機関誌『水の文化』25号
舟運気分(モード)

港から見えてくるヨーロッパ文明の形成過程
沿海岸港と河口内港

オランダ、ロッテルダム港。タワーから臨む360度の眺望。オランダ、ロッテルダム港。タワーから臨む360度の眺望。

オランダ、ロッテルダム港。タワーから臨む360度の眺望。
上写真の左側が中心市街、下写真の左側にある中州の背の高いビルに港湾管理センターがある。
下写真の方が川下で、港はライン川が北海へと注ぐ河口まで40kmも続く。



深沢 克己さん

東京大学人文社会系研究科欧米系文化研究専攻
西洋史学専門分野教授
深沢 克己 (ふかさわ かつみ)さん

1949年生まれ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了、プロヴァンス第1大学博士課程修了、フランス第3課程歴史学博士。 主な著書に『信仰と他者』(編著 東京大学出版会2006)、『港町の世界史2 港町のトポグラフィ』(編著、青木書店2006)、『海港と文明』(山川出版社2002)、『近代ヨーロッパの探求9 国際商業』(編著、ミネルヴァ書房2002)他。

海域の文化圏

ヨーロッパの文化や文明というものは海洋空間とのかかわり、いわば海域単位で考えることができます。地中海文化圏という言い方に私たちは慣れていますが、同様に、バルト海文化圏、あるいは北海文化圏というものがあるのではないか。

さらには、インドシナ半島、インドネシア、フィリピン、中国南部は、南シナ海を媒介とした一つの文明圏と考え、その中で華僑も含めた人々が移動するシステムとしてとらえたほうがいいという気がします。

ヨーロッパにはいくつかの海域が併存します。そしてヨーロッパは、それらが相互に結び合っているような文明圏、言い換えれば海域を単位とする文化圏の複合体です。もちろんヨーロッパ全体を見れば、相対的に内陸性の強い地域、例えば中央・東ヨーロッパ、特に南ドイツとかオーストリア、ボヘミア、ハンガリー、トランシルヴァニア、そういう所が持つ文化的特性と、相対的に海とのかかわりが強い地域があるわけですが、その対比の中で、ヨーロッパの歴史を再構成したらよいのではないか、と昔から考えていました。

文化圏の合流によって進む技術革新

かつての地中海とバルト海は、ヨーロッパといっても、相互に交渉の無い別の文化圏でした。両者の間に交流が成立して一体化された「ヨーロッパの海」が成立するのは、中世末期の13世紀末です。

1277年に地中海・ジェノヴァのガレー船が初めてジブラルタルを越え、ブルターニュ半島の突端を越えてベルギーのブルッヘ(ブリュージュ)に入港しました。これが、後のヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を越えたのに匹敵するような中世後期の大事件といわれています。14世紀初頭には、ヴェネツィアのガレー船もネーデルラント(ベルギー、オランダ)までやってくるようになり、地中海と、大西洋・北海の二海域が結びつき両方の文化が合流していきます。

これが可能になった原因の一つに、この時期の舵の改良があります。舵はそれまで船腹にあったのですが、固定された船尾舵が中世後期に考案されます。最初に開発された場所がビスケー湾で、そこに面したバイヨンヌ(フランス)の名前をとってバイヨンヌ舵と呼ばれていました。これにより、航海の安定性が一気に向上しました。この新技術が、ビスケー湾を媒介として大西洋・北海と地中海で共有されていきます。バイヨンヌ舵をつけた船を、当時「コカ船」と呼んだのですが、この導入によりヨーロッパ全域での航海がより容易になり、ジブラルタル海峡〜ブルターニュ半島沖〜ドーバー海峡〜北海へと至る航路が、中世後期以後に確立されました。

逆方向も同様です。塩を求めたハンザ商船は、ロワール川河口の南にあるブルヌフ湾の塩を求めて、大西洋沿岸までは出てきていました。それが、中世末期にはポルトガルのセトゥバルの塩を買いつけるようになり、時折、地中海バレアレス諸島のイビサ島という、塩の産地として有名な島にまで行くようになります。ジェノヴァ商人も、ここでよく塩を買っていました。こうしてバルト海と地中海が結びつきます。こうした背景から、15〜16世紀にかけて、ヨーロッパの周辺海域が一体化してきました。これを「商人のヨーロッパが成立した時期」ということもできると思います。

この時期、ドイツ・ハンザ商人がバルト海から大西洋沿岸にまで自分たちの在外商館をつくり、地中海のジェノヴァ商人はネーデルラントなどヨーロッパ中に広がります。フランスでは、ジェノヴァ人、フィレンツェ人などがルアンやディエップで活躍し、英仏海峡沿岸の港ではかなりのイタリア人船乗りが活躍していました。また、スペイン商人が北方に進出し、いわゆるイベリア商人のコロニーがネーデルラントやフランスの各地にできたのもこの時期です。こうしてヨーロッパ全土に人、モノ、金、そして情報の交流が行なわれるようになりました。

余談ですが、商人という視点から見ると、日本でも近世になると例えば仙台の塩竃あたりに関西からやってきた商人が定着する例があり、広域的な商人のコミュニティが成立してきます。ヨーロッパ全域では、似たような動きが中世末期に起こったということです。

船舶の建造技術で、この時期の重要な改良の一つは船の外装です。それまでの船というのは基本的に「鎧張り」で、板と板を重ね合わせて貼り付けることで漏水を防いでいました。それが、この時期に「平張り」つまり、重ねないでつなぐ方法が考案されます。木と木の間の隙間には、防水のために詰め物をしました。日本では槙皮まいはだなどを、ヨーロッパでは帆とかロープに使う大麻の屑をぎっちりと詰める。平張りにすることで建造費を節約できますし、船体を軽量化でき積載量が増加します。そういう技術が、ヨーロッパ規模で普及してきました。

南北とのかかわりで重要なのは、帆装の改良です。北方は伝統的に、ヴァイキングの船のように四角帆です。ところが地中海はラテン帆といって、三角帆。15〜16世紀には、この2つの帆を組み合わせた三本マストの大型船が開発され、遠洋航海が格段に進化します。

つまり、オランダやイギリスなどの北方ヨーロッパの伝統的技術だけではインド洋には到達できなかった。インド洋到達は、北方文化と地中海文化の協力があって、初めて可能になったということができるんですね。

羅針盤、海図、航路案内書などの航海用具も、イタリアから大西洋沿岸にもたらされました。ヨーロッパ最古の海図は「ピサの海図」で、13世紀にジェノヴァでつくられたものといわれています。これは西地中海を中心につくられ、かろうじてフランドルあたりまでが入っています。こういう海図の制作技術が、地中海から始まり大西洋まで広がっていきました。

もう一つ重要なのは法律の問題。海には陸上とは違う法律が必要です。例えば嵐が来たとき、積み荷を捨てることがありますが、捨てた積み荷は誰が補償するのか。船が難破して漂流物が海岸に打ち上げられたとき、その船荷は誰に帰属するのか。そういう海に固有の法律があって、それを海商法と呼ぶわけです。この海商法が徐々に国際慣習法として共有されるようになります。そういう意味で、ひとまとまりのヨーロッパというものがあるとすると、ヨーロッパを形成するのに海が果たした役割は非常に重要です。

取引の仕組みとしては、ヨーロッパで為替手形が成立し、少なくともライン川以西のヨーロッパ各地域で流通するようになったのも中世末期です。

大航海時代以降、ヨーロッパの世界進出というのも、そういう発展の一つの到達点であり、延長上にあると考えるのが適切なのではないでしょうか。

沿海岸港と河口内港

近世におけるヨーロッパの港は、海と陸のかかわりという点から大きく3つの類型に分けられるというのが、数年前に私が立てた仮説です。大西洋沿岸の「河口内港」と「沿海岸港」、それから地中海型の「沿海岸港」の3つです。

大西洋型の沿海岸港は「何らかの形で海岸に直接面する入り江、もしくは島嶼につくられた港」です。オランダのアムステルダム、サウサンプトンも含めたイングランド南岸の港、フランスの沿岸部、例えばダンケルク、ディエップ、ル・アーヴル、サン・マロ、軍港ですがブレスト、重要な商業港だったラ・ロシェルなどは、すべてこの沿海岸港の類型に属するでしょう。

それに対して、河口内港は「海船で遡行することが可能な河口内もしくは河川の非常に奥深くに位置するような港」です。

海とのかかわり陸とのかかわり

河口内港と沿海岸港の違いの一つは「陸とのかかわり」です。沿海岸港は海に面していて、海に出やすい。遠方からきた船が寄港しやすいということを筆頭の条件として成立する港ですから、内陸市場との関係は二義的で希薄にならざるを得ません。先ほど挙げた沿海岸港のほとんどは、内陸市場とのかかわりについて好条件とはいえません。ただしアムステルダムは、海と陸が出会う低湿地にアムステル川が流れ込むため、ネーデルラントの河川路と運河を通じて比較的内陸まで行き来しやすいという意味では例外かもしれません。ロッテルダム(オランダ)も同様です。19世紀から現在にいたるまで、ロッテルダムがヨーロッパ第一の港として繁栄を続けているのは、ライン河川路を通じてヨーロッパ中央部の一番重要な、今でもヨーロッパ商工業の中心にある心臓部を掌握しているからです。もっともロッテルダムは沿海岸港ではなく、あとに述べる河口内港に属します。

その他の港は、近隣や後背地に大都市が少ない。一般論としては、豊かな内陸市場を抱えてそれを基礎に地域経済を発展させるという条件は、沿海岸港には当てはまらないと思います。

それに対して、河口内港というのはすべて大河川の奥深い所にあって、港自体が大都市で、河川交通を通じてさらに内陸市場へ連絡する位置にあります。一般に広い後背地を持つ、豊かな内陸市場に支えられた港です。

例えばベルギーのアントウェルペンがここ数十年の間に飛躍的に発展したのは、スヘルデ川流域の背後に北フランスの広大な市場を抱えているからです。ベルギー人は「アントウェルペンはフランス第一の港である」と冗談を言って自慢します。それくらいアントウェルペンは今のフランス市場に大きな影響力を持っていて、港の成長もその証なんです。

ハンブルクとエルベ川流域、ルアンと北フランス=セーヌ川水系、ナントとロワール川流域、そしてボルドーとアキテーヌ盆地=ガロンヌ水系の関係についても、同様のことがいえます。

フランスの舟運

フランスに視野を限ると、フランスにはセーヌ川、ロワール川、ガロンヌ川、ローヌ川という四大河川があり、それぞれの河川で水運は重要な意味を持っています。特にロワール川は、河川延長が1000kmを越えるフランス一長い川です。長いだけでなく、中央部を東西に横断するという意味で古くから河川交通路として重要で、川船が発達しました。

ロワール川が特に有利なのは、他の河川が南北に流れるのに対して、東西に流れている唯一の川である点です。フランスは偏西風地帯ですので、常に西風が吹きます。ですからロワール川では偏西風にのって川を遡ることができるのです。そこが他の河川との大きな違いです。

通常、川船は人間や馬、牛を使って遡らなくてはなりません。特に、ローヌ川は南北に流れ、日本の川と似て急流です。この川を遡るには、川の両岸に馬をつないで上がっていかなくてはなりません。しかもミストラルと呼ばれる風速15mを超える北風がしょっちゅう吹きます。これらに逆らって川を上がるのは大変なことです。

ところがロワール川は西風が吹く上に、流れも緩やか。四角の帆をつけた帆船で遡って、パリ南方のオルレアンまで行くことができます。ロワール川流域は今ではたいした大都市もないですが、シャルル七世(在位1422〜1461年)からフランソワ一世(在位1515〜1547年)まで、ヴァロワ朝の国王たちの多くが流域に居城を構えたことから、繁栄したという歴史を持ちます。16世紀にナントの港が最初の発展をするということと、ロワール流域がフランス文化と経済の中心になったことは非常に密接なかかわりがあるのです。

さらに、17世紀に、ロワール川とセーヌ川の間を結ぶ運河が掘削されます。それによって、ロワール水系とパリ市場が結びつき、これもまたナントの商業発展に影響を与えました。つまり河口内港に共通の特徴というのは、海路と河川路を結びつける機能を持ったということです。ルアンの場合は英仏海峡の海路とセーヌの河川路によってパリと結びついていたこと。ロワール川の場合は、大西洋航路とロワールの河川交通でオルレアンとパリとを結ぶ水上交通の発達です。海と川を結びつける機能が重要で、それが内陸市場に対する広範な影響力を支えたのだと思います。

植民地産品は再輸出されていた

16〜17世紀までは、冒険航海の前線基地、海上中継貿易の拠点である沿海岸港が、河口内港よりも優越する地位を占めていました。ところが18世紀になるとフランスで、そしておそらくヨーロッパ全体で事態が変わります。18世紀フランスの四大貿易港はルアン、ナント、ボルドーという3つの河口内港と、沿海岸港のマルセイユからなり、前三者の河口内港が支配的地位を占めるにあたって、サン・マロやディエップ、ラ・ロシェルのような沿海岸港は停滞と没落への道を歩んでいきます。

その原因はなぜか。非常に難しい問題で、一般的には「18世紀には国内市場が形成され、近代的国民市場が形成されつつあり、内陸市場の意味が大きくなったので、内陸市場に直接商品を供給し、内陸市場の商品を直接輸出できる河口内港がフランスの海上貿易を支配するようになったのは当然である」と考えられるでしょう。でも、18世紀の段階では、内陸市場と河口内港の結びつきは、そう単純ではありません。

なぜかというと、18世紀のナントやボルドーの成長は、内陸産品ではなく、ほとんどが植民地産品によっているからです。そして、輸入された砂糖やコーヒーはほとんどが再輸出されていました。パリは重要な消費市場ですが、パリでさえも植民地産品のすべてを消費していたわけではなく、ルアンに輸入された砂糖の大部分は、再輸出されていたのです。ボルドーの場合は地域市場はそんなに大きくはありませんから、砂糖やコーヒーの9割以上はバルト海諸国やイギリスに再輸出されています。

ただボルドーの場合、後背地は輸入品市場としては意味を持たなかったけれども、輸出品としての葡萄酒、穀物、ロープなどを植民地に輸出できるという強みがありました。

港湾を考えるとき、古典的モデルでは閉鎖的な経済空間の中で、港湾が後背地と前面地を結ぶ媒介であると考えます。港湾が成長するかどうかは、後背地が商品の販路としてどれだけ機能するかに影響されると考えがちです。しかし、内陸市場は思ったほど重要ではないのです。

近年の地理学で用いる界面(インターフェース)理論によれば、港湾は「海洋」「内陸」「港そのものの都市」という3つをつなぐ界面だと捉えます。界面の周囲には国家や地域経済という閉ざされた枠組みはなく、柔軟で複合的な組み合わせがたくさんできることによって、港湾の成長の度合いが決まると考えます。

ボルドーが植民地貿易によりフランス第一の港となった理由の一つは、ボルドーに住みついたアイルランド商人が持ってくる塩漬け肉が、当時のヨーロッパで一番の品質を誇っていたからです。フランスで塩漬け肉を加工しようとしてもうまくいかず、アイルランドから輸入していたものを植民地に再輸出していたのです。その対価としてボルドーの葡萄酒をイギリスとアイルランドへ輸出していました。つまり、後背地と前面地の間に、閉鎖的な経済圏ができるのではなく、複数の空間がボルドーで交叉したときに、その一部として後背地が機能する。だから、後背地の存在というのは絶対的なものではなく、前面地がいかに複合的に組織されるかによって、後背地の機能が左右される。そこが重要なのです。

ナントからはロワールの水運を利用して砂糖が運ばれていました。結果的にオルレアンには精糖所がたくさんでき、精製した商品をパリ市場に持っていくようになります。18世紀前半には「西方ドメーヌ税」の税収比率で1位だったナントですが、18世紀後半になるとボルドーに1位の地位を奪われ、マルセイユ、ルアン=ル・アーヴルに続く第4位に転落します。しかしナントは奴隷貿易ではフランス筆頭の港でした。ナントの近くにロリアンというフランス・インド会社の拠点港があり、インド貿易でもたらされる綿布とかモルジブ諸島の宝貝などが集まります。アフリカでは宝貝は貨幣として使われ、綿布は一番売れる商品でした。ナントの商人はそれを船に積み、アフリカに奴隷を買いに行ったのです。そして買った奴隷を西インド植民地に売り、砂糖を買ってロワール川を遡りました。ナントの奴隷三角貿易は、オルレアンの精糖所、ロリアンの綿布と宝貝という背景を持っていたから成立したともいえます。つまり、後背地が消費地として機能するかどうかということは、港湾の発展にとって絶対条件ではないのです。

大西洋VS地中海

このような見方でみると、二つの港湾類型を持ったからこそ、北西ヨーロッパは17世紀から18世紀にかけての大きな国際商業の転換にうまく適合できたということができます。それに対して、地中海沿岸はいわば港湾類型を1つしか持っていません。地中海が19世紀以降の新しい資本主義経済の条件に、少なくとも一時的な不適合を起こしたことは、そのことからの影響があるというのはどうやら間違いありません。

地中海の場合は、ほとんどが沿海岸港です。たいていが山が切り立ったリアス式海岸につくられた港で、後背地がまったくない場合が多い。典型的なのはジェノヴァで、背後にはアルプス山脈からアペニン山脈に連なる山々があり、後背地がありません。今ならトラックがありますが、当時は馬車。馬車でかなり急な坂道を上がったり下ったりするのは非常に危険です。特に下りは馬の足を傷つけてしまう恐れがある。だから、内陸に浸透するのは厳しい。

地中海の場合、沿海岸港ばかりなく、アレクサンドリア、ヴェネツィア、チュニスなどもありますが、そういう所はラグーナ(潟)です。低湿地で水深が浅く、船を停泊させる入り江が限られていました。当然、内陸への交通路も整備しにくくマラリアも発生します。どちらにしても、地中海の港湾条件というのは容易なものではなかったのです。

こういう条件の港湾ですと、内陸市場とのかかわりが港町の機能として重要になってきたときに、直ちに対応することが難しいでしょう。おそらくその点が、地中海文明が少なくとも一時期、北西ヨーロッパの文明に対して劣勢に陥った根本的な原因の一つだと思います。

ただし、それはあくまでも18世紀から19世紀の一時期のことです。なぜかというと、19世紀後半以降、鉄道網が拡充し状況は変わってしまいます。

また、中東の原油が決定的な意味を持つようになり、スエズ運河が開通した以降では、むしろマルセイユやジェノヴァをはじめとする地中海の港のほうが戦略的に重要になっていきます。現在、バルセロナ、マルセイユ、ジェノヴァ、ヴェネツィアの対岸港メストレをはじめとして、地中海の港湾都市それ自体が有数の近代工業都市になっています。特に、石油の精製をはじめとする臨海工業の拠点ともなっています。それは、北西ヨーロッパを中心に考えたヨーロッパ近代文明の視点を、少なくとも相対化させる重要な要素だろうと考えます。

港湾成長の条件

重要なことは、ある港が経済発展に適合・不適合であるという一時的な判断よりは、16〜17世紀のある条件のもとでその港湾が持っていた優位・劣位が、時代によって引き起こされる環境の変化で状況が変わってくるということです。その意味で、歴史の見方は単線的ではなく、いろいろな条件が複合する環境のもとで解釈していかなくてはならないということです。

21世紀の港湾環境はどうあるべきか、ということも、長い時間の中で港湾の成長条件の変動とともに考えられるべきでしょう。つい20〜30年前まで、横浜や神戸はアジアのトップクラスの港でしたが、現在、日本のコンテナ輸送の分野は決定的にアジアで立ち後れてしまっています。高雄とか釜山とか上海、シンガポールに取扱量で抜かれています。そういう港になってしまったのは、日本が港湾に対して持っていた固定観念のせいではなかったのでしょうか。

日本では、伝統的に港を工業化の拠点として見てきたため、臨海工業施設に比重がありました。しかし、現在では非常に広域的な海運ネットワークの中で港の成長可能性を考えなくてはならない。それもかつてのように原料輸送だけではなく製造品の輸送も含めて、コンテナ輸送がこれだけ世界の海運で重要になったということは、各種商品の輸送が大きな意味を持ってきているということです。そういう新しい世界経済の環境に、どう適応するかを考える上で、従来型の閉鎖的な国民経済に位置づけられた港湾機能という見方からは脱却する必要があるのではないでしょうか。

現に、19世紀になると、ヨーロッパでは国民経済が拡大していきますが、商人たちはますますコスモポリタンになっていきます。ロンドンやマンチェスターの貿易の半分は、ギリシャ商人が取り仕切っています。またバグダード出身のユダヤ商人は、インドのボンベイ(現ムンバイ)を起点に、東は香港と上海まで、西はロンドンまで達する商業ネットワークを形成しました。こうしたコスモポリタンな空間性を持つ商人の複合的なコミュニティが、世界経済の流通面を大きく動かす原動力となっていたのだろうと思います。それはヨーロッパでは15世紀に始まっていますが、ほとんど切れ目なく20世紀まで続いており、現在の多国籍企業にまで引き継がれているのです。

海を活動の舞台とする商人の広域的ネットワークと、経済や社会、文化を視野に含める現代文明の形成過程の関連は、我々が考えている以上に奥深いのです。



PDF版ダウンロード



この記事のキーワード

    機関誌 『水の文化』 25号,深沢 克己,海外,水と生活,歴史,水と社会,産業,水と自然,海,舟運,ヨーロッパ,港,フランス,輸出,商人,地中海,大西洋

関連する記事はこちら

ページトップへ