機関誌『水の文化』26号
クールにホットな2107

自然科学への新たなアプローチ
問われる科学者の感性

20世紀の科学技術は、とてもわかりやすいものだった。 持っていないものを欲しがり、それが満たされると「より速く」「より強く」「より大きく」という方向に欲求が高まってきた。 技術力や正確さを求める社会だった、ともいえる。 だが、エネルギーや環境問題を考えるとき、感受性を大事にし、自然との共生を志向する社会へとシフトしなくてはならない時期にきているようだ。 自然科学の中からあいまいさを排除し、数学的・論理的な部分だけを残してきた工学に携わる人々にも、感性が求められる時代がやってきた。

小笠原 敦さん

独立行政法人産業技術総合研究所総括主幹
小笠原 敦 (おがさわら あつし)さん

1988年ソニー(株)超LSI研究所入所。SOIMOIデバイスの研究に従事その後、CD、MD、DVD用半導体レーザの研究・開発を経て、2000年より現職。専門は半導体物性、量子デバイス。IEEEメンバー。文部科学省科学技術政策研究所客員研究官。立命館大学理工学部電気電子工学科/大学院テクノロジー・マネジメント研究科教授。

20世紀型技術革新からテクノロジー・フォーサイトへ

20世紀を改めて振り返ると、「物欲や所有欲をいかに満足させるか」という世紀だったと思います。特に1950年代以降からは、洗濯機、冷蔵庫、テレビなど、持っていないものを欲しがり、それが満たされたあとも「より速く」「より強く」「より大きく」と、欲求が高まってきた時代といえるでしょう。

科学技術の側から語ると、それらの指標さえ達成すれば世の中が受け入れてくれる、とてもわかりやすい時代だったのです。

ところが21世紀を迎えるころには、「なにが欲しいのかわからない」世の中になってしまいました。90年代半ばから、技術だけではなく、人の心に訴える提案をしていかなければ、徐々にものが売れない時代になってきたのです。

では21世紀後半の科学技術はどのような進展を見せるか、またどうあるべきなのか。私たちは、企業や大学、政府研究機関などの研究者、技術者の声を集め、『21世紀の科学技術の展望とそのあり方』としてまとめてみました。

この調査自体は、「技術予測調査」として、1970年から5年ごとに旧科学技術庁が行なってきたものです。70年代から80年代にかけての調査は、デルファイ法で3000人から4000人の専門家にアンケート調査を行ない、100年後を見通したテクノロジー・フォーキャスト(技術予測)をする形。90年代の調査では、これを少し発展させて、「市場関係者」も対象に入れました。

世紀の変わり目に当たる2000年度の調査は、さらに社会学者や人文科学者の方々も加え、科学技術の方向性を定める哲学的・倫理的な側面からも予測したのが特徴です。単に未来の技術を予測するフォーキャストから、先見性や意思決定の意味合いも含めたテクノロジー・フォーサイトに変えていったのです。

リスク管理が求められる21世紀の企業像

2000年の調査では、潜在的に眠っている技術を探りだすため、3項目の「ニーズ委員会」を設けました。「安全・安心」「少子高齢化」「新社会経済システム」がそれです。各会合では、参加した方々に思いつく概念を挙げていただき、それを最後に分類して将来像を括る形にしました。

新社会経済システムにおける課題の一つは環境ビジネスです。20世紀の科学技術は、生産面で目覚しい進展を成し遂げた反面、地球環境破壊など負のインパクトももたらしました。21世紀の企業活動は、CO2対策をはじめ、地球環境への配慮が前提条件となるはずです。

これに関しては、すでに産業自体が自然と共生する方向へ重心を移していると考えられます。実際、自然環境に熱心な取り組みをしている企業ほど、投資家の評価が高まる傾向にあることがわかりました。それによって資金調達コストが下がり、経常利益率が上がるという好循環システムが構築されつつあると思います。

ひと昔前まで、企業にとって「環境はコスト」と言われていました。

環境に優しいことをしようとするとお金がかかるので、二の足を踏む企業が多かったのです。排ガス規制にしても、自動車メーカーはなかなか取り組もうとしませんでした。でも、それを真っ先に達成した車が、「かっこいい」と受け入れられた。今一番「かっこいい」のは、環境に配慮したハイブリッド車だといわれています。ハリウッドスターが率先して選び、アカデミー賞会場に乗りつけたニュースも大きく報じられました。企業にとって、環境は「コスト」ではなく、「付加価値」になってきたのです。

もっとも消費者側は、新しいものをすぐに受け入れるわけではありません。それが安全性の高い製品であったり、環境に配慮したものであっても、社会に定着するまでには、ある程度の時間が必要です。

たとえばシートベルト。これもはじめは「しない」という人が大半でした。そのうち「シートベルトが自分の身を守る」という認識が広がると、規制があろうがなかろうが、みんな自主的にシートベルトを着用するようになってきた。そこまで10年から20年かかりました。でも一度安全性が認識されれば、そのあとエアバックなどが装着されて車両の値段が上がっても、受け入れていく。

これを私たちは「社会受容」と呼んでいますが、受容されるまでの期間が、最近短くなってきた気がします。社会全体が、環境問題や安全性に目を向けるようになってきたのです。

しかも今は、インターネットで企業情報も得られる時代になりました。これから先、公害を出すプラントをつくるような企業は、生き残れなくなっていくのではないでしょうか。

企業にとっては、充分なリスク説明も必要とされる時代です。技術は良い面と悪い面、常に二面性を持っています。フロンやアスベスト、プラスティックにしても、便利な面の裏側に必ずマイナス面が潜んでいるのです。

新しいものでいえば、ナノテク化粧品。肌によく浸透するというプラス面は知られているようですが、やはりこれにも別の面があります。肌によく浸透するというのは、ナノ物質が細胞の中にまで入り込んでいくことでもあるのです。形が球状のものであれば問題ないでしょうが、針状なら皮膚細胞にダメージを与えるというリスクが生じる可能性がある。企業側はナノ物質の形状を管理するとともに、リスクがある場合は消費者と情報を共有しなければなりません。

21世紀の研究開発は、きちんとリスク管理をして、企業と消費者両方がプラスになるという概念に変ってきているのです。

余暇もゲームも携帯操作に

精神的な充足をもたらす科学技術の研究も、21世紀の重要な課題です。物質的な欲求が満たされたあとは、精神的な欲求を満たす科学技術を求めていかなければならないと思います。

テレビを例にとると、「テレビの性能がいい」と言うとき、従来なら画面のきめ細かさや、色の鮮やかさが語られてきました。ところが認知科学が発達してきた今、よく調べてみると自然の色をそのまま再現したものより、若干違う色をつけたほうが感動を呼ぶことがわかってきた。同じオレンジ色でも、絵の具で見たときと夕焼けで見たときの感動は大きく異なりますね。それは脳の違う場所が活性化して、その色を認識しているからです。ではどういうものなら人は感動するのか。それを、脳機能にまで遡って研究する試みも始まっています。

精神的な充足を考えるとき、余暇の問題も欠かせませんが、これについては調査時と現在で、だいぶ状況が変ってしまいました。

調査を行なった当時は、「旅行」や「スポーツジム」に代わる余暇ビジネスの可能性を検討していたのですが、それから7年経った今の日本に、「余暇」はほとんどありません。携帯電話を操作している時間が、非常に長いからです。

実は携帯電話が開発された1990年ごろ、通信会社が「あったら使いますか?」と調査をしています。結果は、「いらない」「使わない」がほとんどでした。その後もう一度、携帯メールで写真が送れるようになれば使うか調査しましたが、これも「使わない」という人が多かったのです。ところが発売してみたら、みんなどんどん使うようになってきた。

将来欲しいもの、必要だと思うものには個人差がかなりあるので、ニーズに立脚した予測は大きくぶれる可能性があるのです。

調査時の2000年には、子供がゲームに費やす時間の長さが社会問題になっていましたが、いまやゲームはすっかり下火。ゲームをする時間も、携帯電話の操作にとられてしまったからです。現在、中高生が携帯電話を操作している時間は、1日平均2時間という数字が出ています。

携帯電話を長時間使用するのは、子供ばかりではありません。大人もかなり使う。私自身も、以前は新聞を読んでいた電車内での時間を、ほとんど携帯操作に費やすようになってしまいました。

情報通信エネルギーが次代の鍵を握る

100年後の人間が20世紀から21世紀の「イノヴェーション」を語るとしたら、「携帯電話」が必ず挙がるはずです。技術革新という意味では飛行機やトランジスタ、コンピュータの発明が大きいでしょうが、「社会生活を大きく変革した」携帯電話のインパクトは、多大だと思います。技術そのものではなく、これでメールをするという「使い方」が社会を変えたという意味でも画期的でした。

しかし、当たり前のように年中携帯メールをやりとりする現状は、一方で深刻な問題を孕んでいます。情報通信に使われるエネルギーが、驚くほど巨大化しているのです。

ほんの数年前まで、産業で使われる電力は、製造業が大きなパーセンテージを占めてきました。それが最近、大きく変化しています。近年こぞって製造工場が海外へ移転したので、電力は余ると予測していたのですが、そうはなっていかない。かえって増えています。その理由が、携帯電話やインターネットなどのエネルギー消費です。

1990年ごろと比べると、例えばNTTが買う電力量は2倍を超し、もうすぐ3倍になろうとしています。2006年度には、日本の総電力量のうち、1%をNTTが使いました。

しかも、ここ数年の伸び率もすさまじい。メールやインターネットなどの通信トラフィック量は、90年代後半以降、年率40%もの割合で伸びているのです。

携帯電話から発信した情報は、多数の情報処理器や通信機器を経由して、相手に届きます。たとえば100m離れた相手にメールを送るために、何万kmも離れたサーバを経由してくることもある。このサーバの電力消費が巨大なのです。

でも、日常これを意識して携帯電話を使っている人が、どれくらいいるでしょうか? 携帯端末自体が熱を発するわけでもなく、電池も長くもつので、むしろ「これって、電気をあまり使わない」と感じている人が圧倒的に多いと思います。

このところ、「CO2を減らす日常生活をしよう」と考える人は増えていますが、恐らくその人たちも携帯でメールを送るとき、「この行為が環境にインパクトを与えている」とは感じていないのではないでしょうか。

携帯電話は道具ではなく人間の思考回路の一部

情報通信エネルギーの巨大化問題に直面しているのは、日本だけではありません。アメリカでも、「2050年までに、情報通信エネルギーに費やす電力量は、総電力量の半分ぐらいになる」という悲惨なデータが発表されています。この試算は最大値ですが、低く見積もっても20%ぐらいには達すると予測されているのです。

ちなみにアメリカでは、10万世帯が暮らす町一つ分ほどの電力を消費している検索システムの会社もあります。

現在、通信用のサーバは、北米やヨーロッパの先進地域、そして日本に集中しています。もし近い将来、中国やロシア、インドなどで携帯電話が大ブームになったらどうなるでしょう。それらの国々にも巨大サーバが設置されたら、地球は破滅的な状況になってしまいます。

サーバは非常に熱を発するので、冷却用の水も大量に使わなければなりません。冷媒としての水は循環が可能ですからリサイクルもできますが、いったん熱を含んだ形で放出されるので、それを冷ますためにさまざまな工夫が必要になってきます。

日本の場合、比較的水のコストが安いので、循環させず流すという発想になってしまうかもしれません。情報通信エネルギーの拡大は、水資源にもインパクトを与えかねないのです。

そう考えると、今後は情報通信エネルギーを抑えるような産業構造に変えていかなければなりません。

でも、携帯電話を手放せる人が、どれくらいいるでしょう? 人々の欲求は、モノではなく情報に変わってきました。さまざまな情報や、人とのつながりが欲しくて、携帯電話にすがっている人が大勢います。携帯電話を持っていることで、疎外感を感じずにすむわけです。

ところが、逆の作用もある。携帯電話を持っているのに電話がかかってこない、メールが届かないことで、精神的な不安を覚える人が出てきました。疎外感をとり除くためにつくられたものが、疎外感を生みだす事態にもなっているのです。もはや携帯電話は道具ではなく、人間の思考回路の一部に埋め込まれているような気さえします。

こういった技術の将来像を、どう描いていけばいいのでしょう。これからの研究開発は、環境への配慮だけでなく、心理的な影響にも充分配慮して進めなければならなくなっているのです。

ブラックボックス化する技術

20世紀の後半から、時代を変えるような技術は目に見えにくくなってきました。半導体がいい例です。コンピュータに組み込まれているといわれても、目には見えない。けれど素晴らしい機能を果たしています。

情報通信技術も、他のものの中に溶け込んでいく技術です。2000年の調査のとき、「今後10年以降、どの分野の技術が重要な位置を占めると思いますか?」という調査を行なったところ、「情報通信技術」と答えた人は、前回調査時の半分に減りました。

情報通信はもう単独では成り立たず、これから重要となるバイオ技術や遺伝子解析技術の中などに織り込まれていくからです。今後メインとなるもののバックヤード技術として、ますます目に見えなくなる、というわけです。

たとえばロボット技術の陰にも、情報通信技術は隠れています。ロボットは生き物型が好まれますが、あの小さな身体に人間の頭脳機能を全部埋め込むのは難しい。そこで、頭脳は外のスーパーコンピュータの中に置いてロボットとつなぐ、「ネットワークロボット」という概念が生まれてきました。これが実現すれば、限りなく人間に近い高機能ロボットが誕生する代わり、それを動かすエネルギー量がまた増えてしまう。

現在の半導体技術の延長では、複雑な仕事をこなすためには、何万個もの素子が必要になります。今使われているパソコンでいえば、そこに乗っている半導体はおよそ4000万個。一世代前は980万個、その前は100万個レベルだったので、膨大に増えてきました。

トランジスタ1個を動かすエネルギー自体はそう変っていませんから、トランジスタの増加分だけエネルギー量は増えていく。今の技術のままでは、便利になればなるほど消費電力が増す「トレードオフ」の状態から逃れられないのです。

エネルギー節約のモデルはあいまいな人間だ

家庭用のパソコンを考えると、低燃費電力化は必ずしも不可能ではありません。CRTの液晶化や、触っていないときにCPUを眠らせて回路を遮断することで、電力消費をセーブできるからです。実際ここ数年、コンピュータ端末の消費電力量は、さほど伸びていません。

ただ問題は、パソコンにかかわる通信機器です。これは情報を待ち受け、キャッチしたらすぐに飛ばすために、休ませておけない。この問題は、小手先の改良では解決できません。解決策は、半導体ではない、新しい素子を研究開発することでしょう。

可能性があるのは、バイオ素子です。では、バイオ素子をコンピュータに導入したらどうなるか。これを考えるとき、モデルになるのは私たち人間です。

私たち人間の身体は、エネルギーをうまくセーブし、低燃費で動ける仕組みになっています。もちろん動くためにはエネルギーが必要ですが、意外とエネルギー源はなんでもいい。疲れて頭がぼ〜っとしているときはチョコレート1かけら、お酒の1杯だって活力になるのですから。

その代わり、正確さは足りないですね。計算をしても10回に1回は間違えたり、ラフな部分がある。でも、日々直面する問題の大半は、「ほぼこれでいいだろう」という大まかな判断ですんでしまうことが多くありませんか? とすると、コンピュータだって、本当はそれくらいでいいのかもしれないですね。

いまのノイマン型コンピュータは、「1」「0」のデジタル回路で構成されているので、トランジスタが間違えない限り正確な答えがはじき出されます。人間の脳プロセスにも「1」「0」で答えを出すデジタル回路がありますが、それとは別にもう一つケミカルな回路も持っている。罵声を浴びたときに頭がカ〜ッとするなど、感情が激しく動くときに化学物質を発散する回路です。私たち人間は、このデジタル回路とケミカル回路をうまく組み合わせて、ものごとを処理しているのです。

コンピュータも、バイオ素子で一部この概念を導入したらどうでしょうか。使う人の顔色を読んで、「今日は機嫌が良さそうだから、のんびり計算しよう」とか、「あ、ちょっと間違えちゃった」というコンピュータです。

従来型の正確なコンピュータも必要ですが、人間のようにアナログ的な感性を持ったコンピュータを提唱するのも新しい方向性。経済産業省でも、感性は重要なテーマの一つに取り上げています。

人間に近いコンピュータが誕生すれば、エネルギー問題もだいぶ解消されるはずです。これが社会に受け入れられるかどうかは、まだ未知数。この辺りは、先程説明した社会受容の問題にかかってきます。

数学的に計算するのではなく感覚的な感性が必要

ともあれ、エネルギーや環境問題を考えると、今後の社会は価値観を大きく変えざるを得ません。技術力や正確さだけを求める従来の社会から、感受性を大事にし、自然との共生を志向する社会へとシフトしなくてはならないと思います。

ところが、これこそ科学技術が今まで削ぎ落としてきた部分でもあるのです。

もともと工学という学問は、自然科学の中からあいまいな部分を排除し、数学的・論理的な部分だけを残してきた学問です。そのおかげで20世紀に高機能製品を続々生み出してきたわけですが、先程も言ったように、それが環境破壊にもつながってしまいました。

今では、感性にかかわる部分を削ぎ落としすぎたことが、現在の社会問題を生み出した原因である、という見方が強くなっています。最前線にいるエンジニアたちもそれに気づき始めました。

最新技術を詰め込んで世に出した製品が、売れなくなってきたからです。これは、今の世の中が求めているのは、工学的性能ではなく周辺の要素だ、という証でもあります。

21世紀の技術者は、いままで捨ててきたあいまいさ、感受性を、今後取り戻さなければなりません。このあいまいさは、一時期もてはやされた「ファジー」とは違うものです。ファジーはあくまで、数学的に、パターン化したゆらぎをつくるものでした。つまり、数学的・論理的な構造の上に載るあいまいさだったわけです。

これから必要とされるのは、自然物の中に埋もれているような美しさの発見や感動です。たとえば巻貝のカーブには黄金数が隠れていますが、数学的にそれを計算する前に、感覚的にその美しさを見出せるかどうか。その感性が、21世紀の技術者に問われていると思います。

技術だけを追及していては見えないこと

100年後の未来を予測するとき、研究者や技術者たちは「自分が今抱えている問題が解決されているかどうか」という点に重きを置いているようです。私自身も、100年後の社会は、精神的な充足を感じられる世の中であってほしいと願っています。

といっても、時間的にたっぷり余裕がある環境という意味ではありません。ロボットが何もかもやってくれて時間が余っても、居心地が悪いような気がします。

理想をひと言で言えば、バランスのいい社会です。定年退職したあとも、社会に貢献できるような活動ができ、適度な余暇も楽しめる生活がしたい。

現在の社会は、バランスが非常に悪いと思います。自殺者が年間3万5000人も出るなんて、異常だと思いませんか? 理由はさまざまでしょうが、社会の中で自分の価値が見出せなくなっている人がたくさんいるのかもしれません。

とりわけ高齢者には、非常に生きにくい世の中の仕組みになっています。もし生き長らえても、最後は病院で管につながれ、生きたいのか死にたいのか、自分の意思も確認されないまま無理やり生かされている人が多い。

人間は、ただ生きているだけでも経済価値があります。誰もが社会の役に立っています。それが実感できない社会は悲しいですね。

以前、東洋大学の松原聡先生と「将来予測で重要なこと」について対談する機会がありましたが、そのときの結論はこうでした。

「いい死に方ができることが重要である」

松原先生は経済学者の立場から、「穏やかに死を迎えられるかどうかという不安が、経済効果を抑制している」と語っておられました。幸せな死に方ができる社会になれば、経済活動そのものも高まると。

技術だけを追っていると、なかなかこんな発想は出てきません。でも21世紀の科学技術は、社会のバランスや人間の幸福な生き方まで視野に入れて、新しい方向性を構築していかなければならないと考えています。そして、そういう発想ができる工学研究者や技術者が育ってほしいと思います。



PDF版ダウンロード



この記事のキーワード

    機関誌 『水の文化』 26号,小笠原 敦,水と社会,エネルギー,産業,科学,技術,環境

関連する記事はこちら

ページトップへ