機関誌『水の文化』22号
温泉の高揚

地域の文化資源を伝える
野沢組と道祖神祭り <長野県>野沢温泉村

勇壮な火祭りとして、日本三大火祭りの一つとされる道祖神祭りのクライマックス。男の初孫誕生を祝って奉納される初灯籠(花灯籠)がよく燃え上がると、子供が健康に育つといわれている。「撮影台に乗られますか? 乗って撮影されるなら腕章が必要です」と森さんが教えてくれたのは、テレビカメラをはじめとする取材陣がベストポジションで撮影ができる撮影台

勇壮な火祭りとして、日本三大火祭りの一つとされる道祖神祭りのクライマックス。男の初孫誕生を祝って奉納される初灯籠(花灯籠)がよく燃え上がると、子供が健康に育つといわれている。「撮影台に乗られますか?乗って撮影されるなら腕章が必要です」と森さんが教えてくれたのは、テレビカメラをはじめとする取材陣がベストポジションで撮影ができる撮影台(上の写真では左上)。

日本では、人の住む所には必ず神社仏閣があり、神社仏閣がある所には祭りがあります。 祭りは本来神事ではありましたが、結果として村の結束を高め、土地の伝統を伝えることに貢献してきました。 でも、それが100年以上続く「温泉管理組織・野沢組」が核にある行事だと知ると、祭りを解剖してみたくなります。 野沢組と野沢温泉村・道祖神祭りとの関係を紹介します。

編集部

祭りは再興された

道祖神は文字通り、村境や辻に置かれ厄災の侵入を防ぐ神。中部や関東地方を中心に、道祖神を信仰の対象とした火祭りは、小正月に盛んに行なわれてきた。野沢温泉でも、既に天保のころには行われていたことが記録に残されている。

こうした伝統ある祭りではあるが、野沢では一度中断された歴史がある。かつての祭りの担当者は5組の若者組で、年長の世話組が全般の指示をしていた。ところが、第二次世界大戦で若者が兵隊に行き、周囲のブナ林が飛行機の用材として伐採された上、戦後は火祭りに対する若者の考えも変わって、若者組そのものが1953年(昭和28)に解体してしまうのだ。

そして、1955年(昭和30)。当時の野沢組惣代であった畔上政治さんが、伝統ある祭りが途絶えて しまうことを危惧し、厄年三夜講(さんやんこう)と25歳厄年の若者で、祭りを継承してほしいと寄合いで申し入れる。こうして復活したのが現在の道祖神祭りだ。三夜講による祭りの運営という仕組みは、戦後始まった、新しいシステムなのである。

三夜講 現代の年齢階層制

道祖神祭りは、野沢組惣代が総元締めになり、三夜講の男たちが中心になって準備を行なう。メインイベントは毎年1月15日夜に行なわれる火祭りだが、その準備は実質的には3年以上にわたってなされることになる。キーワードは、この祭りを担う「三夜講」だ。

三夜講について、野沢温泉村役場の総務課長、富井俊雄さんと、同じく総務課村づくり推進係長の森博美さんがくわしく教えてくれた。

三夜講は、数え年42歳の厄年を迎える男たちを加えた3年齢層から成るトモダチ衆で編成されたグループだ。これに数え年25歳の厄年を迎える青年が加わったメンバーが、祭りを運営することになる。

面白いのは、祭りが終わると42歳が押し出され新たな40歳が補充される、というようなローテーションではないということだ。この3歳の講が、3年間同じメンバーで祭りを担当するのである。

それでは3年たったとき、まったく未経験の新・三夜講が右も左も勝手がわからなくて困るではないか、という心配が頭をもたげるが、そこの解決策もうまくできている。その年回りのときは、3年目の祭事に次の三夜講の一番年齢が上の者が見習いとして参加する。だから三夜講といっても、一番の年長者は計4回祭事に参加しているわけで、下の者はまったく頭が上がらない。それでなくても、地元男性の結束は固く、上下関係は幾つになっても明白に残る。村を離れている者も、この年齢になると祭りのために帰ってくる。「ここで休むと、村にはいられません」と富井さんは言うが、実際には会社を長期で休むのは大変で、外に出た人間にとっては、荷の重い役目であることは想像に難くない。

野沢の人づきあいについて、「野沢温泉村の湯仲間と野沢組」に登場した富井一志さんも
「先輩からは、いつも『三夜講で動け』と言われます。三夜講の絆、特に同じ年齢のトモダチ衆の絆はものすごく強いです。それと、祭りを4年やってくれる『あんちゃん』には頭が上がらない。野沢では、30代後半で消防団を卒業すると、そろそろ厄年の話をし出すんですね。東京に行った友達も祭りのときは10日間ぐらい帰ってきます。これは、なかなか他所の人には理解してもらえないことです。野沢の人間は、かみさんに、『わたしと友達とどちらが大事なの』と迫られたら、『友達』と答えるぐらいです。
 面白い話があって、野球チームも同級生でつくるんですよ。野沢でも草野球が盛んだったころは30チームあったんですが、若者から年寄りまで、同じ年齢の者だけのチーム。こんなのは野沢だけじゃないですかねえ」

実は、こうした年齢に応じて細かく役割が定められていたのが、かつての日本のムラの制度でもあった。それを、厄年の三夜講というニューバージョンでつくり替えたのが、祭りを復活させたときの野沢組の知恵だったのである。

野沢温泉村役場総務課長の富井俊雄さん野沢温泉村役場総務課村づくり推進係長の森博美さん。

左:野沢温泉村役場総務課長の富井俊雄さん

右:野沢温泉村役場総務課村づくり推進係長の森博美さん。下のアルバムを提供してくださった。

上は、平成8年の三夜講だった森博美さんのアルバム。森さんのトモダチ衆の名前は誠友会。このアルバムを見れば、道祖神火祭りが3日間だけではなく、年月を懸けた流れだと解る。トモダチ衆の絆の固さの理由が理解できる宝物のような1冊。

上は、平成8年の三夜講だった森博美さんのアルバム。森さんのトモダチ衆の名前は誠友会。このアルバムを見れば、道祖神火祭りが3日間だけではなく、年月を懸けた流れだと解る。トモダチ衆の絆の固さの理由が理解できる宝物のような1冊。下表はそのあとがき。
丹念な記録を撮るのは、三夜講の記録係。今は村で唯一の写真館となった久保田真一さんが撮った記念写真と、記録係が撮影した写真を合わせてアルバムが作られていた。残念ながらこのようなアルバムを作る慣習はなくなったそうだが、記録係はいるし、記念写真は今でも必ず久保田さんが撮っている。完成した社殿の前の記念撮影では、惣代を中心に、チョンボリ笠をかぶった保存会の人の姿も見える。全員の名前と顔、どこの家の人間か、すべてがわかっている写真館の主人が撮る写真には、暖かい眼差しがあふれている。



誠友会厄年のあゆみ
平成6年 9月14日 誠友会団結式
  9月30日 三夜講結成式 〜 歩会の見習い
道祖神火祭り    
平成7年 9月15日 誠友会会議
  9月20日 道祖神惣代会議
  9月22日 山の下見
  9月23日 燃え草集め
  10月6日 三夜講・郷愛会全体会議
  10月15日 会場下準備
  10月16日 御神木伐採
  10月17日 桁割り作業・慰労会
  11月21日 御神体・御札作成 〜22日
  12月31日 除夜の鐘撞き
平成8年 1月9日 道祖神惣代会議
  1月10日 誠友会会議
  1月11日 道祖神火祭り三夜講・郷愛会全体会議
  1月12日 道祖神下準備
  1月13日 御神木里引き
  1月14日 柱立て・社殿組 〜15日
  1月15日 道祖神火祭り
  1月17日 健命寺寺参り
  1月17日 道祖神三夜講・郷愛会慰労会
厄年記念旅行    
平成8年 4月9日 伊勢神宮参拝
  4月10日 ハワイの旅(マウイ島・ホノルル)〜17日
湯澤神社例祭    
平成8年 5月8日 湯澤神社の大樺・大杉〆縄奉納神事と〆縄はり
  7月4日 三夜講竹の子狩り
  7月17日 例祭惣代会議
  8月1日 煙火寄付出陣式
  8月2日 寄付集め(村内・外)〜26日
  8月27日 例祭三夜講・郷愛会全体会議
  9月2日 祭礼用具づくり 〜23日
  9月6日 大幟立て
  9月6日 稽古まるめ
  9月8日 御神輿渡御・湯澤神社祭礼の飾り付け準備
  9月8日 湯澤神社例祭、夜祭り
  9月9日 湯澤神社例祭、御神輿巡行-奉納・例祭行列
  9月10日 湯澤神社例祭三夜講・郷愛会慰労会
家族慰安会    
平成8年 10月1日  

あとがき
思い起こせば、台風を心配しての御神木伐採や、深夜におよんだ社殿組立、夜空に燃え上がる火の粉を見つめて感激に浸った道祖神祭り。湯澤神社の祭礼では、夜空に咲いた大輪、ずぶ濡れになった神輿かつぎ、そして、厳粛な中での伊勢神宮参拝等々、思い出はつきません。長い歴史と伝統によって受け継がれてきたこれら一連の厄年行事も、我が同級生「誠友会」は心を一つにし無事こなすことができました。これも誠友会の仲間一人一人の努力と団結力で成し遂げた事であり、ここにあらためて感謝申し上げるとともに、この間、側面より暖かいご支援、こ協力をいただきました家族の皆様と、誠友会の女性の皆様へ心より感謝申し上げます。また、記念アルバムの発刊に際しまして、大変長期間にわたりご努力いただきました記録委員の皆様にも深く感謝申し上げます。最後に、誠友会の皆様全員の健康・並々の繁栄と、厄年で培った仲間づくりがいつまでも続きますように祈念いたしまして・・・


いよいよ本番

道祖神火祭りの本番準備は、3日間をかけて行なわれる。

まず、1月13日に、彼らは御神木が置いてある、日影ゲレンデに集合する。前年秋にブナの木5本を伐り出して、乾かしてあるのだ。ゲレンデから祭りの会場までブナの木を引いていくことを「御神木里引き」と呼び、いよいよ本番と気持ちが高まっていく。三夜講の組と25歳で異なるルートを通るのがきまり。代表が音頭をとり「ツルツルーット、ヨイヤサノサー」と気勢をあげ、約3時間かけて会場まで木を引いていく。沿道の家から御神酒が献じられる度に、代表が大声で披露し、一同がお祝いの手締めをする。

翌日は、早朝から御神木を柱に使って社殿を造営する。危険を伴う作業でもあるので、ここからは酒を断っての真剣勝負。15日の昼までに造り上げなくてばならないため、14日は深夜まで作業が続けられる。

専門的な知識も必要なので、前の三夜講の正副委員長経験者6名が、保存会という名目で指導にあたる。

トモダチ衆は、自分たちで考えた独自の名前を持っていて、その名を入れたつなぎやジャンパーをおそろいでつくる。だから会場で設営作業中も、どの年代が三夜講で、どの人が手伝いなのか一目瞭然。もちろん、村の人にとっては、そんな目印がなくても、どこの誰だかすぐわかるのではあるが。

そして15日夜。

42歳厄年の世話人4人と25歳厄年の世話人2人だけが、蓑を着てチョンボリ笠を被り、オタテグツを履いて、寺湯にある「河野家」へ火元貰いに出向く。

彼らを「山使い」と呼び、河野家主人は彼らを迎え入れ、いろりの周りで酒を飲み、道祖神のうたを歌う。三夜講が河野家に献じた酒と河野家が用意した酒を合わせると、半端な量でなく、あとで聞いたところ「今年は20升用意した」ということであった。酒を飲み尽くすまで火はもらえず、その間火元貰いに来ない連中は会場で「山使い」を今か今かと待っている。迎える河野家の人たちも、回りの村人や観光客も「山使い」を手伝うために、相当量の酒を飲む。

いよいよ酒が底を尽きると、主人は烏帽子の装束に着替え、床の間に据えられた道祖神像を拝んでから、火打ち石で火をおこす。種火を提灯に移し、囲炉裏でオンガラでつくった大たいまつに点火する。たいまつの火は会場に運ばれ、社殿から30m離れた所に積まれたボヤに移される。

火付け役が、この元火からたいまつに火をつけて社殿を焼こうとし、25歳厄年がこれを阻止するというのが「火祭りの攻防」だ。最初に火付け役になるのは惣代で、次に子供たちが、最後の一番激しい攻勢は村の大人たちによって行なわれる。これが1時間半程続くと、手締めとなって、社殿が無事に守り切られたことを喜び合う。最後に社殿に火が入れられ、壮大な炎が柱となって立ち上がる。男児の初子が生まれると奉納される初灯篭(花灯篭)は、この段階で火に投げ入れられ、子供の無病息災を祈る。

これが、祭りの大きな流れだ。

かつては、このあとに桁の燃え残りを河野家に持ち帰り、「小豆焼き」が行なわれていた。囲炉裏で火を熾してカワラケを焼き、小豆を3粒づつ載せ、その動き方で吉凶を占うものだ。最後に、囲炉裏の中の火のついた薪を1本、庭先の川に流して行事が終わる。

「ドウソウ神様、今年の天候でござんすが、どうでござんしょうか」と、天候をはじめ70種ぐらいの農産物の豊凶を占い、結果を立会人が帳簿に記録する。

翌日の16日には、残り火で餅を焼き、一年間の無病息災を祈る餅焼き行事が行なわれ、子供たちの楽しみとなっている。「小豆焼き」 も1999年からは、16日に野沢組惣代事務所で行なわれている。

富井一志さんは、

「これは男の祭りなので、女性軍は炊き出しとか花灯篭づくりとか、縁の下の力持ちなんですね。それでも野沢に生まれ育った人なら、親がやってきたこととかを見ていて、『仕方ないな』と思ってくれるのですが、私のかみさんは神奈川出身だもので、このトモダチ衆の結束とか、祭りのときの寄り合いとか、納得してもらうのが大変でした」

祭りが終わると、厄落としと称して旅行にも行く。富井さんの年はお伊勢参りとハワイ旅行に行ったが、もっと以前には相当羽目を外したこともあったという。

  • 上と左:大正元年から火元貰いの元火は、河野家が提供している。右:15日の社殿設営は最後の仕上げ。

    上と左下:大正元年から火元貰いの元火は、河野家が提供している。裏方も含め、大変な数の協力者によって成立している祭りである。私たちを含めた取材陣の数もすごい。海外からの取材はドイツ、韓国。
    右下:15日の社殿設営は最後の仕上げ。

  • 充分な量の酒を飲んだと認められて、はじめて主人が火打石で熾した種火から、オンガラのたいまつに火が移される。たいまつで会場まで運ばれた火は、ボヤという火元に突進しながら点火される。酔っているので、たいまつを運ぶのも容易ではない。惣代を皮切りに、親に抱かれた幼い子供が後に続いて社殿への火つけを行なう。

    充分な量の酒を飲んだと認められて、はじめて主人が火打石で熾した種火から、オンガラのたいまつに火が移される。たいまつで会場まで運ばれた火は、ボヤという火元に突進しながら点火される。酔っているので、たいまつを運ぶのも容易ではない。惣代を皮切りに、親に抱かれた幼い子供が後に続いて社殿への火つけを行なう。

  • 左:初灯籠は湯仲間を中心とした近隣の人たちや、祖父と親のトモダチ衆の協力で作られる。出陣の際は、ばらして会場まで運ぶのだが、その際もオンガラのたいまつに火をつけて勇壮な行進が続く。 右:撮影台の前はアマチュアカメラマンの晴れ舞台。昼間から三脚を立てて陣取りが繰り広げられる。この点でも道祖神祭りの資源価値が大いに認められるところだ。

    左:初灯籠は湯仲間を中心とした近隣の人たちや、祖父と親のトモダチ衆の協力で作られる。出陣の際は、ばらして会場まで運ぶのだが、その際もオンガラのたいまつに火をつけて勇壮な行進が続く。 右:撮影台の前はアマチュアカメラマンの晴れ舞台。昼間から三脚を立てて陣取りが繰り広げられる。この点でも道祖神祭りの資源価値が大いに認められるところだ。

  • 翌16日の火祭り会場。餅焼き行事は、現在小学校の授業に取り入れられ、教師の引率で行なわれている。

    翌16日の火祭り会場。餅焼き行事は、現在小学校の授業に取り入れられ、教師の引率で行なわれている。子供だけでなく、親やお年寄りの姿も多く見受けられた。

  • 上と左:大正元年から火元貰いの元火は、河野家が提供している。右:15日の社殿設営は最後の仕上げ。
  • 充分な量の酒を飲んだと認められて、はじめて主人が火打石で熾した種火から、オンガラのたいまつに火が移される。たいまつで会場まで運ばれた火は、ボヤという火元に突進しながら点火される。酔っているので、たいまつを運ぶのも容易ではない。惣代を皮切りに、親に抱かれた幼い子供が後に続いて社殿への火つけを行なう。
  • 左:初灯籠は湯仲間を中心とした近隣の人たちや、祖父と親のトモダチ衆の協力で作られる。出陣の際は、ばらして会場まで運ぶのだが、その際もオンガラのたいまつに火をつけて勇壮な行進が続く。 右:撮影台の前はアマチュアカメラマンの晴れ舞台。昼間から三脚を立てて陣取りが繰り広げられる。この点でも道祖神祭りの資源価値が大いに認められるところだ。
  • 翌16日の火祭り会場。餅焼き行事は、現在小学校の授業に取り入れられ、教師の引率で行なわれている。

ブナ林があるから温泉がある

富井一志さんも一員となっているグループで進める自然体験プログラムも、野沢温泉の今後を方向づけるものの一つだ。

「山には、樹齢300年ほどのブナの生える林があるんですよ。ブナ林は、『雨の日は笠いらず』といって、雨の日も水を木の根本に集めようとするので、なかなか地表におちてこない。ブナ1本で4トンの水を抱くといわれますから、その水が浸透して野沢温泉に湧いているということです。
  野沢の源泉は90度の高温で、すべて集めると競技用プール1杯ものお湯が毎日毎日出ています。これもブナの林があるお蔭です。この林の大切さを知ってもらおうと、遊歩道を3コースつくったんです。我々も『自然活動体験リーダー』の資格をとり、お客さんを案内しています。ブナの腐葉土は、歩くとふかふかで気持ちいいですよ。ゲレンデで感じるのとは別の喜びがあります。『 海の牡蠣のために森を大事にしよう』という話があるでしょう。あれと、似たような話だなと思って。
  東京の稲城市とは、小学校でスキー、中学校で夏の野沢温泉を楽しんでもらおうという協定も結びました」

仲間たちの絆は、外へ外へと広がり始めている。

  • 仲間とともに村起こしを支える富井一志さん。

    仲間とともに村起こしを支える富井一志さん。

  • 冬のスキー場としてだけでなく夏の森にも着目、自然体験プログラムを提唱している。

    冬のスキー場としてだけでなく夏の森にも着目、自然体験プログラムを提唱している。

  • 仲間とともに村起こしを支える富井一志さん。
  • 冬のスキー場としてだけでなく夏の森にも着目、自然体験プログラムを提唱している。

村おこしの力

祭りの伝統を継承することも、変化を恐れず試行錯誤し村おこしすることも、よく観察してみると「野沢流」ともいうべき、独自のやり方を見出すことができる。それは野沢組が体現し、受け継いできた「村の財産を守る」という意識が根底にあるように思える。

惣代の西方さんは、

「野沢組は商売には関係ないけれど、何かあると、みんなが相談に来る。やはり組は守っていかないといけないのかなと思います。最近はスキーではなく、道祖神祭りだけを見に来る人も多くなりました。温泉も道祖神祭りも、観光イベントとして野沢の資源にしていきたいと思っています」

と言う。

1950年(昭和25)に野沢温泉スキークラブが、リフトの第一号機を建設しようと奔走したときも、村として応援して建設できた経緯があった。

こう考えると、野沢温泉の場合、温泉を共有する文化が、新たな事業につきもののリスクや責任の分散になっているのではないかと思い至る。

温泉を囲い込んで私有化し、「リスクも利益も自己責任で」と繁盛した観光地が、リスクの重みで自らを更新できなくなっているのを見ると、野沢温泉とは対照的であることだけは確かだろう。

野沢温泉が「連帯責任は無責任」に陥る危険性を、回避してきたのも、とても無責任になれないだけの密度の濃い関係が、あちこちに生きているからだ。

もちろん、野沢温泉にとっても少子化や若年人口の流失による三夜講の後継者不足といった悩みはある。密度の濃いつき合いを嫌がる若者気質が、ここだけ例外であろうはずはない。若者組そのものが解体した1953年を第1期とすると、道祖神祭りは第2期の正念場を迎えているともいえる。

しかし道祖神祭りが観光集客という新たな役割を担いつつある現在、こうした土壌から生まれた三夜講は、人的資源を育むシステムとして一つの指針となるかもしれない。



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