機関誌『水の文化』24号
都市公園

泥んこ遊びでまちも育つ 遊びと公園のエコロジー 

子供は、仮想の水辺バケツの中でも真剣になってしまう。

子供は、仮想の水辺バケツの中でも真剣になってしまう。



木下 勇さん

千葉大学園芸学部教授
木下 勇 (きのした いさみ)さん

1954年生まれ東京工業大学大学院修了。スイス連邦工科大学留学。 主な著書に『遊びと街のエコロジー』(丸善1996)他。

遊びの四元素

今、都市の公園には、子どもの姿を見ることが稀になりました。このままいったら、公園で遊ぶ子どもがいなくなる恐れもあります。その原因として、人口の減少もありますが、日本の都市の環境が子育てしやすい環境より、大人の都合でつくられているというところに問題があるように思えます。

子どもの権利条約に遊びの権利が定められているように、子どもは遊び、育つ存在です。しかし、人間の成長にとって大切な遊びの重要性が、日本ではあまり意識されてこなかったというのが現実なのです。

ですから、プレーパーク(注1)がマスコミなどに取り上げられるのも、今の遊びの状況と違うところに、みなさん興味を持たれたのかもしれません。

「遊びの四元素」として、自然界にある火、水、木、土が子どもの遊びに重要な要素という考え方があります。この四元素は、発達心理学の見方からいっても、子どもの中にある自然の欲求を促す大切な要素なのです。ですから遊び場の中に、これらをどう配置していくかが工夫のしどころとなります。

今ではごく当たり前にある砂場ですが、発祥は19世紀後半のドイツでした。大きな公園の中に砂場が盛られ、そこで遊ぶ子どもを警官が監視していました。それを見たキリスト教徒がボストンの幼稚園へ持ち帰ったのが原型です。砂と水を合わせると泥んこになる。泥んこは子どもにとっての創造性の源ですね。ヨーロッパの保育者に日本の泥んこ保育の話をすると、ほとんどの人は目を輝かせます。

では、日本の公園がそういう「遊びの四元素」を大事にしてきたかというと、まったく逆でした。雨が降るとぐちゃぐちゃになるので、公園で土は嫌われます。火や水は危険だから禁止されている。樹木はあるけど、廃材を使って秘密基地を木の上につくったりすることはできません。

水があっても人工的な流れで、魚がいるわけではありません。オタマジャクシやカエルがいる泥っぽい水たまりは汚いとして排除されます。土や水は、管理の手間があるから排除される傾向にあるのです。

象徴的な例として、松戸の「水とみどりと歴史の回廊マップ」にある「しょうぶ公園」には、水路もないし、菖蒲も植わっていません。地元の人に訊くと「昔は菖蒲がきれいな場所だった」といいます。管理しにくい、面倒なものはどんどん排除されていく。こういう論法で、自然そのままの要素と子どもが接する場所は、どんどん少なくなっていきます。

一方、羽根木のプレーパーク(東京・世田谷区)では、夏場は子どもたちが自由な発想で水と遊んでいます。あそこには水の流れはありませんが、丘の上から水道の水をホースで流して、ウォータースライダーのようにして遊んでいました。びしょぬれ、泥んこで夢中になって遊んでいる。あんまり気持ちよさそうなので、見ていたお父さんもついに一緒になって滑っていました。夏に水遊びをするのは人間にとって当然の欲求なんです。

羽根木プレーパークのように、「泥んこになって遊ぶのが楽しい」ことを直感的に感じとったり、自分の子供時代の思い出にフィードバックできるお母さんたちから支持されて、全国に200以上険遊び場の運動体があり、増え続けています。世界的には冒険遊び場が停滞する中、日本で運動として広がっているのは注目されています。

(注1)プレーパーク
1945年にデンマークでソーレンセン教授が子どもが廃材置き場で遊んでいる姿を見たことから始めた廃材利用の遊具や小屋をつくる遊び場で、プレーリーダーという子どもの遊びを見守る人が常駐する遊び場を冒険遊び場という。さらにイギリスのアレン卿夫人が広め、北欧を中心に広まっていった。日本では1970年代に初めて紹介され、住民主体の自発的な運営により、現在200近い団体が冒険遊び場づくりに取り組んでいる。大きな公園の一画にある冒険遊び場をプレーパークという。羽根木プレーパークは、1979年に開設された日本初の常設冒険遊び場。

羽根木プレーパーク

羽根木プレーパーク

都市公園の中の遊び場

日本で公園に遊び場が必要と思われるようになったのは、明治の末から大正にかけてです。そして、盛んに広がっていくのが昭和の初めです。

日比谷公園が1903年(明治36)に開園したとき、300坪の児童遊園が設置されます。この児童遊園は、アメリカのモデルプレイグラウンドと呼ばれる、児童指導員がいる遊び場の形態を模したものでした。ここで、本格的に公園児童指導を始めたのが米国留学から戻ってきた末田ますで、1924年(大正13)のことです。東京YMCAから東京都の嘱託になった末田は、ここでキリスト教会の福祉活動として本格的に公園児童指導を展開しました。

子どもは従来、道路で遊んでいたのです。しかし自動車の数が増えてきたことで、道路から子どもたちは駆逐されていきます。実際、当時の交通量は増えており、1910年(明治43)に市区改正委員の窪田清太郎が東京市議会に提出した「小公園設置に関する建議案」の中にも「近来市内交通機関ノ発達に伴ヒ、往来益々頻繁に赴ケルニ拘ワラズ、児童ノ多クガ通路ヲ馴駆スルガ如キ、当ニ交通ノ妨害タルノミナラズ、其危険少シトセズ」と述べられています。

江戸時代にも、道で遊んでいた子どもが交通事故に巻き込まれるという問題はありました。大八車でひき殺して死罪になった例があります。

当時は結核やチフス、赤痢といった流行病が蔓延していましたから、末田ますが目指したのは衛生的で、車からも安全な遊び場だったわけです。

ですから、モデルプレイグラウンドは、先に紹介した冒険遊び場とは違うのです。児童指導員とプレーリーダーも、性格がまるで違います。当時の道路や路地には、遊びの四元素に触れられる場はたくさんありましたが、そういうものは不衛生と考えられたわけです。今の公園の三種の神器と呼ばれるブランコ・滑り台・砂場は、そういう背景から生まれたのです。

健全な精神は健全な肉体に宿る、という発想で、1902年(明治35)には鉄棒が日本体育協会から寄贈され、健康や体力増進に比重が置かれたようです。

もっとも、末田さんの指導の中には、水を使った遊びもあったようですね。ただ、当時は公園で水遊びをしなくても、身の回りの川などで水遊びができましたから。

三世代遊び場マップ

今から四半世紀前の1982年(昭和57)「三世代遊び場マップ」というものを、東京・世田谷区三軒茶屋・太子堂地区でつくりました。子ども・親・祖父母の三世代にわたって、それぞれ子ども時代の遊びの体験について話を聞き集め、3枚の地図にまとめたものです。

かつて、このあたりは烏山川などが流れ、子どもはそこで遊んでいた。堰のあたりが恰好な遊び場だったんです。ところが、1982年当時は、もう暗渠になって下水道の幹線になっていました。子どもが水遊びできる場所はなくなってしまいました。

このマップづくりの結果わかったことは、身近な自然とのつきあい、共用の暮らしの場、ともに楽しむ人づきあい、という3つのかかわりが失われ、そのことが子どもの遊びに影響を与えていることでした。

現在、4世代目の遊び場マップをつくり始めています。ヒヤリングの結果、子どもたちの遊びの拠点は学校の校庭で、日常はほとんど家の中ですね。テレビゲームが主流です。神社の中での鬼ごっこは残っているんですが、現代らしいのは、通信機能のあるテレビゲームを逃げるほうが持って、「そっちに鬼が行った」とやるらしい。公園だと姿が丸見えなので、茂みなどの隠れる場所がある神社がいいんですね。

「三世代遊び場マップ」−現代版−は1985年(昭和60)当時

「三世代遊び場マップ」−現代版−は1985年(昭和60)当時



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「三世代遊び場マップ」−現代版−は1985年(昭和60)当時

「三世代遊び場マップ」−現代版−は1985年(昭和60)当時



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水に対する悪い思い出

「三世代遊び場マップ」づくりの後、まちづくりプロジェクトにかかわりました。プールの水を引いてせせらぎをつくるという案を、まちづくり協議会に提案しました。私は誰もが喜ぶだろうと思っていたら、沿道に住む人から反対運動が起こり、合意形成に2年半かかりました。緑道の上に人工的に水を流すのが目標だったのですが、反対した人からはゴミが溜まる、危ないなど、いろいろなことを言われました。

あるおばあさんは、昔の水害の記憶があって、「とにかく水はだめだ」と言う。「プールの水であふれることはないから」と言っても「水は嫌だ」と。さらに「どぶ川が臭かった」という記憶も残っていて、水の流れに対するイメージはとても悪いものでした。

思い出を聞き出しながらまちづくりを進めていたのですが、その思い出が反対理由としても働いてしまい、しかも、楽しい思い出よりも嫌な思い出のほうが強く残っていました。

結局、反対派の人たちとも徐々に歩み寄りができて、最後の時期に砧(きぬた)の農業用水路を見にいきました。そこは小学校の前まで流れてきていて、小学生が管理しているものでした。農家の庭先では、トマトやスイカを冷やしたりして活用され、そういう自然の生きた水を見て、「こういう流れならいい」と、お母さんたちも納得してくれたのです。

自然水のほうがいいと思って、井戸を掘って地下水と雨水を使う代替案もつくりましたが、結局、プールからの排水利用になって1988年(昭和63)に完成しました。今のほうが水への理解ができていて、これほど苦労しなかったでしょうし、自然水を採用する案が実現していたかもしれません。

墨田区で路地尊を始めたのがこの後だったので、私は悔しい思いをしたんですよ。

根源的な欲求に従うのが、遊び本来の姿

子どもは遊びながら、次々に遊びを考え出します。鬼ごっこや泥の中のウォータースライダーのように、自分で生み出すものです。川遊びは、まさにそういう遊びでした。水の流れを読みながら、魚をつかまえるために、仕掛けをどのようにつくるかと自分で工夫する。遊びとは本来そういうもので、遊ぶことで想像力とか、臨機応変な対応力、生きる力が身についていったんです。

体育のようにプールで泳ぎが上手くなるというのは説明しやすいけれど、遊びはうまく説明できない。目的があってそのためにするものでもありません。子どもの根源的な欲求に従っているだけなのです。「それをやって何になるの?」という成果ではなく、根元的な欲求に従うという点が遊びの重要なところなんですね。

そういう思いがあったので、1979年(昭和54)の国際児童年に、羽根木プレーパークの準備を学生として手伝った後、ヨーロッパの冒険遊び場を調べに行きました。

なんで子どもが冒険遊び場でわくわくするかというと、自分の枠を取り払う自立の欲求が満たされるからなんですね。だから、秘密基地や冒険は面白い。

こういう経験は、リスクマネージメントの力を育てることに役立つのです。もちろん、それを目的にして遊んでいるわけではないのですが、子どもは遊びながら自分で危険を判断する力を身につけます。事故が起きるのは、かえって大人などから外的圧力がかかって、子どもが判断できない状態に追い込まれたときのように思います。

スイスの冒険遊び場では、遊びの四元素を大事にしていました。池がなくてもホースの水を掛け合って、びしょぬれになる。濡れたら、廃材で火をおこして、服を乾かす。乾かしているうちに、お腹がすいてくるので、棒の先にパン生地を巻いて焼いたりします。これが実においしい。シンプルな遊びだけですが、そこには四元素が循環してかかわっています。

冒険遊び場はデンマークで始まったわけですが、ヨーロッパではだんだん行政ベースになり、冒険性が薄れていきました。特にイギリスでは、サッチャー政権時代に資金がカットされ、どんどん潰れていきました。ドイツは導入時期は遅れましたが、生態系や環境学習の場とも重なって、今でも続けられています。

生態系としての子ども

ビオトープをつくったときに、子どもが入って遊ぶことをどこまで許すかが議論になりますね。子どもを締め出して保全するか、子どもが遊ぶのも生態系の一部と思うか。私は後者で、子どもも生態系の一部と捉えています。公園だけに、子どもや遊びを閉じこめるべきではないという考えです。

1980年(昭和55)に開校した習志野市立秋津小学校では、田んぼやビオトープをつくっています。「秋津小学校区に居住勤務している人すべてを対象に、一人ひとりの趣味やスポーツ・文化的な楽しみを継続的に行なえるように応援する、地域の諸団体で構成された任意団体」を「秋津コミュニティ」と呼び、地域の大人たちが子どもたちの泥んこ体験を支援しています。

子どもだけではなく、親の反応も変わってきますね。あんまり泥んこを嫌がらなくなります。家族ぐるみの関係もできてきて、着替えを持ってこなかった子どもが、友だちの家のお母さんに洗濯してもらったということも出てきました。子どもが泥んこ遊びができるような場が、目に見えない遠慮をうまく溶かしてくれるという可能性はあります。

衛生感で秩序化され、頭が堅くなった大人たちの関係を、子どもたちの遊び場でできる関係が溶かしていくようになれば理想ですけどね。子供たちもいろいろな親の姿に触れていくことが、自分の成長にとっては大事なことでしょう。

ドイツ・フライブルグのボーバンに取材に行きました。ここのコーポラティブ住宅では、自動車を進入禁止にして、道路と前庭の仕切りもなくしています。パブリックとセミパブリックの空間をうまくつくり、雨水を溜めた遊び場など、土や水を利用した遊びの仕掛けもありました。周辺に残された緑地には小川が流れ、そこに冒険遊び場が新たにつくられていました。

写真を撮っていたら、通りすがりの人に声をかけられたのですが、もし私が犯罪者だったら、こういう一体感のある地域からは逃げ出すでしょう。道路を生活の舞台として復権させたり、遊びの四元素を生かした遊びの仕掛けをつくったりするという発想は、単に遊びの効用だけを考えてなされているわけではなく、地域ぐるみで子どもたちを育てようという意識の表れだと思います。

そういう点では、生態系が失われてしまった今、人工的であれ遊び場を新たにつくっていくということが、コミュニティを取り戻すきっかけになるかもしれません。



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