機関誌『水の文化』24号
都市公園

造園業はコミュニティの結節点 公園は育てるもの

造園業はコミュニティの結節点 公園は育てるもの

造園業はコミュニティの結節点 公園は育てるもの



伊藤 幸男さん

株式会社日比谷アメニス
伊藤 幸男 (いとう ゆきお)さん

造園業の発祥

当社の源流は、1872年(明治5)に葛飾区堀切で植木業を始めたころに遡ります。そのころは、個人邸の庭を対象に造園業を営み始めたようです。

現代では、造園業と植木屋さんは同じに見えるかもしれませんが、造園業というのは、いわゆる型ものを用いる舗装や建物までも含んだ仕事をします。一方、植木屋は植物だけを扱うんですね。当社は植木屋から始まり、造園業になったというわけです。

1950年に戦後東京の復興計画の一環として、当時の都知事から日比谷公園にフラワーショップを要請されて今の日比谷公園店を出店してからは、花卉部門が大きくなり、日比谷花壇という企業の母体が確立します。その当時には、戦時中も大事にしていた植木を、戦後になり品質の良い貸し植木として帝国ホテルなどに納めていたそうです。

造園部門が今のような造園業としての形が出来始めたのは、東京オリンピックのころからと聞いています。高度成長期に「都市に緑を」という要求が高まり始めたことから、造園業も産業として発展したのです。

やがて日比谷花壇から造園土木部門が独立して、1971年(昭和46)に株式会社日比谷花壇造園土木(現・日比谷アメニス)を設立しました。その前年には、大阪万国博が開催された時代です。

日本にはそれまでも、石などの自然物を組合わせて伝統的な庭園をつくる庭園業というものがありました。しかし、植木屋、石屋、土木屋とそれぞれ職分が分かれ、トータルな造園業という仕事はありませんでした。庭園の技術と土木の技術が分かれていたのです。そこは職人の世界で、学問的に整理して伝えられるような形態にはなっていなかったのです。

しかも庭園は日本に限らずクライアントが権力者であり、権力者のためのスペースでした。

そこに、パブリックな意味を持つ、公共財としてのオープンスペースをつくる需要が生じてきたのです。日本で都市公園ができるにあたっては、太政官布達というものがあり、そこで初めて欧米の歴史的背景を持った公園が、日本につくられるようになったのです。

そこで日本人の中にも公園づくりをヨーロッパで学んでくる者が現れ、世論も高まり、造園業が成立する土壌ができたというわけです。日比谷公園の設計を担当した本多静六さんなどが、造園業の第一世代だと思います。

ですから庭園と公園とでは、歴史がまったく異なっていて、権力者のための庭園とパブリックスペースとしての公園とでは、求められるものが違っているのです。

公園はいろいろな機能を重視します。例えば、防災公園の場合なら避難所としての機能が求められますから、トイレ、防火用水、ベンチなどがあります。でも日本庭園にはベンチはないですよね。

雨が降ったら流れができるような、自然を模してつくる中にアートの感覚を入れるのが日本庭園なんです。

都市の水と緑

戦後はまず住むところをつくろう、道路をつくって便利にしよう、という考え方が優先されました。公園をつくろうというのは、一歩遅れて言われてきたにすぎません。しかし、戦前はそうではなく、公園は都市計画上、もっと高い地位を占めていたと思います。

ヨーロッパで公園を学んできた人たちが、「ヨーロッパの都市には必ず緑とオープンスペースの公園がある。それがいろいろな用途に使われ、結果的には都市の野放図な発展を抑制している」と、公園を都市計画の要素と位置づけて紹介したからです。その良い例が日比谷公園や田園都市構想に見られます。日本にはそれまで都市計画を造園的に考えるという発想はなかったですから、大切な概念だったわけです。

ヨーロッパの公園には、いくつかの流れがあります。一つには、イタリアやスペインなどの王族の庭園がフランスに伝わり、整形式庭園というシンメトリックに制御された公園をつくってきた流れです。自然を制御する権力の象徴として、水を下から上に噴き上げることが盛んに用いられますし、左右対称につくるということも、自然を制御するという意味で用いられました。その整然と整えられた庭の一番奥に、噴水は置かれたのです。

一方イギリスでは、自然風にオープンスペースをつくります。個人の庭も柵をつくらないでオープンガーデンにします。ドイツにはそれが伝わり、自然の流れを生かした庭園をつくるという傾向にありました。ですから日本の公園づくりには、イギリス、ドイツからの影響が大きいのです。

日本庭園は、自然を凝縮したものとしてつくられますから、水は上から下に流れるのが当然なんですね。ドイツ、イギリスの庭園づくりの潮流が日本に伝わったのも、こうした感性の近さゆえかもしれません。

水の流れは伝統的な庭園にとって重要だっただけではなく、今でも大変人気があります。昭和記念公園(東京・立川市)の「みんなの原っぱ」の西側に、ただ水の流れがあるだけで遊具も何もない場所がありますが、そこにはいつも子どもたちが集まっています。水には「場」をつくる力があるんです。基本的に、樹木、水、土というのは、それが存在するだけで人が集まる魅力を持っています。

ところが、多くの児童公園を見ると、水がほとんどありませんね。水は危ないと思われていますし、清掃が大変だからでしょう。「管理が大変だから」といって水を切り捨てたことで、使われない公園を生んでしまったと思います。ですから、公園をリニューアルするときには、水をもう一回見直すことが重要だと思いますね。

緑を支える日本の伝統技術

日本の場合は、公園の様式を西洋から学びました。でも、実際に植える植物は日本のものです。植物は生きものですし、ヨーロッパと日本では植生が違うのは当然です。日本は四季もあり、暖かいのですから、ヨーロッパと同じ景観をそのまま持ってくることはできません。糸杉だって日本に持ってきたら、どんどん太って糸杉じゃなくなってしまいます。

芝生だって、日本では管理が難しい。温暖湿潤なので雑草が生えてくるから、農薬を使ってメンテナンスをすることもあります。そして、人が踏み入ったらすぐにはげてしまいますから、ヨーロッパのように芝生にゴロンとしてもらえないのです。

景観は、一種の文化です。ですから、日本では和木を使った景観づくりを行ないます。

街路樹を見ても、大きくなって葉が茂るような樹木は、台風のときに倒壊の恐れがあるので葉を刈り込まれてしまいます。実は、根の部分は土が余りなく、余計倒れやすくなっているのです。私たち樹木の専門家から見ると、頭でっかちで幹だけ太い、不格好な街路樹がたくさんあります。こういう大きく育ちすぎた樹木を公園に植え替えてやる、というのもこれからは大切な仕事だと思います。

また幹を保護するための幹巻きとかシュロ縄で結ぶとか、建仁寺垣とかいう技術は日本伝来の技術を用います。ですから造園の現場の基本的技術には、日本の伝統技術がたくさん生きています。

全体計画はヨーロッパの都市計画の概念、造園を支えるのは日本の伝統技術、という状況が今も続いています。

路地から公園へ

日本の近代的公園第一号は日比谷公園で、1903年(明治36)に開園しました。ドイツの公園づくりを勉強した本多さんが、伝統的な庭園をつくってきた職人たちを使って、公共公園をつくりましたが、おそらく、職人さんには相当とまどいがあったことでしょうね。

それまで、日本におけるオープンスペースといえば「路地」なんです。長屋と長屋の間の小さな路地の両脇には、植木鉢がいっぱい置いてありますね。これがオープンスペースで、緑とコミュニティの場として機能していました。ですから、「公のためにオープンスペースとして広い場をつくる」という発想は職人さんにはなかったと思います。

路地は、住み手個人のものでもあり、何となく町内のものでもあったわけで、そういう場所の緑は植木屋さんが手を入れるというよりは、自分たちで手入れをしました。植木屋さんは、大きなお屋敷の緑の手入れしていたわけですからね。

そのころと比べると、オープンスペースを求める世論も変わってきています。昔は緑はどこにでもあったのに、高度成長期にまず箱物が次々とつくられました。コンクリートのビルがあちこちにでき、道路も通しやすい所にどんとつくられ、道はアスファルトで舗装されていきます。それでふと気がつくと、緑がなくなっていたんですね。

その影響でヒートアイランド現象が大きな社会問題になっているのが、今の現状です。だから、みんな昔あった緑の価値を公園に求めています。

また、昔の路地や人々が集まる所もなくなり、地域コミュニティが稀薄になっているので、その機能も公園に求められています。

最近の公園ではスペースという意味の「場所」をつくるのではなく、コミュニティの「場」をつくることが重要視されています。緑をつくるということは、イコール緑の「場」づくりとなり、憩いの「場」ともなっています。

都市がつくられていく過程において、失われていった「場」というものがいかに大切であったかということが、今になって改めて認識されていると感じます。

  • 東京の広尾、首都高速の下を流れる古川にかかる一の橋の公園には、地下に貯水槽が埋め込まれており、そこから溢れた水は隣接した古川に放流されて貯水槽の水が入れ替わるようになっている。

    東京の広尾、首都高速の下を流れる古川にかかる一の橋の公園には、地下に貯水槽が埋め込まれており、そこから溢れた水は隣接した古川に放流されて貯水槽の水が入れ替わるようになっている。いっせいに放流される水を見に人が集まるようになったが、そのおかげで公園を使う人は汚さないように配慮するようになるし、治安もよくなった、というお話をうかがったので、早速見学にでかけた。

  • あいにく一の橋公園は工事中で取材ができなかったが、並びの四の橋では商店街主催の地元今昔写真展が開催されていた。

    あいにく一の橋公園は工事中で取材ができなかったが、並びの四の橋では商店街主催の地元今昔写真展が開催されていた。雨に濡れない首都高速下の橋は、商店街の延長であり、路地機能が活きている場となっているようだ。

  • 東京の広尾、首都高速の下を流れる古川にかかる一の橋の公園には、地下に貯水槽が埋め込まれており、そこから溢れた水は隣接した古川に放流されて貯水槽の水が入れ替わるようになっている。
  • あいにく一の橋公園は工事中で取材ができなかったが、並びの四の橋では商店街主催の地元今昔写真展が開催されていた。

阪神淡路大震災

そうした中で、阪神淡路大震災1995年(平成7)は公園がさまざまな機能を発揮したという点で大きな転機となりました。

ご存じのように震災時には公園の常緑樹が防火機能を持つだけではなく、避難場所となりました。緊急事態のときに、公園が地域の人にとっていかに重要であるかを、社会が認識した大きなきっかけになりました。このことから、防災機能を持った公園をつくろうという動きが始まります。昔は緑、憩い、遊び場という役割を果たしていた公園が、コミュニティをつくったり、防災機能を持ったりと、いろいろな機能を求められるようになってきたわけです。

不可抗力の災害において、都市に安全な場所をつくっておく。その役割を都市公園が担うという発見です。都市公園にどんな防災機能が必要なのか研究されるようになったという側面からも、大きな転換点でした。

防災公園に求められる第一の機能は、水です。

そして、そこに行けば必要な情報がわかるという連絡網としての役割も重要だということが、阪神淡路大震災で証明されました。

また、マンホールのふたを開けてその上に設置する簡易トイレを、もっと便利にする研究も進められています。公園の下に貯水槽をつくり、それが腐らないようにする工夫や、さらに、テントを張りやすい遊具というのもありますね。例えば、ブランコの椅子を外すと、枠がテントを支える支柱になる。

そういう視点から昔の江戸を見直すと、大きなオープンスペースを都市の中に造ってこなかった時代というのは、路地が逃げ道になっていたと思うんですよ。火消しが家を倒して防火線を確保したわけですが、同じ機能が現代にも必要と思います。グリーンベルトをつくっておけば、そこで類焼が防げます。ヨーロッパにはそういう考え方があり、ロンドンの大緑地帯はその機能も果たしています。

日本では、そういう都市計画の実効性がありませんでした。高度成長期には緑地を削り宅地化して、小さな児童公園をつくるに留まりました。都市計画上の大きな公園は、ヨーロッパに比べると、まだまだ足りないと思います。

コミュニティが交わる公園

造園というのは社会科学でもあるので、その空間をいかに時代に合わせて使っていただくかということについて、考えています。地域住民がどういう年齢構成になっているか、どういう所得層があって、どういう地区なのかといった分析をします。それをよく考えないと、昔あったように滑り台と砂場とブランコがある、というどこでも同じような公園をポンポンポンとつくっても、誰も遊んでいない児童公園になってしまいます。

今の子どもは塾に行っていて、公園なんかで遊んでいないところもあるのです。いるのは老人だったりします。それであれば、置いてあるものと果たすべき機能とがマッチングしていないということになります。

植える樹木の種類も、メンテナンスのことまで考えて選ばなくてはなりません。そういうことをちゃんと考えられる、社会の流れがわかる人材を、公園をつくる側に育てる必要があります。

建物というのは、メンテナンスをしていてもだんだん衰えていきます。しかし植木とか公園というのは、必ず周りの人たちの思いによってその場所に合った形に育っていくのです。

小山内裏公園(東京都八王子市)という多摩ニュータウンの西端に位置する公園があります。この公園を当社が第1回目の指定管理者(注1)として、今年の3月まで運営していました。

公園を使うといっても、いろいろな立場の人がいます。この公園はオオタカの生息地であり、保護しようという人たちがいました。植生について研究している人もいますし、もちろん遊びたい人もいる。公園ができたときに、周りの人はいろいろな使い方をイメージしているんですね。

ところがオオタカを保護したい人は、極端に言うと公園を使ってもらっては困る。都会ではドッグランが流行っていますが、オオタカが巣をつくっているのに犬を走らせてはまずい。では、犬を連れてくる人は、どうやってそこで犬を遊ばせるか考えなくてはならないわけです。

昔であれば隣近所ですから、顔がわかっていますし、どこの誰だかわかります。だから遠慮もあれば、話し合いもできる。でも、最近では公園に来た人が顔見知りでもなんでもないために、コミュニケーションの機会がほとんどつくれません。そのために、対立してしまうんですよ。仲介者が間にいないと、話し合いがまとまらない事態になっているのです。

公園というのはいろいろな人が集まる場なので、お互いの意識の違いを認識しあって、調整するのが大事な仕事になります。そこで、まずコミュニケーションを維持するために緩やかな団体をつくりました。

小山内裏公園には、1年半の間に4つのコミュニティができました。ワンワンパトロール隊、オオタカの観察、自然生態系全体を研究している団体、畑で作物や花を育てる団体です。

それぞれ不満もあったでしょうが、なんとか共存する糸口を見つけ出していくことができました。

互いの意見だけを主張していくと、どうしてもその「場」が単機能しか果たせない場になってしまいます。管理という点だけからいえば、単機能であることのほうが楽なので、そうなりがちなのは否めません。

しかし、そうやって囲い込むと、そこからはじき出された人たちは、必要とする機能を求めて公共でない場所に行ってしまいます。そのことはトラブルや不便さにもつながっていくと思います。周りを見回して、他にそれほどオープンスペースがあるとも思えないので、公園がさまざまな要求を満たす場である必要性を強く感じます。

場をどうやって使うのが一番いいのか。

こうしたことは住民サービスとして、一番きめ細かい対応ではないでしょうか。そして造園屋というのは、公園をなんのためにつくるのかということについて、学校でも学び、実地で経験を積んできたのですから、このようなコミュニケーションのとり方やサービスの提供の仕方を知っているという意味でも適任だったのかもしれません。

小山内裏公園にはサンクチュアリ(聖域)が多いので、明るくするとオオタカの生息に影響があるということで、夜も足下灯ぐらいしかありません。そうなると犯罪の心配もありますから、犬を連れている人には腕章をつけてもらってパトロールをしてもらうようにしました。こうすると犬の散歩もできるのです。

私たちが公園管理者として行なったのは、こうした調整役の仕事です。

このようなワークショップ形式で合意形成していくやり方というのは、バブル崩壊後に出てきたように思います。阪神淡路大震災のあと、1995年以降のことのように思います。ここ10年で住民の意識も公園のあり方も、大きく変ってきたということがいえますね。

公園は自治体が持っているものなので、地域の警察、消防署、学校、管轄の役所とかにも、話しにいきます。長年その地域で行政を行なっているわけですから、そこには知恵のストックがあるんですね。こういう研究を大学でやっているから聞いてみたら、というようなアドバイスや紹介をしてくれます。

最近の傾向としては、公園が地域住民だけの場所ではなくなっている、ということがあります。オオタカも地域住民のためにそこに棲んでいるわけではなく、世界的な生態系の問題を抱えていますから、保護しようという動きは地域を越えているのです。

(注1)指定管理者制度
2003年の地方自治法の改正により導入された制度。地方公共団体が所有する公の施設の管理は、それまで公共団体か第三セクターしか行なえなかった。しかし、この制度により、地方公共団体から「指定管理者」に選ばれれば、企業、社会福祉法人、NPO、自治会・町内会などでも管理主体になることができるようになった。指定管理者の裁量権と責任範囲はかなり広く、やる気があればかなり自由に公の施設を経営できる。

  • 「入口から入ってすぐのところに、花壇ではなく畑がある公園も珍しいでしょ」という、岩田さんご夫妻。小山内裏公園ができた直後から、夫妻でボランティアに参加している。

  • 「公園ができてすぐ、トイレなどが荒らされたことがあって、そのことをきっかけにしてみんなで守っていこう、という気運が生まれました」と話してくれた。

    「入口から入ってすぐのところに、花壇ではなく畑がある公園も珍しいでしょ」という、岩田さんご夫妻。小山内裏公園ができた直後から、夫妻でボランティアに参加している。 「公園ができてすぐ、トイレなどが荒らされたことがあって、そのことをきっかけにしてみんなで守っていこう、という気運が生まれました」と話してくれた。

  • ワンワンパトロールで犬好きの人たちの集まりができ、そのことから発展して2006年の春、ドッグランができた。

    ワンワンパトロールで犬好きの人たちの集まりができ、そのことから発展して2006年の春、ドッグランができた。犬連れの人から「ドッグランはどこですか?」と、何人にも話しかけられる。晴天に恵まれたこの日は初めて訪れたという人も多く、ドッグランは公園の利用率の向上にずいぶん貢献したようだ。

  • 「入口から入ってすぐのところに、花壇ではなく畑がある公園も珍しいでしょ」という、岩田さんご夫妻。小山内裏公園ができた直後から、夫妻でボランティアに参加している。
  • 「公園ができてすぐ、トイレなどが荒らされたことがあって、そのことをきっかけにしてみんなで守っていこう、という気運が生まれました」と話してくれた。
  • ワンワンパトロールで犬好きの人たちの集まりができ、そのことから発展して2006年の春、ドッグランができた。

育つから好き

面白いもので、もとは一緒の会社でありながら花を小売している日比谷花壇の社員と造園をしている日比谷アメニスの社員とは、性格が違います。日比谷花壇の人たちは、花や緑を使ってディスプレイしたり、顧客との接点を楽しむ志向があります。一方、造園を志す人間は、樹木や生きものそのものが好きなのですね。なぜ好きかというと、「育つから」なんです。

公園ができ上がったばかりのときは、樹木が一番弱っているときです。落葉して、剪定されて、棒のようになった樹木が植えられているから決して見栄えもよくありません。最初はそのように殺風景ですが、数年して初めて景観をつくっていくのです。そういう気の長い、のんびりとした性格を持っている、良くも悪くも真面目な人間が多いように思います。当社にも大学で造園学を学んだ社員は多いのですが、そういう人は高校時代から造園を学べる学部に行こうと決めているわけです。就職する何年も前から計画して人生を選んだわけですね。そのような性格ですから、専門性を志向する人間が多いようです。

日本の都市公園草創期からしばらくすると社会の要請の高まりにつれて、大学で造園を専門とする学部ができてきました。造園学というものは、役所のお役人だけが知っていればいいものではない、という気運の高まりでしょう。公園をつくるためには、設計だけではなく維持管理を含め、民間の力が必要で、そういうことがわかった人材を育てる必要性が増したのです。

日本で造園をやっている人は、林学系の人と都市計画系の人がいますが、林学から入った人も森林のことだけではなく、都市計画や造園を学んで働いていく人が増えていきました。樹木を育てるといっても、自然が多い地方都市で育てるのとは違い、都会の中で育てていく、という特性があります。

そうした時代背景と当社が会社として大きくなった時代とが、ちょうどマッチしたのです。

日比谷花壇時代から造園土木部がありましたから、大学で造園を学んだ人が日比谷花壇に入社してくるようになりました。そういう意味で、当社は特殊な人が集まっている会社かも知れませんね。

都市公園の価値

公共財としての緑というのは、政治的な予算に左右されますから、これから大きく増えることは見込めないでしょう。私たちの目から見ると、緑はまだまだ全然足りないと思えるのですが、直接的な経済価値というのが認められにくいので仕方がないのかもしれません。都市計画も、短期的なスパンで動いていくのがせいぜいです。そんな中で自分のお金を使って、庭に花を植えたり飾ったりする、緑を愛する人に、都市の環境はずいぶん救われています。そういう人がが減ってしまったら、都市はつらい状況になりますね。

しかし、どんな緑が欲しいか、という思いは時代とともに変化しているはずです。日比谷公園は2003年に100周年を迎えたところですが、日比谷公園に100年間同じ思いで機能を要求してきたわけではなかったはずなんです。私たちは、本当の意味での世論を捉えて、要望をかなえていくという仕事をしていかなくてはいけないと思います。かつて子どもが遊ぶ場所だった公園が、老人の憩いの場所になっているように、これからの公園には、必要に応じて変っていく柔軟性が求められると思います。

バブルのときにできたミニテーマパークのような公園は、お金をかけて遊具や舗装できれいに仕上げられました。しかし、きれいなものというのは、維持管理にお金がかかります。不景気になったおかげで、そういう公園が破綻して、運営を民間企業や地域住民の手に委ねるようなところが増えています。これをチャンスとして、もう一度地域の自治体と住民が協働して良い公共財としてのオープンスペースにするような仕組みができるといいですね。

今までは設計者と施工者と使用者の間にギャップができたこともありましたが、使用者が設計に参加することで、本当に求められている機能を満たした公園が増えていくのではないでしょうか。

私たちは造園業を営むものとして設計や施工を行なってきましたが、今後は使う立場の人たちの側に立って、そのノウハウをフィードバックしていく責任を感じています。



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