機関誌『水の文化』14号
京都の謎

夏の京都 水風景

京都環境アクションネットワーク代表
松井 惠 (まつい めぐみ)さん

1950年京都市生まれ。NHK金沢支局ニュ−スレポ−タ−、石川の水を守る会、京都水環境研究会、を経てエコライフ京都副代表、現職。第3回世界水フォ−ラムでは「京都の地下水と文化」シンポジウムを開催し、「聞き水」を2,000人に体験していただいた。

祇園祭り

6月の終わりから7月始め、京の町家ではふすまを夏の簾戸に替え畳の上には籐の敷物を敷く。軒先には簾をかけ陽が差し込まないようにする。表の格子戸から奥の庭に至るまで風が吹き抜けるように考えられている。梅雨も開けきらない7月の10日過ぎ、京都のあちこちで祇園祭のお囃子の音が鳴り始める。数多くの鉾があってそれぞれお囃子の音が違うのだが子供たちは皆「コンコンチキチンコンチキチン」なのである。

京都には数え切れないくらいの祭りがあるが、一大イベントはやはり祇園祭りである。街中が祭り一色に変わり、いつもとは違う特別な時を迎える。常、平生は質素倹約を旨とする街衆もこのときばかりは年に一度の晴れの日々なのである。7月17日はメインイベント山鉾巡行で、鉾が街中の大通りを回り、角を曲がるのであるが、これが一番おもしろい。割った青竹を大きな車輪の前に並べ、何度も水をザアッとかける。車輪が、水に濡れた真っ青な竹に乗りかかると、一斉に鉾を斜めに引っ張るのである。鉾先に音頭とりの2人の男性が扇を広げ「ヨーイヤサー」と掛け声をかける。何度か引っ張って青竹の上を90度滑らし次に進むのである。うまい辻回しは2〜3回で回り大喝采を浴びるのだが、下手な鉾は5〜6回もやり直す。

都が京都に移った後、疫病がたびたび流行し、それを封じるため863年(平安時代)、神泉苑で行われた御霊会(ごりょうえ)が祇園祭の起源と云われている。なぜ疫病が多く発生したのか、一般的には都に多くの人口が集中することにより、ゴミや排泄物で水が汚染され疫病が蔓延したと考えられている。遺跡調査で、井戸跡と雪隠(トイレ)が並んで発見されていることが多いということでも想像がつく。かつて2〜3m掘ると水が湧いてくるほど、京都は地下水の豊富な所であった。

京都の夏

7月も終わりごろになると、うだるような暑い日中、尽きることのない蝉の音、京都の夏は特に暑苦しい。盆地特有のくそ暑さ(何と言われてもこの言い方がピッタリとくる)にピタッと止まった風。本当に風がないのである。何でこんな京都に生れたのかと思うことが何度あったことか・・・。

子どものころから夏は大嫌いであった。母に額や首すじに天花粉(ベビーパウダー)をつけて貰い、ゴロゴロと転がりながら座敷から庭の緑を眺めていた。

陽が少し傾いたころ、父の「表に水撒いてこい!」という店先からの指令が、突如飛んでくる。私は跳ね起き、飛んでバケツに水を汲み、杓で玄関先の通りに水を撒く。何度も水汲み場と表を往復し、撒き終わって通路に立つと家の奥からスーッと冷ややかな風が吹き始めた。

私の家は千本通りの材木屋であったが、京都の街の商売屋はどこでも奥行きが深く、50〜100mもあるものも少なくなかった。そして通路が真直ぐに奥へと続いているせいか、風がよく通り、打ち水は本当に魔法の水であった。特に暑い夕べ、父は早々と店を終って子供たちを急いで風呂に入れ、こざっぱりとした服装をさせ、呼んだタクシーで家族そろって出かけることがあった。

嵐山から10分ほど北の清滝まで行き、川床で夕食を食べるのである。支度ができるまで子供達は川に足をつけて待つ。用意ができるころにはあたりが暗くなっていた。京都の街中とは比べものにならないくらい涼しくなって、子供心に別天地だと思った。そのうちにだんだん寒くなり鼻水をたらす羽目に陥るのだが・・・。

ときには貴船、嵐山の鵜飼と夜の川はとくに涼しく、多くの人が涼を楽しみに出かけた。鴨川はあまり子連れで行く所ではなかったらしい。

京都の夏を過すにはいろんな知恵があり、私の子供のころは現代より粋で贅沢な過し方をしていたし、自然との過し方をよく知っていたと実感している。

貴船川の川床

貴船川の川床

自然の冷蔵庫

京都の台所といわれる錦市場の起源は、都が京都に移ったころに起こり、天喜2年(1054)錦小路と改められたという、大変歴史の古い市場である。安土桃山時代、豊臣秀吉天下統一後、街の中心部にあたるこの場所に清冷な地下水が湧き出るので貯蔵庫として魚鳥の市場ができたとある。本格的な魚市場となったのは江戸時代元和年間(1615〜1623)で、今なおずっと同じ地域で市場があり続けている。

京都盆地の気候から見ても魚、肉が保存できる訳がなく、ひとえに地下水のおかげであると考える。江戸時代に京都の職人を綴った『京雀』という書物の中に錦市場の描写があり、なんと大変痛みやすいホタテ貝やサザエ、鯛、タコ、海鼠(なまこ)、干イカ、鮎、鰻あるいはハモ、そのほかに雉(きじ)、生け簀に鯉、と沢山の魚、鳥が店頭に並び、販売している様子が絵に描かれている。これを見て大変ショックを受けた。

今でも保存に使っていた冷蔵庫代わりの井戸が1つ残っているというので、早速見せてもらった。現在は伊豫又(いよまた)というお鮨屋さんで元は魚屋だったと聞いている。井戸は、階段で降りていける降り井戸で、中は普通の井戸より少し広く地下冷蔵室といった感じ。確かに冷っとしていた。地下水の上に箱に入れた魚を浮かせたり、吊っておくことで保存ができ、この井戸を考えた昔の人の知恵と発想に大変な驚きを感じた。

京都の風土、気候等考えるに、決して住みやすい土地ではない。しかし恵まれた地下水をしっかり利用して産業、文化、生活と発展させてきた。悪条件を克服する知恵を持ち、自然をよく知ってうまく利用してきたからこそ、1200年もの間この町が続いていると実感した。ますます京都が好きになってきたかな・・・。

『京雀』の中の錦市場

『京雀』の中の錦市場



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