機関誌『水の文化』18号
排水は廃水か

排水は困った存在だ

鳥越 皓之さん

筑波大学大学院人文社会科学研究科 教授
鳥越 皓之 (とりごえ ひろゆき)さん

1944年生まれ。東京教育大学大学院文学研究科(社会学)修了。 著書に『柳田民俗学のフィロソフィー』(東京大学出版会2002)、『環境社会学の理論と実践』(有斐閣1997)、『花をたずねて吉野山』(集英社2003)、『家と村の社会学』(世界思想社1993)、『水と人の環境史』(共編、お茶の水書房1984)、『トカラ列島社会の研究』(お茶の水書房1982)他。

排水とは困った存在である。もちろん悪友にもよい面があるように、排水にも探せばよい面もある。しかし本心のところ、やはり困った存在だ。排水とは、平たく言えば、使い終わって用のなくなった水である。排水に対して、人びとが配慮をしていた歴史は古いが、関心をもちはじめた歴史は浅い。関心をもちはじめた頃に「排水」という用語と発想が定着したと言っても過言ではないだろう。わが国でいうと、これは公害が意識されはじめたころと一致する。もっとも、産業公害のはじめは江戸期あたりで、たとえば大坂の西にある灘郷で酒づくりの作業の失敗により、多量の腐った酒米を排水(悪水)にして川に流出させるというようなことがしょっちゅうあったようだ。これは臭くて付近の住民の顰蹙(ひんしゅく)をかった。この産業活動から生じる排水の問題は、水俣公害にまで連綿とつづいていく。

生活排水もじつに困った存在だ。日本の河川や湖のいわゆる「汚染」の過半の責任は生活排水にある。よく知られているように、生活排水には多量の有機物が含まれていることが多いので、肥料として使われてきた歴史がある。たんに物を洗うことなどによる有機物の少ない水は、表の道に散水をした。私はいま中米のグアテマラから帰国してきたばかりだが、グアテマラのある町の生活を見ていると、しょっちゅう誰かが家から出てきて道に散水をしている。これで砂埃が立たなくなり便利である。また、日本でいえば、米のとぎ汁にあたるようなやや濃い使用後の水は、自分の家の植物に与えている。結果としてこういう方法で解決された排水の場合、排水という用語は意識されていない。

生活排水のうち、もっとも有機物が濃いのは糞尿である。濃いから値打ちがあった。江戸期の書物を繙(ひもと)くと、糞尿を提供してくれる家々に野菜などを無料で提供していたと書いてある。この集められた糞尿は田畑の隅に設けられた藁葺きの肥溜めに入れられていた。この習俗はわが国では昭和30年代まではどこにでも見られたものである。この肥溜めの表面は厚く固まり、地面のように見えるので、私は幼少の時期に、試しにそれに乗ってみたところ、ドンブリと沈んでしまって情けない目にあった経験がある。母親に真っ裸にされ、愚痴を言われながら、なんども井戸水を頭からかけられた。私は口をなるべく開けないように泣き続けている自分の目の端から、近所の大人たちや友だちが楽しげにわらっている顔が見えたのをいまでも覚えている。

中国の北京では、およそ明から清国にかけての時代まで、「水道」に対する「糞道」があった。水道とは水を支配する空間(「北海道」と類似の用法)で、複数の町内にあたる地域空間の水売りを差配(さはい)する親方がいたのである。他方、「糞道」とは糞尿を差配する地域空間で、そこの糞尿から利益を得る親方がいて、糞道の拡張のために、けっこう争いがあったと古い文献は伝えている。この用水・排水の二種の親方を「両覇」とよび、糞道を牛耳っている親方は「糞閥」とも表現されている。これほどに糞尿は値打ちがあった。

こうして、生活排水に値打ちがあった時代はけっこう長かったのである。したがって、生活排水を処理したのち放流するという下水道政策を推し進めるのではなくて、現在、その有用性を見直そうという考え方があり、技術的工夫がなされている。それ自体は敬意を表すべきだと私は思っている。

だが、排水はやはりその本質において、困った存在である。その点は、ゴミも同様である。リサイクルを通じて有用性を掬(すく)い出すことも可能であり、その努力を高く評価すべきだが、やはりその本質は困った存在である。そして私の意見は、困った存在であることに目を背けるべきではないというところにある。

私たちは生きているかぎり、困った負の存在を生み出すということをもっと正直に認めるべきではないか。私たち一個一個の人間が、困った存在を生み出すことの意味を存在論から吟味すべきではないか。「ポストモダン」という新しい時代が人口に膾炙(かいしゃ)されることが多くなったが、私は来るべき時代の政策の中に、私たち自体が負の存在を生み、それとつきあわざるをえないという両義的な存在であることを位置づけるべきだと思う。負の存在をも生み出す私たちが、それでも前に向かって生きていくとしたら、どのようなものになるのかを子どもたちと一緒になって考えたいと思う。そのほうが私たちは、共に暮らす者である他者にやさしい存在になれるのではないだろうか。



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