機関誌『水の文化』30号
共生の希望

《 河川思想の変遷 》

古賀 邦雄さん

水・河川・湖沼関係文献研究会
古賀 邦雄 (こが くにお)さん

1967年(昭和42)西南学院大学卒業 水資源開発公団(現・独立行政法人水資源機構)に入社 30年間にわたり水・河川・湖沼関係文献を収集 2001年退職し現在、日本河川開発調査会筑後川水問題研究会に所属

我が国は縄文時代から今日まで米づくりに勤しんできた水田稲作農耕民族である。米の増産には水田開発が欠かせない。その水田開発には水利施設の充実が重要な位置を占めているが、そのために、まず治水を図ることであった。

武田信玄は甲斐の国から洪水を防ぐため、御勅使川(みだいがわ)に新御勅使川を開削し、水の力を弱め、釜無川と新御勅使川の合流を竜王高岩にぶつかるようにした。さらに、下流に川除堤(信玄堤)を造った。この信玄堤は一部が霞堤(かすみてい)でその隙間から洪水を溢れさせている。笛吹川には土手沿いに木を植え、森を造り、その万力林(まんりきばやし)のなかに小堤防を築き、町や田畑を守った。このような治水技術は、和田一範著『信玄堤 − 千二百年の系譜と大陸からの潮流』(山梨日日新聞社2002)、同編著『グラフ信玄堤』(同2003)に論じられ、信玄の治水・利水思想の系譜は、中国四川省の都江堰(とこうえん)に由来すると主張する。

江戸時代における河川との共生を図った武将たちを挙げてみたい。土佐藩家老野中兼山は、吉野川流域での宮古野溝、下津野溝、行川溝の開削、物部川での山田堰、仁淀川での八田堰、鎌田堰、さらに四万十川流域でのカイロク堰、松田川流域での河戸堰等を築いた。兼山の業績には、濱田晃僖写真『兼山先生遺跡集』(自費出版1993)がある。残念なことは、この遺跡集に掲載されている多くの堰が近年、次々と改築されたことである。

  • 『信玄堤 − 千二百年の系譜と大陸からの潮流』

    『信玄堤 − 千二百年の系譜と大陸からの潮流』

  • 『兼山先生遺跡集』

    『兼山先生遺跡集』

  • 『信玄堤 − 千二百年の系譜と大陸からの潮流』
  • 『兼山先生遺跡集』


2007年、加藤清正の熊本城は築城400年を迎えた。清正は今でも熊本県民から清正公さんと親しまれている。それは矢野四年生著『加藤清正 治水編』(清水弘文堂1991)によれば、勇猛武将のみならず、菊池川、白川、緑川、球磨川の治水・利水を図り、熊本の繁栄を築いたからであろう。

即ち、清正は熊本城を造り、その城や町を守るために白川を付替え、水門、堰を造り、土砂の流入を防ぐため白川と坪井川を分離させ、洪水を減災させ、また坪井川と井芹川は城を防御する堀の役割をもたせ、舟運にも役立つように改修した。さらに、白川上流の灌漑用水路には、「はなくり」という工法を用い、水勢で土砂が用水路に溜まらないようにしている。菊池川では、河口玉名干拓、横島小島石塘、くつわ塘、船着場を設置し、緑川では鵜の瀬堰を造り、用水を引き、御船川の付替え、石ばね、乗越堤(越流堤)、遊水池、桑鶴(くわつる)の轡塘(くつわども・河道内の遊水装置)、六間石樋、川尻船着場を設置した。清正はこれらの工事従事者には男女の区別なく米や給金を支払い、働く時間も厳守したという。

清正と親交のあった佐賀藩の成富兵庫茂安は朝鮮の役などで活躍した武将であったが、治政が安定してくると佐賀領内の治水・利水の整備を行なった。平坦な佐賀平野は水利に乏しく排水不良の地であったが、兵庫は高度な水利技術をもって、佐賀平野を豊かな穀倉地帯に変えていった。宮地米蔵監修・江口辰五郎著『佐賀平野の水と土』(新評社1977)には、兵庫の業績として、川上川の上流から巨勢(こせ)川まで市の江水路を引き新田を開発、嘉瀬川から佐賀域内の多布施川に分水する石井樋、筑後川右岸堤の千栗堤、城原川の三千石堰、田手川の蛤(はまぐり)水道等の施工を挙げている。以上、4人の武将をみてみると、治水・利水を図り、領土の繁栄と民の安定の思想を貫いている。しかしながら、彼らの業績にかかわらず水害は度々起こった。

水害は人の運命を大きく変えることがある。1889年(明治22)、筑後川と十津川を襲った水害で、被災者は九重(くじゅう)高原、北海道へ移住を余儀なくされている。1896年(明治29)河川法が施行されたが、それは治水を重点とする条文となっている。明治前期は民間治水論が台頭した。農業土木学会古典復刻委員会編『治水論 農業土木古典選集8巻』(日本経済評論社1989)の中で、宮村忠、石正和は治水協会の『治水雑誌』、尾高惇忠の『治水新策』、西師意(にしもろもと)『治水論』について、解題している。尾高は、「水害は必ずしも水の罪でなく、人為によるもので、堤防は有害無益と断じ、現在の堤防は総て其の高さを二分の一に削るべし、道路の処を除きて耕地とし大水にも万々決潰せず穏当に超越する様にすべし」と説く。尾高は利根川中部の埼玉平野の水害を対象としている。一方、西は、「わが国の平野は水害を受けやすく、洪水氾濫と居住形態との密接な関係」を論じ、森林と河川改修に主眼を置き、森林と治水の関係から森林の重要性を主張し、イタリアやフランスの森林制度に言及する。西は常願寺川を対象とする。

  • 『佐賀平野の水と土』

    『佐賀平野の水と土』

  • 『治水論』

    『治水論』

  • 『佐賀平野の水と土』
  • 『治水論』


1889年(明治29)の河川法制定前後、渡良瀬川の水害によつて、足尾銅山からの鉱毒水が溢れ、下流地帯の農民に大被害を及ぼした。この公害について、大鹿卓著『渡良瀬川』(新泉社1972)では、田中正造の鉱毒闘争を描く。正造は農民たちの苦難を救うために明治天皇に直訴するに及んだ。正造の河川思想は「真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」と、1912年(明治45・大正元)6月の日記に記している。

1910年(明治43)、1911年(明治44)、埼玉県、千葉県、東京府に大水害が襲い、多くの人たちが被災を受けた。水害の減災を図るため、人工河川荒川放水路を開削したのは青山士(あきら)であった。青山はパナマ運河工事に日本人として唯一人従事。帰国後内務省土木局に勤務、荒川放水路(大正14年通水)をはじめ、鬼怒川の改修(昭和2年着工)、大河津分水補修(昭和6年竣工)の工事を担当した。青山は大河津分水路の竣工記念碑に、エスペラント語で「萬象二天意ヲ覚ル者ハ幸ナリ」、「人類ノ為メ国ノ為メ」と刻んだ。このことの意味は、座右の言葉としていたイギリスの天文学者ジョン・ハシェルの「私はこの世を生まれてきたときよりも、よりよく残したい」に繋がってくる。高崎哲郎著『評伝青山士の生涯』(講談社1994)の書がある。

昭和初期は戦争の時代であった。そのために利水の需要は高まった。我が国でダム式調節方法による河川総合開発事業を唱えたのは、東京帝国大学教授物部長穂と内務技師萩原俊一の両氏である。この河水統制事業は産業の発展に伴い河川の治水と利水との調整を図り、その二つの目的を果たすことにあった。河川開発は水系一貫の思想をもって提唱された。まだこのころは河川環境の保全の考え方は芽生えてなかったようだ。川村公一著『物部長穂』(無明舎1996)には、物部の「河道が全能力を発揮する期間は極めて短いので、貯水による河川水量の調節は洪水防禦上有利である」と論じる。ここに「水系一貫の河川管理」と「多目的ダム理論」が定着したといえる。治水と利水の調和を図った河川思想は、現代でも河川行政の核心を貫いている。

戦後、この思想のもとに、治水と利水を図ったダム開発は我が国に高度経済成長をもたらし、1964年(昭和39)河川法は、今までの治水重視に利水の目的が加わり、水系一貫の河川管理計画の法体系に改正された。このことについては、山本三郎著『河川法全面改定に至る近代河川事業に関する歴史的研究』(日本河川協会1993)に詳細に論じてある。

  • 『物部長穂』

    『物部長穂』

  • 『河川法全面改定に至る近代河川事業に関する歴史的研究』

    『河川法全面改定に至る近代河川事業に関する歴史的研究』

  • 『物部長穂』
  • 『河川法全面改定に至る近代河川事業に関する歴史的研究』


ダムは治水と利水の役割を持っているが、その反面、河川を横断する構造物であるため、一般的に堆砂、水質の悪化、環境の悪化が生じる。この3つの問題はダムのアキレス腱といえるだろう。河川が次第にコンクリート化され、経済的な河川になったことを憂い、河川の生態や水景を重視する自然豊かな川づくりが提唱されるようになってきた。関正和著『大地の川 − 甦れ、日本のふるさとの川』(草思社1994)の中で、川岸に植えた柳が伸び、そこには多様な植物や生物が棲みつくような生態系を重視する川づくりを提唱する。さらに、関は多自然型の川づくりというのは植物や木、石といった自然の素材を多く使うが、コンクリートや鉄もふんだんに使い、治水に対処する必要があると指摘する。1997年(平成9)、河川法の改正では、治水、利水に新たに環境に関する条文が加わった。

以上、武田信玄の時代から治水、利水、環境の河川思想の変遷を概観してきた。自然河川自体も常に変化する。時代のニーズによって河川の役割も変わる。地球の温暖化に直面している今、地球との共生を図らねばならない河川に、新たな河川哲学をどのように構築するか、このことが現代の課題であろう。その一つの方法として、三好規正は『流域管理の法政策』(慈学社2007)で、各個別法を束ね、上流域の森林、中下流域の農地、河口付近の沿岸域に至るまでの地表水(河川)及び地下水を一貫管理する基本方針を規定することを提言する。「水循環の保全及び水域の管理に関する基本法」と命名するにふさわしい、「水循環」に法的承認を付与する大綱法の制定が望まれる。

  • 『物部長穂』

    『物部長穂』

  • 『流域管理の法政策』

    『流域管理の法政策』

  • 『物部長穂』
  • 『流域管理の法政策』


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