機関誌『水の文化』17号
雨のゆくえ

天気予報官の前をみるこころと判断 忘れられない 雨の話

倉嶋 厚さん

気象エッセイスト
倉嶋 厚 (くらしま あつし)さん

1924年生まれ。気象庁主任予報官、鹿児島地方気象台長などを歴任。その後NHK解説委員として「ニュースセンター9時」などの気象キャスターを務める。理学博士。 著書、監修書に『暮らしの気象学』(草思社、1984)『雨のことば事典』(講談社、2000)『やまない雨はない』(文芸春秋、2002)『癒しの季節ノート』(幻冬社、2004)他。

雨の恩恵は忘れがち

日本人の思いからすると、「天気が良い」は晴れのこと。ことわざ大辞典にも「雨の降る日は天気は悪い」と書いてある。つまり、雨は悪いと思われているのです。ポーランドでは「私がいないと私を求め、私がいると私の前から逃げるものは何か」というなぞなぞがあります。もちろん、答えは雨。雨を悪者にしながら、私を求めていると言っているわけで、雨の恩恵を受けながら雨を悪者にしているのは、なにも日本だけではないことがわかります。「百日の日照りには飽かねど、一日の雨には飽きる」ということざわもあります。結局、雨の恩恵を当たり前と思っている。

昭和初年の話ですが、中国地方が干天で雨の降らない年がありました。そのときに、「明日は天気が悪く、雨が降ります」と予報を出したら、「農民がこれだけ望んでいる雨を、悪いとは何事だ」と批判がきました。つまり天気は人によって望んでいる事柄が違うので、「良い」「悪い」という表現は当たらないわけです。ですから、現在の予報の現場では「いい天気、悪い天気」という言い回しは使わないようにしています。

雨を悪者と見る立場からは、梅雨前線や台風も悪者と思うでしょう。私は、長い間天気予報の仕事をし、警報や注意報を出す仕事をしてきましたが、そのような雨も、相手にしていると、だんだんと敵のような恋人のような気持ちになってくる。台風も梅雨前線も恋人みたいに思えてくる。

考えてみると、西日本は、台風と梅雨前線が、年間降水量の半分を降らせます。だから、空梅雨で台風がやってこないと、たいへんな水不足になる。数年前の渇水では、ダムも底が見えるくらいでした。ダムの底にほんの少し溜まっている水を〈死に水〉と言います。「死に水まで取って配水します」と担当者が言ったら、「死に水を飲ませるとは何事か」と文句が来て、言葉を変えたらしいですね。まぁ、そのくらいの水不足でした。

ですから、やはり梅雨前線は有り難いもので、私は「梅雨前線は空の水道で、台風は空の給水車」と言っています。ある水不足の時、〈台風は本土をそれるああ無情〉、〈台風は来なくて困り来て困り〉という川柳が投稿で載りましたよ。台風が東京にやってくると、新聞は台風の記事に相当誌面を割きますが、その片隅のほんの小さなスペースに「これで、東京の水道局、一安心」と載る。台風とはそういうものなんですね。

恩恵は忘れてしまう。その上で、都合良く天気が来てくれるものだと、天気に期待している。だから、私は台風も梅雨前線もありがたいけど、気まぐれで当てにはならない。雨に中庸の美徳を求めてはいけない、と思っています。降りすぎたときの災害を防ぐのは、人間の備えに求められる責任でしょう。

日本は雨が多いから、日本人は〈水はただ〉と思っているのでしょう。雨が降ると天気が悪いから、なるべく晴れてほしいと望み、そして実際に水不足に陥ってくると、たいていは適当に雨が降る。だから、そっくり雨に依存してしまうのでしょうね。

予報官 天気図にない雨に濡れ

雨も、肘傘雨(急に降り出し、笠をかぶる間もなく、肘を頭上にかざして笠がわりにするような雨)と言うように、日本には本当にいろいろな言い回しがあります。それらは、みんな暮らしの中から生まれたのでしょうね。

俳句では、霧は秋の季語で、秋以外に使うときは夏の霧とか冬の霧といいます。虹は夏の季語で、それ以外では秋の虹、春の虹と書きます。ところが雨の場合は、一言で雨と書いても、季語ではない。つまり、雨には季節がない。だから、四季にいろいろな雨の名前がうんとあります。春雨、菜種梅雨、筍梅雨、虎が雨、秋時雨、寒の雨・・・それだけ日本人と雨は切り離せない間柄なのでしょうね。

イギリスでも、お天気についてはよく話題にするようですね。イギリスと日本の違いは降水密度です。降水密度というのは、年間降水量を年間降水日数で割った数字です。これは東京が格段に高く約10mm、ロンドンは約4mm。つまり、日本の雨は強く、イギリスは弱い。

ですから、よくヨーロッパ映画を見ていると、雨の中をコートの襟をちょっと立てて歩いていく人が出てきますね。あれは、日本ではとても考えられない。イギリスの雨は弱いから、傘も差さないですよ。

ぼくはモスクワの気象局で、夏に仕事をしたことがあるんです。ある日、雨が降ったら何人が濡れて帰るか数えようと思った。勤務時間が終わるころ雨が降り始めたので、「ソレッ」とばかりに門の所に行きましたら、誰も傘を持っていない。濡れて帰るのです。モスクワの予報局は美しい女性が多かったけれど、一人だけね、書き損じの天気図を頭にかざしていましたよ。「悪いのは天気図よ」というもので。私も濡れて帰りましたが、ホテルに帰り、1時間もすると乾いてしまいました。それぐらい雨は弱い。もっとも、日本の気象庁でも傘を持ってきていないのはいましてね。〈予報官、天気図にない雨に濡れ〉という川柳もある。

折り畳み傘が1954年(昭和29)に開発されるわけですが、あれは助かったね。日本人は雨傘民族でして、たくさん持っているんですよ。

昔、駅から自宅に帰ろうと思ったら雨がじゃんじゃん降っている。そばを見ると、傘が500円で売っている。どうしようかと迷いながら、濡れて300mほど歩くと、300円で傘が売っている。濡れない価値が200円の値段の差になっていて、面白いと感じました。

予報官 後ろを見たら満身創痍

昔の天気予報は、よく外れました。外したときは、こちらも罪滅ぼしに濡れて帰りましたけれど。

私がお天気キャスターをしていたのは、NHKの「ニュースセンター9時」で、木村太郎さんと宮崎緑さんのコンビの時代です。大きく予報を外した翌日、宮崎さんが「夕べの天気予報は、外れましたね」とおっしゃる。そこで僕は、「夕べのことはもう聞かないで」と逃げた。昔流行った、小川知子の歌の歌詞です。そうしたら、スタジオや副調整室の人間がみんな笑い出しちゃって。冗談ですむことではないかもしれませんが、そのときの天気図はとても判断が難しいものだったのです。

予報官は英語ではフォア・キャスター(forecaster)といいます。つまり、前を見る人なんですよ。後ろを見たら満身創痍ですからね。昨日のことにくよくよしていたら、先のことを考えられません。だから、「反省すれども後悔せず」大政治家と同じです。

昔、天気予報の名人がいて「明日の天気を絶対に当てろ」と言われた。すると「明日は雨降る天気にござなく候」と答えた。もし雨が降ったら、「明日は雨降る、天気にござなく候」、もし晴れたら「明日は雨降る天気に、ござなく候」と、点の打つ位置を変えれば、必ず当たるというわけです。そんな頓知のような話もあるぐらい、天気予報は難しかったということです。

これほどではないにしても、予報というのは受け取る側の自己責任もある。私は海軍にいたことがあるんですが、上官に二つのタイプがあってね。そっくり私の情報を信用して、予報がはずれると「オマエ切腹しろー」と騒ぐ上官。もう一つは「ウン、わかった、わかった」と言うのだけれど、顔を見るとどうやら僕のことを信用していない。僕の意見は7割ぐらいに止めて、自分で判断を下すタイプ。僕は後者のほうが偉いと思うな。

予報技術の発達

例えば集中豪雨というのは、せいぜい10km四方で起きる現象です。ところが、それまでの観測網はだいたい50km四方の網で捉えていました。いわば、集中豪雨というのはどう猛な小魚なわけですが、それを粗い網ですくおうとしていたのです。里は晴れているのに、川が増水し、死体が流れてくる。山で何が起こっているか把握できなかった時代の話です。

集中豪雨をつかまえるために、いろいろとアイディアも出しました。交番の警察官とか学校の先生に頼み込んで、観測機器を置かせてもらい、「この目盛り以上の雨になったら、気象台に電話してください」と頼む。これでかなりわかるようになりました。しかし実際は、集中豪雨で被害が出るような雨が降っているときは、自分や回りを守るだけで精一杯で、電話なんてかけていられないのです。

私が気象庁にいた1974年(昭和49)に、アメダスの運用が開始されました。電話の公衆回線に電波を載せられることになり実現したものです。情報革命の第一歩ですね。これで細かい情報が入手できるようになり、予報技術が格段に向上しました。ただ当初は予算がなくて専用回線にできなかったので、災害時に電話回線がパンクすると、役に立たなかったということがありました。

また、レーダーも雨は捉えられますが、空中の水蒸気が刻々と溜まって、雲になるところまではわからない。しかし、この過程を捉えるのが、実は一番大切なのです。それもだんだん捕捉できるようになってきました。今は、気象衛星で雲だけではなく、目に見えない水蒸気もわかるようになってきています。数時間先のきめの細かい予報など、僕らのころは考えられなかったですが、今は当たり前にできるようになっています。しかし、そういうことが当然になると、「もっとやれ」ということになる。赤ん坊が自分の足で立ち上がったら、さあ歩きなさい。うまく歩いたなと思うと、駆け足しろと後ろからせき立てられる。

情報化社会になって、正確な情報を早く入手することが、資産的な価値を持つようになった影響です。いくら正確な短期間予報をしても、伝達手段がなかったら役に立たないですから、まさに情報化社会の賜物です。例えば大型船舶は目的地に1日早く到着すると、軽く200万円ぐらい違ってきます。経済的評価が難しく、予算も割きにくい天気予報の分野に、民間気象予報のビジネスが成立するようになった背景には、こうした情報化社会の発達があります。

私が予報官のときに、二つの考え方を先輩から教わりました。一つは、「天気予報は地下室でやれ」もう一つは「天気予報しようと思ったら、まず屋上に行け」刻々と変わる空模様に気を取られていると大局を誤る、理論武装をしろというのが地下室派。屋上派のほうは、空を見ろ、現場を大切にしろ。

私はどちらかというと屋上派だったかな。

空には飛行機雲が出て、なかなか消えない。どう考えても雨になる兆候が出ているのに、天気図にはそれが表れてこない。天気図を信じて晴れと予報すると外れる場合は、現実に起こっていることに適応しなかったからです。しかし、逆の場合もありました。どちらが的中率が高いというわけではないんですよ。だから、屋上に行ったり、地下室に行ったり、しょっちゅう往復していた。まさにエレベーター人生ですね。

仕事をするときも、世の中を渡るときも同じことが言えると思います。

国を挙げて台風と闘う

1949年(昭和24)にアメリカのハリケーン被害を調べると、死者は平均すると数十人の単位でしかありませんでした。私は昭和24年、25歳で予報の現場に入りましたが、当時は台風が来ると、死者が平均100人単位、個々の場合は1000人以上になるのは当たり前でした。1958年(昭和33)の狩野川台風では、888人の死者を数えています。日本とアメリカとでは、被害者数の桁が違う。ものごとを表す数字の桁が違うということは、本質が違うということです。戦勝国と敗戦国の差で、当時の日本は国土が荒廃していましたし、天気予報の中で防災の占める割合がまだ低かったと言わざるを得ないでしょう。では、いつその桁が減るか。1959年(昭和34)9月26日に伊勢湾台風が日本を襲いました。死者4697人、つまり約5000人。昭和34年といえば、経済白書で「もはや戦後ではない」と謳われて3年後ですよ。台風の死者が5000人というのは、国辱的な数字です。それで、日本中の人が青くなった。臨時国会も開かれ、成立したのが災害対策基本法です。

それまでは、防災の主体は地方自治体なのに、気象台も、建設局も、みんな縦割りの国の機関で地域としてのまとまりがなかった。そこで地域防災計画を作り、総合的対策をたてた。つまり、国を挙げて闘うという体制ができたわけです。

先ほども言いましたが、天気予報は経済的評価がされにくかったために、営利事業としては成り立たなかった。だから国家事業として行われてきました。しかし国家事業としても、いったい幾ら税金を使っていいのかもわからなかった。人口が1億人の時代、気象予算が60億円のときコーヒー予算といって、国民一人当たりコーヒー1杯分の予算がつきました。気象予算が600億円になったときに、コーヒー1杯にケーキ1個ぐらい。それが、国連の世界気象機関の取り決めで全般海上警報を出している。この機関は、地球上の海を大きく分けて、台風が近づいているときなどは、3時間ごと、通常は6時間ごとに予報を出しています。国を超えて、気象観測を防災に役立てようという働きで、各国が集まってのシンポジウムなども活発に行っています。天気予報が経済効果を左右するという認識が認められ、評価されてきたことの表れです。

これからは、こうした防災気象技術者を養成していく傾向になるでしょうね。

心に残る予報官

1961年(昭和36)に第2室戸台風がやってきました。強さは伊勢湾台風クラスで、それが、大阪湾を通って高潮を起こしました。今までの台風だと、2年前の伊勢湾台風のときで死者5000人。だから、「今度の台風も死者5000人か」という見出しをつけた新聞もあるくらいでした。ところが、蓋を開けてみたら、死者は194人。5000人から200人に減った。しかも大阪の高潮での死者はゼロでした。

この当時の大阪管区気象台長は大谷東平でした。この人は予報官の現場から台長になった人で、本当の現場育ちです。明日は第2室戸台風来襲という日に、大阪府知事、放送局、防災関係者に「大谷東平が特別に申し上げます。明日は全力をあげて台風に備えてください」と伝えた。それは偉かったと思う。一人の予報官が、大台風や大高潮に遭遇するのは、一生に1度あるかないかです。そこでしくじったら、2回目の機会は無い。男の勝負時というものですよ。社会はどういう情報を望んでいるか。それをいつ出したら一番いいのか。情報が出ていく先のことを考える必要があるのです。

もう一人私の心に残る予報官が、藤原咲平です。第5代の中央気象台長(昭和16〜22年)でした。彼は、予報官の心得として、自己顕示欲で冒険をしてはいけないということを言っています。奇功を焦ってはいけないと。ただし十分な研究の結果、どうしても動かせない理由があるときの冒険はよろしいとも言っています。

【藤原咲平の「予報官の心掛け」】

1933年(昭和8)に書かれた以下の12点。自然を相手にするときの心構えとしても読め、その意味するところは深い。

  1. 学問の進歩を取り入れ、時世におくれないこと。
  2. 予報の不中の原因を探求すること。他人の予報も注意して、他山の石とすること。
  3. 判断力に影響するから、身体を健全にすること。
  4. 精神的の心配事も判断に影響するから、精神を健全にすること。
  5. 予報期間中は、他事にたずさわらぬこと。遊戯にこってはいけない。研究は当番以外の時に行うこと。
  6. 睡眠不足の時は、よい予報は出せない。
  7. 酒を飲んでいる間はかえって頭が明晰になったように感ずるが、それは実は妄想である。
  8. 自分の前に出した予報に引きずられないこと。
  9. 自分の力の範囲を確認し、その埒外に出ないこと。
  10. 世間の気持ちを斟酌すべきだが、迎合してはならない。
  11. 非常にまれな場合をねらって、予報に奇跡を願ってはならない。
  12. 自分の発見した法則、前兆を買いかぶるな。

(倉嶋厚『暮らしの気象学』草思社、1984より)

今ここで失敗を怖れてものを言わず、ことを行わなかったら、これまで研鑽努力して積み上げてきた自分の人生が無になってしまうという時がある。その時は失敗を怖れてはいけない。それで失敗しても、それは仕方がないですよ。ただ皮肉なことに、今が勝負時かどうかは、たいてい後からわかる。

この人が言うもう一つの教訓は、正しい判断の妨げになるものの第1は私心。第2は不健康。第3は自惚れ、と書いてある。僕は、これ全部、人生に当てはまると思う。中学生が修学旅行で京都、奈良に行って、仏像を見たりするけれど、自分の人生と重ねあわせた視野しかないのですから理解できるはずがないでしょう。モスクワの気象局に出張していたとき、感心したのは忙しい人、地位が高い人ほど20日も30日もバカンスをとるんです。忙殺されているときこそ、行け、と言ってね。だから僕は、今40代の修学旅行を勧めているんだ。40代は肝心な年代。若すぎても理解できないし、あんまり歳をとっても生かせる先がないわけだから、肝心な年代の人に、もっと豊かに生きてほしいね。

――やまない雨はない、という倉嶋さんの本のタイトルも人生そのものですね。

やまない雨はない。雨は必ずやむんですね。でも、降っているときは、いつまでも続くと思ってしまう。羽田でじゃんじゃん降りのとき、飛行機に乗って雲の上に上がったら、当たり前だけれど晴れていた。「雲の上はいつも青空」、諦めることもときには肝心なんですよ。そういうことは、歳をとってから気づくんだな。



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