機関誌『水の文化』30号
共生の希望

技術にも自治がある
自然と折り合いをつけて共生していく技術

大熊孝さんは、 新潟で自然や川と共生する人たちと 親しく交わってきました。 「阿賀に生きる」という自主制作映画には、 彼らの姿が記録されています。 自然や川と共生することで、 心も体も鍛えられると実感を深め、 川の再生のためには、 自然や川と共生していた時代に持っていた 慎ましさが必要、と警鐘を鳴らします。

大熊 孝さん

大熊河川研究室&NPO新潟水辺の会
大熊 孝 (おおくま たかし)さん

1942年生まれ。1974年、東京大学大学院工学系研究科博士課程修了。工学博士。新潟大学助手となり、2008年に新潟大学工学部名誉教授。専門は河川工学、土木史。NPO法人「新潟水辺の会」代表。水郷水都全国会議開催、自主映画「阿賀に生きる」制作などに取り組む。 主な著書に『技術にも自治があるー治水技術の伝統と近代ー』(農山漁村文化協会2004)、『洪水と治水の河川史』(平凡社2007増補)、『川辺の民主主義』(ロシナンテ社2008)ほか

共生で、心と身体が鍛えられる

川とか自然と本当に共生している人間は、結局、心も体も鍛えられているんです。「阿賀に生きる」という映画をつくっているときに、それをすごく感じました。新潟水俣病の患者で80歳を過ぎたお爺さんが、確かに神経症を患っているのですが、一方で平気でお餅をついたり、すごい肉体なんですよ。

また、自然とつき合うということは、非常に慎ましい。川や自然を収奪して自分たちの命があることを、彼らは明確に知っているんです。

まったく平凡な農民漁民の人たちが、自然とどうつき合ったらいいかということを、いわば仙人や哲学者のように知っている。その上で肉体もしっかりと自然によってつくられているんだ、ということを思い知らされました。

今までは、自然と共生することがどういうことかはっきりしていなかったのですが、肉体と精神の両方が、それによって鍛えられるのだと実感します。

私は、よく岩塚小学校(新潟県長岡市、今は統合で廃校)の校歌の話をします。信濃川の支流、渋海(しぶみ)川のほとり、久保田をつくっている朝日酒造のすぐそばにあります。

校歌の二番が、

青田を潤す川瀬の水も
時には溢れて里人たちの
たわまぬ力を鍛えてくれる
我らも進んで仕事にあたる
心と体をつくろう ともに
岩塚小学校校歌

岩塚小学校校歌



この歌詞がすごいのです。川は溢れるもので、溢れることが我々の肉体と精神をともにつくってくれているんだということが歌われているんです。

この歌と「阿賀に生きる」という映画の登場人物とが、やっと最近、そういうことだったのかと重なって感じるようになりました。

映画では、遠藤武さんという人に木造船をつくってもらったんです。水俣病になって20年以上船をつくっていなかったんですが、この映画のために久しぶりに一艘つくってくれました。

また、長谷川さんという方が若いころやっていた鈎(かぎ)流しという漁法も紹介しました。竿の先にフックがついていて、それを流しながら鮭がいたら引っかける漁法です。これは熟練しなければ鮭が捕れない。網で一網打尽にするのとは違い、自分の技が上達することによって収獲が増える。全部捕り尽くすこともない。鮭が上流まで上って熊の餌になるようなことまで含めて、まさに共生している技術であると思います。

彼らは自然とどうつき合ったらいいかを、身をもって知っているんです。この映画を見て、彼らとつき合ってみて、みんな哲学者なんだなあ、という感じを受けました。逆に自然と共生していない我々現代人は、なんとさもしい、意地汚い人間だとも思いました。その上、肉体も衰えている。

川と共生するとか、自然と共生するということは、そのことが体も心も鍛えてくれるということ。先程の校歌につながっていると思う。今後はこういう人間はいなくなってしまうでしょう。

現代人である我々は、自然とまったく共生していないので、肉体も衰えてきているし、自然をすべて収奪してしまってもなんとも思わない精神になってしまっています。

例えば、阿賀野川。川を完全に発電のためだけの流れにしてしまって、こんな川の使い方をなぜ許したのかと思います。ここの鹿瀬ダムによる電力を使った昭和電工が、水俣病を引き起こしたわけです。

ダムには階段状の魚道があるんですが、こんなもので魚が遡上できるわけがない。そんな状態で平然としていた、そういう我々の近代精神というものは、もう自然とも川とも共生する意思はなかったということです。

一方、一時、市場社会への不満を持つ人を惹きつけた社会主義も、計画経済を推進した点では戦後日本と同じで、自然から収奪するということが重要課題でした。それまでは自然が無限大に大きくて、我々が何をしても大丈夫だという思い込みがあったのかもしれません。産業革命というよりも20世紀に入ってからその傾向が強くなったように思います。

会津と新潟を結ぶ磐越西線という阿賀野川に沿った鉄道があります。これは電化されてないんですよ。ですから生物を顧みないだけでなく、その地域の人間も視野に入れていないのです。中央の発展のことしか考えていない。

同じことが信濃川にもいえます。信濃川の中流部で、長野から新潟に行くところは急勾配になっています。それを利用して発電しているんです。水力発電としては年間発電量はトップクラスで、佐久間ダムに次ぐ発電量です。西大滝ダムが東京電力で、宮中ダムがJR東日本です。宮中ダムはJR東日本の消費電力量の25%をまかなっています。ここで水を取ってしまうので川がカラカラになって、夏は水温が30度を越えてしまうから、魚などの生物は棲めません。

1990年(平成2)に取水量を毎秒150m3増やしました。それまでは170m3でまだ鮭も少しは上がれていましたが、増設してからは全然上がれなくなってしまいました。

この信濃川沿いには飯山線というJRの鉄道があって、信濃川の電力が山手線など都心の電車を動かすのに役立っているにもかかわらず、これがディーゼルなんです。

増設するときに、まず飯山線の電化が優先だと言ってくれていたら、私も少しは田中角栄さんを尊敬したんですけれど。

地球温暖化が進めば、どうしても今の生活はできなくなってしまうでしょうから、また元に戻るだろうと思います。たぶん、あと50年したら人口も8000万人くらいになって、もう一度共生ということが始まるでしょう。

しかし、いろんな技術が途絶えていますね。私の世代以降はそういった共生の技術がないので、あと50年経つと切れてしまって世代継承できないのではないかと思います。

もう水防活動もまったくできないんです。

  • 豊実ダムの魚道

  • 左:阿賀野川沿いに通るJR磐越 西線は電化されていない。 右:阿賀野川・只見川における発電形態 「尾瀬と只見川電源開発」只見町史資料第3 集より作図

    左:阿賀野川沿いに通るJR磐越 西線は電化されていない。 右:阿賀野川・只見川における発電形態 「尾瀬と只見川電源開発」只見町史資料第3 集より作図

  • 左:阿賀野川沿いに通るJR磐越 西線は電化されていない。 右:阿賀野川・只見川における発電形態 「尾瀬と只見川電源開発」只見町史資料第3 集より作図

壊れない堤防で越流させる

2004年(平成16)の刈谷田川(新潟県)の水害の事例では、人家の密集したところで破堤したので、50軒くらい民家が壊れてしまい、3人が亡くなってしまったんです。私が聞いたところによると越流から10分ほどの間に破堤してしまったようです。400年前からあったお寺も、土台からなくなってしまいました。ですから、この場所は400年間破堤したことがなかったことが明らかです。理由は特定できませんが、昔は上流の水田部で破堤していたのが上流の堤防が丈夫になったために破堤しなくなったので、ここが破堤したというようなことだと思います。破堤した側の対岸に麻袋がそのまま残っていて、土嚢さえつくれなかったんですね。

越流だけだったら、破堤さえしなければ被害は小さいのです。福井の事例では両岸が溢れて、オーバーフローしてから95分で破堤していますが、全壊なしで半壊が3件です。床上10cmから20cmの氾濫水であれば、寝たきりの老人でも死ぬことはないんです。

新潟の五十嵐川では天井まで水がきて、寝たきりの人が9人亡くなっています。階段途中まで逃げて亡くなっていたり地獄絵図です。破堤するにしてもゆっくり破堤すれば氾濫量も少なくて天井までこなくてすむのに、今はそういう考えが全然ないのです。計画高水位を超えちゃいけないという国交省の考えだけで治水計画が決められています。

越流の時間をコントロールするような工事の仕方を、私はずっと提唱しているのですが、ダムとの関係の中で、堤防強化に関しては、ほとんど国交省は目を向けません。とにかくダムをつくりたい。ダムを前提とする治水計画では、堤防をオーバーフローするという考えはなく、計画高水までという議論でしかないです。

松江の宍道湖と中海の間に大橋川という川があって、その両岸に旅館などがあるんです。そこに堤防をつくろうという計画が今進んでいます。

両岸に高い堤防ができると景観が壊れます。私はここでは堤防をつくらないほうがいいと言っています。上流にダムができて、斐伊川放水路というのができて、安全度が上がっているのだから、20年や30年様子を見てからでもいいじゃないかって言っているのです。

ドイツ・ケルンでは、日本にいてわかるだけで、30年間に6回も水害にあっているのに大きな堤防をつくらないでやってきています。

日本の他の地域の水害は、急激にきて破堤して、土砂が家の中に溜まるようなことが多いです。しかし松江は宍道湖があるので、土砂が沈澱して、きれいな水がゆっくり上がるんです。

実は大橋川の改修と上流の尾原ダム、神戸川の斐伊川放水路は3点セットで、ここの土地を買収するのに松江の人も痛みを分かちあうという条件で応じたことなので、やってもらわなければ気がすまないというのが出雲側の人の主張のようです。

ただし、神戸川は二級河川だったのですが、放水路をつくることで一級河川になって工事が急速に進み、大幅に安全度が上がりました。ですから出雲のほうもメリットはあったわけです。ですから、松江はしばらく様子を見てもいいのではないかと思います。

また、その放水路で全洪水のうちの何割を捨てるのかが明確になっていません。捨てすぎると宍道湖の生態系が変わってしまうので、どれくらい捨てて、どれくらい湖に入れるのかを、生態系と水害を考慮しながら決めなくてはいけないと私は提言しています。松江の自治会の7割は反対なんですが、それでも国交省はやるといっています。

問題なのが斐伊川放水路。分派点の放水路側にしか分流堰がないことです。本川側にもないと計画どおりに分派できないのです。普通、分派点には必ず2つ分流堰があって、はじめてコントロールできるんです。越後平野の川の分派点は4カ所ありますが、そこにはすべて分流堰が両側にある。斐伊川放水路の場合はどうするのか、将来変わるかもしれないが現状では斐伊川放水路側にしか計画がない。

もう1カ所、分流堰がないのが利根川です。江戸川分派点は江戸川のほうにだけあって本川にはないんです。だから、分派量は実質毎秒1万m3クラスの洪水で、江戸川には20%程しかいかない。計画上は4割です。計画どおりの洪水がきたら、恐らく下流はひどい水害になりますよ。利根川になぜつくらないのかと私は思うのですが、利根川の整備計画などは何も議論されていません。

なぜこういう構造ができたかというと、やはり足尾鉱毒事件からですね。この事件で鉱毒を含んだ水が流れ込まないように、江戸川のほうだけにつくってあるというのが私の見方です。

斐伊川でも同様になるでしょう。川辺川ダムや八ッ場ダム、第十堰は棚上げになっていますが、どうなるのでしょう。

雨量が不規則になっているといわれていますが、皮肉なことに、基本高水(注1)を見直そうという議論のときに新しいデータを入れてみましたが、結局昔どおりのことが多いんです。局所的には増えていますが、流域全体としてはそこまでの影響は出ていないということです。

基本高水の問題をいえば、今現在の治水計画は、利根川も信濃川も吉野川も石狩川も何百年かけても完成できない内容なんです。利根川も信濃川も、あと10個以上ダムをつくらなくてはならない。それなのに清津川ダム(新潟県)も中止しましたね。不可能なんです。

今の堤防はそれなりに高くなっているので、これ以上高くしてそれが破堤したら、そのほうがひどい被害になります。それならば今の堤防を前提としてオーバーフローしても壊れない堤防をつくればいい。ミッシシッピー川や長江のようにオーバーフローしたら一カ月も続くような川では無理かもしれませんが、日本ではオーバーフローする時間はせいぜいピークの2、3時間程度です。

1cm2当たりの土に3kgから4kgの加重をかけると壊れます。コンクリートは200kg/cm2くらいです。私は堤防を強化する上で、7、8kg/cm2、土の2倍か3倍も耐えられるようにすればいいと思っています。それで2時間程度はオーバーフローしても壊れない堤防ができるでしょう。それを耐えられればよいので、ガチガチのコンクリートの堤防にしなくてもいいはずだというのが私の考えです。

典型的な事例ですが、成富兵庫(なりどみひょうご・1559〜1634)という人がオーバーフローする場所をコントロールするということを佐賀県の城原(じょうばる)川で400年も前からやっています。先程の事例のように、人家の密集した所で破堤してしまうと困るからです。

一番困るのは、どこが破堤するか予測がつかないことです。オーバーフローする所を特定しておいて、そこは絶対に破堤させない、オーバーフローしてきた水は水害防備林で受け止めて、流速が早くならないように上流へ上流へと氾濫させて隣の川に落とす。これを「野越(のごし)」と呼んでいました。

城原川には野越が左岸に7カ所、右岸に2カ所あります。国交省はこの野越を全部やめてダムをつくるというのです。

(注1)基本高水(きほんたかみず)
治水計画を立案する上で、防御対象となる洪水を時間変化で表現したもの。計画降雨量を定め、これを前提に洪水流出モデルを用いてハイドログラフ(群)が求められる。

  • 刈谷田川中之島地点 左岸破堤による浸水状況

  • 左:刈谷田川破堤直前・直後
    写真提供:石橋 栄治さん 2004・7・13撮影
    右:刈谷田川左岸中之島村における家屋の壊滅的破壊状況
    写真提供:大熊 孝さん 2004・7・19、25撮影

  • 左・中:福井水害 足羽川・春日破堤地点 2004年7月18日。越流開始12:00頃、破堤13:35。越流から破堤までに95分かかっている。 写真提供:朝日新聞社
    右:福井水害の浸水跡 写真提供:大熊 孝さん 2004・8・2撮影

  • 「城原川の野越と受け堤」田中秀子『佐賀史自然研究』第11号 2005年4月 p.51より

  • 城原川(筑後川右支川)の野越 成富兵庫茂安(1560〜1634)の造成。

    城原川(筑後川右支川)の野越 成富兵庫茂安(1560〜1634)の造成。越流する所を限定し、越流堤を設けて破堤による氾濫を防ぐ。
    写真提供:大熊 孝さん

  • 城原川(筑後川右支川)の野越 成富兵庫茂安(1560〜1634)の造成。

技術と知恵の伝承

1978年(昭和53)、渋海川に大きな洪水がありました。私は1974年(昭和49)に新潟に来ているんで、これに立ち会っています。

先程の岩塚小学校のそばの堤防は少し低くなっています。洪水のときにここからオーバーフローさせていたんです。そのままだと洗掘で破堤するといけないので、むしろを敷いて水位が上がってくる前に準備しています。

オーバーフローしてきた水は下流の霞堤になっている所から川に戻します。勝手に溢れて勝手に破堤すると困るので、どこで溢れさせるかを地域住民で話合って決めていたんですが、相当な議論があったはずです。

特に左岸と右岸では、農業用水のことでもすごく対立のある地域なんです。普段の灌漑用水利用では対立があるにもかかわらず、治水に関しては話し合いで解決していたというのは、すごいな、と私は思いました。みんな喧嘩したといいますが、水争いで血を流したのは戦国時代までで、それ以降は対立があっても話し合いで解決していたようです。日本人は決して議論が下手ではなかったんだということです。

成富兵庫や伊奈忠次(1550〜1610)のような超有名な治水家だけでなく、一般の農民たちも治水の知恵を充分心得ていたということをこの事例は示しています。自然や川と共生してきた人間たちは、難しい議論をする精神的な力もあったのです。

越流するだいぶ前から、みんなが集まって作業をしています。通称「うし」といわれるもの、この地域では「かまくら」と呼んでいましたが、これを水防活動としてつくっています。(下写真)「かまくら」は10分でつくって10分で川へ投入します。川に投げ入れると流速を2、3割ほど遅くすることができます。洗堀されていたのがパタっと止まるんです。

これを指導していた小林与吉さんに大学に来ていただいて、学生60たちにやらせたんですが、10分どころかまるまる2時間くらいかかったと思います。私がまだ30歳ちょっと過ぎ、工学部がまだ長岡にあったころですが、そのころはまだこんなことができたんです。

実は、2005年に今のところの少し上流で堤防がかなり壊れたんですが、そのときは水防活動がまったくできませんでした。たった30年で、水防の知恵も技術もすっかり忘れられてしまったんです。

2005年のときは水の引き際に壊れたので溢れませんでした。引き際が問題で、引き際のほうが怖いです。水位がいったん上がって、次に下がってくると堤防には水が染み込んでいて重たくなっているので滑って崩れるんです。我々は残留水圧といいます。

昔は払い切りというのがあって、氾濫して水が溜まってしまったときに、内側から堤防を切って氾濫水を戻す。やはりそのときは対岸の人と喧嘩になってしまいますね。

渋海川では治水の河川改修としてお金が出て、今は近代的な堰ができて両岸に農業用水を均等に取水できるようになり、川幅も1.5倍ほどになっています。

渋海川の近くで開かれたシンポジウムで、なんでこんなにひどい堰をつくったのかと言ったら、せっかく良いものができたのに大熊先生はひどいことを言う、と周囲から総スカンを食ってしまいました。こういう人工的な近代的堰は、70年、80年したらまたつくり直さなくてはならない。50億円くらいかかるでしょう。今回は河川改修費でお金が出ましたが、次はつくれないじゃないですか。

以前は固定堰だったんです。岩塚小学校の子供たちはそこで遊んでいたんです。しかし、近代的堰になってしまうと、直壁の落差が大きいところができ、落ちたら危ないので柵などをつくったりして子供たちを完全に排除しています。

我々技術者は、治水と利水しか考えていない。子供が遊んでいたということを考えていない。もともと子供が遊んでいたのだから優先権は子供にあるわけです。それなのに子供から遊びを奪って、近づいてはいけないと柵をつくっているということに、近代技術者の精神の弱さ、何も考えていないことが表れています。すごく残念に思います。

我々技術者がこういう構造物を良いと思い込んでしまうのは、学校教育が悪かったのでしょうか。

同様の事例が福岡の矢部川の松原堰にもあります。ここでも昔は子供が遊べたのですが、ラバーダムになってしまい子供がトランポリンのようにして遊ぶと危険なので、絶対に寄せつけないようにしてしまいました。以前は石を使った可動堰だったんです(左写真参照)。洪水のときは、石が落ちてスムーズに洪水が流れてくれるんですよ。ただ終わったあとは取水のため積み上げなればなりません。

柳川の水路を蘇らせたことで有名な広松伝(つたえ)さん(1937〜2002)も、ここまで来て石を上げたと言っていました。ただ今では、小型のパワーシャベルなどもあり、それを使えば作業は1時間ほどで終るはずです。石は千年経っても風化しないようなものだったので、1989年にこの松原堰を見たときに、このままでいいのではないかと建設省の人に言いましたが、「大熊先生は何を言っているんだ」という感じで、取り合ってはもらえませんでした。

人工的な可動堰をつくると、基礎に矢板を使うので伏流水も通らなくなって、川の生態系が壊れました。面白くもなんともない川になってしまいました。なおかつ子供を絶対に寄せつけないのです。

『週刊金曜日』に載った写真ですごいと思ったものがあります。(このレポートの最初の写真)材料の柴を山から取ってくるので、山の保全にも役立つとか他のメリットもあります。しかし、何よりもこの人たちが楽しげに仕事をしているのがわかるんですよ。終わった後、集会所かどこかで一杯やっている様子まで想像できます。

近代化というのは、ボタンひとつで上げ下げする可動堰をつくることで、そういう仲間との楽しい時間、空間を奪ってきたのです。高度経済成長期で、一円でも多く稼ぐ時代ではそれでいいかもしれません。しかし今は週休2日であったり定年後も20年間あるわけです。近代化が仲間と楽しく過ごせる時間や空間を奪ってしまったのは、子供が遊ぶ空間を無くしたのと同じことなのです。

しかも楽しい時間・空間というのは、川を守る技術を伝え合う場所でもあったわけですね。だから、子供の楽しさを奪うということは川の技術を後世に伝える場を奪ってしまっているのと同じです。

子供が川で遊ばなくなってしまっては、もう全然ダメですよ。もう切れてしまっていますね。

この写真のすごさはもう一つあります。人生、なんのために生きているの? というときに、異性と楽しく過ごすというのもいいけど、やっぱり仲間と楽しい時間を共有するということがすごく大事なんだなと気づかされました。こういうことが、本当に大切なことだということを我々は忘れていたんですね。

  • 左:1978年6月、信濃川左支川・渋海川における水防活動。 写真提供:旧越路町
    右:木で組まれているのが『かまくら』と呼ばれる水制。

  • 福岡県矢部川の旧松原堰。

    福岡県矢部川の旧松原堰。
    写真提供:大熊 孝さん(1989年撮影)

  • 福岡県矢部川の旧松原堰。

続けていくことが力を生む

新潟市の通船川(つうせんがわ)の支川に栗ノ木川という川があります。新潟地震が1964年(昭和39)にあって、それ以降鋼矢板と傘コンクリートの直壁護岸になって、落っこちたら絶対上がれない構造の川になりました。緑地帯ができているんですが、緑地帯をつくっていながら、こういう構造にしたから落ちると危ないというのでフェンスで囲まれているんです。当時の技術者が緑地帯をつくる一方で、川との親水性ということをまったく考えなかったということですね。完全に分断された精神でしか技術が展開できなかったということです。

川の実態を知ってもらおうと、このひどい場所で桜祭りを始めました。「NPO法人新潟水辺の会」が補助金などを受けて60万円で船をつくり、祭りにその船も出しています。こういう船が漕げるのは今では70歳以上の人になりました。かつての越後平野では、このような船は自家用車代わりだったんですがね。

沼垂小学校が栗ノ木川の脇にあります。そこの子供が総合学習で、せめてフェンスが取れないのかという提案をしました。そこで3回目の桜祭りのときにフェンスを30mだけ撤去して円形の階段護岸をつくりました。自分たちの総合学習でやったことが実現した、と子供たちも喜んで挨拶に来てくれました。

この子供たちは、おそらく将来自分の子供にこのことを伝え、さらに孫にも話しますよね、するとこの物語は100年間は伝わる。この工事はたった500万円しかかかっていないんです。桜祭りには毎年4、5000人来ていますし、余った予算の使い方としては、すごく投資効果の良い仕事であったと思います。

川と子供の距離が遠くなったのには、何か事故が起こったときに、親が管理者に責任追及する風潮が生み出しているという側面もあります。

実際、1970年(昭和45)にここで2人亡くなっているんです。フェンスを外して階段護岸にすることについては、亡くなった方のお姉さんが反対されていたんですが、水深が急激に深くならないこと、護岸が緩やかで簡単に這い上がれることなどを説明して納得していただいた上で今の形になりました。また、沼垂小学校PTAが救命浮き輪を寄付してくれました。

通船川のことで活動をしていくうちに、ある地区の区画整理をしたときに5mの川沿いの敷地を、市が緑地帯と公園に提供してくれました。それで階段護岸ができたんです。

この区画整理した所は、もともと田んぼで、ほとんどが新住民なんです。新住民が住み始めたときには既に階段護岸があって、なんで柵がないのか、と言われました。それだけ川とのつき合いがなくなったということです。ずっと住んでいてフェンスが取れた場合はよくても、新たに住んだ場所に階段護岸があると、危険だと思ってしまうんですね。

土地の地形や条件をまったく知らないから、どうつき合っていいのかわからない。でも彼らはこういう川や緑地帯があるのが魅力で家を買ってもいるわけですよね。

上:フェンスが取れる前の栗ノ木川のさくら祭り。
下:2006年4月、フェンスが取れた!

河川哲学を持つ

40年前に河川工学を志したとき、私は土木屋だったので川の生態系に対しての思いは少なかった。最初に利根川に取り組みましたが、『利根川治水の変遷と水害』(東京大学出版会1981)もそこまで踏み込んでは書きませんでした。

ダムに対しての批判は出始めていたし、川の生態学の本が1972年(昭和47)ごろに出始めて、それを買って読んでいるので、まったく興味がなかったわけではないかもしれません。『洪水と治水の河川史』(平凡社1988)をまとめたときには、すでに近自然河川工法がいわれていた時代ですが、そこまで踏み込まずに書いてしまいました。だから、これを増補して再版した文庫本には、後ろの30ページに反省を書きました。

新潟に来て鮭が上っていく川を見るまでは、弥生人的感覚で川を見ていたのです。確かに川から灌漑用水をいただいているんだけれども、洪水になって溢れたら困るとか渇水になったら困るとか、どこかで川を敵視しているのが弥生人的感覚です。

鮭とか桜鱒や鮎は、縄文文化を支える大きな食料源だった。縄文人的感覚で川を見なきゃいけないんだということがわかったのは、やはり新潟に来てからですね。縄文人とか弥生人という言葉はすぐには思い浮かびはしませんでしたけどね。

川の生態系を大事にしなくてはいけない、ダムはそれを遮断してしまう存在で、川にとっては一番の敵対物だ。それを言葉にし始めたのはだいぶ後になってからです。なかなか言い出せませんからね。

言い出したのは、1990年代です。「阿賀に生きる」という映画をつくる過程で私の腹も据わりました。1991年には、新たな川の定義もしました。

自分としては不本意なんですが、川のことをやるとすぐ喧嘩になってしまって、何でも反対する人だといわれてしまうので、10年間ほど除雪の研究をやったこともあります。

この3月に定年退職しましたが、私の後任は、定員削減で手当てされていません。

継承者を育てていくことが必要ですが、現状ではとても難しい。川の再生のために、若い人に向けて伝えたいことがあるとすれば、欲望を全部達成するのではなく、自然や川と共生していた時代と同じような、控えめな対応をしなければならない、ということでしょうか。少し我慢しなくてはならないですね。

退職後のためにつくったこの建物も、わざと高床式にしてあるんです。だからたとえ信濃川が破堤してもここは床上浸水にならないよ、ってね。床を高くするのに、新築時で余分にかかるのは50万円くらいです。もともと60cmほどある床高から148cmにしてあるんです。

材料費が1m分ほど増えただけですね。口だけでなく、こういうことをやることで、若い人に伝えていきたい。通船川の桜祭りも同じです。

高床の大熊さんの研究所兼集会所。

高床の大熊さんの研究所兼集会所。展望台付き屋根で集められた雨を、家のコーナーごとに設けられた雨水タンクが待ち受けている。

共生の姿勢と関係性探求型学問

大学定年での最終講義の最後に、マザーテレサの言葉を引用しました。

人は不合理、非論理、利己的です
気にすることなく、人を愛しなさい
あなたが善を行なうと、
利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう
気にすることなく、善を行ないなさい
目的を達しようとするとき、
邪魔立てする人に出会うでしょう
気にすることなく、やり遂げなさい
善い行ないをしても、
おそらく次の日には忘れられるでしょう
気にすることなく、し続けなさい
あなたの正直さと誠実さとが、
あなたを傷つけるでしょう
気にすることなく正直で、誠実であり続けなさい
あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう
気にすることなく、作り続けなさい
助けた相手から、
恩知らずの仕打ちを受けるでしょう
気にすることなく、助け続けなさい
あなたの中の最良のものを、世に与えなさい
けり返されるかもしれません
でも、気にすることなく、
最良のものを与え続けなさい

マザーテレサもこう言ってるのだから頑張れよ、と自分自身を励ましてきました。国交省ともやりあったりと、いろいろなことがありました。正直、私の教え子たちは私がいるために随分苦労していると思います。

しかし実際、新潟県でもダムを計画の中から消してきています。消すときには、根拠を示せとか、基本高水は変わってないじゃないかとか、激しくやり合います。ないがしろにしていてはいけないんです。ちゃんと考えを言葉にして伝えなくては。

科学とは、対象をいったんバラバラにして、並べ直すこと。一定条件下であれば、いつでも、誰でも、どこでも、何度でも、同じ結果を再現できる普遍性に基本があります。

しかし技術には、時と場所に無関係に再現する技術と、再現性が曖昧で自然と折り合いをつけて共生していく技術がある。機械工学や電気工学は前者に含まれますが、土木や建築は後者なんです。生の、ありのままの自然を対象としなければならず、「時」と「場所」を問題として、その関係性や持続性を尊重しなくてはなりません。

大学は一時期、普遍的学問さえ身につけておけば、応用学問は卒業してからいつでもやれるとして、関係性を探求することを軽視した時代がありました。

今のさまざまな弊害は、普遍性を追求するあまり、真理探究に偏り過ぎ、関係性探求を怠ってきた結果のように思います。

河川技術の担い手の役割 大熊さんの最終講義に使われたパワーポイントを参考にして編集部で作図



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