機関誌『水の文化』22号
温泉の高揚

野沢温泉村の湯仲間と野沢組
利用する側と管理する側の総有

野沢組惣代事務所

野沢組惣代事務所

編集部

長野県野沢温泉は、まちづくりの話に興味がある人々にはお馴染みの場所だろう。地縁法人「野沢組」の活動は、長年にわたり温泉地を守ってきた自治活動として、まちづくり関係者から注目されてきた。また温泉通の間では、「湯仲間」が守る13ヶ所の共同湯は、近年大変高い人気を博している。

そこで、温泉という共有資源を守ってきた組織「野沢組」が、どこまで現代の地域づくりの参考となるのかという視点で見直してみた。「温泉だけ」あるいは「自治活動だけ」を取り上げても、「野沢組」の果たしてきた役割はよく理解できないに違いない。むしろ温泉と自治活動という両者が一体となった温泉コミュニティが、時代に適応しながらいかに温泉や山林や人の力を資源としてきたか、「暮らし」と「観光」を両立させてきたかに、焦点を当てたほうがわかりやすいのではないだろうか。

「温泉観光地の文化史」を追うことで、「温泉地の暮らしを持続するとはどういうことなのか」と考えてみると、今まで見えなかったことが見えてくるかもしれない。

そこで、今回は、温泉、自然、そこに暮らす人たちの3つの関係から、どのような温泉文化が野沢温泉に沸き起こってきたのかを探ってみよう。

左の写真は「松葉の湯」の湯仲間の掃除当番一覧。3月の札には後出の富井一志さんの名前があった。 右:河原湯の湯仲間名簿は河原湯の入り口を入ったところに掲げてある。

左の写真は「松葉の湯」の湯仲間の掃除当番一覧。3月の札には後出の富井一志さんの名前があった。 右:河原湯の湯仲間名簿は河原湯の入り口を入ったところに掲げてある。

野沢組とは

長野県野沢温泉村は長野市から北へ50kmほどの場所にある、人口約4600名の山村だ。山を下り千曲川を挟んだ隣りは新潟県。スキー客によって全国にその名が知れ渡った「野沢菜」を知らない人はいないだろう。

8世紀前半、仏教僧の行基が発見したといわれるほど、古くからの謂れがある野沢温泉。庶民が湯治にやってくるようになったのは江戸時代に遡る。飯山藩主松平氏が大湯に別荘を建て、庶民にも湯治を許可したことから、湯治場として人気が高まったという。その後、飯山線が1920年(大正9)に開通し、全国から湯治客が、その後はスキー客が野沢温泉にやって来るようになる。

現在、村の中心部(豊郷地区)には麻釜・真湯・寺湯(2ヶ所)・河原湯・大湯・松葉・秋葉・十王堂・横落・新田・中尾という13の外湯がある。この外湯と同じ名前の「区」からなる集落で、野沢温泉は構成されている。

野沢にある13の泉源を管理しているのが野沢組だ。野沢組は、室町時代の農村に生まれた村落結合体「惣(そう)」に端を発しているともいわれるが、はっきりしない。ただ、現代に続く惣代による活動は、1887年(明治20)から記録に残っている。

現在の野沢温泉村は、江戸末期には柏尾村、重地原村、北原新田村、野沢村、坪山村、平林村、虫生村、七ヶ巻村、東大滝村から成る地域だった。1875年(明治8)には前4村が合併し豊郷村に、後5村が合併し市川村となり、その後何回か分離・編入を繰り返した。そして、1956年(昭和31)町村合併促進法、いわゆる昭和の大合併により、野沢温泉村と市川村が合併し、現在の野沢温泉村になったのである。このとき、市川村は合併に際し、山林など村有財産を各区に分配した。そのため合併すれば、旧野沢温泉村の温泉や山林は村有財産を持たない旧市川村との共有になってしまう。旧野沢温泉村側は分割委譲することで村有財産が散逸することを防ぐために、財団法人野沢会を設立したのである。温泉権を野沢会が持ち、温泉を分配する仕組みが現在も守られているのは、このときの判断のお蔭である。

現在も野沢組・野沢会が管理している共有財産は、温泉に限らず山林、水利権にまで及んでいる。ちなみに税法上の理由から温泉の使用料などお金に関係することは(財)野沢会が、祭りなどを野沢組が行なっているが、組織のメンバーなどはほとんど同じであるから、実質上イコールと考えて差し支えない。

野沢温泉村「大湯」。13ある外湯はどこでも湯が熱い。とくに「大湯」は激熱だが、水でうめると効用が下がるので、うめないのがマナー。本格的な木造湯屋建築で、着替えるところと湯船の間仕切りはない。入り口には薬師如来が祀られている。

野沢温泉村「大湯」。13ある外湯はどこでも湯が熱い。とくに「大湯」は激熱だが、水でうめると効用が下がるので、うめないのがマナー。本格的な木造湯屋建築で、着替えるところと湯船の間仕切りはない。入り口には薬師如来が祀られている。

野沢組の組織と惣代の役割

野沢組は次のような組織で、運営されている。

・正惣代 1名
・副惣代 2名
・協議員 20名
・区長(伍長の統括)12名
・伍長(5〜20組の世話役)92名
・戸数(組の構成母体)751戸
(2000年3月31日現在)

正副惣代の任期は1年で、一部の個人に権限が集中しないようにという配慮からなる工夫。行政上の長である村長でも解決しづらい問題も、惣代の鶴の一声で解決するといわれるぐらい、名誉と尊敬を集める役職である。惣代は、野沢組として取り組む村落特有の「結(ゆい)」という仕組みによる川の堰払い、公共施設の雪下ろし、山林の下草刈りの差配を『常務規定』に従って行なうことが決められている。現在の野沢組惣代・西方誠さん(64歳)も、本業は宿屋の主人だが、惣代の仕事は9時から5時までの常勤。評議員以上の役職で集まる協議会が、1ヶ月に1回ある。この他にも、各委員会がありかなり忙しい。昔は当たり前に思われていた社会奉仕だが、現代生活の中ではかなり大きな負担を強いられている。なかなかなり手がないそうだが、何とか今まで続けてこられた。毎年3月に惣代選挙が行なわれるが、選挙の前にはだいたい次は誰かが決まっているそうだ。

さて野沢組の活動は、7つの委員会によって行なわれている。その内容を見ると、村の財産保全や紛争の回避調停にも対応しているようだ。そのとき役に立つのが、野沢組惣代事務所の地下にある文書収蔵庫に長年蓄積されてきた古文書。西方さんよると、

「ここの地下には、郷蔵(ごうぐら)という古文書収蔵庫があります。争いごとの解決するために、過去の事実関係を調査する際は、文書係の立ち会いのもと文書の封を開けます。昔の記録は、全部記載されています。正副惣代3名は、日誌にその日のことを全部記録するのが務めです。
 何十年も前に惣代が書いた日誌を調べることも多くて、付箋がついているところがけっこうありますよ。記録をつける我々は、責任重大というわけです」

こういう文書がきちんと保存され、価値を認められる正当性を持つということが、慣習的な組織の活動を支えることなのだろう。

野沢組七委員会
総務委員会
  正副惣代経験者で構成。惣代を援助し組運営の全般を担当
文書管理委員会
  惣代の文書蔵(郷蔵)に長年保存されている古文書の管理・研究
温泉管理委員会
  野沢組所有の温泉源の管理運営、共同浴場の管理支援
式典祭事委員会
  湯沢神社、三峰神社、健命寺等の社寺に関すること。灯籠祭り、道祖神祭り等、祭りの運営、執行。
林野道路委員会
  野沢組が所有する山林原野の管理、道路に関する業務
堰委員会
  堰、用水の管理、近隣各区との用水の問題を担当
労務委員会
  野沢組各区長と連携した共同作業を所管
  • 湯澤神社の社務所を担う野沢組惣代事務所には、古くて大きな金庫があり、その歴史の「重さ」を物語っている。 下右:野沢組惣代 西方誠さん

    湯澤神社の社務所を担う野沢組惣代事務所には、古くて大きな金庫があり、その歴史の「重さ」を物語っている。 下右:野沢組惣代 西方誠さん

  • 地下にある文書収蔵庫へ下る階段

    野沢組惣代事務所に入ると地下にある文書収蔵庫へ下る階段があるが、文書係の立ち会いのもとでないと、惣代といえども立ち入れない。

  • 歴代惣代の名簿。明治20年から惣代という名称を用いるようになった。

    歴代惣代の名簿。明治20年から惣代という名称を用いるようになった。

  • 湯澤神社の社務所を担う野沢組惣代事務所には、古くて大きな金庫があり、その歴史の「重さ」を物語っている。 下右:野沢組惣代 西方誠さん
  • 地下にある文書収蔵庫へ下る階段
  • 歴代惣代の名簿。明治20年から惣代という名称を用いるようになった。

野沢組の活動

野沢温泉を歩くと、村の中には幾筋もの用水が流れている。水利権は組にあり、用水管理も組が行なう。

「堰は村のものですが、管理は野沢組でします。道路補修や融雪にも、補助金を出して助けます。例えば1千万円の工事だったら、村が900万円、区が50万円、野沢会が50万円という案分で補助金を出します。共同湯の管理は野沢組ではなく湯仲間(後述)がしていますが、改修の場合は野沢組と野沢会から10%ずつを助成します」

さらに、野沢組は森林も持っている。昨年までは村営で運営していたスキー場も、2005年に民営化され「株式会社野沢温泉スキー場」となった。野沢組はそのスキー場の地主であり、株式の6割を(財)野沢会として保有している。

また、毎年1月15日に行なわれる「道祖神祭り」は日本三大火祭りに指定されており、これも含めた祭礼も組の管轄となる。お話をうかがったのは昨年12月末であるが、今年度の三夜講(さんやんこう)(「地域の文化資源を伝える野沢組と道祖神祭り」を参照)の総括(世話人のひとり)山田善徳さんが祭りの夜に身につける、藁でつくったオタテグツの履き方を習いに来ていた。

「こういう藁細工をしてくれる人も、なかなかいなくなってしまってね」

と西方さん。伝統の継承も、野沢組の大切な仕事だ。

  • 雪かきにも利用される村を巡る水路の管理も野沢組の重要な仕事だ。ガードレールがない水路には堰板をはめ水位を上げ防火用水とするための差し込みがある。豪雪地帯の活きた里川だ。

    雪かきにも利用される村を巡る水路の管理も野沢組の重要な仕事だ。ガードレールがない水路には堰板をはめ水位を上げ防火用水とするための差し込みがある。豪雪地帯の活きた里川だ。

  • 今年度の三夜講の総括山田善徳さんが祭りの夜に身につける、藁でつくったオタテグツの履き方を習いに来ていた。

    今年度の三夜講の総括山田善徳さんが祭りの夜に身につける、藁でつくったオタテグツの履き方を習いに来ていた。

  • 雪かきにも利用される村を巡る水路の管理も野沢組の重要な仕事だ。ガードレールがない水路には堰板をはめ水位を上げ防火用水とするための差し込みがある。豪雪地帯の活きた里川だ。
  • 今年度の三夜講の総括山田善徳さんが祭りの夜に身につける、藁でつくったオタテグツの履き方を習いに来ていた。

村の総有財産である源泉を管理する野沢組

鎌倉時代から続くといわれている野沢温泉。しかし、温泉場としての形態は、他の温泉地とまったく違う特色を維持してきた。

その背景にあるのは、野沢の温泉が民法上で言う「共有」の一形態である「総有」、つまり温泉は村のものであり、村に住んでいれば利用する権利が生まれるという温泉所有の仕方にある。そして、総有の管理執行者として野沢組というシステムを、長年の知恵の中からつくり上げてきたということだ。

「野沢温泉には30数カ所の源泉がありますが、そのうちの13カ所を野沢組が保有しています。旅館の敷地内に源泉がある所でも、野沢組に登記してもらいます」

源泉のない旅館や民宿、村の福祉施設には、野沢組が有料で配湯する。戦後すぐは敷地内にボーリングした旅館もあるが、そういう所は動力で揚水しないと出ない場合が多い。周りの源泉に支障をきたす恐れもあるので、ここでは動力での揚湯は一切認めていない。例え自分が権利を持つ源泉であっても、野沢組への登記が必要とされる以上、実質的には野沢温泉のすべての源泉は野沢組によって管理されているといっても差し支えないだろう。

こういう事情があって、古くからの温泉地でありながら、野沢では宿の内湯としてではなく、外湯と呼ばれる共同湯が発展した。有料配湯は一口が1分間9リットルで、1ヶ月5万2500円。半口で3万1500円だから、無理して内湯をつくるより、外湯巡りを奨励するという観光の方法をとってきたのだ。それが、地元民とのふれあいを第一に考えてきた、野沢温泉の魅力にもなっている。

よく大きな温泉観光地に行くと、旅館・ホテルからなる「温泉利用組合」が観光客向けに共同湯を設置しているケースがある。野沢温泉の共同湯は、そのような外湯と外見は同じでも、「温泉を守る」という意識がまったく異なっている。観光客は共同湯に入ることはできる。でも、それはあくまで、地元の生活の湯を使わせていただいているのである。

野沢組は、共同湯には無料で配湯し、掃除や水道代や電気代といった必要な経費、夜間の施錠など、細々した運営・管理は地域の「湯仲間」が担当している。

野沢組には誰でも

現在の野沢組組員は、約730名。野沢組には、誰でも入れるのだろうか。

「入会資格はありません。ここに住むようになれば、組員になるように勧めます。組費は毎年5月の初めごろに決め、そのことを『組費割』といいます。組員の名を書いた札を農協の大広間に並べて『見立て』をします。つまり『あそこは財産がどれくらいある、屋敷が広い、羽振りがいい、一等地で商売やっている』などといいながら、組費の割り当てをみんなで決めるのです。『あそこの家は去年ちょっと災難があったから少し下げてやらなきゃ』とか、『ここは息子が東京に行って老夫婦だけになったから免除しよう』とか調整します。みんなも見ているし、各区からも代表が出ているから、実に公正に行なわれます。

予算は4月に決まっているので、1点の金額を予算の総額に合うように決めていきます。朝から夜まで一日がかりです。組への参加は戸別で、所帯が分かれれば別になります。あと、冬だけやってきてお店をやる人もいて、そういう組員には特別組費を頂いています」

湯仲間の存在

野沢組は温泉権者だが、野沢温泉の共同湯を利用者として実際に維持・管理しているのは「湯仲間」と呼ばれる地域住民の団体だ。

野沢組には誰もが入れるが、湯仲間には誰もが入れるというわけでもない。地域によってさまざまだが、新規加入を認めない湯仲間もいる。

また、野沢組や源泉を持っている所有者が所有権を売却するときには、湯仲間全員の承認が必要となっている。つまり、源泉の所有者としての野沢組と、利用者団体としての湯仲間が分かれており、こと温泉に関しては、湯仲間が野沢組と同等という立場をつくっている。だからいかに惣代といえども、湯仲間の決めごとに口出しすることはできないのだ。

では、一般に温泉の所有権は誰に帰属するのだろうか。まず、温泉の湧出口がある土地の所有権と、湧出口から流れ出る温泉そのものの所有権は、通常は一つである。

野沢の温泉が民法上で言う「共有」の一形態である「総有」だということは前にも述べたが、「みんなのもの」だからといって、利用の面で総有集団構成員のすべてに、直接利益がもたらされるかというと、そうとは限らない。

野沢温泉では、各共同湯の管理は「湯仲間」が行なっている。温泉権はみんなのものだが、湯仲間に入ってはじめて共同湯の利用が許される。観光客が共同湯に入ることは、あくまでも地元の生活の湯を使わせていただいているという形になる。つまり温泉権と利用権を分け、それぞれを管理する組織・制度も分けることで温泉を守ってきた珍しいケースで、普通の「温泉利用組合」が観光客向けに設置している共同湯とは、背景が異なっている。

と、これまで野沢組や湯仲間を紹介してきた。では、彼らは誰のために温泉を守ってきたのだろう。彼らにとっては温泉や山林の何が大事なのだろうか。

それは「村人のため」と言っても過言ではないだろう。例えば、今でも共同湯は村人のものであり、観光の資源としてはそれほど意識されていない。あくまでも、野沢の温泉は「生活の湯」なのである。生活の場と温泉が共存していたことで、温泉につきものの色街も発展せず、ある時期の温泉街の隆盛に遅れを取る原因にもつながった。

さらに温泉が、観光資源として期待されてこなかったことには理由がある。温泉よりも収益が上がる観光資源があったからだ。

  • カワグルミ、シナノキ、シラカバなどで作られる道祖神人形は、「お前の家を見せるぞ」といって、火祭り会場に持って行き社殿に参拝する習わし。湯桶に入れられた道祖神は、湯仲間を象徴しているようで微笑ましい。

    カワグルミ、シナノキ、シラカバなどで作られる道祖神人形は、「お前の家を見せるぞ」といって、火祭り会場に持って行き社殿に参拝する習わし。湯桶に入れられた道祖神は、湯仲間を象徴しているようで微笑ましい。

  • 今年の大雪は野沢にも、大変な苦労を強いた。外湯の屋根に積もった雪下ろしは、湯仲間の仕事。外湯は風呂としてだけでなく、洗濯湯も今でも活用されている。

    今年の大雪は野沢にも、大変な苦労を強いた。外湯の屋根に積もった雪下ろしは、湯仲間の仕事。外湯は風呂としてだけでなく、洗濯湯も今でも活用されている。

  • 野沢にとっての温泉は、調理場でもある。こんな大雪の日にも、青菜を茹でにきたおばあさんが手にしている竹の棒は、何本も用意されているものの1本だ。この麻釜は、もとは麻を茹で、あけびを茹でてきた共同湯であった。

    野沢にとっての温泉は、調理場でもある。こんな大雪の日にも、青菜を茹でにきたおばあさんが手にしている竹の棒は、何本も用意されているものの1本だ。この麻釜は、もとは麻を茹で、あけびを茹でてきた共同湯であった。

  • カワグルミ、シナノキ、シラカバなどで作られる道祖神人形は、「お前の家を見せるぞ」といって、火祭り会場に持って行き社殿に参拝する習わし。湯桶に入れられた道祖神は、湯仲間を象徴しているようで微笑ましい。
  • 今年の大雪は野沢にも、大変な苦労を強いた。外湯の屋根に積もった雪下ろしは、湯仲間の仕事。外湯は風呂としてだけでなく、洗濯湯も今でも活用されている。
  • 野沢にとっての温泉は、調理場でもある。こんな大雪の日にも、青菜を茹でにきたおばあさんが手にしている竹の棒は、何本も用意されているものの1本だ。この麻釜は、もとは麻を茹で、あけびを茹でてきた共同湯であった。

温泉とスキーは村の共有資源

それがスキー場である。野沢とスキーの関わりは、そのまま日本のスキーの歴史とつながる。人口4000人強(2005年末現在)の村に、過去14名のオリンピック選手が輩出されている。

オーストリアのテオドール・レルヒ大佐によって新潟県高田の陸軍第13師団にスキーが伝えられたのが1911年(明治44)。翌年1月には飯山中学校の教師が高田で行なわれたスキー講習会に参加し、生徒に教えるようになった。その生徒の中には野沢温泉出身生がおり、4名が春休みに帰省し、初めて野沢温泉でスキーを滑ったという。1923年(大正12)には第1回全日本スキー選手権大会が小樽で開催されるが、この年野沢温泉スキークラブが発会するのである。

このころの冬の野沢温泉といえば、近郷からの湯治客が来る程度。冬の仕事といえば、大方はあけび細工や紙すきなどで、出稼ぎ者も多かった。雪は克服する相手であった。その雪を元手に、全国でいちはやくスキーによる村おこしをおこなったのである。

戦後は1960年代から、スキーレジャー人口が増加。既に1950年(昭和25)には第一号リフトが建設されており、冬の出稼ぎ者も減っていった。やがて各地で新しいスキー場がオープンし、野沢温泉にも一般企業から開発目的の土地買収やリフト建設の申し込みが相次ぐようになった。

野沢温泉スキー場のウェブを見ると「野沢温泉ではスキー倶楽部がリフト建設やゲレンデ開発・整備などスキー場を経営するという他に類を見ない歴史がある。時代の趨勢を見極めていたスキー倶楽部では、この歴史と伝統が村外資本に撹乱されてはならないと、昭和三十八年村当局と協議してスキー場の管理経営権を村に委譲することに決定した」と書いている。

面白いのは、このスキー場とスキー倶楽部の関係が、温泉と野沢組・湯仲間の関係にそっくりなことだ。外部の撹乱から観光資源を守るため、管理権限を村へ移管したのである。

この「野沢組方式」とも呼べるような温泉管理方式を、山林の雪にも応用して、野沢温泉はスキー観光地としても高度成長期の変化にうまく対応してきた、変革の歴史を持っている。

実は1997年までは、村の年間観光客の約8割がスキー客だった。そのスキー客も1995年以降急速に減少し、現在は緩やかになったものの減少傾向が続いている。何とかしなくてはならない。そこで若者の有志が動き始めた。スキーシーズンには「にこにこ祭り」と称して、リフト券をプレゼントしたり、「どぶろく特区」を申請し、それを売り出したり、夏の自然体験プログラムを企画してみたり。この活動メンバーの一人が民宿を経営する富井一志さん(49歳)だ。

「にこにこ祭りは冬の祭りで、今年で3シーズン目です。スキー場の売り上げが減り、平日のお客が激減したため、集客イベントを始めたのです。そのうち、夏も何かしようということで、大湯の前で8月にアマチュアバンドやプロのオカリナ奏者に演奏してもらったり、星空シアターと称した子ども向けの野外映画会をしました。一番良かったのは、自然体験プログラム。スキーで冬しか注目されていなかった豊かな自然を、我々の大切な資源として再発見することができました」

一方、村全体の観光客は1999年で一旦下げ止まり、スキー客の占める割合も2004年では52%になっている。スキー以外の観光資源として温泉や夏の森林が注目を浴びてきている現れであろう。

  • 野沢温泉スキークラブの歴史は、日本のスキーの歴史とイコールと言っても過言ではない。 昭和22年ごろの大湯の近くを歩くスキー客。 『野澤のスキー』はスキー伝来80年の歴史を今に伝えるために、1994年に作られた。

    野沢温泉スキークラブの歴史は、日本のスキーの歴史とイコールと言っても過言ではない。 昭和22年ごろの大湯の近くを歩くスキー客。 『野澤のスキー』はスキー伝来80年の歴史を今に伝えるために、1994年に作られた。

  • 野沢温泉で民宿を営む富井一志さん。「どぶろく特区」が認められたときの酒造免許居通知書。

    野沢温泉で民宿を営む富井一志さん。「どぶろく特区」が認められたときの酒造免許居通知書。
    80件ほどが名乗りを上げたが、自家米を使うこと等の条件をクリアできたのが3件だけで、富井さんはその中の一人。スキーのオリンピック選手を目指すほどの技術を持ち、後進の指導にも当たってきた生っ粋の野沢っ子だ。

  • 仲間とともに、知恵を使ってさまざまなイベントを企画、実行して地域起こしを試みている。

    仲間とともに、知恵を使ってさまざまなイベントを企画、実行して地域起こしを試みている。

  • 野沢温泉スキークラブの歴史は、日本のスキーの歴史とイコールと言っても過言ではない。 昭和22年ごろの大湯の近くを歩くスキー客。 『野澤のスキー』はスキー伝来80年の歴史を今に伝えるために、1994年に作られた。
  • 野沢温泉で民宿を営む富井一志さん。「どぶろく特区」が認められたときの酒造免許居通知書。
  • 仲間とともに、知恵を使ってさまざまなイベントを企画、実行して地域起こしを試みている。

「守る」と「変える」

ちなみに、野沢温泉村は飯山市との合併話が持ち上がっていたのだが、村内は合併派と自立派で二分。2004年12月に住民投票が行なわれ、僅差で自立の道を歩むことになった。富井さんの父は、その自立派のリーダーでもあった。でも、村おこしをするとなると、住民投票のことは関係なくなる。実際に富井さんと組んで実行委員会をリードしている中にも合併派はいるが、それで気まずくなることはない。

野沢温泉は野沢組を中心に動いている。野沢組に対して、村の人々は「惣代さん」と敬意を込めて呼ぶ。野沢組は、温泉やスキー場の管理運営を外からの風に惑わされることなしに行なって、使いながら維持してきた。

とはいえ、観光客が年間20万人程度ないと、観光地として成り立っていかない。温泉需要が高まっている今、「もう少し温泉を自由に使えないか」と、変化を望む声も出てきている。

「守る・維持」と「変化」のちょっとした差異を、これからどう調整するかが問われている。

実は、その溝を埋めようと、村おこしの試みが生まれ始めている。それを支えている若手は、野沢組惣代が元締めになる「道祖神祭り」をバックボーンとした人々でもある。温泉を守る文化が、村おこしの精神につながる。この試みについては「水の文化楽習」で紹介しよう。



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