機関誌『水の文化』32号
治水家の統(すべ)

暮らす人の知恵と術石高変遷から探る、
甲府盆地の治水と開発

歴史をひも解くには、文献を渉猟し、現場に足を運ぶ以外に、そこで暮らした人の思いを理解しなくてはなりません。 水害史を深く刻む山梨で、農業生産に携わりながら郷土史研究に取り組んできた安達満さんは、検地帳から実に豊かな史実を紡いでいます。 既成の見方からの脱却が、水利事業にも、村のあり方にも新たな視座を与えてくれました。

安達 満さん

山梨郷土研究会理事 前・山梨県史編纂専門委員
安達 満 (あだち みつる)さん

1936年生まれ。法政大学文学部史学科卒業後、同大学職員を経て、法政大学大学院人文科学研究科日本史学専攻修士課程。
主な著書、論文に『釜無川治水の発展過程1』(山梨郷土研究会『甲斐路』30号1977)、『釜無川治水の発展過程2』(山梨郷土研究会『甲斐路』32号1978)、『「川除口伝書」にみる甲州治水工法』(武田史研究会『武田氏研究』2号1988)、『近世甲斐の治水と開発』(山梨日日新聞社1993)ほか。

郷土史研究のきっかけ

1973年(昭和48)、オイルショックの年に実家の農家を継ぐために、40歳近くになって山梨に帰ってきました。それでも勧めてくれる人がいて、こちらから法政大学の大学院に3年ほど通いました。

大学院に入った年に、古島敏雄(ふるしまとしお)先生が東京大学を退官されました。引く手あまたな中、豊田武先生がお誘いして法政大学大学院で歴史地理を持ってくださったんです。

そのときのガイダンスで「笛吹川と釜無川に囲まれた、この甲府盆地というのは、非常に生産力が高い所だった。この土地がどのように治水によって耕地となっていったのか。それを考えてみたい」とおっしゃった。でも、古島先生ご自身では研究されていなかった。

それで私がすぐに手を挙げて「私、山梨の人間です。私にやらせてください」と。

古島先生は「こういうことがあるはずだよ」と仮説を立てながら指導されましたが、河川工学者ではありませんでしたから、治水自体の講義はされませんでした。

検地帳という、土地を調べた帳簿がありますね。それが慶長とか寛文とか、いくつかの時代ごとに残っているんです。家康が甲斐を再領した1601年(慶長6)と翌年、それから60〜70年ほどして寛文〜貞享年間にやっている。この2つの検地帳を突き合わせて、1つの村で耕地がどのように広がっていったかを見ると、案外治水の成果によって耕地が広がっていった状況がわかるだろう。

そんなことで取り組んでみたんですが、2つの検地帳で、ほとんどの小字が合わない。それは、大きく流されたからだ、ということなんでしょう。

じゃあ別な方法でやってみよう、ということで村の石高に着目し、甲州国中(くになか)地方の土地生産力を検地帳から調べてみました。『近世甲斐の治水と開発』(山梨日日新聞1993)は、僕の修士論文です。

古島先生の研究方法は、「資料に語らせなさい」というものです。自分が語っちゃいけない。フィクションではないことを探っていくんです。大学院のときに「安達さん、あなたはこれをやりなさい」と言って、先生が資料を入れた箱をくださった。やり残したと思って気にしておられたんでしょうね。その中に、この1947年(昭和22)の地図も入っていました。

地図から読み取れること

これから話をするのは、だいたい中郡筋、西郡筋、万力筋。塩山のほうは栗原筋といいますけど、あまり資料がないので触れていません。

荒川以西が巨摩郡、以東が山梨郡、日川・笛吹川以南が八代郡です。それに重ねて釜無川以西が西郡筋、盆地中央が中郡筋、笛吹川上流右岸が万力筋など、近世初頭に成立した九筋の行政地域区分がありますが、筋のことは普通の人にはおわかりになりませんね。下図を参照してください。

笛吹川以東は、小さい旗本の土地だったために、検地帳が残っていないから確認できません。

富士川から笛吹川以西のほう、つまり甲府は、桜田領と呼ばれて桜田門に居を構えていた松平綱豊が統治していた。綱豊は綱吉の死後に改名し、徳川家宣として1709年(宝永6)に六代将軍になっています。

寛文年間に検地したときの検地帳を調べてみると、だいたい標高300m以下の土地には二毛作田の麦田がないんです。300m以上になると、麦田が現れる。300〜600mまの地帯は、耕地としては一番安定しています。

300m以下になぜ二毛作田がないかというと、低湿地だからです。水位が高くて麦が抜けちゃうんです。水田ならいいですがね。

それで治水の対象になるのは、低湿地の標高300m以下の土地になり、信玄堤などのシステムによって、この辺りが安定した耕地になっていきます。

1888年(明治21)測量の地図を見ると、それ以前の河道がわかります(下図『121年前の甲府盆地西部の主な河川と土地利用』参照)。扇状地というのは、山地から開けた所にパッと出てきて、運搬した砂石を放出する。ある一定期間流れているとそこの河道が高くなる。そうすると、今度は違う筋に流れを変えるんですね。何度も流れを振る。

集落がどういう所にできるかというと、洪水が起こることで土砂が堆積して、自然堤防のように少し高い土地ができる。そこに、まず住み着くんですね。古島先生は本当にたいしたもので、地図を広げてみただけで「あっ、ここは治水の研究をする場としてはとてもいい場所だ」と見立てをする。そして、地図の畑の所をまず塗ってみるんだそうです。畑を塗ってみると、自然堤防、つまり高い所がわかる。

笛吹川は、1907年(明治40)の大水害のときに河道を変えた。今より、もっと北側を流れていました。御勅使川というのも、4、5本、はっきりと振った跡がある。釜無川がどういう風に流れたかも、地図から読み取れます。

御勅使川というのは、昔は普段はほとんど水がない。ただ、水がいったん出ると、どーんときた。つまり、砂礫層なので普段は水が伏流水になって地下を流れているんです。今の御勅使川に水があるのは、砂防堤で守られているからです。地下に水が浸透せずに済んでいる。大きな土木工事で、状況が一変しちゃうでしょ。そこから昔の様子を解き起こすのは、本当に骨が折れます。

この地図からは、見ただけでいろいろなことがわかります。でも、現在の甲府の地図は家だらけ。もう、その中から読み取るというのは、よほど事情がわかっていないと難しいですね。

  • 121年前の甲府盆地西部の主な河川と土地利用
    大日本帝國陸地測量部が1888年(明治21)に測量した2万分の1地図「松嶋村」「甲府」「市川大門村」「韮崎」「小笠原」「鰍澤」(国土地理院)を合成し、安達満さんの師である農業経済学者の古島敏雄(ふるしまとしお)さんにならって編集部が主だったところを着色した。
    山吹色:桑畑と果樹、黄緑色:二毛作可能な田、濃緑色:水田と沼田、水色:水の流れ、赤茶色:人工的な土手。
    中央南北に釜無川、その西側に扇状地をつくっているのが御勅使川(みだいがわ)、都市部の西側を南北に流れているのが荒川、南部を東西に流れているのが笛吹川、最南部ですべてが合流し富士川となる。
    田んぼが「季節によって乾く二毛作可能な田」「水田」「沼田」の3つに区分されているのは、陸軍歩兵が歩行に要する時間を計算するために土の状態を表わしたため、といわれている。水が引かない歩きにくい地域や利用されていない空白地帯を、水の流れと合わせてみると、御勅使川や釜無川の元の流れや、暴れ具合が想像できる。釜無川の堤防は、霞堤(かすみてい)ではなく長く続く部分が多くなったとはいえ、意識的に分断されており、広い遊水地が用意されている。釜無川は、信玄堤より上流にも多くの人の手が入っているようだ。釜無川の流れを高岩にぶつけるために蛇行させたとも見て取れる。信玄の御勅使川の流路変更計画は、そのエネルギーを利用して釜無川を蛇行させるためだったのかもしれない。
    御勅使川扇状地は、通常は水が地下にしみ込み、ワジ(注:雨季になると急激に出水することがある、普段は流水のない涸れ川)のように地表は乾いてしまうようだ。御勅使川の流れを変える信玄の治水工事は、水のない状態での作業だったのだろう。その甲府盆地西部の砂礫地帯に田んぼがつくれるようになったのは、江戸時代初期に釜無川上流から引いた徳島堰の功績だ。また、扇状地南部に沼田が多いのは、いったん砂礫地帯に染み込んだ地下水が、湧水として地表に湧き出てくる土地柄だからかもしれない。
    この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万分の1地形図を複製したものである。(承認番号 平21業複、第211号)

    PDFダウンロード

  • 現在の甲府盆地。深い緑が標高600m以上、薄い緑が300m以上、白字は300m未満。赤色は人家などの建物。
    1888年(明治21)の甲府市の人口は約3万人、2009年(平成21)は約20万人で6倍以上。
    国土地理院基盤地図情報(縮尺レベル25000)「山梨」を元に作図
    この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の基盤地図情報を使用した。(承認番号 平21業使、第188号)

    PDFダウンロード

信玄堤の解釈

信玄は甲府盆地を安定させるために、御勅使川の流れを変えて、竜王につくった堤防に直接当たらないようにした。まあ、これは有名な話です。

『百姓伝記』が収められている『近世科学思想上(日本思想体系62)』(岩波書店1973)で、古島敏雄先生が河川工学者の安芸皎一さんと解説を書いておられますが、同じ本の解説でありながら信玄堤に対する解釈が違っているのです。

安芸さんはあの大きな堤防が信玄によってつくられたと信じていたようですが、古島先生は治水には技術的な発展段階というのがあって、あんなに大きなものをいきなりはつくれなかっただろう、その時代ごとの治水への対応があっただろう、と言っています。

『甲斐国志』には信玄堤についての記述がありますが、村の石高から見ていくと、安定している村と石高が急激に増えてきた村とがあって、石高が増えてきたというのは治水が安定してきたからだろう、と推測されるのです。旧河川敷の中が耕地化して、石高増と結びついたのだろう、と読んだわけです。

『甲斐国志』では東のほうに流れていたのを信玄堤で止めて、南のほうに流すようにした、と書いているんですが、僕は釜無川は東に流れていたのを順に振っていったのではないと思う。

釜無川はかなり自由に流れを変えていて、それに応じて地域の人たちが、小さな治水で対応していたはずだ、と思うんです。

常識を疑ってみる

明治の水害というのはものすごい規模だった。

そのことを、近代史をやる人たちは、山が荒れて保水力がなくなった結果、1907年(明治40)の大水害に結びついたと言うんです。

山梨県の山は、明治になって国の所有に取り上げられたんですよ。

地租改正で、税金を年貢ではなく、地価評価額で課税するようになる。それが山にも適用されるから県令であった藤村紫朗(注1)は国有地にして使わせてもらえばいい、と考えた。ところが国有地になったら、住人が山に入れなくなって、盗伐するようになった。入会地のときは手入れしながら利用していたのに、荒らしっ放しになる。このことを、藤村県令最大の失策として批判する人もいます。

これはね、これで間違いではないが、深読みしすぎだと思います。

薪炭林は広葉樹だから、切るとすぐに芽が出るんです。3年も経てば、それなりの木になるんですよ。山全体が禿げ山になることなんてない。だから、切りすぎたから水害になったというのは、ちょっと違うんじゃないの、と僕は思っている。

「県民が盗伐をして、山が荒れてしまった。何とかして、下賜してくれ」という方便ではないか。

こういうことは、江戸時代の村の資料なんかに、いっぱい出てくるんです。「小前百姓が、愚昧(ぐまい)の者で、物の道理がわからないから説得することができない。だから代官さま、どうか○○の願いをお聞き届けください」これは、日本人の知恵なんですよ。

なぜそう思ったかというと、明治時代は大きな台風がこなかった年は、2、3年しかなかったからです。

そして、当時の台風の雨の降り方を「雨が縄のようだ」と表現している。そんな雨が2日も3日も降り続くんですから、堤防でどうのこうのといったレベルではない。

だから気象のこともよく調べていかないと、本当に山が荒れたから水害が起きたのかどうか、確かには言えないということです。

山梨県の山の多くは、隆起してできた山だから岩盤が固い。だから表土が浅く、大雨が降ると一気に大水になるんです。

甲府盆地というのがどういう所なのか、住む人がそういうことを知っておく必要がありますね。堤防が崩れても「国交省は何してんだ」という反応しか起きないのは問題です。

(注1)藤村 紫朗(ふじむら しろう 1845〜1906年)
1873年(明治6)山梨県権令として着任。任期中に産業・土木・教育政策を押し進め、山梨の近代化に貢献した。県営の官業製糸場や官業試験場を建設し、当時輸出産業の中心であった蚕糸業を全国トップレベルに押し上げた。

用水路

低湿地は黙っていても水がくるわけです。標高300mより上の水がない所に水を配るために、用水路の開鑿が盛んになって、新田開発が進んでくるんです。

山梨県の三大堰(せぎ)といえば、徳島堰、朝穂(あさほ)堰(1872年(明治5)以降、浅尾堰と穂坂堰を合わせる)、それと楯無(たてなし)堰の3つです。甲州では通常の堰を待(町とも書く)といい、井路を堰(せぎ)と呼びます。

徳島堰は穴山橋の上の円井(つぶらい)という所から取水しています。曲輪田新田という所の開発のために、水を引いてきたそうです。南アルプスの台地、武川(むかわ)筋から西郡筋を潤している。

楯無堰と朝穂堰は、どちらかというと茅岳(かやがたけ)の台地へ水を持っていって水田化している。茅岳というのは割合大きな山なのですが、水を出してくれないのです。

水は上には流れませんから、2里も3里も上流まで行って、ずーっと水を引いてくるわけです。

朝穂堰は山梨の人がやったんですが、徳島堰、楯無堰は江戸の商人が来てやったんですよ。江戸でつくった資金を地方に持ってきて、開発することによって利を得ようとした。

分一下与(ぶいちげよ)といって、開発に成功すると当該新田の物成(本年貢)の10分の1をもらえるという制度があったんです。

朝穂堰をつくった代官で、富竹新田とか多くの新田開発をした、平岡治郎右衛門という人がいます。平岡が代官頭になるほどの力を持った背景には、分一下与の存在がある。はじめのころは、代官が請け負った。同じように、江戸の商人もやってきたんです。

僕は県史の中で、江戸の人が資金を出した山間の堰ということで紹介をしたのだけれども、須玉町の比志(ひし)という所に、江戸の人が来て用水路の開鑿をするんですよ。

それで「分一金(ぶいちきん)は代官のほうへ申請をしてください」と書いたものが残っている。ですから、おそらくそういうものがもらえたんです。けっして、高邁な志だけでやっていたわけではなく、効率のいい投資でもあったんです。

しかし、この人は資金が尽きてしまったのか、途中でこなくなっちゃう。「来年も来るからな」と言って帰ったんだけれど、来なくなって、村の人が困るんです。最後には、代官に泣きついて公費助成の御普請場にさせるんですけどね。寛文のころの話です。

楯無堰は野村久左衛門宗貞という人が開鑿しました。一緒に県史を担当した人の話では、はじめは釜無川の下流のほうで新田開発を村の人たちに呼びかけたんだけれども、乗ってこなかったそうです。

それで、楯無堰のほうをやった。このように、あちこち動いて、いわば営業活動をしていた。そういう人は、地形や川筋を見て、ここはうまく田んぼになるな、という所に声を掛けていったんでしょう。

米はね、江戸時代は金と同じ価値ですから。結構、旨味のある商売だったんでしょう。米は再生産力が、非常に高いんですよ。私が一反に4kgぐらいの籾を下ろせば、600kgぐらい採れるんですからね。これだけの生産ができる作物は、ほかにはないですわ。

では湧水に恵まれた八ヶ岳には堰はなかったかというと、そんなことはないのです。中世から開発が行なわれていた。ただし近世になって、それを大きな規模にしていっそう新田開発が進みました。

『水の文化』の30号にも写真が載っていた三分一(さんぶいち)湧水は、小荒間(こあらま)という場所にある。川下の村が用水権をみんな取ってしまって水が引けなかったから、あそこは江戸時代のはじめの検地帳には田が1枚もないのです。自分の所からこんこんと湧いている水を、自分の土地に掛けられない。いろんな言い訳をしながら、なんとか水を確保していきます。

寒い所で、冬場は地下水のほうが温かいから、草を刈るのに水掛け畑というのをつくります。それで湧水で水掛け畑をつくらせてくれ、と言うんですね。夏になったら、下のほうで水田に使ってもらっていいよ、と。

それで、ちょっとずつ水を取っていく。村の人たちはね、わざわざ上まで見に来ることがないんですよ、そんな度々はね。だから、知らぬ間に田になっちゃっている。そうやって、既得権を取って順に田んぼにしていった。自分の所で出た水でも、水利権というのはそういうものなんですよね。

三分一の隣に女取(めとり)という湧水がありますが、長坂町が簡易水道に女取湧水を使ったんです。そうしたら小荒間が自分たちの権利を主張して裁判になった。結局、これは認められなかったようです。

自分たちが使う場合は、下の人にも余水の権利があって、流れてきた水を使えますよね。それを上の人たちが、余っているから他所に全部売っちゃって、川に流さないというのは認められるのか。だったら、洪水が出たときも流さないでくれよって話になりますよ。

八ヶ岳山麓には八ヶ岳山麓の、開発にまつわる水の歴史があるということです。

治水は川除が基本

大変な暴れ川だった釜無川も、河道に閉じ込められているようになったから、そんな所にも人が住めるようになった。それは、科学というか技術というか、進歩ではある。

しかし、それは不断の努力をしないと、維持できないこと。怠れば、自然は怖いということです。大きな堤防で閉め切って、後背地の耕地を守るという治水の技術が、この辺りで展開していくのは享保のころです。それをやったのが井沢弥惣兵衛為永です。

1716年(享保元)八代将軍になった吉宗が井沢を紀州から幕府の治水担当に呼んだ。1728年(享保13)、1731年(享保16)、釜無川に大水害が起こり、それを契機にして大堤防がつくられたんです。それを指導したのが、御普請方の井沢。

でもね、最初のうちは水が出れば崩れちゃうんですよね。今のようにコンクリートで固めてつくっているわけではなく、石積みですから、直接大水が当たれば壊れちゃうんですよ。

竜王から下流は、釜無川の流れが少し緩やかになって大きな石が採れなくなるから、どうしても砂利堤になる。おそらく信玄堤を最初につくったときには、赤坂という台地の土を持ってきたんでしょう。でも、なんぼそんなことをやったって、大水が1回きて、どーんとくれば終わりですよ。

だから、水防は古くから川除といって川をよける。本流をよけてやるというのが、治水の本道でした。堤防で川を受け止めるなんていうことはしないんですよ。

前に木を植えて林をつくり、竹を植えた。それが初期の信玄堤の形です。それでその前にさらに聖牛などの枠類を置いて、御林が壊れないようにした。堤防は背後の砦みたいなもんだった。

それが享保の時代の治水になってくると、堤防が洪水を直接受けるようになってくる。享保以降の治水土木は紀州流といわれ、一般には河道を直線的に改修し固定化して、沿岸の流作場(ながれさくば)や遊水地の開発を目的としたもので、年貢増徴政策と一環で進められていました。

井沢が行なった治水工事は、堤防と川水とを直接対峙させるもので、甲州の暴れ川にはなかなか通用しなかった。

しかしまあ、やがては水に勝っていくんですけどね。

度重なる水害に、井沢は「柳沢統治時代、またそれ以前は、水害に対してどうしていたんだ」と甲州の民に聞いています。

桜田領時代は給人知行地が入り交じっていましたから、大規模な土木工事は到底できなかったはずです。それなのに、なんで水害が防げたのか。治水家たる井沢が疑問に思って調べたのも、うなづける話です。

それらは13項目からなる『川除口伝書』(元文六辛酉年正月の日付)にまとめられました。

『川除口伝書』には「堤防は川面から後退させて、敷幅を広く、高さを低くつくって、その前に竹木を植え、さらに川表の荒水を切るために棚牛などの水制工を入れる」とあります。


  • PDFダウンロード

  • 水害防備林の案内板は、以前はなかったが2005年に立てられた。住民の水防意識を高めようとする機運が表れたということだろうか。

  • 金川の河川敷につくられた山梨県森林公園「金川の森」に置かれている水制工。

雁行堤

霞堤のことを雁行堤といいます。浮世絵などに、霞をデフォルメして描いた形に似ている、というところからきているようです。いずれにしても、雁行型に堤防をつくったことには、2つの理由があります。

まず、御勅使川の雁行堤というのは短いのが幾つも連なっている。これは、急流の水を河道の中心に持っていくための仕組みです。

だけど平地の雁行堤は、『甲斐国志』なんかでは、「あふれた水を差し継いだ所から逃がす働きがある」と書いています。激流を流すんじゃなくて、差し継いだ所から上流に回って、逆流するように水をあふれさせる。水勢を殺してあふれさせるので、水が引いた後に、それほど被害が残らない。

近世前期の治水の工法として『百姓伝記』という農書があるんだけれど、「二重堤という形態をとる。川幅を大きく取って、後ろに大きい堤防をつくる。川面に小さい堤防をつくる。小さい堤防で水を除けていられるうちは、その間に農作物をつくる。小さい堤防で防げないときは仕方がない。広い所に水を流していく。作物は諦める」

こうした耕地を「流作場」といいました。

別の理由としては、こういう風につくらないと、耕地にあふれた悪水が河川敷に捌(は)けないんですよ。

それと取水するのに、差し接いだ所から取るにも都合がいい。河川から水を取るときには「入樋(いりひ)」といって、箱樋を通すんですよ。信玄堤にも下流の所にもあるんですが、こういうやり方はかなり古くからあった。

このときに本流が寄ってこないように立てたのが「尺木牛」「棚牛」といった、牛類の水制工です。水が欲しいんだけれど、本流は近づけたくない。そうした知恵です。水制工の前にすだれ状のものを立てたりしました。

笛吹川沿いにつくられた万力林の中にも、雁行堤が残っている。

笛吹川沿いにつくられた万力林の中にも、雁行堤が残っている。大きな堤防一つで守るのではなく、水害防備林や雁行堤を組み合わて複合的に守っていたことがわかる。

近世という時代の見直し

ある時期には「信玄堤は信玄がつくったのではない」と言われたときもあった。これらを武田信玄の功績だ、という考え方は山梨県史の中にもない。

『一蓮寺過去帳』(1312年(正和元)、室町時代初期の創建のころから、江戸時代初期まで、約300年間の記録)という信玄より古い時代の記録に「川除」と出てくるから、ある程度の専門集団がいたんだと思いますが。

また、信玄がやったかどうかはともかく、中世の技術というのは、意外とすごかったんではないか。近世になってから急に発達するというんじゃなくて、記録には出てこないけれど、中世から積み重ねてきたものがたくさんあったんじゃないか、と。

中世と近世の連続性を重視しながら、近世社会を見直す必要があります。それは治水のことだけではないでしょう。

開発の担い手である農民は生産物を搾り取られていた、と今まで考えられてきましたが、本当にそうだろうかと思うんです。マルクス主義の歴史観の人たちがつくり出してきた、江戸時代の歪んだ見方なのではないか。

僕は、年貢なんてそんなにぎりぎりまで取り上げられたもんじゃない、と思っています。

年貢割付状というのがありましてね、年を追ってみていくと、案外増えていかないんですよ。ということは、頑張って収穫が増えれば、自分の取り分にできる。そのように考えられるのは、「坪刈帳」のデータからです。

坪刈帳をご存知でしょうか。これは、毎年1坪の田んぼの稲を刈って、収量を調べ、その基になるデータが書いてある帳面です。検見(けみ)といって役人が来て年貢を決めるときにも、その坪刈によって決まってくる。地主小作制度になったときも、年貢を決める基準になったのは坪刈帳です。地主小作制度が終わってからは、坪刈は村の行事として残っていました。

もう一つは、吉宗が「定免制(じょうめんせい)」という制度を採ったことです。年貢をある一定量確保するために、請負制にすることです。過去10年間ぐらいの年貢を査定して、適正と思われる年貢で村と契約します。

しかも、凶作で3割以上に被害が出たときには、ちゃんと現地を見て(検見取り・けみどり)その年の出来高で年貢を納めるように再調整するんです。

これは領主が安定して年貢を取るということが目的ですけれど、村人も毎年代官が来て、接待をして、窮屈な思いをするよりも、自分たちの自主性でやっていけるというメリットがある。

村っていうのはね、いささか、したたかなんですよ。

接待して良い気持ちになってもらって、あんまり現場を見せないで「今年もよろしく」となるべく良い条件で契約する。

その資料が、『塩山市史』をやったときに「首尾よくいった。然るにその経費は村ごとに折半しようよ」とお触れを回した、というのが出てきた。もう、これだこれだ、と思ってうれしくなりました。

それと、これも塩山で見つけた資料ですが、1855年(安政2)に東海沖地震が起きたときに甲府盆地もやられます。下が砂ですから、ものすごく揺れました。それで救済のための寄付を代官が募ったところ、大変な額の金が出てくるんですよ、村から。こんなに金があったのかなあ、という額が。

このように村にはそれなりの金もあるんですよ。確かに耕地の大きさによって貧しい家もあるし、凶作の年は別ですよ。でも、村全体で見たときに、それなりに豊かだった。

網野善彦さんも百姓や女性は、もっとしたたかで豊かだった、と書いていて、その歴史観にみんなビックリしちゃってるんですが、当たり前のこと。「山の神」と言われる「かあちゃん」が、家を牛耳っているのは当たり前のこと。ただ、歴史に出てこないだけなんですよ、そんなことは。

農民のことも女性のことも、他聞につくられたイメージです。徳川を倒して西南の役で薩長が権力を握ったでしょ。自分たちのやっていることはこんなにいいんだ、というために、徳川時代をうんと悪く言った。そういうことはあったと思う。僕は、最近、それを感じてますね。

坪刈の研究をした佐藤常雄さんが、外国人の研究者に日本の江戸時代の話をしたら、「日本の江戸時代は封建主義じゃない」と言われたそうです。

年貢の割付状が村に回ってきて、村はその通りに年貢を納めている。ヨーロッパじゃ、そんなことはあり得ない、と。

年貢納入の手続きは、いきなり割付状がくるわけではない。分割して納めるときには、回状といって回覧板みたいなものが回ってくる。割付状は遅れて発行されるんです。納めると、小手形をくれるんです。それを全部まとめて、村で勘定目録を書いて代官所に持っていくと、「相違ない」といって裏にサインをしてくれる。

こういう事務的に、ものすごい能力と仕組みがあった。お役所もそう。

これは須玉町の町史をやったときに出てきた資料だけれど、先程も言った定免制度のように、水害の復旧工事にも規定があって3割以上の被害がなくちゃいけない。その願い書に対して、「規定で3分の1以上流されないと対応できない。これだと少し足りないから、書き直してこい」というんですね。

お役所で言われるんですよ、こんな味なことを。

江戸時代の官僚体制というのは、本当にすごい。

江戸時代の社会の高度さがあったから、明治維新になっても、何も困ることはない。近代国家になったって、何にも支障がなかったんです。

治水に限っていっても、ぎりぎりの状態で生きていた農民が、あれほどの治水工事をするエネルギーがあるとは思えません。

治水体系の成立

甲州で水制工が発達したのは、急流から水を取るためではなかったかと思います。

水を制御するにしても、ピタッと止めるような施設では流されてしまうので、三本足の牛と呼ばれるものに蛇籠を重しにしました。

それが、既に堤防なんだね。あれに水がぶつかると、渦を巻いて砂が落ちる。掘れて深くなるんじゃなくて、だんだん浅瀬になっていく。だから、堤防が守られる。だけど、それもかなわないときは流される。でも、流されるからいいんだそうです。

明治になってから、確かオランダの技術者といったと思うけれど、信玄堤の所にコンクリートの水制工を置いたそうです。木だと耐えきれないと壊れて流れるんだけど、コンクリートは流れないでかえって乱流を起こして堤防を壊してしまったそうです。これは、『竜王村史』の中に書かれています。

川幅を広く取っていた時代の牛枠類と、狭くして、どうしてもこの堤防の中を流さなくてはならない、となったときの牛枠類とは、当然違いがある。徐々に大型化してくる。それは、最初からあったわけではないんだろう、と古島先生も言っています。

各々の地域で治水は行なわれてきましたが、急流河川との闘いで、甲州の治水術が抜きん出て発達しました。

大石久敬が書いたといわれている『地方凡例録』(1791年〜 寛政3〜)の巻ノ九が治水に関する巻です。膨大な領域に関する記述ですから、大石に書けるわけがない。実際は在方御普請役の人が書いたものを引用してきただけです。この中にも「甲州にて」という言葉がしきりと出てきます。ちなみに「甲州流」という言葉はないんですよ。甲州の治水仕法はあったが、そういう流儀はない。明治になってからいわれるようになった。

井沢弥惣兵衛は、御普請役のチームをつくるんですが、その中で治水の体系を築いていきます。

治水の体系をつくるのは、幕府に予算を出させるためです。今と同じで、企画が通らないと予算が出ない。それで「目論見書(もくろみしょ)」というのを書いた。要は設計書です。

棚牛は、こういう風につくりなさいとか、堤防は高さがこれこれ、幅がこれこれ、水制工は1つ幾らで全部で幾ついるから・・・、と経費の基準書をつくるんです。単価表。

今でも土木は、それがあるんだそうですね。

だから井沢弥惣兵衛がつくった単価表を、在方御普請役がずっと基にして予算を計上してきた。江戸時代には、すごい官僚体制が出来上がっていたんです。

武田信玄がああいうものをつくれたというのは、人足動員とか人を動かすことができる力と資金力を持ったからでしょう。

戦国大名が領国体制を築き、近世大名はそれを基に国家を統一した。江戸の町は、世界的にもトップレベルの発展都市だったといいます。それは日本の封建官僚体制の優秀さ、それを支えた国民の勤勉意欲の大きさが基本にあったからでしょう。特に農が支えた国家ですから、耕地を増やし増産を図らなくてはならない。そのために切っても切れない関係にあった治水と用水の術には、そこに暮らす人の知恵と細かい対応が用いられてきたということです。



PDF版ダウンロード



この記事のキーワード

    機関誌 『水の文化』 32号,安達 満,山梨県,治水,農業,盆地

関連する記事はこちら

ページトップへ