機関誌『水の文化』32号
治水家の統(すべ)

《利水あっての治水か》 

古賀 邦雄さん

水・河川・湖沼関係文献研究会
古賀 邦雄 (こが くにお)さん

1967年西南学院大学卒業水資源開発公団(現・独立行政法人水資源機構)に入社30年間にわたり水・河川・湖沼関係文献を収集2001年退職し現在、日本河川開発調査会筑後川水問題研究会に所属。
2008年5月に収集した書籍を所蔵する「古賀河川図書館」を開設。

二宮金次郎(尊徳)は、1787年(天明7)酒匂川下流域の小田原市栢山の生まれである。彼は少年時代、酒匂川の水害に遭遇し、一家の財産田畑を失った。病父に代わって堤防工事に出ているが、子どもために力仕事は一人前にできなく、作業人の草鞋を夜なべでつくった。12歳のとき、松苗を売っている商人から残った苗を買い、堤防補強のため松苗を植え(尊徳松)、また堤防に来ては蛇籠などをつくり、あまりにも頻繁に堤防にいることから「土手ぼうず」の渾名がつけられたという。このことは、経済調査会編・発行『ふるさと土木史』(1990)の酒匂川治水史に中に記されている。

日本のほとんどの河川は急峻であり、気象的には、梅雨時と台風時には特に大雨となり、昔から水害はいたるところで起こり、人的、物的な被害を及ぼしてきた。その災害は今でも続いている。河川を治める方法は、時間的、空間的、地域的にいかにして水を制御するかにかかっている。そのため河川改修、水制の施工、堤防の強化、捷水路、放水路、分水路、霞堤、遊水地の設置、そしてダムの築造などの手段がとられてきた。

亀田隆之著『日本古代治水史の研究』(吉川弘文館2000)によれば、治水とは「ひとびとの日常生活の上に及ぼす水の害を防ぎ、また灌漑用水などに有効に利用するため、河川や池沼の整備・保全に当たることをいう」と定義する。

その治水の目的、方法などは、国々の時代、風土的条件、生産条件または政治権力者との関連などによって当然異なってくる、と指摘する。さらに日本の場合は、水稲耕作の流入以後、それを農業生産の中心に置く社会となったことが関係して、治水の問題は農業生産と結びつき、そのために灌漑との関連性を濃厚に示すこととなった。治水は灌漑用水確保の前提として治水という側面を大きく持つにいたり、その意味で、日本では治水は勧農政策の一端を担うものとして位置づけられる、と論じる。

具体的に、律令国家による治水政策では、8世紀から9世紀にかけて造池使、築堤使、修理堰使、検水害堤使などの、治水・用水に関する諸使が中央から派遣され、民生と密接な関係を持ち、耕地の安定を図っている。平安京の治水では、葛野川には防葛野河使、鴨川には防鴨河使がおかれ、その任を果している。治水、用水技術については、樋の設置が重要な役割を持ったとある。

江戸期の治水については、大谷貞夫著『近世日本治水史の研究』(雄山閣1986)と、この書に基づきさらに追求した同著『江戸幕府治水政策史の研究』(雄山閣1996)がある。まず著者は寛保洪水などの水害の実態を把握し、治水職制を論じる。幕府は享保改革以前は郡代や代官に治水事業を担当させ、勘定奉行の支配下に置き、堤川除、用悪水の掛渡井、圦樋、橋の普請に当たった。1720年(享保5)治水職制は国役普請制度を改革し、江戸川、鬼怒川、小貝川、下利根川の四川奉行を置き、その他の利根川水系も大規模な普請も管理。幕府領だけでなく、藩領や旗本領までもその管理下に入った。このことは封建国家が直接河川を支配する契機となった、と指摘する。なお、四川奉行の廃止後は、勘定奉行及び勘定吟味役がその職制を引継ぎ幕末に至った。

  • 『日本古代治水史の研究』

    『日本古代治水史の研究』

  • 『江戸幕府治水政策史の研究』(

    『江戸幕府治水政策史の研究』

  • 『日本古代治水史の研究』
  • 『江戸幕府治水政策史の研究』(


では、具体的に水をどのように制御していたのだろうか。眞田秀吉著『日本水制工論』(岩波書店1932)では、わが国の古今の工法について、「川除御普請請定法」、「堤堰秘書」、「堤防溝洫志」、「疏導要書」、「地方凡例録」などから引用し、図とともにまとめている。芝工法覆、石積工・籠工法覆、捨石、蛇籠、柵、牛枠、方形牛、片枠、粗朶沈床工など、そして、それぞれの工法における単位当材料労力表を付す。富野章著『日本の伝統的河川工法(I)』『日本の伝統的河川工法(II)』(信山社サイテック2002)においては、伝統的河川工法について、次のように論じる。「伝統的河川工法は、人間が自然より上位にいて自然を支配する工法ではない。人々の暮らしを守ると共に自然を畏敬し、日本の本来の風土を損なうことなく、自然の再生力や洪水のエネルギーを巧に利用して、自然つまり水辺の生態系と川そのものを活かす工法である」。即ち、広い意味での伝統的河川工法は、霞堤、雁堤等の堤防、轡塘(くつわ・遊水地)、出し(水制)、輪中、水屋、水害防備林をはじめ、両岸の欠壊防止に植栽した笹や竹薮、柳なども含まれるという。河川伝統工法研究会著『河川伝統工法』(地域開発研究所1995)によると、もともと河川伝統工法が行われてきた時代の治水の考え方は、「減勢治水」であり、洪水を完全に防禦するのでなく、その勢いを弱めることに主眼がおかれていた、とある。

  • 『日本の伝統的河川工法(I)』

    『日本の伝統的河川工法(I)』

  • 『河川伝統工法』

    『河川伝統工法』

  • 『日本の伝統的河川工法(I)』
  • 『河川伝統工法』


次に、近世から現代までの水制に関する書がある。山本晃一著『日本の水制』(山海堂1996)は、水制技術のあゆみについて、前書の『近世日本治水史の研究』『日本水制工論』などから論究する。さらに水制設置物の特性と水理においては、利根川184〜120km区間の河道特性と水制、利根川前橋付近の河道特性と水制、黒部川の河道特性と水制を論じ、河岸侵食防止工としての水制、景観のための水制まで追及する。西川喬著『治水長期計画の歴史』(水利科学研究所1969)は、明治期の治水事業から昭和35年の治山治水緊急措置法における治水事業10カ年計画、国民所得倍増計画の治水事業に関し、予算費用をもって分析する。これらの事業の目的は国土の保全および開発を行ない、経済基盤を強化し、もって国民生活の安定と向上を図ることであった。明治初期河川工事は低水工事および砂防工事であって、氾濫防禦目的とする高水工事はそれぞれ地方の問題であった。1896年(明治29)河川法の制定以後、地方単独事業に委ねられていた高水工事は、直轄工事となり、1907年(明治40)、1910年(明治43)の大水害が相次いで発生し、その10月臨時治水調査会が設けられ、第1次治水計画が決定し、利根川等9河川に新たに北上川等11河川が加わった。大正末期に物部長穂博士の「貯水による治水及び利水に就いて」の論文に基づき、ダム開発等の「河水統制事業」が始まり、戦後1951年(昭和26)「河川総合開発事業」に引継がれ、今日まで河川の総合開発は続く。

水害予防組合という我が国独自の治水組織の存在形態に着目して、論じた内田和子著『近代日本の水害地域社会史』(古今書院1994)は、大変興味深い書である。水害予防組合は水害常習地に設立された公法人で、水害常習地である組合区域内に土地、家屋、工作物等を所有する人々すべてを組合員として、水害の程度によって等差を設けた組合費を徴収して、水害防禦活動を行なう。その根底には、災害は自分たちで守る自治の精神が貫かれている。1949年(昭和24)以前には利水事業もかかわっていた。時期的には、この組合は高水工事の本格的な開始時から設立され、明治末期には1000近くに達した。現在高水工事は一応完成したといえるが、そのため組合は多くの使命を果し解散し、現在全国で10数組合が活動している。

  • 『日本の水制』

    『日本の水制』

  • 『近代日本の水害地域社会史』

    『近代日本の水害地域社会史』

  • 『日本の水制』
  • 『近代日本の水害地域社会史』


水害を防禦する方法の一つとして、遊水地の建設がある。内田和子著『遊水地と治水計画』(古今書院1985)は、全国の遊水地を調査し、その治水計画について応用地理学の立場から論じる。著者は遊水地の定義を「河川において、越流堤等の施設を設け、高水流量の一部を計画的に氾濫させ、一時的に貯留することによって、下流部の流量の低減をはかることを目的とした地域」とする。

遊水地を大河川型と都市河川型に分類し、大河川型遊水地は計画面積、調節量、対象洪水とも大きく、都市河川型はそのいずれも小さい。大河川型遊水地は1970年代(昭和40年代後半)に計画によって建設された。上流のダム群の建設に加え、中、下流の遊水地建設が必要となったもので、補償問題の解決が遊水地建設を左右するという。ほとんどが国営事業である。

一方、都市河川型遊水地は、1970年代半ば以降(昭和40年代末〜50年初期)の都市水害を契機として、地方自治体の手で建設され、下流部の放水路、排水機等と連携してその機能を発揮すると分析する。実際には、山形工事事務所編・発行『最上川大久保遊水地記念誌』(1997)、渡良瀬遊水地成立史編纂委員会編『渡良瀬遊水地成立史(通史編)』『渡良瀬遊水地成立史(史料編)』(利根川上流河川事務所2006)がある。

河川改修は、平面線形の整形、拡幅、引堤、河床浚渫、掘削、背割、導流堤、分派川締切などがあり、また新川開発として、河川分離、捷水路開発、河道付替、放水路開発が挙げられる。その放水路とは、現河道から分岐して、現川の洪水の一部、または全部を湖海や他の河道に放流する水路である。岩屋隆夫著『日本の放水路』(東京大学出版会2004)は、全国の放水路、例えば石狩川放水路、荒川放水路、太田川放水路などを現地踏査し、それを丹念に分析し纏めている。河川を見る眼を新たにする書である。

  • 『遊水地と治水計画』

    『遊水地と治水計画』

  • 『日本の放水路』

    『日本の放水路』

  • 『遊水地と治水計画』
  • 『日本の放水路』


以上、治水にかかわる書をいくつか挙げてきたが、振り返ってみると、近世までは水稲稲作を中心とした利水を主体とした治水がなされ、水利事業として、利水と治水は分離されていなかった。ところが、明治以降河川工事は低水工事の考え方から高水工事に変化し、利水事業と治水事業はだんだんと分離されるようになってきたように思われる。さらに近年に至っては、経済の発展に伴い都市開発が進み、都市水害がおこり、また地球温暖化の影響であろうか、都市部においては時間雨量100mm前後のゲリラ豪雨に見舞われることがある。このことから都市部においては、雨水対策を含めた総合治水対策が進められている。おそらく、人の活動条件によって、利水と治水と環境も含めての水問題は、二宮尊徳が酒匂川水害に遭遇したように、まだ完全なる解決策はなく、これからも各地域ごとに既存の知識と体験から学びとり、減災をはかる思考錯誤が続くものと思われる。

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