機関誌『水の文化』32号
治水家の統(すべ)

治水家の統

編集部

現場に立つ

干潮時の筑後川下流に立って、愕然とした。水がすっかり引いて、川底はガタ土と呼ばれるヌタヌタした泥に覆われている。その有様はまるで干潟。係留された漁船も、座礁しているかのように、川底の泥の上に鎮座している。

しかも「床固め」が残る坂口で満潮時に見た風景には、度肝を抜かれた。上げ潮が音を立てて上流に遡り、見る間に河川敷を水で満たしていったのだ。

よそ者に大きな驚きをもたらすこんな風景も、佐賀平野に住む人たちにとっては日常茶飯事。成富兵庫茂安が腕組みをして澪を睨む姿が、一瞬頭をよぎった。

筑後川の川湊のスロープ。

筑後川の川湊のスロープ。舫い(もやい)を結ぶ杭の高さが、干満差を物語っている。スロープの先端に、案内してくださった古賀邦雄さんがいるのだが、わかるだろうか。

治水家の条件

甲州も佐賀も扇状地であることには変わりないが、風土は大きく異なる。激しい水勢と大量の岩石に悩まされた甲州と、有明海の上げ潮に対峙する必要がある佐賀とでは、それ相応の対処が求められるのは当然だ。

しかし甲州にも佐賀にも、水が乏しい上に雨が降るとすぐに大水になるという、厳しい風土は共通している。困難を乗り越えるための産みの苦しみが、優れた治水術を磨いたのである。

「水を制するものは国を制す」。治水は戦国時代以降、領国経営の要。それは「領国の仕置しおき」と呼ばれた。成富兵庫も武田信玄も、領国の仕置として水利事業を推進したのである。

どんなに優れた治水家も、大規模な土木事業を成し遂げるためには、現場を動かしたり、図面を引いたりする実務家のサポートを必要としたはずだ。

成富兵庫も信玄も、そのすぐ下には、きっと100人規模の実務家がいたに違いない。

また、新田開発で増えた利益の10分の1がもらえる分一金(ぶいちきん)目当ての山師のような人もいれば、京都・高瀬川を開鑿した角倉了以のように通航料や倉庫料を取って利益を上げた商人もいる。

だから治水家イコール志の高い人、というのは当たらない。信玄などは最終決定権を持っていただけなのではないか、という見方すらある。

とはいえ、彼らの水利事業によって、治水、利水両面から、多くの人の生命がつながれたことに変わりはない。それゆえ、今号では治水家の間口を広く取った。

治水家は、合意形成の達人であり、なおかつお金も動かさないといけないし、つくったシステムが恒久的に働く仕組みも構築せねばならなかった。要は、決裁権を持ち、現場に強いプロデューサーであり、ディレクターだったのだ。

地域の分断

川には流域がある以上、上流と下流、こちら側と対岸といった、利害の対立があることは否めない。

幕藩体制下での領国経営という狭い視野の中では、一方が利を得れば他方が不利益を被る場合も多く、利害調整に関する合意形成はほとんど不可能であったといってもいい。佐賀では大変な人気者で、町名にまで名を残すほどの成富兵庫茂安も、福岡藩や対馬藩の人たちからは恨まれていたという話も、さもありなんと思う。

こうした「地域の分断」を解消したのが、明治政府の誕生であった。

行政の分断

近世までは、水利事業と治水家の名前はセットで語られてきた。ところが、近代になるとチームでの仕事の色彩が強くなり、誰某がつくった、とは言われなくなる。

藩による領国の仕置は、明治政府という大きな枠組みになって、近代国家経営にシフトし、治水家は注目されなくなった。

近代国家の仲間入りを果たすために、食糧増産、水害防御、上下水道の整備といった水にかかわる国土整備は、明治政府にとって急務であったのだ。その中で、せっかく流域で捉えられるようになった水利事業は、再び分断の憂き目に遭うことになる。

治水は国土交通省、農業用水は農林水産省、上水道は厚生労働省、公共下水道は市町村、流域下水道は都道府県、工業用水は環境省と経済産業省、というように、水の管理は利用目的ごとに分断されていった。

近代以前の治水家が総合的に川を見ていたのとは異なって、機能を専門的に特化して見ることで、川はバラバラになってしまった。

歴史は風土に育まれる

川が利用目的ごとに分断されていく中で、治水という言葉から利水が分離して、治水といえば水害防御という意味に狭められてしまった。だから、治水を語るときには、いかに水害を防ぐかという観点から川を見ることになる。

その弊害を解消するために、川の役割に環境用水としての働きを認めようとする動きもあるが、水の 機能を上げ連ねるのではなく、バラバラになった川を総合的に見る視座が求められている。

柳川掘割の再生で広松伝さんは、掘割機能が用水利用だけでないことを訴えた。掘割は洪水防御、貯水、地盤沈下防止、心理的安らぎなど多くの機能を持っていて、単一目的ごとに分断できない総合的な存在だ。そしてそこには、非常にローカルな背景が備わっている。

日本の住宅は、新建材とエアコンの登場で、北から南まで画一化されてしまった。川も同じように、地域の特性がコンクリートと土木技術によって、力づくでねじ伏せられてはいないだろうか。

水の利用システムは、少しずつ手を加えて構築されてきたものだから、その土地の事情(風土)が反映しているはずだ。地元にストックされた歴史を学ぶ価値は、そこにある。

当センターが『里川の可能性』(新曜社2006)で提案したのは、治水と利水に守水という概念を加えることだった。守水とは、使いながら守ること。水害防御からだけではなく、地元にストックされた知恵も守る対象と考えたい。

里川の多様な姿のケーススタディとして、今号から新連載「シリーズ里川」をスタートさせた。

里川にかかわる人材の中に、現代の治水家像が浮かび上がってくれば願ってもない収穫である。

地球規模の治水術

信玄堤の裏に住んだ「竜王河原宿」の住人や、アオ取水を担当した樋門番のように、近代以前は、治水にも利水にも「場」を知り尽くした人たちが管理にかかわってきた。

ところが管理が行政に移ったことで、住人と川は心理的に分断され、当事者としての意識も消えてしまった。

中でも、利水意識は特に稀薄になった。水は発電や農業に使われているが、その生産物は私たちの生活を支えるために供されているのだから、間接的に恩恵にあずかっているはずだ。問題は、元をたどると自分につながる「流れ」が、まるで暗渠のように途中で見えなくなっていることにある。

利水というと「景観」や「親水」に留まりがちになるのも、それが原因だ。水を大切にするモチベーションとして、心象風景や遊びだけでは弱い気がするし、道徳観に頼るのには無理があるのではないか。なぜ水が大切なのか、なぜ汚してはいけないのかという、根源的な答えは、健全な水循環を見直す中でこそ発見される。

領国の仕置に欠けていたのは、自領の外の利害に配慮することだった。水を単一目的で見ることは、いわば幕藩体制時代、自領にとっての利益だけを見ていたことと同じである。地球温暖化が将来の大きな懸念となった今、一国の仕置を越えて、地球規模の治水術がいっそう求められるだろう。

しかもこれからの治水には、行政に任せきりではなく、できることを個人と地域が担って、三者で連携を取ることが欠かせない。

現代の治水家とは、ときには相反する利害の調整役となれる人材だ。そして治水家が残した統すべは、水を統合して捉える手本として、多くの知恵を指し示している。



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