機関誌『水の文化』14号
京都の謎

京都の謎
盆地都市を想像する

編集部

京都はなぜ1200年も続いてきたのか。この謎が今回の出発点である。

そのような大きな問いに、答えが出せるはずもないのだが、京都を題材にすることで、水の文化と都市の関係が見えてくるかもしれない、という淡い期待もある。そこで、今回は、肩に力を入れずに京都の謎で遊んでみたい。

京都の地下には巨大な地下水盆があり、その水量は琵琶湖にも匹敵する。このエピソードは水に関心を持つ人々にとってはちょっとしたニュースだったようで、昨年NHKの番組で紹介されて以来、多くの方々から話の枕詞として聞くことが多くなった。

確かに、豆腐、湯葉、西陣織、川床、友禅染め、貴船神社、等々、京都には川や井戸水と上手につき合ってきたために生まれた事物が数多い。市中に井戸や湧水も多く、水が得やすい土地柄であることが感じられる。

ホタルやトンボの生息数に水量が関わっているのと同じように、都市が人口を養う力(人口支持力)を水の量が決めているのであれば、京都が持続されてきた大きな要因として豊かな水を挙げたくもなる。しかし、果たしてそのように言い切れるか。

もしそうならば、第1に、天水に依存している高地や、乾燥地帯に都市は存在しないこととなる。しかし、実際にそのようなことはなく、人々は水を気にしながらも、少ないなら少ないなりに都市を築いてきた。

第2に、本当に京都は水が豊かな土地だったと言えるのだろうか。この疑問については「琵琶湖疏水」建設当時の逸話が参考になる。1890年(明治20)に造られた疏水は、産業遺産などではなく、現在も京都市民の重要な社会基盤として機能し続けているが、建設の目的は第一に琵琶湖との舟運路の確保、そして、途中からは水力発電が大きな目的となった。この疏水プロジェクトと工部省技師田辺朔郎の奮闘を描いたのが、田村喜子『京都インクライン物語』(山海堂、2002年、〈新版〉)だ。

『京都インクライン物語』

『京都インクライン物語』



この中に、著者は当時の京都府知事北村国道と農商務省の南一郎平との間で、京都の慢性的な水不足を憂える場面をはさんでいる。

「閣下が琵琶湖疏水実現に熱心なのも無理ありませんな。京都は予想以上に水利に乏しい町ですね」
「鴨川をごらんになりましたか」
「京都衰退の原因は遷都にもよるでしょうが、水不足が遠因ともいえますね。この現状では産業を興すどころか、飲料水にもこと欠くんじゃないですか」
「維新のころ、地方から上京したわれわれも、飲み水不足には困りましたよ」
「その点、太閤秀吉は先見の明がありましたな。太閤さんは伏見に城を築いた。伏見ならたっぷりした宇治川からの水利が考えられますから。もし鴨川に潤沢な水があれば、この風光明媚の地に構えたはずです。鴨川は水源からして水涸れでした」

どうも明治初期の京都は、水を利用する庶民の間では「水不足の土地」として意識されていたらしい。しかも、表流水だけではなく、井戸水さえも涸れることがあったという。

現在の京都は疏水のおかげで渇水の心配はない。また、菓子、豆腐や友禅染めなど、井戸を深く掘り地下水を使い続けて何百年もの生業を続けてきた所は多い。しかし、一方で、利用できる水が多いとは意識されていなかった時代もあったのである。

「地下水量の豊かさ」=「暮らしの場面で使える水の豊かさ」とは、ストレートに言いきれそうにない。むしろ、都市に住む人々の求めに応じて、水が豊富なら豊富なりに、少ないなら少ないなりに、技術と文化で水を引き、それを管理する社会の仕組みをつくる。琵琶湖疏水はそのような都市に暮らす人々の勢いと水との関係の象徴にも見える。

同じことは、自動車交通が欠かせなくなっている現代の都市でも言える。人口が増え、都市が巨大化すれば、大量の水を遠方から取水し、大量消費して排水するというシステムができ上がる。

居住者の求めが、水を調達する力を生み、その結果大量の水が集まる仕組みができあがった場所、それが都市だと言えなくもない。しかし、そのようにしてできた大都市は、いつかは壊れてしまうのではないか。そのような不安もあり、持続可能な都市、つまり無理せず続く都市とはどのようなものなのかが、今手探りで考えられている。

今も残るインクラインの線路

今も残るインクラインの線路

拡大して続くか無理せず続くか

それでは都市が持続する、つまり人口が変動をしながらも持続していくのはなぜなのだろう。そもそも、なぜ人は都市に集まって住むのだろうか。

この疑問には、次のような説明が与えられている。最初は行政の中心地や市として都市が生まれ、多くの人が集まる。多数の人が集まれば、多様な人が集まり、さまざまなチャンスも生まれる。職にも食にも困らないし、仕事をするにも住むにも便利である。そして、その便利さがより多くの人を呼ぶ。

この循環は、人が集まれば集まるほど拍車がかかるわけで、「もう住めない」というくらいまで混雑して不便さが増さない限り、都市に人は集まるというのである。このように人が集まることで生まれる現象を、都市の集積効果というが、一言で言えば、人が集まるから集まるという理屈である。その反対に、都市から遠い場所では、人がどんどん都市に向けて流出し、過疎化が進むことになる。集積と過疎はコインの裏表なのである。

現在の東京である江戸は、その良い例だ。江戸の町は、当時は東京湾に注いでいた利根川の低湿地に造成された。水道が造られ、参勤交代の効果もあって人が集まりだし、後背地では食糧増産のための新田開発が行われたために、さらに人口が増えていった。当時は、人口が増えれば環境も不衛生になりやすく、病気が流行することもあった。地方から都市に人が吸い寄せられそこで亡くなっていく現象を、「都市蟻地獄説」と呼ぶ人もいたが、明治になって近代水道も引かれ、江戸はどんどん肥大した。それは高度成長期も同様で、郊外にベッドタウンが立地し、そこで生活する人々の求めが勢いとなって、都市化が加速されていった。しかし、一方で地方の過疎化も進んだ。

つい最近まで、都市は拡大する人口を収容し、それらの住民に活躍の場を与えるために一層拡大する、という循環が続いてきたのである。

では、拡大によってではなく、無理せず続く都市とはどのような都市なのか。これが、実はよくわからない

集積と過疎のバランスがとれたコンパクトシティ

わからないときは、歴史に学ぶのが一つの賢明な方法だ。そこで目につくのが京都である。

京都は1200年も続いている。もちろん、平安時代末期や応仁の乱など衰えを見せた時期もあったが、現在も持続し、近世以降は山紫水明と呼ばれるほどに快適な居住環境を提供し続けてきている。人口も江戸時代はおおよそ30万人程度。現在はマンションが建ったり、南方に都市化が進み京都市人口はおおよそ130万人となっている。これだけの都市でありながら、職住近接で遠距離通勤も多くはなさそうだし、小路に入れば道幅と建物の比率も快適だ。適度な都市の集積がありながら、居住するには心地よい。集積と過疎のバランスがとれた都市。それが京都である。

この「程の良さ」がどこから来るのだろうか、という問いに、「盆地だから」というのは大胆すぎるだろうか。東京のように都市が横に広がろうにも、京都のような盆地では広がりようもなく、南方に向かってしか拡大できなかった。

都であったために適度な集積があり、都市が持続していく程度の人を惹きつける機会があり、なおかつ盆地であるがために人口がそれほど拡大してこなかった都市。これは無理せず続いてきた都市の一つの型と見てもいいのではないだろうか。

ちなみに、このように都市機能が適度な地域にまとまっている都市をコンパクトシティと呼ぶ。コンパクトシティは、集積で得られる効果と過疎が招く影響のバランスを、土地に応じて適応させた都市とも呼べそうで、盆地都市である京都もその一つに入れたい気がする。

清水寺の音羽の滝は観光スポット

清水寺の音羽の滝は観光スポット

抽象的な知識と地域固有の知識

都市にはさまざまな人々が集まるが故に、最新で多様な意見や考え方が集まる場所でもある。若者がミュージシャンになりたければ、東京や世界の大都市ニューヨークを目指すのも道理である。都市に行けば、先端的であると同時に抽象的な理屈、つまり一見、どこにでも通用するかと思えるような知識を身につけることができる。

一方、過疎地ではこのような機会は少ないかもしれないが、その地域固有の知恵というものがふんだんに残っている。都市の集積と過疎という対比は、都市で得ることができる知識の性質、抽象的知識と地域固有の知識の対比とも重なるのである。

水の利用や管理については、この地域固有の知恵が欠かせない。第3回世界水フォーラムでもindigenous knowledge(土着の知恵)という言葉が話題になったが、この種の知識の重要性をかねてから指摘していたのがクリフォード・ギアーツ『ローカル・ノレッジ』(岩波書店、1999年)である。

集積と過疎が適度なバランスを持った都市は、抽象的な知識と地域固有の知識の両方が尊重される都市でもある。京都もかつては日本の中心地として抽象的な知識の集積地でもあったが、一方で、京都固有とも呼べるような伝統へのこだわりを維持している古都としても知られている。

『ローカル・ノレッジ』

『ローカル・ノレッジ』

盆地都市を守るためのスケール

このような目で、改めて日本全国の盆地を眺めると興味深いことが浮かび上がってくる。盆地の底には都市があり、大体はその中心部を河川が貫通している。盆地と一口に言っても、川沿いに細長く広がる北上盆地のような場所もあれば、京都や甲府のようにいくつもの川筋が集まり、豊かな大地を形成している所もある。山辺では水が得やすいし、適度な勾配があるため用水も流しやすい。また常に山が見え、空間的な安心感も得られる。一方、盆地の底は湿地である場合も多く、川が氾濫しやすいリスクも持っている。さらに、郊外に都市化が広がっていくような後背地を持たないため、おのずとコンパクトに収まってしまう都市、それが盆地都市だ。

かつて司馬遼太郎が『この国のかたち』の中で、「谷こそ古日本人にとってめでたき土地だった。(中略)村落も谷にできた。近世の城下町も、谷か、河口の低湿地にできた」と記しているのは、こうした盆地のイメージのようにも思える。

この盆地という地勢が影響を及ぼす文化のまとまりを「小盆地宇宙」と捉え、多数の小盆地宇宙による日本文化の地域多様性というアイディアを出したのが、米山俊直『小盆地宇宙と日本文化』(岩波書店、1989年)だ。この中で米山は、文化統合にはレベルが存在するとし、コミュニティより上で国家よりは下のレベルを、盆地宇宙という言葉で一つの意味ある地域単位として位置づけた。

『小盆地宇宙と日本文化』

『小盆地宇宙と日本文化』



盆地というのは、人間の生息感覚を生かし、都市の持続を考える上での地域単位としては、なかなか良い単位なのかもしれない。盆地の持つ空間や文化のまとまり感は、さらに言えば、なわばり感覚を生む苗床にもなりそうだ。

「ここは自分が暮らし、稼ぐための住処である」と思うと、人には「自分たちの共同の資源がある場所」という意味で「なわばり感覚」が芽生える。漁師は漁場をそのように見立て、猟師は山をそのように見る。このなわばりという言葉から、共有資源(コモンズ)の管理をわかりやすく説明しているのが、秋道智彌『なわばりの文化史』(小学館、1995年)である。

『なわばりの文化史』

『なわばりの文化史』



なわばり感覚を持つのは、何も漁師や猟師だけではない。都市で居住し、都市だからこそ暮らしている人にとって、都市はまさに共有資源であり、守るべきなわばりであるに違いない。しかし、都市が巨大化しすぎると、自分のなわばり感のスケールに容易には収まらなくなってくる。目に見える範囲で都市がまとまって感じられる規模の空間というのは、都市を守っていく上でも意味のあるものなのではないだろうか。

用水をつくり直したときに出土したお地蔵さんが、位置を変えずに奉られている。

用水をつくり直したときに出土したお地蔵さんが、位置を変えずに奉られている。

京都の小宇宙

それでは、盆地都市に住む人々の考え方というのは、どのようなものなのだろうか。京都人について書かれた書物は数多いが、人同士のつき合い方という文化の根幹をなす事柄を大変率直に語ってくれているものに、村田吉弘『京都人は変わらない』(光文社、2002年)がある。

『京都人は変わらない』

『京都人は変わらない』



著者は京料理店の主人。これは京都人についての箴言(しんげん)集ともいうべきものなのだが、面白い部分を抜き出してみると

「(同業者は)商売敵というよりも、みんなで京料理を守り立てて、良うなっていこうという考え方です。どっちみち一代では大したことはできませんから、今後、代を重ねていくなかでも、いい関係を続けていきたい。いずれ自分の孫が世話になるやろという気持ちがあるから、みんなの世話を進んでできる。商売には、長い年月のあいだにはどうしても浮き沈みがあります。誰かのところがしんどいとなれば、世話をしてあげる。いつか自分の所もそうなったら助けてもらわんとならんからね」

ここには、料亭家業を背負っている主人の見ている目線の広さ、時間感覚、家業を続けるということを目的にした合理的な協力関係が透けて見える。

「京都人、とくに僕らのように商売をしている人間にとって、何よりも優先する価値観は『存続すること』です。百年後も存続しているためにはどうするか。この考え方がすべての根底にあり、判断基準となります」と言い切っている。そして、「僕は自分の商売を企業やと思うてません。家業やと思うてる。(中略)企業は利益追求が目的ですが、僕らは目の前の利益よりも、存続の道を選びます」という。

京都の人が皆このように思っているわけではないだろうが、著者の言葉からは京都の文化が個人のレベルでどのように捉えられているかがよくわかる。かつて京都は、天皇や公家に最高の料理を提供するための先端の知恵が集まる場所であったわけだが、同時に、京都固有の心持ちというものも存在したことが理解できる。そのバランスの妙に、読み手は大いに納得させられてしまう。

文化という面で都市を持続させるものは、文化の多様性を産み続けていく伝統的な気骨、それを合理的と感じさせる社会の暗黙の了解のような仕組みが背景にあるのだろう。そこには現在にも生きている町衆の伝統と、京都を自分たちの住処と見る盆地の空間感覚が、大いに影響を与えてきたと見るがいかがであろうか。

無理せず続く都市とは、多様な知恵と土地の伝統をミックスさせて継続させられる都市なのかもしれない。

盆地都市対平野大都市

さて、盆地と流域は英語で言うと同じ単語のbasin。流域は、分水界で囲まれた範囲(集水域)で、降雨を集める河川の範囲に相当することから、英語では盆地と同じ用語が用いられているのである。

盆地と流域という言葉の持つ共通の意味は、河川の上流?下流域を一つの循環単位として見ることである。第3回世界水フォーラムでは流域というキーワードが何度も用いられた。水を流域単位の循環で捉えなくては実効的な政策を考えられないというわけだ。このように、都市の水循環を「集水域」から見る眼差しを「盆地都市」の視点と呼ぶならば、対極にあるのが「平野大都市」の視点である。

平野大都市は、河口部、港湾に適した海辺などを中心に後背地の平野に向けて拡大し、結果として大都市となったものである。都市の集積効果がどんどん進み、必要な水はどんどん増えるために、取水源がどんどん遠方に広がってしまい、水の循環範囲からはみ出してしまう。これは、水を消費する側から見た都市像である。

このような対比は、なかなかおもしろい想像ではないか。やはり、これからの持続する都市を考えるときには、流域という地勢の単位は無視すべきでないと思うのである。京都が、都市形成の上で地の利となった盆地を生かしたように、水の循環範囲を無視することなく平野をも流域の意識で捉えれば、新しい都市づくりの在り方が見えてくるはずである。

もし時間があるならば、あなたや仲間の住む土地や水の歴史を調べてほしい。どんな物語が発見できるだろうか。自分が「守る」というなわばり範囲はどこまでか。昔の水はなぜその場所を流れ、どのように使われていたのか。人づき合いにはどのような心遣いをしているのか。自分にとって暮らしやすい都市とは、どのような都市なのか。

歴史を振り返ることで、心の住処の盆地都市を想像してみたい。そこから、その土地に応じた、身の丈に合った「無理せず続く都市」像、第二の京都が生まれるのではないだろうか

京都 錦市場

京都 錦市場



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