2010年10月発行

水の文化 36号 愛知用水50年

水の文化 36号 愛知用水50年
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日本は豊かになりました。
お金を出せば食べものも買えます。
しかし日本がまだ貧しかった50年前には、
食料生産で
国の復興を果たそうと夢見た人たちがいて、
木曽川疎水の壮大な計画を実現させました。

2011年は、愛知用水通水50年。
これを機に、水源から受益地を巡って、
水にかかわる人々の、今の暮らしを追いました。

水使いの暗黙のルールや共同体の結びつき、
他者への思いやりといった文化は、
どこから生まれ、どのように醸成されていたのか。

今も愛知用水にかかわる人たちに、
厳然と引き継がれているその文化は、
これからも続いていくのでしょうか。

人口減少、産業構造や土地利用の変化の中で、
愛知用水の維持、管理を
従来どおり行なっていくには、
何を守り、何をつないでいったらいいのか。

そのヒントを探しに、
愛知用水と一緒に250kmの旅に出てみましょう。

目次

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愛知用水概説 編集部 PDFダウンロード
愛知用水に学ぶ
公共事業の原点回帰
吉田 恒昭 PDFダウンロード
悲願の愛知用水
日間賀島 島人気質
鈴木 昇 PDFダウンロード
悲願の愛知用水
南知多 溜め池と支線管理
澤田 廣三 PDFダウンロード
悲願の愛知用水
大府 通水前後の水使い
伴 武量 PDFダウンロード
悲願の愛知用水
不老会を知っていますか?
浜島 辰雄 PDFダウンロード
水の文化楽習 実践取材 29
保全意識を喚起するきっかけとは

多様な生きものを育む水辺
編集部 PDFダウンロード
愛知用水 工業用水としての足跡 愛知県企業庁 PDFダウンロード
製鉄に貢献した水質 新日本製鐵
名古屋製鐵所
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シリーズ里川
なつかしの阿木川
大橋 一弘 PDFダウンロード
愛知用水 源流の祈り
愛知用水源流概説
編集部 PDFダウンロード
愛知用水 源流の祈り
流域を見据えて
瀬戸 普 PDFダウンロード
愛知用水 源流の祈り
歌われない校歌の三番
堀内 征二 PDFダウンロード
愛知用水 源流の祈り
王滝の食文化を発信
編集部 PDFダウンロード
愛知用水 源流の祈り
〈子どもの森〉は活路となるか
小林 正美 PDFダウンロード
通水50年は新たな始まり 井爪 宏 PDFダウンロード
水の文化書誌 27
《愛知用水の軌跡》
古賀 邦雄 PDFダウンロード
文化をつくる
愛知用水 - 愛される地域用水として
編集部 PDFダウンロード
インフォメーション   PDFダウンロード

愛知用水概説

編集部

ドラマチックに語られることが多かった愛知用水。
しかし、実現に向けた多くの苦難と、
それを乗り越えるための努力の話を、
単に、過去の偉大な出来事として片付けてはいけない気がします。
愛知用水に何を学び、今と将来にどう生かすのか。
理解の一助として、編集部でまとめてみました。

お手本は明治用水

 愛知用水の萌芽は、明治用水にある、と言っていいだろう。
 碧海郡(へきかいぐん)和泉村(現・安城市和泉町)の豪農 都築弥厚(つづき やこう/1765〜1833年)が、碧海台地に矢作(やはぎ)川の水を引き新田開発する計画を立てた。1827年(文政10)『三河国碧海郡新開一件願書』をまとめ「碧海台地が原野のままである理由は用水がないため」として、幕府勘定奉行に用水路施工を願い出た。1833年(天保4)、幕府は計画を許可したが、同年都築は病没。都築の死後、地元の反対もあり計画は頓挫した。のちに岡崎の庄屋 伊豫田与八郎(いよだ よはちろう/1822〜1895年)と石井新田(現・安城市石井町)の農民 岡本兵松(ひょうまつ/1821〜1903年)が都築の志を引き継ぎ完成させる。
 愛知県豊田市で矢作川から取水し、安城市、豊田市、岡崎市、西尾市、碧南市、高浜市、刈谷市、知立市に水を供給し、「日本のデンマーク」と教科書に掲載されるほど、画期的な成功を収めた。
 この明治用水の成功を知る知多郡富貴村(現・武豊町)の元村長 森田萬右衛門(まんえもん/1852〜1934年)は、「碧海郡に明治用水があるように、知多郡にも木曽川から用水を導きたい」とことあるごとに語った。

水不足に苦しむ知多

 知多半島は台地状の地形のために、木曽川や矢作川といった大河川は半島を中心として左右に分かれ、伊勢湾と三河湾に注いでしまう。大きな川がないために、雨が降ってもすぐに水が海に流れてしまい、また地質的に地下水も得にくいために、長らく水不足に苦しんできた。「知多の豊年米食わず」ということわざがあるが、知多半島が豊年の年は、他の地方は水害で米ができないという意味。それほど、水が足りない地域であった。
 農業も天水に頼らざるを得ないため、皿池と呼ばれる浅く小さな溜め池が数多くつくられた。その数は1万3000とも1万5000ともいわれている。
 溜め池から田んぼへ水を入れるのも、当時はすべて人力。溜め池横の田を一段、その上の田を二段と数え、まずは一段の田を満杯にし、その水をさらに二段の田へ運ぶことを二段替え、もう一段上の田に入れることを三段替えといった。桶を担いで坂を上るか、跳ねつるべを使う大変な労働だった。田んぼ1枚を一杯にするのに、桶で3000杯かかるといわれた。

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愛知用水に学ぶ 公共事業の原点回帰

吉田 恒昭

吉田 恒昭 よしだ つねあき
工学博士
東京大学名誉教授

1946年、栃木県生まれ。1971年東北大学にて工学士(土木工学)を取得。卒業後は(株)日本工営の設計技師として国内・海外プロジェクトの水資源開発プロジェクトの計画に参画。1975年ロンドン大学でプロジェクト評価理論を学び、1978年経済学修士号を取得。
国際開発センター(財)研究員、国際協力事業団(現・国際協力機構)委託による数件の地域総合開発計画調査を経て、アジア開発銀行に1981年〜96年在籍。1997年〜2000年東京大学工学系研究科 社会基盤工学専攻教授、2000年拓殖大学に新設された国際開発学部の教授に就任。2004年再び東京大学で新領域創成科学研究科 国際協力学専攻教授に就任し、2010年定年退職。
主な著書に『社会基盤の整備システム―日本の経験』(経済調査会 1997)、『アジア型開発の課題と展望―アジア開発銀行30年の経験と教訓』(共著/名古屋大学出版会 1997)、『アジア 変革への挑戦』(監訳/東洋経済新報社 1998)、『国際開発学入門』(共著/弘文堂 2000)ほか

インフラといえばモノで社会基盤施設をつくるだけ、
と思いがちですが、吉田恒昭さんは、
人やコミュニティが持つ「潜在能力」を開花させる
手伝いをするものがインフラだ、と言います。
また、パブリックとは? デモクラシーとは?
という問いを実体験することでもある、と。
「公共事業」「主体の確認」「信頼の醸成」といった
愛知用水からのメッセージに学びます。

事業評価の意義

 学生時代の専門は、水が好きで河川工学でした。就職は、学生時代のアジア放浪の際に、ラオスのナムグム・ダムで日本工営の野沢陞さん(後に副社長)に出会ったことから、水と途上国開発がオーバーラップする仕事先としてコンサルタントの日本工営に入りました。
 構造物をつくっているうちに「ナゼ、これをつくるの?」という説明をどうやってするのかな、と思い始めました。要するに、事業評価ですよね。それで経済学を学びました。
 まさに、それから20〜30年経つと日本の公共事業もその疑問に直面するのですが、当時の日本にはそういうことを学ぶところもなかった。
 そういうことに興味を持っているときに、私が参加している社会人研修プログラムの講師としてアマルティア・センが事業評価の集中講義を東京で行なってくれました。

アマルティア・セン(Amartya Sen 1933年〜)
インドの経済学者。社会における経済の分配・公正と貧困・飢餓などの研究分野での貢献により1998年にアジア人で初のノーベル経済学賞を受賞した。ミクロ経済学の視点から貧困のメカニズムを説明した研究は、経済学に限らず哲学、政治学、倫理学、社会学など社会科学全般に影響を与えた。

 セン先生は当時、ロンドン大学におられました。これはちゃんと勉強しなくちゃダメだな、と思い、若いから無鉄砲で、セン先生に手紙を出したんです。そうしたら、返事をくれた。「奨学金は出せないけれど、日本で奨学金をもらってくるなら指導してもいい」と言ってくれた。それで、断腸の思いで日本工営を辞めて、セン先生のところで2年間勉強しました。
 セン先生は、「よく来た、よく来た」と言って歓迎してくれたけど、言葉もさっぱりわからない。自分では英語もできるつもりで行ったんだけれども、実際に講義が始まると半分ぐらいしか聞き取れなかった。若気の至りで会社を辞めて、おしめが取れない2歳の子供を抱えた、30歳になる前のころのことです。
 でも、当時のイギリスは貧乏学生をきちんとテイクケアしてくれたんですね。幼稚園もタダでしたし、子供が病気になってもタダなんですよ。とても進んだ福祉国家だった。世界中の貧乏学生をイギリス家庭が受け入れてくれるプログラムがある。そういう意味で、イギリスの恩恵をたくさん受けました。このご恩返しを、日本に来る留学生を通して自分もやらなくちゃな、と思っています。

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悲願の愛知用水
日間賀島 島人気質

鈴木 昇

鈴木 昇 すずき のぼる
元・南知多町職員

1934年、愛知県知多郡南知多町日間賀島生まれ。

愛知用水の通水で、観光地としても賑わいを見せる日間賀島。
そこには、行政だけに頼らない
先進的な「新しい公共」意識の伝統がありました。

恐い感染病

 私たちは、子供のときから水不足ということは嫌って言うほど、体験してきました。毎年、長野・王滝村のほうから、中学生が体験学習として来てくれますが、そのときには頼まれて水の話をしています。
 愛知用水が日間賀島(ひまかじま)に通水したのは、1962年(昭和37)のことになります。
 その当時、旧・師崎町で赤痢が流行ってね。150人ぐらいの感染者が出て日間賀島に飛び火したんですよ。役場の衛生係のお姉さんも赤痢で亡くなってしまった。
 1961年(昭和36)に日間賀島で町村合併があって日間賀島支所になったときに私は西の職員だった。残りの職員3人は東の人だった。日間賀島の赤痢は西で出たので、合併したとはいえ、東の人に衛生係を頼むわけにいかないということで、西の職員だった私が衛生係を引き受けました。
 そのあとじゃかじゃか感染者が増えて、人口2800人ぐらいの時代に最終的には157人までになった。そのとき師崎でも500人ぐらい、感染者が出ていたと思います。全島検便を実施して、保菌者が2名出た。その人を半田の市民病院に隔離して、やっと下火になった。
 愛知用水がきたのは、その年の9月。そうしたら赤痢がぴたっと止まった。赤痢だけじゃなく、トラホームもあった。私も、通信簿に毎回「軽トラホーム」と書かれた。水がきたお蔭で、そういう伝染病がまったくなくなったね。

井戸と天水が頼り

 それまで、農作業はほとんど天水頼みだった。共同井戸の水も使った。いよいよ足りなくなって、隣の大井から魚を飼っておく船で水を取りにいって、みんなに配ったこともある。
 共同井戸は、西のほうに七つ、東のほうに四つありました。今は飲用には使いませんが、防火用水として使えるようにはしてあります。
 冬になると雨が降らなくて水不足になるから、正月の餅米も堤防の所で海水で研いだ。井戸水は、家に置いた瓶で濾して使った。海水で研いだ餅米も、その濾した水で最後にゆすいで。そんなことをしていた時代が、ずっと続いておった。
 共同井戸には、みんながイナイ(水桶。天秤棒で前と後ろに提げて担うことをイナグと呼んだ)を並べておってね。私も缶にヒモをつけて井戸に吊るしておき、夜の間に少しでも溜まった水を缶で汲み上げてはイナイに溜めたものです。

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悲願の愛知用水
南知多 溜め池と支線管理

澤田 廣三

澤田 廣三 さわだ ひろぞう
愛知用水土地改良区理事長
元・国営農地開発事業理事長
農用地利用組合元組合長

1936年、愛知県知多郡南知多町生まれ。

共同体の秩序を守る重い役割を担った〈かかり〉さん。
愛知用水の通水で役目と担当者は変わりましたが、
〈かかり〉さんの気概は次の世代に受け継がれました。
今の課題は、昔を知らない世代に
その思いをどうやって引き継いでいくかです。

水は手と肩が頼り

 私は1936年(昭和11)生まれで、一口に言うと、勉強より水の手当てのほうが重要な時代に育った。小学校の高学年になれば、7月の稲が育つ時期には、朝のご飯前に水汲みをする。私らは川と言っていましたが、まあ溝のような流れをせき止めて田んぼに汲み上げないと、朝ご飯もいただけないし、学校にも行かれない。
 ほかのことでは、何の不満も思いませんでしたが、とにかく水が欲しいなあ、と思いました。風呂の水も生活するにも、田んぼだって、水は全部手で汲んで運びました。井戸っていうもんができて、井戸がポンプになって、愛知用水ができた。それまではもう、手と肩が頼りだった。
 ここらの水はね、濁り水で、そんな水を飲んでいた。それでも1年に1、2回検査をして、許可が出ておった。今だったらおそらく許可は出ません。飲み水も田んぼに使う水も一緒。川の水です。
 いくらなんでもそれでは、ということで、いつの時代か忘れてしまったけれど、この家の下に簡易水道ができました。大きな濾過装置をつくって。この集落の世帯は今は112戸ありますが、当時は60戸ぐらいだった。その各戸に自然流下で送った、というのが水道のはじめだね。
 新しい水でも濁っていて、全然見えないんですよ。だから愛知用水の水で初めて風呂に入ったときに、透き通って自分の身体が見えるから、恥ずかしかったなあ。それまでは濁っていて見えないんだから。私が言ったその話がテレビで大々的に放映されちゃって。それも恥ずかしかった。
 いくら田んぼや畑があったって、水がなければ何にもできませんからね。うちは、みかん専業農家でした。傾斜地に苗木を植えてね。1970年(昭和40年代後半)ごろまでは、黄色いダイヤと言われるぐらい、みかんは貴重品だったんですよ。だから今より気楽な生活を送らせていただいていたんです。
 今でこそ、平坦地に行くとみかんの甘味を出すためにシートで覆って水分調整していますが、その当時はそれどころではない。今時分になって花が咲いても夏がきて水がないとしぼんで枯れてしまう。実がつかないんです。水を掛けたくても、水源がないんだもの。ポンプがないときには、動力は牛だけ。牛車に水を積んで掛けて回ったって、とても追っつかなかった。

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悲願の愛知用水
大府 通水前後の水使い

伴 武量

伴 武量 ばん たけかず
元・愛知用水土地改良区理事長

1926年、愛知県大府市生まれ。1980年愛知用水土地改良区理事、1996年同・副理事長、2000年から2008年同・理事長。2008年国土交通大臣から水資源功績者表彰を受賞。

愛知用水を畑作灌漑に活用し、
農業に一大改革をもたらした輝かしい歴史。
この記憶と豊かな実りの地を
次世代に引き継ぐことが課題になっています。

血気盛んな農村青年

 久野庄太郎さんと浜島辰雄さんに続いて活動したのは、半田農学校(1886年〈明治19〉農業講習所として開所)出身の人たちでした。  農学校教育が影響しているというよりはね、久野さんが愛知用水問題を取り上げたときに、ついていったのが各農村の血気盛んなリーダー的存在だった人たちということです。農村同志会のリーダー格になった年代層に、たまたま半田農学校出身の人が多かった。
 戦後の食料難の時代に、農村青年が団結して食料増産をやらなければいけない、という気運が盛り上がってくる一方で、政治混乱の時代でもあった。いわゆる農村奴隷みたいな状況から解放しなければいけないということで、各地域の農村青年がカッカと燃えた。
 もちろん、そういう人ばかりじゃありませんよ。農協の前身の農業会の指導者たちが、そういう若手を取り込んで政治軍団みたいな組織をつくり上げたのが、農村同志会だったんです。
 この地域はね、戦後の農地解放以前からほとんどが自作農。土地が少ない人にたくさん持っている人が貸すとか、土地が多すぎて自分で耕作しきれない地主が人に貸すとかいう程度の地主さんしかいませんでした。

農地解放
第二次世界大戦後の1947年から3年間かけて、GHQ(連合国軍総司令部)の指令で行なわれた農地改革。政府が不在地主や一定以上の農地を保有する在地地主の農地を買い上げ、小作人に売り渡した。併せて、小作料の物納禁止を行なった。

 だから普通にいわれる農地解放の影響と、この辺りでの実際は違っていました。ご覧のとおり、この辺りは田んぼが少ないんですね。谷あいに、細長くあるぐらい。三河や尾張のように田んぼがたくさんあって、それを地主さんが持っているという風ではない。
 大正の末か昭和の初めだと思いますけれど、ご領地の払い下げというのがあった。この辺りは国のご領地ばっかりだったんですよ。田んぼは無理ですから、畑に開墾した。それで畑作が盛んになっていった地域です。大府(おおぶ)でも南のほうはほとんど、そうなんです。
 畑作の中でも大根は比較的水がなくてもできたから、沢庵漬けの産地にもなった。戦時中にだんだん食料がなくなっていったころには、大府の大根というのは大変貴重なもので、京浜、京阪神へも大根列車でどんどん運んだものです。
 それと、スイカ。スイカというのは日照り草。日照りが続くとスイカは良くなる。それともう一つ、テンコ豆という豆があってね。金時大豆ともいったもんですけれど。

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悲願の愛知用水
不老会を知っていますか?

浜島 辰雄

浜島 辰雄 はまじま たつお
元愛知用水土地改良区理事長

1916年、愛知県豊明市生まれ。1939年三重高等農林学校(現・三重大学)卒業後、南満州鉄道株式会社(調査部)に入社。同年に徴兵され、北支(中国華北地方)勤務などを経て名古屋陸軍幼年学校教官に就任。復員後、1948年安城農林学校教官時代に久野庄太郎と出会い、愛知用水の実現に寄与する。その後、韓国、イラン、アフガニスタンほか、途上国の開発計画にも携わった。不老会名誉会長。

知多に木曽川の水を引くという、
久野庄太郎さんの熱い希いを実現した協力者
浜島辰雄さんにお話をうかがいました。

不老会40周年記念誌

 愛知用水のことに関しては『愛知用水史』(愛知県・愛知用水公団 1968)や愛知用水土地改良区誌(愛知用水土地改良区 2005)をはじめとする多くの資料や研究書が発行されました。私はその都度、編纂や資料提供に協力してきましたが、時間や紙幅の制約があって、想いどおりの意図が表現しきれない悔やみがありました。
 特に、盟友としてともに働いた久野庄太郎さんや同志の方々の表現には物足りなさを感じてきました。多くの方がご成願(じょうがん/願が成就したという意味で、不老会では亡くなったことを表わす言葉)された今、残された者の使命として、新しい世紀の道しるべを書き残したいという思いにかられ、本にまとめておりました。自費出版を、と考えていたところ、望外の光栄に浴し、2005年(平成17)財団法人不老会創立40周年の記念誌としての発行を許されました。

内蒙古での経験

 私は1939年(昭和14)4月に南満州鉄道株式会社に入社して、調査部の仕事で内蒙古地区のダルハンの牧場に赴任しました。新品種の緬羊と肉牛の改良、増殖のための草資源の調査を担当したのです。
 当時はノモンハンで日本の関東軍と共同作戦を行なっていた内蒙古軍が、ソ連軍と戦闘態勢になって追い散らされ、洪水の中を逃げ惑うという治安の悪い状況にありました。10万頭の緬羊と1万頭の肉牛がいたんですが、内蒙古軍の敗残兵が牛を食べてしまうのには閉口しました。
 現在の中華人民共和国黒竜江省にある大興安嶺(ターシンアンリン)の南の大草原の草資源は、その年の雨量に支配されるので、第一松花江(中華人民共和国の東北部を北東流する河川。別名スンガリー川)の上流に広域な堰堤をつくり、遼河(りょうが/同・河北省、内蒙古自治区、吉林省、遼寧省を流れ、渤海に注ぐ大河)方面に面状に広く導水することで草資源の改良に役立つと考えました。そこで、白城子(はくじょうし/現在の吉林省の白城)上流からシラムリン川下流の流域を通って、開呂、通遼(ピンイン)の方向に導水させる案を考えたのです。
 この案をペーパーロケーション(測量を行なわずに、等高線の入った地形平面図から高さを読み取りながら、断面図をつくる手法)して論文に仕上げました。これが後ほど、愛知用水計画の導水路図「愛知用水概要図」作成に大いに役立つことになったのです。

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第29回 水の文化楽習 実践取材
多様な生きものを育む水辺 保全意識を喚起するきっかけとは

編集部

 2010年(平成22)10月11〜29日に愛知県・名古屋で「生物の多様性に関する条約(Convention on Biological Diversity)のCOP10」が開催される。

COP
 COPとは、締約国会議(Conference of the Parties)のことで、「生物の多様性に関する条約のCOP10」は、生物多様性の保全は、ラムサール条約やワシントン条約などの特定の地域、種の保全の取り組みだけでは図ることができないとして、新たな包括的な枠組みとして提案された条約について、締約国が協議する第10回目の会議である。ちなみに第1回会議は、1994年(平成6)にバハマのナッソーで行なわれた。
 この影響で、生物多様性に俄然注目が集まっているが「大切に守っていかなくてはならない」という趣旨には誰しも賛成するものの、産業構造の変化などによって脅かされている現状に対して、一般人である私たちが日々の暮らしの中で何をしたらいいのか、といった「解」は見えてこない。
 そこで地生態学の立場から、知多半島の水辺の植生と人とのかかわりを研究している、名古屋大学環境学研究科グローバルCOE研究員 富田啓介さんにフィールドを案内していただきながら、保全意識を喚起する方法などをうかがった。
富田 啓介

富田 啓介さん とみた けいすけ
名古屋大学グローバルCOEプログラム COE研究員

1980年愛知県半田市生まれ。1999年信州大学農学部森林科学科入学、翌年中退し、2000年名古屋大学文学部入学、地理学を専攻し卒業。2009年同大学大学院・環境学研究科・社会環境学専攻・地理学講座・博士後期課程を修了。博士(地理学)。
2009年8月より名古屋大学大学院環境学研究科研究員、同10月より現職。都市近郊に広がる丘陵地の自然・植生について広く関心を持ち、湧水湿地の植生発達、シラタマホシクサの生育環境、溜め池の植生などを研究テーマとする。2010年より、知多半島の生態系ネットワーク形成に向けた検討会構成員として、計画の検討を行なっている。

地生態学

 地理学というのは、地表面における現象すべてを扱う学問である。
 地理と聞くと、地形や地質を研究する学問を思い浮かべてしまうが、文化地理学とか民俗地理学、歴史地理学という領域では、地域に入り込んで聞き取りをしたり、古文書を読んだりもするという。
 また、関東の大学では、地理が理学部にあるところが多いようだが、名古屋から西の大学では、どちらかというと地理は文学部にある。最初に地理学の教室ができたのが、東京大学と京都大学だったらしく、そのときからの伝統といわれているとか。
 実際には、地理学は地表面における現象であれば何でも扱えるので、理学部にあっても文学部にあっても、どちらでも構わないのだそうだ。
 富田さんが専攻しているのは地生態学で、地形など地表の物理的なことと、植物や動物といった生物とのかかわりを研究する領域をいう。
 生物の中でも、特に植物の分布を調べて他地域との比較を行なっている。現在取り組んでいるのは、里山の生態を視野に置き、溜め池や湧水湿地などでの植物の分布を調べることで、生態系と人とのかかわりを検証しているという。
 溜め池も湿地も、人の手が入っている場所。そこでの分布の差異(場所の違い)や年代での差異を調べることで、人間の影響を計ることができる。例えば戦後禿げ山だったところが現状では豊かな森になっている、といった違いから、何の影響でそのような結果がもたらされたのかを知ることができる。

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愛知用水 工業用水としての足跡

  • 土井 康夫

    土井 康夫
    どい やすお

    愛知県企業庁水道部水道計画課主幹

  • 野口 興晴

    野口 興晴
    のぐち こうせい

    愛知県企業庁水道部水道計画課主査

愛知用水が通水50年を迎える今日まで、
つつがなく経営を続けられた背景には、
都市用水としての利用を含んだ総合開発であった、
という事実があります。
そして、都市用水への転用を受容した人たちの
柔軟な姿勢がありました。
特に工業用水は、愛知県の工業化に貢献しました。
モノづくりナンバー1を誇る
「強い」愛知に発展させた縁の下の力持ちは、
愛知用水かもしれません。

愛知用水への参加

 愛知用水事業は1951(昭和26)年度に、農業用水主体で閣議決定されましたが、当時の国の財政事情では資金確保の問題もあって、世界銀行から借款することになりました。この借款を受けるには、農業用水のみでなく都市用水などを含んだ多目的事業にする必要がありました。このため、愛知用水事業は農業用水、都市用水(水道・工業用水)、発電の3部門からなる多目的事業として事業実施されることになったのです。
 1952年度(昭和27)、農林省は都市用水の参加を愛知県、名古屋市、名古屋商工会議所に要請しましたが、話はまとまらず暗礁に乗り上げました。農林省は愛知県知事に「愛知用水に都市用水が参加するように調整してほしい」と強い要請を行ないましたが、名古屋市及び、名古屋商工会議所との話し合いは進展しませんでした。
 愛知用水事業を成功させるために、愛知県は毎秒1.7m³の都市用水を引き受けることで愛知用水事業への参加を決定しました。このうち、工業用水道の水量は幾度も調整した結果、毎秒0.693m³となり、全量を名古屋南部臨海工業地帯へ給水する計画を作成しました。これが県営の愛知用水工業用水道第1期事業の始まりです。

創設期

 名古屋南部臨海工業地帯は名古屋港の浚渫土(しゅんせつど)を埋め立てて造成したもので、当時は工業用水に地下水を使用していました。
 工業用水道の創設時の水利権、毎秒0.693m³が決定したものの、当初は給水先の名古屋市南部地区に立地する製鋼、石油化学、造船などの工場には工業用水について理解が得られませんでした。
 しかし1953年(昭和28)に深井戸の実態調査をした結果、地下水の汲み上げが限界に達しており、地下水位低下などの障害が発生していることがわかり、名古屋港付近では地盤沈下による荷揚場や防潮堤の大規模な沈下が確認されました。このことを工場に説明して、深井戸から工業用水道への転換をPRした結果、次第に関係者の認識が深まっていきました。
 一方、工業用水法制定の動きもあり、1957年(昭和32)には日量約7万kの水量が申し込まれ、この需要量を基として、1958(昭和33)年度に日量8万6400m³の給水計画で愛知用水工業用水道第1期事業が着手され、1961年(昭和36)12月に給水が開始されました。

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製鉄に貢献した水質

  • 小俣 哲雄

    小俣 哲雄
    おまた てつお

    新日本製鐵名古屋製鐵所
    総務部次長
    庶務グループグループリーダー

  • 有本 亮介

    有本 亮介
    ありもと りょうすけ

    新日本製鐵名古屋製鐵所
    総務部総務グループマネジャー

  • 橋本 健二

    橋本 健二
    はしもと けんじ

    新日本製鐵名古屋製鐵所
    エネルギー・資源化推進部
    エネルギー技術グループマネジャー

ニーズによってつくられたという点で、
愛知用水と新日本製鐵名古屋製鐵所は
同じ50年を歩んできたといえるのではないでしょうか。
濾過もしないでそのまま使える良質の水、
という評価は愛知用水の誇りです。
それが上流の人たちにとっても誇りとなれば、
上下流連携が実現できるような気がします。

名古屋製鐵所の特色

 新日本製鐵名古屋製鐵所は、富士製鐵株式会社と地元の出資によって東海製鐵株式会社として1958年(昭和33)設立されました。地元というのは愛知県、三重県、岐阜県、名古屋市、桑名市、四日市市の地方自治体と地元企業です。
 東海地方にはそれまで高炉を備えた大きな製鉄所はなく、今でも当社1カ所しかありません。高炉を備えているということは、鉄鉱石から大量に鋼をつくることが可能ということです。デリバリーや技術開発のことまで視野に入れると、生産現場のそばに高炉を備えた製鉄所があるというメリットは大きく、そういうニーズも含めて設立されました。
 敷地は東西約2km、南北約3km、周囲が10kmで、総面積が623万u、ナゴヤドーム130個分あります。
 1961年(昭和36)に冷延工場の操業を開始しました。1963年(昭和38)には熱延工場が、1964年(昭和39)には第1高炉が稼働して、銑鋼一貫体勢が確立しています。その後、東海製鐵と富士製鐵が合併して、新日本製鐵という会社になりました。
 当社では鋼板と鋼管を製造しています。板の中でも薄板と厚板があり、薄板の中にも厚い板と薄い板があります。厚めの板は自動車とか家電製品などに使われます。薄めの板は、容器用として利用されています。飲料用缶とか贈答用化粧缶などに使われるのが、容器用の鋼板です。
 厚板は、船、建設機械、産業機械、橋、高層ビルなどの大型構造物をつくる際に使われます。
 鋼管は最大で直径40pぐらいまでの鋼管を製造しており、建設機械や油井管用に使われる高機能商品になります。
 昨年度の全出荷量が約500万tで、そのうち約6割が国内向けであり、国内向けのうち東海4県の愛知、岐阜、三重、静岡に7割出荷しています。これは大きな特徴であり、地元のお客様とともに成長し育てていただいた、という思いがあります。
 全出荷量の4割にあたる輸出は、中国、台湾、インドネシア、韓国といった東アジア、東南アジアが7割強を占めています。

お客様に鍛えられる

 例えば、自動車向けの鋼板の中には、「硬いが加工しやすい鋼板が欲しい」というような難しい注文もあります。しかし、そういう注文に応えて実績にしてきました。
 ハイテンというのは高張力鋼板のことで、硬い鋼板です。自動車の衝突安全性を確保するため、また燃費向上のために、硬い鋼板が必要とされるのです。1台あたり何s鋼材使用量を減らせるか、という課題にも、我々は自動車メーカーさんと一緒に取り組ませていただいています。
 こういった取り組みが日本の製造業の強みではないでしょうか。

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シリーズ里川
なつかしの阿木川

大橋 一弘

大橋 一弘 おおはし かずひろ

1941年岐阜県恵那郡大井町生まれ。1960年三重大学農学部農芸化学科入学。1964年中埜酢店(現・ミツカングループ)入社。2001年に定年退職し、現在、酢の里、招鶴亭文庫に非常勤勤務。

 私は、現在の岐阜県恵那市大井町栄町に生まれ、太平洋戦争開始直前から、高校を卒業する1959年(昭和34)までの18年間、恵那駅のすぐそば、阿木川下流の地で育ちました。
 阿木川というのは、長野県木曽谷を水源として岐阜県東濃地方を流れ、岐阜県と愛知県の県境に沿って伊勢湾に注ぎ込む木曽川の支流で、現在は全長21km。大きな川ではありませんが、最上流の小渓谷、中流には愛知用水の都市用水確保のためにつくられた阿木川ダム、下流の扇状地と河岸段丘、最下流の中規模の渓谷で構成され、意外と変化に富んだ川です。
 私が住んでいた地域は、戦時中も空爆はおろか機銃掃射もなく、また敗戦後も駐留軍の影響すら受けることがありませんでした。食料の調達も、町内を抜ける蛭川街道の北方にある蛭川村(笠置山の裾野に位置する)からの出身者が多く、血縁のある農家から手に入れることができたため、あまりひもじい思いをしないで済みました。同郷の出身者が多かったせいか団結力が強く、祭りや町の行事にはまとまりがあったことを覚えています。
 水のことでいうと、戦後間もないころのこの地方はまだ水道もなく、井戸と川で生活をしていました。住宅街でしたが今のようなサラリーマン家庭ではなく、30軒中9軒が和菓子屋、うどん製造業、鍛冶屋、染物屋、洋服仕立物屋、ブリキ加工屋といった、家屋を住宅兼仕事場として使う職業の人たちでした。
 道路の東側の家は裏に阿木川が流れており、4〜6m下の川に直接下りていくために長い梯子をかけていて、仕事で大量の水が必要なときには、それで川に下りて川の水を利用しました。川に面していない家でも、同じように川の水を利用していました。料理屋がウナギやドジョウの泥臭さを抜くために、魚籠に入れて生簀代わりに使ったり、漬物屋が菊ごぼうの泥を洗い流すのに、芋洗い水車を使って予備洗いをしたり。今では想像もつかないほど、人の暮らしと川とは強く結びついていたのです。

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愛知用水 源流の祈り
愛知用水源流概説

編集部

お上の森の歴史

 王滝村は96%が森林。昔から林業の村だった。しかし、豊かな森林の87%(2万6000ha余)を国有林が占める。今でも1本1000万円超の値をつける天然木曽檜を産出するが、その美林を育んだのは時の権力者による管理の歴史ともいえる。
 豊臣秀吉もこの山の木を大量に伐り出し、山を荒らした。
 次の所有者は、徳川家康の九男で尾張藩初代藩主の義直。尾張藩は留山(とめやま)といって、「木1本、首1本」といわれるほどの保護政策をとり、江戸の末期には価値のある木が育つまでになった。
 人家に近い山は明山(あけやま)といって村人の利用が許されたが、明山の中でも木曽五木といわれる檜、椹(さわら)、ネズコ、翌檜(あすなろ/アスヒとも)、高野槙(こうやまき)は、停止木といって伐採禁止。クヌギや楢などの雑木を薪などに使っていた。米はあまり取れない地域のため、米の代わりに木年貢(役木)であった。
 明治になると、天皇の山、御料林になり、明山まで取り上げられてしまったことが、反対の住民運動を引き起こす。島崎藤村の『夜明け前』(中央公論 1929)には、そのくだりが書かれている。御料林の決定は覆せなかったが、藤村の兄 広助の粘り強い交渉の末、ご下賜金を得ることができ、木曽の人たちは、これを森林育成のために使った。
 天然木曽檜は皇室の収入に大きく貢献し、永世に伝える〈世伝ご領林〉として特別視された。天皇の御料林は、その後国有林となって今に至る。

村発祥の地


 王滝村の中心部から西へ12km。今は、牧尾ダムの源流 王滝川に沿って、道幅も充分な舗装道路が通っている。その県道を、車で30分ほど走ると滝越地区に到着する。
 村の起源は、鎌倉時代に岐阜県側から落ち延びてきた武士の一団が、滝越の上流の三浦平に住み着いたことが始めといわれている。
 発祥の地である三浦平は、1942年(昭和17)ダム湖の底に沈んだ。当時、福澤桃介(ももすけ)が興した大同電力によって計画され、大同電力ほか多くの電力会社が統合して日本発送電を発足。軍需産業活性化を目的とした、電力供給の増強としてつくられたダムであった。現在は、関西電力に引き継がれている。

福澤桃介 ふくざわ ももすけ
「日本の電力王」ともいわれる実業家。福澤諭吉の婿養子。

王滝森林鉄道

 今では王滝村及び、長野県の最西端となっている滝越地区に王滝森林鉄道、通称〈林鉄〉が敷かれたのは1923年(大正12)のこと。それまで集落に通じる車道はなかった。
〈林鉄〉は、木材の積み出しはもとより、地元住民の足として機能。
 滝越は分校を廃止し、村が購入した機関車と客車を〈やまばと号〉と名づけて、当時70人いた小中学生を村中心部の学校に運んだ。
 木材を満載した列車が30分おきに行き交う時期もあったというが、トラック輸送が主流となったために、1975年(昭和50)に廃止された。

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愛知用水 源流の祈り
流域を見据えて

瀬戸 普

瀬戸 普 せと ひろし
長野県木曽郡王滝村村長

1949年、長野県木曽郡王滝村生まれ。

いろいろあったけれど、
王滝村は立ち直る目処が立ちました。
これからの課題は、人づくり。
王滝村と瀬戸村長の新たな挑戦は続きます。

ダムができて

 谷あいの村で耕地が非常に少ない王滝村にとって、ダムができたのは、耕地面積でいうと3分の1に当たるんです。村外移住もあって、人口もだいぶ減りました。それで、残った人間はどう生きていくか、ということになりました。
 正確を期すために、村史から当時の記録を確認しておきました。村への補償が、4年間で2億1000万円。これは補償金としてではなく、残村対策として4年間という限られた期間内に事業が行なわれた場合に、上限で2億1000万円が支払われるというもの。
 道路や水道といったインフラ整備や診療所の開設などを村として行ない、7割がたが御嶽山方面の道路整備にあてられました。村の拠って立つ方法は観光しかない、という考えに基づいてやったことです。

林業雇用の減少


 村の面積は名古屋市より少し小さいぐらいで、とても広い。90%近くが国有林です。以前は国有林野に働いている人間は500人。家族を含めると1200人でした。
 つまり、今の村の総人口より多い。ところが国有林の事業自体がどんどん縮小して、日本一の売り上げを誇る営林署でありながら撤退させられ、木曽森林管理署管轄の王滝事務所になってしまった。だから今は、20人を切るぐらいになりました。
 王滝村は、本来、山の仕事があってなんぼの村なんですよ。1975年(昭和50)以降の国有林の事業縮小は、村の経営にものすごく響いています。そうは言っても、ここから持っていく木は長野県内でも最も単価が高い良材なんで、大事な山だということには変わりないと思いますよ。
 良材はもうない、ないと言いながら、まだある。聞いた話じゃ、今年の初市で出た材はヘリ集材(ヘリコプターを使った集材)した檜に1185万円の値がついた、といいます。12mでですよ。素性がいいということですよね。12mの材で1185万円ですから、製材して最終製品になったときには幾らになっていることか。恐ろしくなりますね。
 合併してしまったから、森林作業に近場の人を雇用することが難しくなっています。王滝村の森林の作業に、木曽のほかの地域に住んでいる人が来てやっている状態。雇用につながらないんですね。
 だから山奥の人間がいらなくなって、麓に住んで上がってくればいい。そんならいっそ「廃村にしてどこかに引っ越せ」と言ってくれたほうがスッキリするなあ、という気分にもなりますよ。

福澤桃介 ふくざわ ももすけ
「日本の電力王」ともいわれる実業家。福澤諭吉の婿養子。

王滝森林鉄道

 今では王滝村及び、長野県の最西端となっている滝越地区に王滝森林鉄道、通称〈林鉄〉が敷かれたのは1923年(大正12)のこと。それまで集落に通じる車道はなかった。
〈林鉄〉は、木材の積み出しはもとより、地元住民の足として機能。
 滝越は分校を廃止し、村が購入した機関車と客車を〈やまばと号〉と名づけて、当時70人いた小中学生を村中心部の学校に運んだ。
 木材を満載した列車が30分おきに行き交う時期もあったというが、トラック輸送が主流となったために、1975年(昭和50)に廃止された。

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愛知用水 源流の祈り
歌われない校歌の三番

堀内 征二

堀内 征二 ほりうち せいじ
長野県木曽郡王滝村公民館館長

1938年、長野県木曽郡木曽町(当時は西筑摩郡新開村)生まれ。

牧尾ダム完成の翌年にできた王滝村小中学校の校歌。
ダム讃歌ともいえる三番は、
いつの間にか歌われなくなった、といいます。
その経緯を、公民館館長の堀内征二さんにうかがいました。

三番は「略」

 私、郵便局の職員だったんです。1957年(昭和32)に、ダム建設で業務が忙しくなるからと増員のため採用され、王滝が良いもんだからそれっきり落ち着いちゃった。
 私が来たときには、御嶽山は素晴らしいわ、水はきれいだわ、でこんなに良い所はどこにもないな、と思った。
 郵便局には45年間勤めましたから、辞めたときには64歳になっていました。ああいう国の仕事をしていると、ほかの仕事ができません。それで、辞めた途端に「あれをやってくれ」「これをやってくれ」といろいろ頼まれた。それで王滝村の区長会長をやって、公民館にきた。7年目になります。
 王滝村もご多分に漏れず、子供の数が減っています。小学校児童数は44人、中学校生徒数は29人です(2010年8月24日現在)。
 校歌の歌われない三番の話は、信濃毎日新聞に連載された「『官』の村から」という記事にも取り上げられました。この連載は、東条勝洋という記者が住民票を王滝村に移し、住み込みで取材したもの。本になって出版もされました。
 いつから、なぜ歌われなくなったのかは不明です。公民館は教育委員会も一緒なんで、よく理由を聞かれるんですが、わかりません。この校歌ができたのは1962年(昭和37)、牧尾ダムが完成した翌年。歌詞に、その理由があるんじゃないかなとは思いますが。

〈一番〉
御岳山の朝ぼらけ
あかねの色にそまる時
裾野の牧場(まきば)はてしなく
わが学び舎(や)につづくなり
清き姿のわが霊峰(おやま)
清きはわれらの心なり

 校歌は四番まであって、村の象徴である御嶽山(嶽の字体を新字体で御岳山と表記されることもある)のことを歌い、木曽五木の繁る森のことに続きます。一番の歌詞に「牧場」という言葉が出てきますが、牧場も今はありません。
 問題の三番は、ダムを讃える内容。校歌がつくられた当初は歌われていたそうですから、最初から拒否されていたというよりは、徐々に歌われなくなったらしい。
 結局、村民の気持ちとダムの存在に少しずつズレが生じてきて、歌われなくなった、ということなのでしょう。

〈三番〉
一億トンの水湛(たた)う
御岳湖上の漣(さざなみ)は
国の栄えをこいねがう
われらが至情(まこと)のしるしなり
興せみ国の産業(なりわい)を
はかれ郷土の幸福(さいわい)を

 卒業式の式次第にも、一番、二番ときて「略」とあって四番。子供たちも何の疑問も抱かずに一、二、四と歌います。
 しかし、学校にある碑には三番の歌詞も書いてあるんです。

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愛知用水 源流の祈り
王滝の食文化を発信

編集部

非常食として蓄えたドングリを食べる知恵や、
地域固有の王滝かぶを使った漬物など、お母さんたちは積極的。
結婚してから王滝村に来た人、ここで生まれ育った人、
といろいろですが、
活動は仲間づくりという点で共通していました。

ドングリを食べる知恵

「子供のころ、お腹を壊すと、ドングリの粉にお砂糖を入れお湯で溶いて飲ませてもらいました」
 と言うのは、〈郷土料理 ひだみ〉の瀬戸美恵子さん。王滝村には、飢餓に備えてドングリを非常食として蓄えてきた伝統がある。
 虫殺しのためにドングリを茹で、乾燥させる。囲炉裏の燻(いぶ)しがあったころは、これで100年でも保存できたそうだ。
「今はすぐに虫がくるから、粉にして冷凍保存しています。一晩水に浸けて戻したドングリを重曹を入れた湯で半日煮て、4日間ひたすら水を換えて灰汁(あく)抜きします。これを潰して粉にします」
「王滝に長く受け継がれてきた食文化をここで途絶えさせてしまったら、加工する技術も失われてしまいます。単に食べることではなく、山のリスやネズミから少しだけ分けてもらって、ドングリ食の文化をつないでいきたいのです」
 店内には、脇坂智重子さんがつくるドングリ染めの布でつくった小物も販売されている。灰汁抜きをするときに出る液で染色し、媒染剤にミョウバンや鉄などを使い分けると暖かいアースカラーに染め上がる。
「灰汁抜き作業中に服についた色が取れなくて、どうしよう、と思ったのが最初。でも、これだけだと色が地味だから、ほかの草木染めの布と組み合わせて、互いが引き立つようにしています」
 1988年(昭和63)に〈郷土料理 ひだみ〉ができた翌年から始めたから、もう22年になるという。
 ドングリを実らせるコナラ、オオナラ(ミズナラの別称)といった落葉広葉樹は、森の保水力を高め、美しい水を育む涵養の働きもする。瀬戸さんたちはそこにも着目して〈未来世代につなぐ緑のバトン〉という取り組みも行なっている。ドングリの実を拾って苗に育て、再び森へ帰すというイベントで、年に2回開催している。
「子供たちや村民に拾ってもらったドングリは、1s200円で買い取っています。こうすることで関心を持ってもらえたらうれしいですね」
 実は東海市にある新日本製鐵名古屋製鐵所には、1972年(昭和47)から植樹を始めた広大なドングリの森がある。ここのドングリでつくった〈郷土料理 ひだみ〉のパンやパイを新日鐵の人たちにも食べてもらえたら。愛知用水で流域の絆が深まるような気がする。

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愛知用水 源流の祈り
〈子どもの森〉は活路となるか

小林 正美

小林 正美 こばやし まさみ
長野県木曽郡王滝村前村長

1937年、長野県木曽郡上松町生まれ。

残村再建のために王滝に来て50年。
華やかな繁栄と苦悩の両方を見てきました。
公職を退いて気がかりなのは、人口減少のこと。
〈子どもの森〉は、活路の要となれるのでしょうか。

補償事業を担当

 私は上松町の出身。1958年(昭和33)に「牧尾ダムをつくるから手伝え」と王滝の助役だった先輩に言われ、当時は今と同じで就職難だったのでやって来ました。来たときには、もうダムをつくることは決まっていた。多少、土木がわかって測量なんかができましたから、残村再建事業を担当しました。
 御嶽山に行く道路は県道なんですが、当時はリヤカーぐらいしか通れない道幅で、それをバスが通れる5m道路に広げるのが主な仕事でした。設計単価を出すときに基本となる土工の日当が、確か1日500円ぐらいの時代の2億1000万円ですからすごい金額です。村有林の造成事業やその他の道路整備もしました。消防車を買ったんだけれど、道が狭くて入れなかった。慌てて道路を広げた。今じゃ笑い話ですけどね。
 愛知用水公団(当時)もやる気で取り組んでいましたから、立ち退く墓地や庭の植木1本に至るまで計算しました。
 王滝村は村有林をたくさん持っているんです。だいぶ売ってしまいましたが、2700町歩ぐらいあるんですね。その造林や植林も〈村有林造成事業〉として補助が出ました。
 冷静に考えて、恵まれた補償だったと思います。けっして粗末に扱われたわけではない。公団は温かかったと思います。

観光で生きる

 産業は、基本的には林業。農業は自家用に少しつくるぐらいで小規模なものです。
 メインの柱は、御嶽山の信徒の登山。寒参りというのもありましたが、夏中心です。講を組んで先達が何百人も信者を連れて来た。だから、昔は旅籠(はたご)といっていましたが、旅館の親父は旦那、旦那と呼ばれました。
 ところがリーダーとなる先達がだんだんと高齢化して、減る傾向が出てきた。スキー場開発は、信徒の減少対策と観光の通年化のためです。

スキー場開発の顛末

 王滝村は地形と雪質に恵まれて、昔からスキーはやっていたんですが、リフトはなくスキー板を担いで上がりました。Cコースと呼んでいた斜面を1日に10回も滑れば、くたくたになった。当時、長野県のスキー場でリフトがあるのは、藪原(木曽郡木祖村)だけ。木柱のリフトでしたが、全国でも何番目かに早かった。

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通水50年は新たな始まり

井爪 宏

井爪 宏 いづめ ひろし
独立行政法人水資源機構
愛知用水総合管理所 所長

1980年、水資源開発公団(当時)採用。
2008年より現職。

愛知用水は、来年2011年に通水50周年を迎えます。
井爪宏さんは、
打ち上げ花火的なイベントだけで終わらせたくない、
と考えています。
あって当たり前になってしまった水。
しかし、その水は受益地にとって恋い焦がれた
念願の水であると同時に、
水源地にとっては、痛みを伴う水でした。
通水50周年で再び愛知用水に注目が集まることは、
原点を思い起こさせ、
新たな一歩を踏み出すチャンスになるかもしれません。

高い理想に燃えて

「水と共に文化を流さん―われらの希(ねが)い―」。これは久野庄太郎さんが発行した『愛知用水新聞』(1952年〈昭和27〉2月1日)の創刊号の巻頭のタイトルです。
 普段愛知用水を産業用水として管理し、その役割や機能を主に考えている私が読んでも、この言葉はすっと心に収まる。腑に落ちるんです。「なるほど。先人にはそういう想いがあったのか」。この言葉は反省の材料になる。地域の人たちの思いは、自分たちが今やっていることにプラスアルファがつくのだ、と気がつくんです。
「愛知用水が欲しい」と言って賛同した多くの農民は、生活改善につながるんじゃないかと願いを託したんです。それも地域の青年たちが、単に自分たちの、農民の生活を改善しようというのではなく、農村全体の生活改善をしようとした。何かにすがってでも行なおうとした。その何かが、まさに水を介在とした愛知用水事業なんですよ。だから底力が強い。
 みなさんから見ると、地区のイベントに参加したり、休日に住民の集会に出たり、地区の声をいろいろなところに伝える手伝いをするなど、水源地や受益地になんでそんなに思いを入れるのか、と私たちの行動は、不思議に映ったかもしれない。しかし、これは水資源機構の伝統でもあって、全然不思議なことではないんです。やはり、私たちの心の底にも「水と共に文化を流さん―愛知用水―」という想いがあるんですよ。
 そういう遺伝子が我々の中にある。私たちは利益を追求する団体ではないから、ある意味で鷹揚さがあるんですよ。それが良い方向につながっていると思います。
 だから今でも迷ったらこの言葉に立ち戻る。「地域の人はこういうときどう考えるんだろう」と振り返ってみます。

実現の原動力

 愛知用水が実現した一番の原動力は何だったのか。いろいろな要素が複合的に絡み合って実現したわけだけれど、一番後押ししたことは何なんだろうか。その答えは、まだ見つかっていません。
 終戦やそれに続く食料難という時代も後押ししたと思うし、水不足を解消しようとして久野庄太郎さんや浜島辰雄さんのような英雄が登場したことも要因になるでしょう。お金が調達できたということも、不可欠な要素。でも、それだけじゃない。
 うちの上司は「やはり人の和だろう」と言う。私は「現実に見合った判断ができたことではないか」と思っている。要するに柔軟性。この地区の人たちは非常に柔軟なんですよ。この柔軟性が原点にあって、久野さんたちの登場を導いたのかもしれない。

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水の文化書誌 27
《愛知用水の軌跡》

古賀 邦雄

古賀 邦雄 こが くにお
古賀河川図書館長
水・河川・湖沼関係文献研究会

1967年西南学院大学卒業
水資源開発公団(現・独立行政法人水資源機構)に入社
30年間にわたり水・河川・湖沼関係文献を収集
2001年退職し現在、
日本河川協会、ふくおかの川と水の会に所属
2008年5月に収集した書籍を所蔵する
「古賀河川図書館」を開設
URL:http://mymy.jp/koga/

〈遥かなる 木曾の谷間の牧尾ダム みなもとの水は田に張られたり〉(志水 孝)。この歌は、志水 孝著『歌集 愛知用水』(自費出版 2006)に所収されている。作者は愛知県日進市在住、愛知用水土地改良区の組合員、農民作家である。旱魃や飲み水の不足に悩まされてきた知多半島の人たちは、久野庄太郎、浜島辰雄らによって昭和23年愛知用水建設運動を開始した。愛知用水は木曽川上流に水源となる牧尾ダムを築造し、岐阜県から愛知県の尾張東部の平野及びこれに続く知多半島一帯まで水路を通し、農業用水、水道用水、工業用水を供給するものである。昭和30年から昭和36年にかけて愛知用水公団(現・独立行政法人水資源機構)で施工された。戦後間もないころの我が国は、すべての物資が不足し、勿論水も食糧もエネルギーも不足していた。その愛知用水の完成まで決して平坦な道のりではなかった。建設中、昭和34年9月伊勢湾台風に遭遇。殉職者も出た。完成後も昭和59年9月に発生した長野県西部地震により、牧尾ダム湖に大量の土砂が流入した。さらに新たな都市用水の需要増加及び水路等の老朽化も顕在化する。しかしながら、その都度これらの難題に対処してきた。愛知用水の軌跡を追ってみたい。
 天水や溜め池に頼っている地域は、水不足に悩まされ、水さえあれば、水さえ引ければ、との願いは強い。知多半島の農民たちには木曽川からの導水が悲願であった。愛知県内では既に、矢作川からの明治用水が通水しており、安城市、豊田市、岡崎市などは安定的に農業用水などの供給体系ができ上がっていた。明治用水のように知多半島にも水が流れてきたら、と思うのも当然のことだった。愛知用水建設運動の中心人物は農民久野庄太郎と安城農林学校教員浜島辰雄であった。浜島辰雄編著『愛知用水と不老会』(財団法人不老会 2005)、愛知用水土地改良区編・発行『愛知用水土地改良区五十年の歩み』(2002)には、その建設活動が描かれている、この二人は、木曽川からの導水に関して意気投合して早速用水路の現地踏査を行ない、「愛知用水概要図」を昭和23年8月に作成し、それを携帯、掲示に便利なように軸装にした。その図には関係市町村4市48カ町村、導水路延長120km、水源は滝越、丸山そのほかに4億kを貯める計画である。現・愛知用水路線とほとんど変わらない。

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文化をつくる
愛知用水 - 愛される地域用水として

編集部

「谷」と「森」の知恵

 今夏は記録破りの猛暑であった。夕立も少なかった。愛知用水がなかったら、知多の作物はほとんど干上がっていたに違いない。
 知多の取材で知ったのは、ほんのわずかな窪みでも「谷」と呼ぶことだ。「この谷になった所に溜め池があったんですよ」と言われて、水が溜まるのは窪地であり、ほんのわずかな木立も「森」と呼び集水域の涵養林にしていた知恵を、改めて思った。

おぢいさんのランプ

 知多・岩滑(やなめ)の出身である童話作家 新美南吉は、身近な溜め池をよく描いた。『おぢいさんのランプ』は、生前に刊行された唯一の童話集に収録されている話で、孤児だった祖父 巳之助が文明開化のシンボルとしてランプ売りになるが、やがて村に電気がくることで失業してしまう。一時は逆恨みする巳之助だが、思い直して、古い自分と決別して本屋になる。
 巳之助は孫に「日本がすすんで、自分の古いしょうばいがお役に立たなくなったら、すっぱりそいつをすてるのだ。いつまでもきたなく古いしょうばいにかじりついていたり、自分のしょうばいがはやっていたむかしの方がよかったといったり、世の中のすすんだことをうらんだり、そんな意気地のねえことはけっしてしないということだ」と言い聞かせている。
 ランプを割って商売を辞める決心をする舞台には、知多の象徴としての溜め池が選ばれている。そこには「後ろを振り向かないで、前を見る」という気概が描かれているように思う。
 南吉の物語はいつも切ないのだが、読み直して改めて気づいたことがあった。ごんぎつねも含めて南吉の童話の登場人物は、いつも過ちを犯してしまう。しかし、そのままでは終わらずに自らの非を詫びるのだ。詫びられたほうも、謝罪を受け入れ許してやる。人間は弱い存在で、互いに弱さがわかるから思いやることができる。そして、互いがあるから諦めずに前進できる、という南吉の希(ねが)いが込められているような気がする。
 愛知用水運動の中心となった久野庄太郎さんは、牧尾ダムの工事で56人の犠牲者が出たことにずっと苦悩し続けたが、〈不老会〉をつくることで供養の道筋を見出した。自分たちが水を得た代わりに、家がダムの底に沈み故郷を離れざるを得なかった人たちのことも、生涯忘れなかったに違いない。
 歴史に「もしも」は禁句だが、久野さんという人がいなかったら愛知用水は実現されなかったかもしれない。しかし南吉の童話を読むと、何年か待てば久野さんのような人物がまた立ち上がってくるかもしれない、と思わせる希望が湧いてくるのである。

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