機関誌『水の文化』24号
都市公園

《親水と公園》

古賀 邦雄さん

水・河川・湖沼関係文献研究会
古賀 邦雄 (こが くにお)さん

1967年(昭和42)西南学院大学卒業。水資源開発公団(現・独立行政法人水資源機構)に入社。 30年間にわたり水・河川・湖沼関係文献を収集。2001年退職し現在、日本河川開発調査会。筑後川水問題研究会に所属。

街なかの公園に住みつくホームレスが社会問題化して久しい。アル中が高じ、自らホームレスの体験を赤裸々に描いた吾妻ひでおの『失踪日記』(イースト・プレス2005)が第10回手塚治虫文化マンガ大賞などに輝いた。公園は土地、緑、水、トイレ、街灯が設置された都市装置であり、食糧だけを調達すれば日常生活には十分可能となる。公園は誰もが遊び、憩い、癒し、スポーツ、さらには防災のために自由に使用できる公共空間である。

鈴木敏、澤田晴委智郎著『公園のはなし』(技報堂1993)によると、公園の制度化は、1873年(明治6)の太政官布達によるもので、上野、浅草、深川など全国で25の公園が指定され、さらに1903年(明治30)我が国初の洋風公園、日比谷公園が開園され、当時は火災時の延焼を防ぐのが主目的だったといわれる。

白幡洋三郎著『近代都市公園史の研究1 - 欧化の系譜』(思文閣1995)では、わが国の公園は欧化政策の一環としてなされ、西洋における公園の誕生は19世紀ドイツの都市構造にみられると記されている。ブレーメン等の中世都市は囲郭に囲まれ、内部は住居、外部は広大な緑地帯が拡がっていた。軍事的な戦法の変化、都市の発展、人口の増加、衛生上の要因からその囲郭の撤去が行なわれ、造園士によって旧都市をぐるりと取り囲むように公園が誕生し、劇場や美術館も配置されて市民の憩い場へと変容する。ドイツの公園は、民衆教育の場、国家や都市の威光を表す場、貧困対策としての保健、休養の場の3点が強調された。日本の公園造りは、近代化を促進する欧化政策として、日比谷公園、山手公園、横浜公園に色濃く反映されたとして、さらに街路樹論をも述べる。

  • 『公園のはなし』

    『公園のはなし』

  • 『近代都市公園史の研究1 - 欧化の系譜』

    『近代都市公園史の研究1 - 欧化の系譜』

  • 『公園のはなし』
  • 『近代都市公園史の研究1 - 欧化の系譜』


小野良平著『公園の誕生』(吉川弘文館2003)によれば、公園は産業革命以降発生した都市人口の過密と環境悪化などの問題を解決するために行政によって造られてきた、近代都市装置として位置づける。前述の太政官布達は公園の制度化を土地租税を含めた土地管理政策にあったが、その後、1885年(明治18)の東京市区政策意見書において、都市構想のなかに公園計画の議論が登場し、衛生局長与専斎は公園造りの第一の目的は衛生にあると主張。その背景にはコレラの大流行が生じたからであり、公園を身体の「肺」とみなし「都市の肺臓」と捉えたと論じる。一方、上野公園が内国勧業博覧会の会場となり、農業館、機械館、園芸館、動物館を配置し、遊覧の場ではなく、近代化にふさわしい認識を国民に求める教育的、啓蒙的な広場となり、また、日露戦争の勝利により、日比谷公園は帝都の儀礼の場に変わり、1904年(明治37)遼陽占領東京市祝捷会、旅順降伏祝捷会提灯行列、東郷大将軍凱旋など国民統合の装置として公園が活用されたと指摘する。

さらに公園の歴史について、田中正大著『日本の公園』(鹿島出版会 1974)が発行されているが、この書では栗林公園、後楽園、高知公園が明治維新の危機を乗り越え、公園として旧藩民たちの手によって守られてきた経緯を詳述する。

一方、丸山宏著『近代日本公園史の研究』(思文閣1994)は公園の通史である。1924年(大正13)都市計画法に土地収用法が組み込まれ、博物館や博覧館による公園の拡張、昭和では震災復興、防災緑地の都市計画公園にこの法が適用された。いつの時代も公共事業用地確保の困難性を物語っている。

申龍徹著『都市公園政策形成史1 - 協働社会における緑とオープンスペースの原点』(法政大学出版局2004)は、近代的公園制度のはじまりとされる太政官布達から緑の基本計画、新たな海上公園の策定まで130年にわたるわが国の公園政策を精力的に論じ、次のように鋭く指摘する。

「都市公園の制度・政策・行政は、明治以降の集権的整備の仕組みに安住してしまい、都市公園は市民権を得ないまま、財政のゆとりのある場合に取り上げられ『思いつき行政』の代名詞となっている。しかも、その原因は明治維新後の欧米諸都市の視察・見聞によってつくられた近代的都市公園のイメージ、言い換えれば、『文化』ではなく、『文明=施設(営造物)』として位置づけられてきた」

同様の指摘は、飯沼二郎・白幡洋三郎の対談『日本文化としての公園』(八坂書房1993)の中で見られる。統一された規格で公園が造られ、余りにも禁止事項が多く、利用する市民の立場を考慮されていないと述べられている。

  • 『公園の誕生』

    『公園の誕生』

  • 『都市公園政策形成史1 - 協働社会における緑とオープンスペースの原点』

    『都市公園政策形成史1 - 協働社会における緑とオープンスペースの原点』

  • 『公園の誕生』
  • 『都市公園政策形成史1 - 協働社会における緑とオープンスペースの原点』


さて、子どもは遊びの天才であるが、仙田満著『子どもとあそび』(岩波書店1992)には遊び空間も、遊び時間も、友だちもないと嘆き、その遊びを発揮できる環境の再構築のために、児童公園の充実を論じる。

しかしながら最近、NPO法人による市民たちと行政との協働による公園運営がみられるようになってきた。小野佐和子著『こんな公園がほしい1- 住民がつくる公共空間』(築地書館 1997)には、住民の参加によって触ることができ、利用できる公園づくりを紹介している。羽根木プレーパーク(世田谷区)は焚き火、木登り、穴堀りなど、公園で禁止されている遊びができる子どもたちの遊びの場となった。

さらに、浅羽良和著『里山公園と「市民の森」づくりの物語』(はる書房2003)は、「まいおか水と緑の会」のメンバーが、舞岡谷戸(横浜市)を水源とする舞岡川沿いに池や田んぼを活用し、水車、火の見やぐら、耕作体験地、こどもたんぼ、中丸の丘、小谷戸の里を設け、この舞岡公園における農体験を大切にしながら自然と触れあえる公共空間を創り出した実践レポートである。

公園には水の流れも欠かせない。水は生物や植物を育て、鳥さえも飛来し、よりよい水辺空間を形成する。人と水との豊かな触れあいを親水というなら、その親水を創出した公園は一層人の心に優しさを与えてくれる。1972年(昭和47)日本初の親水公園である古川親水公園が造られた。土屋十圀著『都市河川の総合親水計画』(信山社サイテック1999)に、「親水公園とは河川、海、池、湖沼など形態にこだわらず水を主題として、『意図的』に『親水性』を取り入れた施設の総称とする」と定義する。親水公園としての天満緑道(名古屋市)、新町川水際公園(徳島市)、一の坂ホタル護岸(山口市)、物部川緑地公園、中村市トンボ自然公園(ともに高知県)等を論じた。

  • 『里山公園と「市民の森」づくりの物語』

    『里山公園と「市民の森」づくりの物語』

  • 『都市河川の総合親水計画』

    『都市河川の総合親水計画』

  • 『里山公園と「市民の森」づくりの物語』
  • 『都市河川の総合親水計画』


谷戸をキーワードとして捉えた田中正大著『東京の公園と原地形』(けやき出版2005)には、石神井公園、新宿公園、三渓園、南湖(福島県)などをとりあげている。1906年(明治39)開園の新宿公園について、「池も一つでなくて、上ノ池、中ノ池、下ノ池と続いていく。池の南はまた台地となっている。三つの池は北の台と南の台に挟まれた谷になって、ここを流れていた川(渋谷川)を堰止めたものである。水源は天竜寺の池だとされ、江戸絵図に描かれている。(略)このあたりが谷頭で北の台と南の台に囲まれた谷戸地形を形づくっている。谷口は御苑の南東端にある」と検証する。このような谷戸からの湧水が3つの池を含めた親水公園を形成していることがわかる。

韓国ソウル市では高架道路で埋まっていた清渓川が2005年(平成17)に再生され、その水辺復元、親水性の回復により遊覧する人たちで賑わっている。黄祺淵ほか著、周藤利一訳『清渓川復元』(日刊建設工学新聞社2006)は、清渓川再生事業の葛藤管理(社会的対立)を李ソウル市長の力強いリーダーシップで克服した物語だ。

  • 『東京の公園と原地形』

    『東京の公園と原地形』

  • 『清渓川復元』

    『清渓川復元』

  • 『東京の公園と原地形』
  • 『清渓川復元』


以上、いくつかの親水と公園に関する書を掲げてきた。都市装置としての公園は多くの役割を持っているが、その基本となるものは緑と水にあるようだ。申龍徹が指摘したように、日本の公園が市民に愛される文化として協働、発展する時代になってきた。

PDF版ダウンロード



この記事のキーワード

    機関誌 『水の文化』 24号,水の文化書誌,古賀 邦雄,東京都,水と生活,歴史,水と社会,都市,公園,都市計画,まちづくり,里川,緑化,遊び,里山

関連する記事はこちら

ページトップへ