格が暴騰します。そこで外国商人が日本の生糸に目をつけて、あっという間に買い取られて海外に出ていってしまいました。西陣では織物を作ろうとしても生糸がない。そこで短期間人口が落ち、すぐには回復しませんでした。

文政、天保、開港と通して、ある家が翌年転出していく割合は約2割。常に一定です。人口が変動しているから、ある時期には人が出て、ある時期には動かないと思うと、そういうわけではない。転入率よりも転出率が2〜3%高い場合があります。このちょっとした差で人口が変わるわけです。つまり、西陣の人口は、停滞しているのではなく、安定的に回転していると言った方がよいでしょう。

上京区千本今出川の北、現在の花車町

上京区千本今出川の北、現在の花車町

人間の「勢い」に水が関わる

ある面積に何人住むのが適当か、ということはわかりません。狩猟採集民ということであれば、食物に応じた最適人口というものがあります。しかし、農耕社会以降は、生産性の向上により人口が稠密になることも可能になります。ただ稠密になると病気になりやすくなるという複雑な要素も出てくるため、現在では、適度な人口という解答はないというのが結論です。むしろ、何をもって適度とみるかが問題になるわけです。それで今が適度な人口かどうかという判断は難しい。

環境により人口が決定されるという考え方がありますが、大事なことは人口が増えたり減ったりすると、そのような変化に適応するために、他の社会システムや生態系システムが変わるという面もあることです。こうしたシステムと人口は、相互依存関係にあると考えるべきです。

その中で、水という要素がどのように関わるか。

歴史人口学というのは、人が「増えた、減った」という事実を探るだけではありません。現在、demographyを「人口学」と訳しますが、明治時代では「民勢学」と訳しました。国の勢いがcensus、現在では「国勢調査」と訳しています。かつては、国の勢い、民の勢いという言い方をしました。

歴史人口学はこうした人間の「勢い」を探るものです。人間が勢いを得るために必要かつ、非常に重要なものが「水」です。水は病気も媒介しますが、水があるから人が住める。食糧生産や流通を支える一方で、洪水もあり、その対策として河川改修や暗渠もできる。水は恩恵をもたらすと同時に凶器にもなる。人間が活き活きと生活するために、水をいかに活用していったかを見ると、水と人口は相互に影響を与えあってきたといえるでしょう

さらには人口の増減が、それに応じた水利システム、社会システムをつくる面も見逃せません。水は「勢い」を支える要素として不可欠な要素なのです。



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