機関誌『水の文化』24号
都市公園

一人ひとりの物語が潤いを育む
利用者がつくる都市公園

東京の日比谷公園、背後のビルは帝国ホテル。

東京の日比谷公園、背後のビルは帝国ホテル。



白幡 洋三郎さん

日本文化研究センター教授
白幡 洋三郎 (しらはた ようざぶろう)さん

1949年生まれ。京都大学大学院農学研究科博士課程修了京大助手などを経て、現職 主な著書に『百人一首万華鏡』(思文閣出版2005)『幕末・維新彩色の京都』(京都新聞出版センター2004)『大名庭園』(講談社1997)『近代都市公園史の研究〜欧化の系譜』(思文閣出版1995)他。

自分の物語がつくれる場所

公園には、公園自身の物語ができなくてはいけない。

ところが明治以降新設された都市公園には、物語がないんです。

歴史もない。自然の美しさは、わざわざ人間が作為的になにかしなくても、在るだけで美しいでしょう。グランドキャニオンにしたって摩周湖にしたって、優れた自然はそれだけで美しいんです。松島、天橋立などの風光明媚な所は名所と呼ばれ、近代になってからは制度として自然公園になりました。

名所旧跡以外にも、日本にはもともと公園の機能を果たす場所がありました。芝や上野には物語がいっぱいあって、大人が行っても時間を過ごせる場所だったのです。

では、都市公園とはいったい何か。都市公園とは、明治になってから日本に入ってきた「考え方」です。そこからつくられた公園というのは、旧来とは別の原理でできたために、物語づくり、歴史づくりとは違ったところに軸足を置いていたと思います。

明治になってからの都市公園というと、第一に日比谷公園を思い浮かべますが、あそこは首都の中央に位置するということもあって、他の都市公園とは少し趣を異にしていました。つまり、物語が生まれにくい都市公園の中にあって、日比谷公園は始めから、焼き討ち事件とか戦勝記念パレードとか反戦デモとか、政治的アピールが盛んに行なわれる場として機能していたんです。

公園をつくって行政が管理するときに、あれはしちゃいかん、これは禁止、というのでは住人の記憶に残る歴史の舞台にはなり得ないですよ。ポンと広い場所を与えられて、盆踊りをしたりして好きに使える場所のほうが、親しみが湧くのではないですか。

そういう意味で、都市公園はいったい何をつくろうとしたのかという、問い直しがなされていくべきだと思います。

都市公園、4つの転機

最初に問題点ばかりを挙げてしまいましたが、私は都市公園の歴史には、4つの転機があったと思っています。

最初の転機は、1873年(明治6)の太政官布達です。明治政府が公園の制定を宣言したもので、ここに行政史的な都市公園の第一歩が始まります。

明治維新のときの公園づくりには、明らかに目標があった。「新時代に、こういう国民が生まれてほしい」という政府の目標が反映していたわけです。

いろんな人が出会い、自然の中でゆっくり落ち着いていられる場を、公園の名の下につくろうとしていたのです。ラムネを飲んでも楽しいし、菊の花の品評会を見るのも楽しい。つまり、かつての武家と町人が一緒になって集うということだけでも、江戸時代とは違う新鮮な楽しみだったのです。ですから、明治から大正にかけての公園は、それなりに活況を呈していました。

さらに公園は、当時最先端の場所でした。芝公園には、紅葉館という有名な料亭がありました。上野公園には精養軒、日比谷公園ですと松本楼です。日比谷公園は、ビフテキなどモダンな洋食が食べられる場所、ファッショナブルな所だったんですね。

当時の公園は、時間があったらぜひ行ってみたいと思う、日常生活とは違う体験ができる魅力的な場所だったんです。

次の転機は、1823年(大正12)の関東大震災。この後につくられた公園は、大都市を災害からどう守るかという、防災の目的意識がはっきりしています。歴史や物語とは無関係に、生命を守るという役割を果たそうという、明確な目的を持っていました。

東京では小学校の校庭を拡大し、防災公園としました。防災用途にも、学校行事や地域の行事にも使えるようになっており、これはこれで目的意識がはっきりした都市公園だったと思います。

第三の転機は、戦後復興です。当時はみんなが貧しかったわけで、「戦後少年に、健全な遊び場を与えたい」という思いが都市公園に求められました。当時の公園は、なんといってもキャッチボール(現在復活させようという気運もあります)ができる場所でした。砂場、滑り台、ブランコという三種の神器を置いて、小学校高学年〜中学生向けにはキャッチボールのできるグラウンド風なものをつくる。空間を与えただけ、ただ、それだけです。

オジサンはみんな働いていて、「公園に行くオジサンは失業者」という雰囲気があった。つまり、都市公園の機能が非常に若年化し、青少年向けになっていました。

昭和30年代の歌謡曲に、公園でデートしているアベックにお巡りさんが「近頃この辺りは物騒だから。話の続きは明日にして帰りなさい」という意味の歌がある(『若いお巡りさん』)。公園というのは子どもの場所で、大人がデートをする場所ではないから二人でいたらおかしい、「帰れ」と言われる。元気な小中学生のために機能を限定した運動場をつくったのが、この時期の都市公園でしょう。

第四の転機は、バブル期です。この時期につくられた公園は、犯罪の温床になりました。なぜかというと、公園なんか行かなくたって、おもしろい所が他にいっぱいできたからです。ディスコも生まれ、遊園地も充実する。女性の行ける居酒屋やバーもいっぱいできました。

余談ですけれど、戦後すぐのころは女性が居酒屋に行くどころか、外食すること自体、ちょっとはばかられる雰囲気がありました。1970年代にファミリーレストランができて、お母さんは初めて子どもと一緒だったら外食できるようになったのです。それでも、外食はサラリーマンのお父さんの独壇(どくせん)場だったんですね。翌日働く英気を養うために、酒場に集う。ぼくは中年のオジサンにとっては、居酒屋が公園だったと思うんですよ。

バブル期になると、そういうオジサンだけでなく、女性もお母さんも子どもも、各年齢層が遊べる所が他にできて、家族で公園なんか行かなくなってしまいました。

私が「公園なんかいらない」と中央公論に寄稿したのは、バブルの少し前のことです。公園には良い公園も悪い公園もありますが、それまでは、どこもそれなりに活気があって、「時間があれば行ってみたい」と思わせ、「納得できる」という気にさせる装置でした。

ところが、バブルのころの公園は、どうもよそよそしくて、「もっと他に魅力的な場所があるのに、わざわざ公費を使って整備する必要があるのだろうか」という印象を受けたんですね。他の場所より魅力のある装置を、公園が提示できなくなっていったということです。こうして、都市公園はブルーテント村になってしまいました。

「公園、都市公園が国民に何を提供できるのか」という根本の疑問が、バブルのころに生まれたわけですが、その答えはいまだに模索中です。

左:公園にあるブルーテントを撮影するのに、そこの住人と少し話をした。「ここにはいろんな人がいて、もう少し猶予を必要としている人もいるんだ」と言っていた。場所が特定できる写真が掲載されると、追い出しの圧力が高まる場合があるそうだ。 右:東京・井の頭公園のお茶の水前

左:公園にあるブルーテントを撮影するのに、そこの住人と少し話をした。「ここにはいろんな人がいて、もう少し猶予を必要としている人もいるんだ」と言っていた。場所が特定できる写真が掲載されると、追い出しの圧力が高まる場合があるそうだ。 右:東京・井の頭公園のお茶の水前

これからの公園

社会的な要望というのは、位相が違うものがありますから、これからの公園といっても簡単には決められません。災害に対して強い防災公園も、今までは避難場所としての機能が強調されていました。しかし、谷川全部を公園にしてしまう、というぐらい大胆な発想を持ってもいいのではないでしょうか。水害に対しての治水だって防災なのですから、防災公園と呼べるのではないでしょうか。清らかな水に親しむことができる防災公園というものが発想として出てこなかったのは、河川管理者と公園の設計者が違う省庁に属していたからです。管理の分担の仕方が、まだ明確に出せないために、こういうことが実現しないのです。

こうした垣根を取り払った、新しい国土の利用方法を考えていくのも、これからの公園の可能性を広げることにつながるのではありませんか。

以前ならパチンコ屋が隣りにあるよりは、都市公園があるほうが環境が良いと考えられてきたのですが、最近では公園否定とまでは行きませんが園内の治安の悪化などで、多大な期待はされません。こうした状況下で、これからの都市公園のあり方を考えていかなくてはならないでしょう。

行政は少し距離を置いて、民間や住民に任せる、というのも選択肢の一つかな、と思ってはいます。

第一期は約50年、次が25年、第三期が50年で、今が第四期目。こういう風に分けて見つめると、社会的装置としての公園の分類が、見えてくるような気がします。

公園の「公」

日本ではこれから公園に限らず、「公」という字のつくものの捉え方が変わると思うんです。

例えば、「公費負担」というと、「誰かが出してくれる」という意味で、「わたしは出さんでいいお金」のことです。そういう意味でいうと、公園というのは「自分が責任を持たなくていい場」という意味になってしまいます。公儀隠密という言葉があったくらい、公というのはお上を指していたのですから。

日本では、そのお上が非常に優秀なので、「お上に任せておけば悪いようにはしない」という江戸時代からの長い歴史があって、公園という言葉を使っていますから、一概に「お上まかせが悪い」とも言えません。

指定管理者制度が施行されましたが、住民は指定管理者を、自分たちで選んだとは思っていません。だから指定されたほうも動きにくいし、いまだにお上の公園という観念から抜け出せずにいます。

私は、公園のひずみは明治維新のときに、一挙に民衆的な公園をつくらねばならない、と走りすぎたからだと思うんです。日本では公園はタダと思っているのが間違いで、私は入場料をとったらいいのに、とも思います。

中国では、多くの公園が入場料を取りますし、フランスでは夜間に柵を閉めます。

そう考えると、日本の公園は誰でもいつでも入れるようにして、最高のメンテナンスをするという一番の理想を追求して頑張った、とも言えますね。

有料の中国の公園

2000〜2001年に北京で体験した公園は日本とは違うものでした。公園といっても、中国の公園はめちゃくちゃ広い。そして、有料のところもたくさんあります。小さな近隣公園だけはタダでしたが、だいたい1角から1.5元ぐらいでした。(10角が1元、日本円で約14円)

中国の都市は今でこそだいぶ舗装されましたが、埃がひどく、遊ぶ所もない。住環境も劣悪な所が多いので、割と空気の良いのが公園なんです。公園に行くと確かに緑があって、ホッとする。だから、みんなお金を払っても行くんですね。

ちょっと大きい公園だと、中に公営レストランがあり、公務の接待場みたいな所ですが料理の水準は高いので、行こうという人が結構いるんですよ。それと、地元の人には十日分ぐらいの値段で買える月間パスや、半年パスや一年パスもあるそうです。

レストラン以外にも、凧揚げに来たり、三輪車に乗ったり、太極拳をしたり。冬はスケート場もオープンします。

それと、結婚の登記場所が公園の中にあり、若いカップルが公園に行きます。公園が近代的な行政システムの出張所という感じなんです。掲示板も公園の中。

冬はものすごく寒いので、老人は日向ぼっこするし、集まって将棋、囲碁、麻雀をしている。

それと、よく見かけたのは世間話をしながら、鳥に鳴き声を競わせ合うこと。上手に鳴く鳥の持ち主は、自慢していました。

習字をしている人もいましたね。スポンジでできた長い筆で、舗装のブロックに水で書くんです。その達筆をみんなが見にくるから、本人は気持ちがいいんです。老人福祉の一種ですね。家でじっとしているよりは、よほどいい。

このように公園は、コミュニティの情報交換の核となっているんです。何しろお金を払っても来るんだから。「生きている公園だ」と思いましたね。

つまり、中国も日本も、一番必要な時期に公園を整備した点では一緒だけれど、日本は西洋一辺倒で古来のものを潰す方向で進めてしまった。その点中国では西洋風の公園をつくったけれど、そこでは伝統の書道や鳥の鳴き声合わせも太極拳も受け入れる。中国的なものと、西洋的なものどちらも取り入れて上手にやっている。それに、有料というのは西洋にはない制度で、うまくいったと思います。

場所によっては、入場料が十数元する公園もある。そこは、東京の後楽園のような遊園地で、遊具やジェットコースターもあります。他にも、明や清の時代の民家を蓮池の回りに配置した巨大庭園、西洋的な公園、珍しい石を置いた公園、竹を集めた公園、碑文だけを並べた公園と、いろいろありました。

中国は、今がまさに「公園の時代」なのでしょう。

中国杭州市西湖に面した湖渓公園の朝7時

中国杭州市西湖に面した湖渓公園の朝7時

出会いと交わり

公園という名前では呼ばれていませんでしたが、「人が交われる場所」「出会いができる場所」という意味で公園的な場所は江戸時代中期からあったと思います。広小路や橋のたもとなどが公共管理であったことは確かです。でも、そこは「入ってはいけない」とか「こういうやつは来てはいけない」という排除の場ではなかった。そこへ行けば幕府の高札も読めるし、きれいな着物を着たおしゃれなお嬢さんが通る、一番ファッショナブルな場だったのです。いわば、自然と成り立っている公園です。

神社や寺の境内も、公園の機能を果たしてきました。しかも、利用者は黙っていてもお賽銭を出す。つまり、ちゃんとお金がとれるシステムをつくり、境内を掃き清める奉仕団の人もいるという、公園管理としてはうまい仕組みです。公費をもらわなくてもやっていけたわけで、これが本当の都市公園なんでしょうね。

そういう公園は現代にはありません。ハチ公前や東大の安田講堂前は、植え込みなどを使って、わざわざ人が集まれない仕組みをつくっているんですよ。つまり場所を管理する側はコミュニケーションが広まるのを不安に感じる、不幸な時代ということです。

また、お金は天から降ってくるわけではないので、公園、造園などの専門家は、財源をどこから持ってくるかという厳しい政治家の目を持たないと、これからの公園経営はできないですよ。

日本には、花名所と呼ばれる公園もいっぱいあります。私は花は大好きだけど、花だけを20分見ているのはしんどいです。「花より団子」というのは、本当に正直なところで、江戸時代にはたくさん茶店がありました。亀戸天神の葛餅をはじめ、アイディアに満ちた名物を置いていたのです。

花見に来ているおばさんを観察すると、花を見ないで仲間としゃべっているのがわかります。つまり、花をダシにしておしゃべりをする。それに飲食も加われば1時間ぐらい公園で楽しめてしまうし、人づき合いが広ければ、公園に行く頻度も増えますね。

水も、かなり長い時間楽しむことができます。

私は、水は季節ごとの水があるという意味で、花の一種と思っています。それも四季折々に楽しめる、四季咲きの花です。西洋では、ただの水では満足できないで噴水にしますが、日本ではあんなことまでしなくても、チョロチョロと流れているだけで水を花と感じます。清流も花。水という花を、うまく使うのも公園でしょう。

人が水に惹かれるのは確かなんですよ。水しぶき、音、光のきらめき。そういうものを公園の中の装置として使い、充分に味わいたいという要望に応える必要もありますね。

金閣寺や銀閣寺など、京都には名園がたくさんあり、いにしえの人は池に舟を浮かべて酒を飲みました。明治になってからできた都市公園で、飲食を自己規制してしまったのは、「文明国の国民は輪になって酒なんか飲まない」という悪しき勘違いに因るものと残念に思います。

名所だった王子の滝の茶屋にも多くの外国人が来ましたが、「日本は公園のような国だ」と書き残しています。こういう感想を残したのは、滝を見ながらお茶屋で飲食をするという、花見にも通じる楽しみ方に共感したからでしょう。こういうバイタリティあふれる屋外の使い方を、取り戻さなくてはもったいないですよ。公園を使うだけではなく、使う人が公園をつくるという側面もあったことを、思い起こすことも重要です。

日比谷公園内にある無料休憩所

日比谷公園内にある無料休憩所

利用者がつくる公園

かつて都市公園のキーワードは、「無料」「自然」「都市の真ん中」でした。そういう装置は、現代人の心を惹きつけられなくなっているんです。きれいな自然なら車で遠出すれば見られる時代に、一体まち中にどういう装置が必要なのかという答えが、なかなか出せないでいます。

日本では、公園はテレビとエアコンに負けています。ショッピングセンターに負けていると言ってもいい。そうなると、大多数の引きこもった人間を公園に引っ張り出すのは容易ではありません。

バブル期以降は、遺跡を公園化したり、古いまちなみを公園のように保存して、文化を感じさせる都市公園にしようという試みもありました。文化をキーワードにして公園をつくるやり方は、旧・建設省(国土交通省)が始めに手をつけたのではないでしょうか。

もう一つは、バブルを先取りするかのようにつくられたのが国営公園です。大規模な郊外型の複合公園として、昭和記念公園(東京立川市)などがつくられました。しかし、車がないと非常に行きにくい公園です。

道の駅というのも、公園ですね。だいたい物流の結節点にできますから、物語も歴史的背景もあり、名物もある。

では、まち中の都市公園はどうしたらよいのでしょうか。大都市にはホームレスのブルーテントがそこかしこにあるせいで、敬遠されている公園もたくさんあります。しかし私は、もしかしたら公園をそういう人々のための救貧公園、いわば青テント公園にしてもいいのではないか、という気もしています。

軽々しくは言えないのですが、あれだけの人が公園に集まってくるのというのは、かつてなかったことですから真面目な対応を考える必要があるでしょう。社会の要請に合わせて、制度を変えるということが、行政の役割ともいえるわけですから。

また地域の特色を生かした都市公園も魅力がありますね。北海道ではジンギスカン、山形では芋煮会が都市公園でできたら、さぞかし喜ばれるでしょう。

京都なら、夏の鴨川に床(ゆか)が出ます。これも一種の公園。入場料が1万円ぐらいする高い「公園」ですけれど。まあ毎日行くわけではなく、一夏に一回とかの頻度で使います。お金のない若者は河川敷を活用しているから、鴨川の四条あたりは年齢別棲み分けの河川公園ですね。

つまり、その場がどのような機能を提供できるのか、臨機応変に組み合わせた公園概念がこれから必要なのではないですか。その機能の一つに飲食の楽しみを入れるのは、都市公園活性化に大いに効果があると、私は思います。

反対に、多くの集客を誇るテーマパークは公園なのでしょうか。入場料が高すぎると「何度でも利用できる」というわけにはいきません。そういう意味では、公園とは呼べないでしょうね。

それにアトラクションが決められたメニュー通りということも、公園にはそぐわないと思います。

公園がめざすべきなのは、たとえて言えば、「毎日味が違う、お母さんの晩ご飯」なんです。ファミリーレストランのように毎日同じ味をつくれるお母さんがいたら、気持ち悪いですよ。どこへ行っても同じ味の公園はいらない。腹が立つこともあれば、快適なこともある。そういう場が、一番人間的で快適なんですね。公園というのは、集まる人がつくるメニューでできあがることが大切なんです。そうすればみんなの要求が多様化しても、充分対応できるのではありませんか。

私は都市公園の再生は、水に対する危険視(水辺をフェンスで囲うなど)と飲み食いの規制を解くことから手をつけるべきだと思います。まず、これをやらなくては公園が私たちの手に戻ってきません。

近代以降、公園は130年の歴史をつくってきたけれど、結局、日本人にとって公園がどういう場なのか、明確な答えはまだ出ていないのです。

多摩川の支流、野川に隣接する武蔵野公園(東京)には、自由に遊べる「水遊びの池」があり、夏の盛りには小さな子どもたちのはしゃぎ声が絶えることはない。看板の警告によれば私たちだけではなく、犬たちにも水遊びの池が必要のようだ。

多摩川の支流、野川に隣接する武蔵野公園(東京)には、自由に遊べる「水遊びの池」があり、夏の盛りには小さな子どもたちのはしゃぎ声が絶えることはない。看板の警告によれば私たちだけではなく、犬たちにも水遊びの池が必要のようだ。



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