機関誌『水の文化』43号
庄内の農力

庄内赤川水源林保全の歴史
庄内赤川土地改良区の取り組み

一面に稲穂が実る豊かな水田風景。出羽富士と称される鳥海山をはじめ、摩耶山、金峰山、月山、羽黒山などの山に囲まれる庄内平野が、土地改良のモデルと言われるまでになったのは、先人による用水確保の努力があってのこと。しかし庄内赤川土地改良区は、用水確保に加えて水源涵養林の取得と保全という側面でも、貢献してきました。清和亮次さんに、その苦労とたゆまぬ努力の歴史、これからの指針について、うかがいました。

清和 亮次さん

庄内赤川土地改良区 理事長
清和 亮次(せいわ りょうじ)さん

1938年山形県東田川郡三川町に生まれる。1996年5月に旧・中川土地改良区理事に就任、旧・中川土地改良区副理事長、旧・赤川土地改良区連合総括監事、2005年4月庄内赤川土地改良区副理事長就任と同時に、旧・赤川土地改良区連合副理事長。2009年4月より現職。
(清和亮次さんは2012年8月10日、庄内赤川土地改良区理事長を退任され、新しく、渡部敏美さんが理事長に就任されました)

庄内赤川土地改良区の成り立ち

庄内平野は南北100km、東西40km。庄内赤川土地改良区は、庄内平野の鶴岡市、三川町、庄内町、酒田市にまたがる赤川左右岸で農地や農業資源を管理している組織です。

多くの普通水利組合は明治20年代につくられましたが、1949年(昭和24)の土地改良法で土地改良区に組織替えしました。その後、1960年(昭和35)国営赤川土地改良事業の実施により、長い歴史を持つ赤川土地改良区は解散し、赤川土地改良区連合を設立しています。

しかし時代が移り、農業を取り巻く状況の変化、また維持管理の高度化に対応するために国営赤川土地改良事業二期事業が行なわれることが決まりました。2005年(平成17)に青龍寺川土地改良区、中川土地改良区、天保大川土地改良区の3組織が合併し、庄内赤川土地改良区が設立されています。2006年(平成18)赤川土地改良区連合は解散し、その業務を赤川共同管理として庄内赤川土地改良区に引き継ぎました。その際、赤川土地改良区連合に所属していた因幡堰土地改良区は、独立した組織として存続する道を選びました。

さらに従来は流域内で合併していた慣例を超えて、2009年(平成21)流域外の八沢川土地改良区を吸収合併して、受益面積が1万1440ha、組合員約6000人という、現在、山形県で一番大きな土地改良区となっています。

治水中心から始まる

赤川上流の年間降水量は約3000mmで、春先の融雪期には潤沢な水量に恵まれますが、長い間、水害にも悩まされてきました。記録として一番古いのは1133年(長承2)に起こった水害で、50日間も水が引かなかったと書かれています。

庄内赤川土地改良区の端緒である赤川筋水利土功会も、利水というより治水事業を目的として結成され、1885年(明治18)堤防及び護岸工事を5カ年事業として行なっています。その後、治水安全度の向上によって、徐々に治水から利水に切り替わってきた歴史があります。

赤川からの水田用水

赤川の二大支流は、大鳥湖を源流とする大鳥川と、月山、湯殿山から発する梵字(ぼんじ)川。朝日地区落合地点で合流して赤川となり、放水路開削以前には最上川に合流して日本海に注いでいました。

水源となっている大鳥湖(水面標高996m)は、旧制山形高等学校教授の安斉徹先生によって調査が行なわれ、日本では珍しい花崗岩地にある湖であり、堰止湖(せきとめこ/自然現象によって運ばれた土砂などで堰き止められてできた湖沼)であることなどが確認されています。

1934年(昭和9)には、湖水を灌漑用水として利用するために、湖の排出口に制水門が設けられました。私たちの先輩がコンクリートの袋を背負って行って、高さ3mの制水門をつくり、約114万2000tの水資源を確保したのです。今でも職員が鍋釜背負って、徒歩で片道3時間かけて3泊4日の作業に向かう、大変山深い場所です。

赤川から水田用水を取水した歴史は古く、堰の成立年など不確かな部分もありますが、戦国時代以降から徳川幕府中期までに築かれたとされる九つの堰(熊出堰、三ヶ村堰、青龍寺川堰、大川堰、志田堰、因幡堰、五ヶ村堰、中川堰、大宝寺堰)が、庄内平野の南側を水田開発するのに寄与してきました。

庄内で堰と言った場合、取水口ではなく用水路を指します。また、溝(こう)と堰は明確な使い分けがあって、溝と言った場合は民がつくって民が管理したものを、堰と言った場合は官がつくって民が管理したものを指します。

先人が苦心してつくった堰の間では、取水のための取り決めが〈分水慣行〉として厳しく定められていました。この〈分水慣行〉は、明治以降、実状に合わせて改められています。

今でこそ一面に田んぼが広がる、実り豊かな水田というイメージがある庄内平野ですが、新田開発以前は荒れた扇状地。大河川の堤防や用水路がつくれるようになったのは、戦国時代に築城技術や鉱山技術が発達して以降です。用水路を敷き、土壌改良を行ない、河道を固定して治水を実現した先人の努力によって、広大な平野は耕作地となったのです。

赤川の河道が現在の位置に安定したのは、1602年(慶長7)最上義光(よしあき)が熊出村の江口(こうこう)を締め切って、鶴岡に向かっている流路を東側に変えて城下一帯を水害から守ろうとしたことがきっかけです。

赤川左岸の勾配は上流部〜中流部までは平均1/200〜1/300ですが、中央部より下流は標高50m前後で1/1000〜1/3000。右岸は、標高20〜30mの下馬渡地点の段丘より下流は、標高5m前後で1/1000〜1/3000。いずれも中央部より下流は非常な平坦地となっていて、わずかに北傾しています。

国土地理院基盤地図情報(縮尺レベル25000)「山形、秋田、新潟」及び、国土交通省国土数値情報「河川データ(平成19年)、土地利用細分メッシュデータ(平成21年)」より編集部で作図
この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の基盤地図情報を使用した。(承認番号 平24情使、 第750号)

越中堰と天保堰

難工事を実現するだけの土木技術が発達すると、それまで稲作が不可能だった土地にも水を引いて水田開発することが求められるようになりました。

高台にあるため古来から水が得にくい土地柄だった旧・朝日村、旧・櫛引町、旧・羽黒町を潤すためにつくられた越中堰は、1714年(正徳4)にできました。地元の大館藤兵衛元忠という人物が水源を求めて山野を踏査した末、月山、湯殿山から発する梵字川の右岸、旧・朝日村の三栗屋というところに取水口を設けることを決意し、旧・櫛引町の黒川まで延長約11kmを開削する旨、庄内藩主酒井家に届け出ました。貫通までに11年間かかる、大変な難工事だったといわれています。

私財を投じて越中堰を完成させた大館藤兵衛元忠の肖像画は、水神堂に祀られ、後世まで崇められています。越中堰は長く地元の人たちに管理されてきましたが、越中堰普通水利組合、越中堰土地改良区を経て、1978年(昭和53)天保大川土地改良区に合併し、その後、庄内赤川土地改良区の管理になりました。

大館藤兵衛元忠から7代あとの子孫である大館藤兵衛元貞は、1832年(天保3)藩命を受けて旧・櫛引町黒川地区の開田事業に着手しました。ちなみに黒川地区は春日神社の神事能として、500年続くといわれる重要無形民俗文化財 黒川能を守り伝えている地区です。

元貞は最初に田沢川から取水する延田(のべた)堰をつくりましたが、田沢川は水量が少なく、充分な水が得られませんでした。そこで新たな水源を求めて月山山中を探しまわり、流域の異なる田麦川水系の金剛山川を田沢川に導水することを計画しました。

1837年(天保8)6月、工事着工。象の倉と呼ばれる巨大な岩山に水を通すためのトンネルを掘るという前代未聞の難工事でしたが、毎日1000人に及ぶ人夫を動員する大掛かりな工事を敢行し、わずか2カ月で延長9.9kmの用水路が完成しました。この功績により、大館藤兵衛元貞は名字帯刀を許され、大堰守、大組頭格に任じられました。今でも本区の祭神として組合員から崇められています。

天保堰から田沢川に注ぐ最終部は、15mもの落差の滝になっていて、水しぶきが上がり煙のように見えることから〈煙見の滝〉と呼ばれています。これは、天保堰が竣工し通水したその日、庄内藩主酒井忠器(ただかた)は城外に出て、はるか落ち口に見える激しい水煙を望見し、その際に命名したと伝えられています。しかし、急流が崖を削り取って後退しているため、現在では目視することはできません。

現在の天保堰は、1980〜1989年(昭和55〜平成元)にかけて、県営赤川地区灌漑排水事業によって、かつての位置より約10m上流に設けられたものです。取水口も〈河床直接取水〉(バースクリーン工法)に改修し、9.9kmの水路を流下して田沢川に注いでいます。

天保堰水利土功会がのちに天保堰普通水利組合となり、その後、田沢川普通水利組合と合併し黒川普通水利組合に、それが天保堰普通水利組合と改称し、大川堰普通水利組合と合併して天保大川土地改良区となってのちに庄内赤川土地改良区の管理になりました。

庄内赤川土地改良区は、このようにたくさんの伝統、来歴を持った土地改良区が複雑に結集してつくられた組織なのです。

  • 庄内赤川土地改良区HP(http://www.shonaiakagawa.jp/)、国土地理院基盤地図情報(縮尺レベル25000)「山形」及び、国土交通省国土数値情報「河川データ(平成19年)」より編集部で作図分メッシュデータ(平成21年)」より編集部で作図
    この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の基盤地図情報を使用した。(承認番号 平24情使、 第750号)

  • ご案内くださった庄内赤川土地改良区工務部工務課の佐々木正秀さん。

    ご案内くださった庄内赤川土地改良区工務部工務課の佐々木正秀さん。

  • 大館藤兵衛元忠を祀った祠と水神碑が、越中堰頭首工脇に建つ。

    大館藤兵衛元忠を祀った祠と水神碑が、越中堰頭首工脇に建つ。

  • 天保堰は、巨大な岩山にトンネルを掘ることで通水している。

    天保堰は、巨大な岩山にトンネルを掘ることで通水している。実際に現地を見て、江戸時代に手掘りでつくられたことに驚嘆の思いがした。

  • 現在の天保堰は、県営赤川地区灌漑排水事業によって1980〜1989年(昭和55〜平成元)に改修されたもの。天保用水路トンネル内、向かって左側が水路で右側は作業員のための通路。

    現在の天保堰は、県営赤川地区灌漑排水事業によって1980〜1989年(昭和55〜平成元)に改修されたもの。天保用水路トンネル内、向かって左側が水路で右側は作業員のための通路。

  • 田麦川水系の金剛山川から田沢川に水を落とす、落差15mの〈煙見の滝〉。間近で見ると、水しぶきといい音といい、すごい迫力だ。

    田麦川水系の金剛山川から田沢川に水を落とす、落差15mの〈煙見の滝〉。間近で見ると、水しぶきといい音といい、すごい迫力だ。

  • ご案内くださった庄内赤川土地改良区工務部工務課の佐々木正秀さん。
  • 大館藤兵衛元忠を祀った祠と水神碑が、越中堰頭首工脇に建つ。
  • 天保堰は、巨大な岩山にトンネルを掘ることで通水している。
  • 現在の天保堰は、県営赤川地区灌漑排水事業によって1980〜1989年(昭和55〜平成元)に改修されたもの。天保用水路トンネル内、向かって左側が水路で右側は作業員のための通路。
  • 田麦川水系の金剛山川から田沢川に水を落とす、落差15mの〈煙見の滝〉。間近で見ると、水しぶきといい音といい、すごい迫力だ。

用水確保の苦労

天保堰がある場所は標高が高いため、雪深く、春が遅い当地では、訪れるのも容易ではありません。土木重機がなかった時代に、手掘りでこれだけのトンネルを掘った先人たちの力には、本当に驚かされます。

明治30年代には水利拡張時代を迎え、横倉沢、濁沢などの渓流を金剛山川に導水し、開拓地に通水しました。ちょうどそのころつくられたのが、明治堰です。

たらのき代(※1)は古来水に恵まれず、開田は不可能とされてきました。1900年(明治33)に天保堰から水を引く計画を立てましたが、天保堰の受益地である黒川でも水が不足していたために、なかなか許しがもらえませんでした。

横倉沢の水を金剛山川に導水するという天保堰の水利拡張工事を手伝えば許しが得られるのではないか、と期待しましたが、それもかなえられずにたらのき代の人たちは大変つらい思いをしました。

1905年(明治38)ようやく天保堰から分水の許可が下り、明治堰が完成しました。たらのき代の人たちは、新たに取得した水利権の分、天保堰の上流に代償として水路を掘ったといいます。

たらのき代の人が言うのには、

「分水を許可してくれた田麦俣地区に対しては、1963年(昭和38)に一時金15万円を支払うことでおしまいになるまで、毎年、献納米を払っていました。水をもらうということは、それだけ厳しいことでした。
 1970年代後半(昭和45〜)まで日の出から日の入りまで盗水チェックと水番のために毎日当番が上がってきていたんですよ。それは、自分たちが夜中にこっそりと水路を掘って堰をつくったように、別の集落の人が水路を掘って水を取らないか、チェックするためです。標高の高い所に掘った水路ですから、少し削り取るだけで簡単に水を落とすことができるのです。盗水のための水路が削り取られていないか、水路をたどりながら、片道2時間かけて歩くのが日課でした。
 上流部の水路は自然渓流を利用したもので、水面部分を狭く掘り、胴を広く掘っています。これは許可が得られる前に秘密で掘ったので、水路が見つからないようにするためです。水路を隠すために、大きな岩の蔭に掘った、という話も伝わっています」

ということです。こういう話を聞くと、水を得るのがいかに厳しいことだったか、という苦労が伝わってきます。

※1 たらのき代
漢字表記は"木へん"に「荒」。

  • 悲願だった水をたらのき代にもたらした明治堰。手掘りの土水路は、今も現役

    悲願だった水をたらのき代にもたらした明治堰。手掘りの土水路は、今も現役

  • 奥深い山中から、平野部まで延々と水が運ばれる。

    奥深い山中から、平野部まで延々と水が運ばれる。

  • 悲願だった水をたらのき代にもたらした明治堰。手掘りの土水路は、今も現役
  • 奥深い山中から、平野部まで延々と水が運ばれる。

渇水と銅山開発

庄内赤川土地改良区の水源涵養林は、1885年(明治18)設立の赤川筋水利土功会によってつくられました。

土地改良区における水源涵養林の保全というと、明治用水(愛知)における矢作川上流部の森林が有名で、庄内赤川土地改良区の水源涵養林は残念ながらあまり知られていません。

私たちの先人の努力を、この機会に、是非知っていただきたいと思います。

赤川筋水利土功会が水源地域にある大鳥湖を調査したのは、1883年(明治16)に渇水が起こったからです。

赤川の上流部には豊かな森林があり、水源涵養に貢献してきました。森林は庄内藩主の所有でしたが、農民に無料で貸し与えられ、植林しながら利用されてきました。しかし廃藩置県後、木材需要が急増したこともあり、乱伐が目立つようになったのです。1883年の渇水を契機に水源地を詳細に調査した赤川筋水利土功会は、その荒廃に危機意識を持つようになりました。

この調査の様子は、赤川筋水利土功会が『大鳥湖調査紀行』という記録に残していて、赤川普通水利組合に組織替えしたのちにも受け継がれました。1889年(明治22)には、改めて委員を選出し実地踏査を行なっています。1890年(明治23)の通常会において、「民有地を買い上げ、官有林の払い下げを制限して、水源林を設置する」という水源涵養林設置の基本方針が確定されました。

ちょうどそのころ、古河財閥による大鳥鉱山の開発が行なわれ、銅の精錬のために燃料用に木材が大量に伐採されるようになりました。

古河財閥の創業者 古河市兵衛は、1875年(明治8)草倉鉱山(秋田)の成功をきっかけにして、足尾銅山(栃木)の再開発に着手します。急激な鉱山開発の結果、日本の公害問題の原点ともいえる鉱毒問題が下流の群馬県・渡良瀬川で発生しました。

足尾銅山の鉱毒事件は衆知のことでしたので、大鳥鉱山の開発に伴い、山地の荒廃、水源の枯渇を憂慮した赤川普通水利組合では、大々的に水源林を守る運動に総力を挙げることになり、まずは官有林を保安林に編入する運動を開始しました。

その結果、この集水地帯の一部を水源涵養林にするため、1908年(明治41)及び1914年(大正3)、1917年(大正6)にわたり、旧・朝日村地内の国有林3万522haを保安林として設定させました。また、国有林、私有林を合わせ1319haを払い受け及び買収し、区有財産として人工造林、維持管理を行なってきました。

保安林への編入は、燃料用木材の伐採を制限することにつながりますから、赤川普通水利組合では損害賠償措置として、大鳥集落(大泉村)へ給与金を支払う契約を行ないました。古河財閥という大資本に対抗して、保安林への編入に成功したのは、大鳥集落へ賠償措置を行なったから、と考えられます。

当初、大鳥集落が国有林の伐採許可を得るか、国有林の払い下げを実現することで燃料用木材伐採が可能になるまで、という期限付きの給与金契約でしたが、大鳥集落への国有林払い下げが思うように進まなかったために、1915年(大正4)以降は水源地保護委託費の名目で、今日に至るまで支払いを続けています。

また、1899年(明治32)に国有林の拡大造林路線が決定されたときに、不要存置林野と見なされたものを民間に払い下げて財源を確保するという方針が取られました。赤川普通水利組合では、その動きをいち早く察知して、官有林の払い下げと大鳥集落が保有していた林野の転買取得を計画しました。このときに取得した林野は、現在も水源涵養林の中心をなしています。

昔は林業も景気が良かったですから、とうちゃんが出稼ぎに行っている冬の間、かあちゃんと嫁さんの二人が暮らすのに樹齢50〜60年の杉を5本売れば間に合った、と言います。その当時は毎年40haずつ針葉樹を植林して経営していけば、維持管理費も出て利益にもなったわけです。

それで土地改良区が森林整備をして水源林経営もしていたんですが、木材価格が低迷し米価も下がっているということで、最近は補助金などをいただいて、朝日村森林組合(現・出羽庄内森林組合)に業務委託して管理しています。

こうした厳しい時代に水源涵養林の保全を続けているというのは、子どもたちや学生さんたちに向けての環境教育のお役に立てば、という気持ちもあります。

戦後進められた農地改革と土地改良によって、庄内赤川地域は我が国における土地改良のモデルと言われるまでになりました。その礎は戦国時代以降の用水路開削に求められますが、その後も用排幹線水路の改修や耕地整理事業などの大規模な土地改良事業が営々と続けられた成果でもあるのです。

変化に対応するこうした柔軟さは、庄内赤川土地改良区成立までの複雑な改編、合併に表われているのではないでしょうか。

特に土地改良区が水源涵養林を維持管理することになった経緯を知ることで、私たちがいかに水を大切に守ってきたかということについて、理解していただけたら幸いです。

宇都宮大学農業環境工学科教授の水谷正一さんが『土地改良区と流域管理—とくに水源涵養林の経営と水利用について—』という論文を書かれています。

「明治用水の水源涵養林は、頭首工地点の流域面積約920km2に対して約4.5km2を占めるに過ぎないから小さなものであることは明白である。しかも水源涵養林の経営は、収益事業としては成り立たない時代になった。では、水源涵養林の保全の意義をどこに求めたらいいか」

という問いを投げかけ、

  1. 外部者に対しては、利水者自らが水源涵養を行なっているというデモンストレーション効果。
  2. 内部者に対しては、貨幣価値の変動に左右されない安全な財産管理方法であるというアピール。
  3. 組合経営の保険的機能。
  4. 結果的に、下流における開発利益を上流に還元する意義。水源涵養林赤字経営の欠損部分を、下流における受益者が負担することで、継続性が担保される。

と、まとめられています。

特に4番目の意義について、水谷先生は「山林の公益的機能を維持するための負担行為を土地改良区が担っている」と指摘しています。

もちろん、こうした負担にも限界がありますし、欠損分の補填には組合員の合意も必要です。しかし、私たちの先輩の苦労を思えば、簡単には投げ出さないで、粘り強く努力しなければいけないでしょう。

食料生産の現場で起きている、このような状況をみなさんに知っていただき、うまい解決法を一緒に考えていけたらうれしいことだと思います。

  • 庄内赤川土地改良区の理事長室に掲げられた〈水五則〉

    庄内赤川土地改良区の理事長室に掲げられた〈水五則〉

  • 山深い頭首工からの用水路は広範囲に及び、草刈りなどの管理保全も大変だ。

    山深い頭首工からの用水路は広範囲に及び、草刈りなどの管理保全も大変だ。

  • 沢の水

    沢の水

  • 強清水の余水吐。正面から流れてくる水は、天保堰からの主系統。左側から沢の水(写真上)を受け入れている。

    強清水の余水吐。正面から流れてくる水は、天保堰からの主系統。左側から沢の水(写真上)を受け入れている。

  • 庄内赤川土地改良区の理事長室に掲げられた〈水五則〉
  • 山深い頭首工からの用水路は広範囲に及び、草刈りなどの管理保全も大変だ。
  • 沢の水
  • 強清水の余水吐。正面から流れてくる水は、天保堰からの主系統。左側から沢の水(写真上)を受け入れている。


(取材:2012年7月17日)

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