機関誌『水の文化』35号
アクアツーリズム

訪れる人と共有する生業の場

青々した牧草が続く、阿蘇の草原

青々した牧草が続く、阿蘇の草原

高齢化と後継者不足から、存続の危機が取り沙汰される農村。阿蘇でも、草原保全に不可欠な野焼き作業が続けられない地区があります。「景観資源」として保全したい観光産業の思惑と農家が生業として牛を飼うことで、結果として草原保全を行なってきた事実。 とかく対立の構図で語られる農村と都会、地元の暮らしと観光産業ですが、「それは不毛の議論」、と言う山口力男さんの目指す先をうかがいました。

山口 力男さん

阿蘇百姓村村長
山口 力男 (やまぐち りきお)さん

1947年熊本県阿蘇の赤水に生まれる。同志社大学法学部へ進むが中退。世界各国を放浪。1973年に帰郷、30歳を前に農業を決意。1993年「阿蘇百姓村」開村。農業の振興と、都市生活者との交流の拠点にする。1987年全国農協青年組織協議会委員長、熊本県阿蘇町農協理事となる。阿蘇山麓の農業経営者らと農作物の宅配、農作業請負などのグループを結成し、農村と都市との交流に努める。

周年放牧の試み

繁殖農家が子牛を産ませて、肥育農家が子牛を買い取って太らせて出荷し、食肉業者が解体して商品にすることで、牛肉は皆さんの食卓に上がります。

私は米をつくったり牛をつくったりしている。この地域の畜産家は、私も含めてほとんどが繁殖農家です。

阿蘇の繁殖農家は、普通、夏山冬里方式といって、夏は山に放牧して、冬になる前、11月ぐらいに家に連れて帰って牛舎で飼う。

しかし私はズボラから出ている動機で、一年中、山に置いておったらまずいんだろうか、牛は嫌がるんだろうか、と考えた。もしそれができたら、コストも下がる、と始めてみたんですよ。だから、今は周年放牧といって、一年中、山に置いておく。子牛も山で産ませて、離乳期が済む3カ月齢ぐらいのときに、家に連れてくるんです。それで10カ月齢になるまで育てて市場に持っていきます。

近隣の何軒かの農家もやるようになりましたが、家で飼っているよりも、いなくなったり死んでしまったりというリスクはあります。

牛は生きものですから、食べものと水が不可欠。冬場に山の水が確保できることが、周年放牧の条件になります。冬山の草は枯れてしまいますから、サイレージ(注1)を定期的に山に持っていっています。

行方不明はこの10年で2頭。周年放牧が原因と考えられる死亡は、ここ20年で8、9頭です。

牛の場合は役目を終えたら屠殺されますが、うちでは引退させて死ぬまで飼う。20年というと人間でいえば80〜90歳です。

周年放牧で一番肝要なのは、種付けです。種付けしないと、子牛は産まれませんから。本来、牛の種付けは99%人工授精。人工授精の免許を持った人が、優れた遺伝子を持った雄牛の精子を人工授精させ、より高く売れる牛を交配でつくっていきます。

毎年、県で、種牛の候補となる雄を選抜していくんですが、だんだん絞られてきた段階で落選する雄が何頭か出ます。その雄は屠殺されるわけですが、それもなんですから貸してもらえませんか、とお願いして連れてきます。ですから、周年放牧プラス自然交配。だから、雌牛は私に感謝状をくれる。

畜産農家の都合でいえば、1年1産してくれたら、その牛はパーフェクト。30年、40年の経験を持っている名人でも、13カ月か14カ月1産が限界です。12カ月で子供を産んだら、可能な限り早く乳離れをさせて子宮を回復させて、受胎可能な状態に雌牛の状態を整えて、人工授精して次の子供をつくる。ものすごく条件を整えてやっても、1年1産は難しい。

牛というのは、人間と違って、月に1回しか発情がこないのですよ。それもたった3日間ぐらい。これを逃したら雌は受胎しません。だから繁殖農家にとって、雌の発情がきているかどうかを計るのは、非常に重大な問題なのです。

しかし雄牛ならわかるから、1年1産ができるんじゃないかな、と考えました。データを取っていますが、それでも1年1産は難しい。やはり雌牛の体調もあるんでしょうね。それで平均すると、13カ月1産ぐらいになるんですよ。

借りてきたとはいうものの、県は返せとは言いませんから、うちの雄ももう6年ここにいます。

ハーレムですがお相手が22頭もいるもんですから、最近ちょっと疲れ気味なんです。来たばかりのころは、精悍な顔つきの自信満々の様子でしたが、最近ちょっと。

でも義務を果たさないと、屠場に連れて行かれると必死です。だから、「大丈夫。役目が果たせんでも、ここで死ぬまで飼ってやるから」と言い聞かせているんです。

なのに、柵を越えて隣のかわいい牛の所に行ったりしている。柵なんてね、雄牛にとってはあってないようなものです。ジャンプするもんね。助走なしでぱっと飛ぶ。

牛は生きもの。好みもあって、意思もある。だから牛とつき合うのはなかなか大変です。

(注1)サイレージ(silage)
サイロ(収蔵倉庫)に牧草などを詰め、発酵させ、密閉することでカビや腐敗を防いで、長期保存を可能にした家畜用飼料の一種。水分量の調整や乳酸菌などを添加するなど、農家によって工夫が凝らされる。

水場を整える知恵

今はポンプで汲み上げていますが、じいちゃんの代には技術的にも財政的にも山に飲み水を確保することが無理だった。

そのころはどうしていたかというと、草千里の放牧地にある窪地に水が溜まるじゃないですか。そこを牛たちは自分たちの糞尿を踏み固めてビロード状にして、水が地下に浸透していかないようにして、飲み水を確保していたんです。

だから牛たちは、ここの窪地には雨が降ったら水が溜まるということをわかっていて、地下浸透したら水が減ることもわかっていて、そういうことをしたということです。だから、牛も馬鹿にしたらいかんのです。生命体は生きる力を持っているということです。草千里には、今でもそうした水飲み場が残っています。先輩からの又聞きですけれど。

広大な敷地を利用する

昔は大半が牛飼いだったのに、今は集落370戸中、畜産農家は5戸だけ。

ということは、あの草原はもう維持できない。私たちは、熊本の人たちの水源としてあの草原を守っているわけじゃなくて、阿蘇の暮らしや畜産が、結果として水源を守ってきたということです。

ストレートな言い方をすれば、採算に合う価格でなくなれば廃業するしかありませんから。370戸中、5戸といったら、統計学上は誤差の範囲ですからね。もう畜産農家はない、と言ってもいいぐらいの数です。

しかし、うちの集落が管理している草原が260ha(東京ドーム55.6個分)といいますから、かなり広い。これだけの面積があると、畜産でないと維持できないでしょう。全部をゴルフ場にするわけにもいかないぐらい広い。散策コースにしても広すぎますよね。

所有権と利用権

所有者は個人だったり百何十名の集団であったり市役所だったりするのですが、利活用は主に入会権です。

入会権の前書きには、草原利用は「採草放牧」と明記されています。つまり牛にまつわる場所だ、と規定されているんですね。ただ、もう採草も放牧もしない人が圧倒的に多い中では、その入会権はどう考えたらいいのか、ということが問題になってきています。

例えば畜産農家としての採草放牧はやめたけれど、その集落の利益を得るためにゴルフ場に貸した場合は、入会権が認められているのです。拡大解釈ですね。

こういうときには、金が発生するから取り決めが厳しいんです。例えば、ゴルフ場が100万円払った場合、所有者の市は5万円、入会権者の集落が95万円を取ります。この先、こういうことはどんどん増えていくでしょうね。

入会権がどういうものであれ、権利を主張するからには、それなりの義務がある。草原を維持・管理しなくてはなりません。その象徴的な行事が野焼きです。

これらのことを平安時代から行なっていたらしいのです。しかし今、継続が危ぶまれています。

集落によってはボランティアを入れているところも増えています。ボランティア自体を否定するつもりはありませんが、大分県湯布院町での野焼きによる死亡事故のように不慮の事故が起きたときに、ボランティアに対してどういう責任を取るんだろう、と思います。

うちの集落でも2年ぐらい受け入れたのですが、ボランティアの人たちは張り切っているでしょ。それで本来先頭にいかなくてはならない入会権者のほうが下がっちゃって、観客席におるんですよ。それはおかしい。権利を主張するなら義務もちゃんと果たすべきじゃないか、といって、ボランティア受け入れを断ったんです。

しかし、入会権者だけで野焼きを実行するのが危うくなっている集落もあります。そういう所に(財)阿蘇グリーンストックという団体が入ってやっています。

  • 春の野焼きを間近に控える、一面の枯れ野

景観は資源か

ここで生まれ育って、ずっとおる人間にとっては、極めて当たり前の景観であって、景観が資源だと言われてもピンときませんね。

私も一度出て行った人間ですが、日常の暮らしの中で、ここを資源ととらえたことはない。自分たちの暮らしの場ですから。牛を飼うために必要だったから、強い関心を払ってきただけであって、資源という気持ちはありません。

ただ、財産という意識は、どこかに持っている。だから、関心は薄れるけれど、完全に無関心になることはないのです。だから、都会の人とか、他人が自由にしようとすると気になるはずです。

他所からの人が別荘を建てることなんかは、冷ややかに見ていますね。自分が生産年齢としてピークにいるときには都会にいて、そこで税金を納めておいて、引退したらこっちに暮らす、というようなことには、感情論としてですが、違和感を覚えると思います。

これは実際の話ではありませんが、例えば集落でつくって維持している水道を別荘の人に分けるかどうか。自分で買った土地だからといって、ほとんど挨拶もなしに家を建てて住むような場合に、水をやらないケースも出るかもしれません。そうなると、その人は「田舎の人というのはなんて閉鎖的だろう」と思うでしょうが、そこに至るプロセスが問題になりますものね。

でも、これだと永遠に平行線。村の封建制とか閉鎖性とかいいますけどね、所詮、人ですから。お互いが向かい合おうという気持ちがあるかどうかです。

今の都会の人たちは、生きるためのインフラがすべて整備されている所で暮らしている。しかし、農村にはそれらが不備な所が多い。だから、入会的に物事を決めていかなくちゃならない場面がたくさん残っているんです。

田舎ではそれができないと暮らしていけません。だから、田舎に住もうと決めたときには、そのことを覚悟しないと。

集落370戸のうち、入会に関しても無関心な家が増えてきて、今現在、参加者は150戸です。

採草地は分けて、不公平感がないように毎年場所を変えながら利用します。草原に印があるわけではないんですが、みんな、もうわかっていますから。

ただ、今はもう5戸しかないもんですから。私が農業を始めたばかりのころは、まだ40戸ぐらいはあった。だから、今は1人で10倍ぐらいの土地を利活用しているということです。それでも、5戸で分けているんですよ。

万が一、これから新規に畜産に参入したいという人が現れたら、当然のことながら土地は増えないわけですから、1戸あたりの土地は狭くなります。でもまあ、そうなったら、みんな喜んで狭くしますよ。

幸い、私は経験しなくて済みましたが、昔は採草も大きな鎌で切りました。ものすごい重労働です。作業によってはかなりハードです。危険もあります。平坦地で何の障害物もなかったら、トラクターも安全なんです。でも傾斜があったり、谷があったり。しかも今は人手がありませんから、トラクターを使わないとやりきれません。

自慢じゃないですけれど、4年前に私はトラクターの下敷きになったんです。骨がバラバラになって、今でも身体に鉄板が入っています。そういうリスクもありますからね。直後は身体が怖がって、アクセルを踏めないんですよ。やっぱり、思い出すと怖いですよ。

そんな目に遭ってまで、なんで私は畜産を続けるのか。「お前はまだ死んではいかん。生きて社会貢献しろ」と神の啓示があったんです。それでなければ、今ごろ死んでいる。

金で解決することではない

環境税とか水源税とかいわれています。資金はもちろん大切ですが、そういう税金を集めれば畜産農家が増えたり、地域が活性化するかというと、私は必ずしもそうではないと思うんです。

それよりも社会の雰囲気というか、意識や価値観が変わらないとだめですよね。

今の社会は、ますます都市に一極集中したり、価値観が限られてきたりしています。そうじゃなくて、価値観がもっと多様化し、いろいろなことを受容する社会になっていかないと、いくら金があっても解決しない。

長い間、比較論がいわれてきて、都市と農村ではどっちが良いというような発想しかなかった。そういうつまらない議論はそろそろやめたほうがいい。

誰に権利があるとかないとか、そういうことではなくて、普通に生きていく人たちの価値観の中に「都市だろうが農村だろうが同じように大事」という気持ちが芽生えて、もしそこが損なわれようとしていたらそれを「サポートするのは当たり前だ」と思う社会にしていかないと。そういう意識が一般化されないと、もう田舎は、農業は、畜産は守れないと思います。

田舎にいることが、さも負い目や引け目に感じられるような社会が異常なのであって、もっと正常な社会をつくらないと。

比較優位論は、金や効率でしか、ものを見ないんですよ。価格だけ比べて高いから買わない、という素朴な行為が日本の畜産をどんどん追いつめています。ちょっと高いけれど日本の生産者がこれだけ頑張っているんだからと、ごく普通に選択する人が、ごく普通にいるような社会になれば、ずいぶん多くのことが解決するように思います。もちろん、それは生産者側の勝手な願いかもしれませんが。

牛肉偽装事件のことをいえば、今の流通の問題点もある。一生懸命つくる人、一生懸命売る人が、それぞれ2割ずつぐらいの利幅しかもらえず、その中間にいる流通業者が6割の利幅を持っていってしまう。これをそのまま放置しておいていいのか、という議論も当然出てくるでしょう。

これも含めて、もう少し日本人の人間としてのレベルアップが必要でしょう。品格というのは、そういうものだと思うんですが。

だって、都会から来る人たちが喜んでくれることを、田舎に住む人たちが胸を張って共有できるような環境になってないじゃないですか。比較論ばかり言って。

都会から来る人間はフリーライダーだ、というばかりでは、不毛の議論。人の喜びが自分の喜びになるような世の中にならないと。そういう関係を早くつくらないと、田舎は守れない。

「たまたま違う場所に住んでいるけれど、目指すところは同じ」と思いを共有できるような社会になったら、農村は守れる。そうでないと、いくらふんだんに農業補助金をここに入れても、田舎は守れない、と私は思います。

この場所を大切にしたい

こう言いながら、どうしても立場にこだわっているなあ、と自分でも反省します。よく考えたら、今は農村の人のライフスタイルや価値観も都会と変わらない。だから、本当に議論しなくちゃいけないことは何なのか、ということに気づくことですね。

そういう世の中をつくるためには、もっと立場が違う人たちが話し合う場をつくらないといけない。

うちの集落でも入会権者は150戸と言いましたが、自分の意志で出た人はともかく、入れない人は「なぜ、うちには入会権がないのか」ということが今、議論されています。集落によって与え方が違うんですが、うちの集落では長男だけが継承してきたという経緯があるので、次男以下や分家が発言し始めた。昔からの家でも持っていない場合があるんですよ。

私個人の考えとしては、この議論をプラスに持っていきたい。入会権者がどんどん減っている今だからこそ、新しい人を入れたらいい。ただ、そのために一定の条件をつけなくてはならないから合意形成が必要。

入会権というのは慣習法のようなものだから、その時々で決めていけばいいんです。

ただ、みんな権利には敏感だけれど、それには義務がついてくるからね。その両方を果たすというのは、至極当然のことです。

資源と考えて野焼きに来るのか、財産と考えて野焼きに来るのか、そんなことを問題にすることはない。この場所を大事にしたい、という気持ちが共有できていればいいんです。

住む人と訪れる人が、どのように阿蘇を共有するか。どちらも阿蘇が好きなら、好きということが両者の共通項ですから。そこには差異はありません。

立場の違いを、対立関係でとらえることはないんですよ。



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