機関誌『水の文化』36号
愛知用水50年

南知多 溜め池と支線管理

共同体の秩序を守る重い役割を担った〈かかり〉さん。愛知用水の通水で役目と担当者は変わりましたが、〈かかり〉さんの気概は次の世代に受け継がれました。 今の課題は、昔を知らない世代にその思いをどうやって引き継いでいくかです。

澤田 廣三さん

愛知用水土地改良区理事長
元・国営農地開発事業理事長
農用地利用組合元組合長
澤田 廣三 (さわだ ひろぞう)さん

1936年、愛知県知多郡南知多町生まれ。

水は手と肩が頼り

私は1936年(昭和11)生まれで、一口に言うと、勉強より水の手当てのほうが重要な時代に育った。小学校の高学年になれば、7月の稲が育つ時期には、朝のご飯前に水汲みをする。私らは川と言っていましたが、まあ溝のような流れをせき止めて田んぼに汲み上げないと、朝ご飯もいただけないし、学校にも行かれない。

ほかのことでは、何の不満も思いませんでしたが、とにかく水が欲しいなあ、と思いました。風呂の水も生活するにも、田んぼだって、水は全部手で汲んで運びました。井戸っていうもんができて、井戸がポンプになって、愛知用水ができた。それまではもう、手と肩が頼りだった。

ここらの水はね、濁り水で、そんな水を飲んでいた。それでも1年に1、2回検査をして、許可が出ておった。今だったらおそらく許可は出ません。飲み水も田んぼに使う水も一緒。川の水です。

いくらなんでもそれでは、ということで、いつの時代か忘れてしまったけれど、この家の下に簡易水道ができました。大きな濾過装置をつくって。この集落の世帯は今は112戸ありますが、当時は60戸ぐらいだった。その各戸に自然流下で送った、というのが水道のはじめだね。

新しい水でも濁っていて、全然見えないんですよ。だから愛知用水の水で初めて風呂に入ったときに、透き通って自分の身体が見えるから、恥ずかしかったなあ。それまでは濁っていて見えないんだから。私が言ったその話がテレビで大々的に放映されちゃって。それも恥ずかしかった。

いくら田んぼや畑があったって、水がなければ何にもできませんからね。うちは、みかん専業農家でした。傾斜地に苗木を植えてね。1970年(昭和40年代後半)ごろまでは、黄色いダイヤと言われるぐらい、みかんは貴重品だったんですよ。だから今より気楽な生活を送らせていただいていたんです。

今でこそ、平坦地に行くとみかんの甘味を出すためにシートで覆って水分調整していますが、その当時はそれどころではない。今時分になって花が咲いても夏がきて水がないとしぼんで枯れてしまう。実がつかないんです。水を掛けたくても、水源がないんだもの。ポンプがないときには、動力は牛だけ。牛車に水を積んで掛けて回ったって、とても追っつかなかった。

溜め池の〈かかり〉さん

溜め池というのは命の水だもんで、地区に責任者を決めてきちんと管理されていた。今のように私らが何か言って採用されるようなことはなかった。あくまでも、その責任者が差配した。

とにかく水の量というのが限られているもんだから、その方は計算しながら公平に水を出すという責任を持って、大きな権限を持っておられた。

私らは、単に〈かかり〉と呼んでいましたね。今でいうと町長さんより権力を持っておられた。

〈かかり〉になるのは、まあ大地主さん。選任されるわけではなくて、代々その家の人がやっていた。だから愛知用水がくるまでは、我々村民に対する〈かかり〉の力というのは、今の時代では考えられないほどのものがあった。

大きな権力を持っていたが、一方では台風がくれば台風、旱魃(かんばつ)がくれば旱魃への対策を講じなければならないわけだから、それはもう大変な役目だった。そういう責任感のある苦労される姿を見ておりますもんで、村民の誰もが従った。

一つの溜め池を何人かで共有するわけですが、何か文書になっているかというと、特に見たことはない。土地の所有者イコール水の利用者でした。生活用水に使うことより、食料生産としての使用が最優先されていましたから。

今と違って、土地の所有者は全然変わりませんもので。その当時は、自分たちの田地を人様に売るなんてことをしたら、村八分だもの。借金しても、隣が売りに出たら買いましょう、という時代。

愛知用水がきたときに、溜め池を使っていたグループがどうなったかというと、正式な切り替えはなかった。

例えば組織の解散だとかは。うちの集落では〈かかり〉がそのまま愛知用水の管理をやるということにはならなかった。そのときには気がつかなかったけれど、今思えばずいぶんと〈かかり〉さんに失礼だったわ。自然消滅。「愛知用水がきましたから、今までありがとうございました」という改まったことはなかった。

こちらの勝手な言い分ですけれど、戦争が終わって、水がきて、これからは食料も増産できるし、農業の規模も拡大できるし、そういうことで舞い上がって、それまでご苦労された〈かかり〉さんへの礼に失した。本当に申し訳ないことをしたと思います。それは、今、後悔していますね。

また〈かかり〉さんは、そのとき何も言われなかった。愛知用水がきたから、その責任者を、とも言われなかった。今考えると立派な方だったな、と思います。普通だったら、何か言うでしょう。権利を主張して。

公平のための厳しい掟

当時もね、水泥棒。そういうことは頻繁にありました。

その溜め池は60戸の集落全戸で使っていました。湧き水もあったから、生活用水にはそちらを使いますが、夏になれば湧き水も涸れてしまいますから。

夜回りしてもどうにもならんで、〈かかり〉さんが抑制力のために猟銃の取得免許を取った。まさか使ったということはないですよ。あくまでも抑止力としてです。それぐらい水というものが大切だった。そして、誰でも欲しければ使えるというものでもなかった。

溜め池はコンクリートの水路に1mおきぐらいで木の栓がしておって。それは今でも一緒だよ。栓を抜けば水が抜ける。朝行くと、盗んだ分水位が下がっているから、わかるんですよ。だから、みんなで解決策を考えたけど、妙案が浮かばなかった。それで最後の手段ということです。

猟銃なんて見たことないもんだから、今は厳しくなっているでしょうが、そのころは見せてもらいに行って、使い方を習ったりした覚えがあります。まだ若造だった自分ですが、そこまでするのかなあ、と厳しさを感じたものです。

そのころは先輩たちが声のトーンを上げているから、なんだいなあ、と思っていくと、たいがい水のことだわ。

1961年(昭和36)に水がくると決まって、みんなよく開墾して土地を準備していただけに、余計水が欲しかった。それで盗水。

今でも、夜スプリンクラーが回っていることがあるんだけれど、節水がくると人間の心理として夜にこっそりとやる。まあ、こういうことはあんまり言いたくないが事実だもんで。そうなると工区長さんは骨が折れます。

そういうことをする人は、まあ、水にひどく執着を持っておるもんでなかなかやめさせることはできない。普通の理屈では、通用しませんもん。仕方がないから「夜はポンプを止めましょう」と、そこまでいっちゃう。

これだけ水があっても、今でもこれだもんで、なかった時代はさぞかしです。

水争いというと村どうしの争いと思われがちだけど、同じ集落の中で、こんな風に争っていたんですよ。だから〈かかり〉さんは1cmの水位にも神経を尖らせていた。今思うと、うちの仕事なんて放ったらかして、やっておられたな。それぐらいでないとね、「ええわ、ええわ」と言っておったら、2日か3日で池が空になります。

水の争いイコール食べものですから。今の世の中は、蛇口をひねれば水が出るようになっちゃったから、この気持ちはなかなかわからんでしょうね。

さすがに一人の人がここまで責任を持って、水を治めるということもないでしょうし。なんの相談をするにも、その人を頼りにしてねえ。

愛知用水がきてからの水の管理責任者というのは、今風で、みんなで集まって決めた。そうなってからは代々世襲ということはなしに、3年とか5年ごとに替わるようにはなっていった。

しかし、そういう風になってくると、本当に水の管理だけ。以前の〈かかり〉さんは、集落内のすべてのことの調整役でしたから、さぞかしご苦労なさったでしょう。

若気の至りで実力行使

今日はちょっと言い過ぎるけども、とにかくね、口で言ってもわからん場合に、わしが今までやってきたことは、すぐに元を止めちゃうんだ。そうすると喧嘩になるよ。だから、「そう言うんだったら話を聞いてください」、と言ってやってきた。

元を止めると、いろんなところからお叱りを受ける。愛知用水のほうにくればいいけど、町(ちょう)のほうにいったりするから。そうすると町のほうからお叱りを受けたり。今考えると、ちょっとやり過ぎたかなあとも思うけど。解決するには、止めるのが一番早かった。

でもそれをやると支線配管に空気が入っちゃうもんで、そこにポンとスイッチを入れると故障が起きるもんで、それには注意しましたな。だもんで、いったん止めた場合は、支線の一番高い所に5、6人配置して、そこでエアを抜いてからスイッチを入れた。だから事故はなかったけどね。まあ、おそらく事故が起きていたら、うちらが止めろと言っても止めなんだと思うよ。

でもな、今みたいな世知辛い世の中になってくると、役職だからといって、そこに出向いて30分とか1時間とか待ってくれることがなくなっている。だから、そんなことはもうできんでしょうな。そのころは誰一人文句言うことなしで、協力してくれた。まあ、若気の至りで。今思うと、危ないことをやっていたなあ、と。

その当時、サニーホースといって穴を開けた灌漑用のホースが売り出されたの。スプリンクラーなら3時間で20mm程度だけど、サニーホースを使うと10分か15分で20mm出ちゃうんだもの。愛知用水がきたもんだから、誰でも彼でも水を掛けたいといって、みんなそれを買ってしまった。だから、水なんかいくらあっても足りんわな。だから使っても15分だよ、と。データを取って、県の指導も受けて言っていた。

特に南知多の地質は頁岩(けつがん)(注1)で、いくら水をやっても乾いてしまうので、余計水をやる。

(注1)頁岩 (けつがん)
堆積岩の一種。層状に薄く割れる性質から命名。

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親、家族への感謝

まだ集落の中におりましたころは、夜になると怒鳴り込まれました。「お前、そこまで権利あるのか」と大声出して。そりゃ、そのとおりだ。権利も何もないもの。

でもね、人間というのは血相を変えて怒ってきても、10分も話していると帰っていきます。理屈がご理解いただければ、怒ってこんと思うんだわ。怒ってこられる人というのは、そういう接触のない人だと思うんだわ。だもんで一方的に考えて、「お前が悪いんだ」ということになってしまうもんで。

今考えると、よく頭を下げて済んだもんだ。でもね、いっぺんでいいから、みんなの前でボーンと言ってみたいもんだったよ。水戸黄門様みたいに。

でもね、いっぺんやったらおしまいだ、ということも、実はわかっちゃいるんです。余計なことだけれど、澤田家の家訓は「稲の穂を見れ」。若いうちはえばって反っくり返ってるかもしれないけれど、実ってくれば頭を下げる。お前も頭を下げろ、と。そう言われて育ってきましたもんで。頭下げることには、苦はないんだ。

だけど、俺も人間だから、堪忍袋の緒が切れるときもある。あちこち回って水のことを話させてもらって歩いとるときにな、地区の人が20〜30人集まっている前で、机をひっくり返されたことがある。「しゃらくせえ」と言ってなあ。自分から見たら20歳ぐらい先輩だったわ。そりゃあ、若造が偉そうに、と腹が立つ面もあったんだと思いますわ。そのときはさすがにビックリこいて「もう、辞めた」と思いましたわ。もう説明もせんから、アンタら好きなだけ使いなさい、と。だけど、なんとか最後までその場におりましたな。

水を無駄に使わないようにと、毎日毎日自分の仕事が終わったあとに、夜、説明に行くんだもの。〈国営〉が終わったころ、30歳後半から40歳ぐらいでしたかねえ。当時のお歴々はみんな亡くなっていないということですから、私は出発点が早かった。若かったから、相手は癪(しゃく)に障ったんでしょう。

今と違って、まだ融通がきかん若造なもんで、資料をもらってこんだけのもんを言いなさい、と言われれば、それしか言わんもんで。それで感情に触れたとこもあると思う。そんなことがあってから、夜がくると行かなくちゃならんと思うと、嫌だなあ、と思ったもん。

うちの親父は頑固できつい親父だったけど、その辺はわかってくれてね。「お前は間違っておらんから、胸を張っておればいい」と。やっぱり親ってもんは、家族ってもんは、有り難いと思いましたね。それがあって、今があると思う。

うちの仕事は、いったいどうやっておったのかいなあ、と思います。放ったらかして、そんな外の仕事ばっかりしていましたからねえ。〈国営〉(注2)では、500町歩近い農地の権利調整と水配分の両方をやりましたから。418haかな、全部で。

昔からある土地は、水使いの作法というもんがあるんだが、新たに開拓したところはゼロから始めなきゃならんもんで余計大変でした。

(注2)国営
国営農地開発事業のこと。愛知県・南知多町と美浜町で1976年度〈昭和51〉から着工された。18年の歳月を経て、392haの農地造成と26haの区画整理が完成した。

食料生産の大切さ

沙漠なんかでも土地はいくらでもあるんだから、水さえあれば食料の増産はできると思う。人間、いざとなったらやりますからね。だから、いっぺんそういう所に見学に行きたいと思いますよ。井戸だけで、どんなにして農業をやっているんだかね、見てみたい。

視察でヨーロッパに行かせてもらったときに、スイスなんて4000m級の山岳地帯で食料自給率が80%以上あるという。言っちゃあ悪いけど、こんな所で食料なんてつくれるはずがない、と思いましたよ。でも、政府の要人の話を聞いたら、何をおいても食料は自国で、と。4カ国回ったんだけれど、すべての国でそうおっしゃられた。日本に帰ってくると、「外国で買ったほうが安くできる」と平気で言うでしょ。えらい意識の違いだなあ、と。

なんといっても食料。それ以外のものはなくてもなんとか我慢できる。日本を潰すのに、原子爆弾もなんもいらん。食料をストップすればギブアップだよ、と言われている。そんなことを言われていたらいかんなあ。

これも、ついでだから言ってしまうけど、1977年(昭和52)、1978年(昭和53)あたりは、〈国営〉の陳情にね、よく東京に行っていたんだわ。そいで議員会館に待ち合いがあるでしょう。うちら20人ぐらいで行くんだわ。年に2、3回行きよったな。そうすっと、どこかの選挙区の先生がおる。忘れもせんけど、その中の一人から「今日はなんの陳情ですか?」と聞かれたから「愛知県の知多半島の国営農地の事業に予算をいただきに来ました」と言ったところ、その先生の第一声はだね、「ちょっと、あんたらおかしくないかと」。なんで、この国土の狭い日本で食料をつくらなならんかって。あのときが一番、腹が立ったな。国会議員といったら国民の代表だよ。国民の代表がそんな考えを持っておるんだから、自給率なんて上がるはずがないよ。名前を調べることもできたけど、気持ちに余裕がなかったな。まあ、腹が立ったとしか、言いようがなかったね。

国営農地開発事業

ここらの地形はヒジっていうんだけれど、ノコギリを逆さまにしたような地形で、平坦部というものがない。だけれど戦争も終わって人口も増えて、農家をやりたいという人がたくさんおった。だけれど、土地がないんだわ。ここらは土地がない、水がないの、ないない尽くしだったね。

だからまずは町に陳情に行く。町長さんに「また、お前らか」と言われるぐらい行った。すると、わしらが出した陳情書は、いつ行っても一番下にある。行く度に陳情書を置いてくるんだけれど、いつ行っても一番下から引っ張り出してくるの。もっと、うまくやればいいのに。

そいで、わしは引っ込み思案な性格だけれど、いよいよ腹が立って、そんときは声のトーンを上げてね、「我々の意志をなんで受け入れてくれんの」と文句言ったの。そんなんだったら南知多では、もう食べるもんもつくれんよ、と。ほかの先輩方もビックリするほどの大きな声を出しちゃったの。そうしたら、次に行ったときにはちゃんと上に乗っとってな。そいで、段取りしてくれたのを覚えている。だから、言うべきときは言わんとならんな。

それからトントン拍子で計画されて、市、県、国に上げていった。とにかく土地だけはつくってください、と。そいでできたのが、何年だったかなあ。まだ愛知用水の計画もなかったときからの運動ですが、ずいぶんと時間がかかった。

わしらもカッコいいこと言って、「土地と水は確保するから、来てください」と言って、入植者を誘致した。人気があって土地がだんだん足らんようになったから、もう誘えんけど。まだ土地が余っている地域もあるようだけど、うちらの範囲の土地はあらかた借り手がついてしまったから。16団地に分かれとるんだわ。わしらのところは初神(はじかみ)の第一と第三団地です。不作地が0.8%。よそでは不作地がようけあって、地元の償還金がたくさん残っているそうですよ。

今流行の田舎暮らしとかいうんじゃ通用せんもんで、あくまでも専業農家。そいでも30〜40歳代の人たちが来てくれる。みなさん、一生懸命でね。

わしらのころは家族3人でやっとって、80〜90aだわ。1haなかった。それでも、今より楽に生活できました。今はね、専業農家で食べていこうと思ったら、1人2ha必要。それは季節的にパートさんを手伝いに入れないと、やりきれん広さ。多い人は3人で6haやっている。この辺は路地野菜が7割かな。

当時800haぐらいの土地の同意を取るのに2年ぐらいかかった。国の指導の基幹作物が、みかんから始まって、ビワになって、それがすべて土地に合わんよ、ということになって、今の形態になった。ハウスの観葉植物と路地野菜。それに20年かかったし、実現までにずいぶん時間がかかったな。決定はされても、予算をつけてもらえないとできなかったから。だから、本当に1年に2、3回陳情に行ったよ。

久野庄太郎さんの話はあちこちで聞かれたと思いますが、本当に生き神さんだもんね。あの人がいなかったら、この用水が実現していないんだから。前・理事長の伴武量(たけかず)さんも、わしらと違って見識の広い人だから、そういう先輩方の恩を忘れちゃいけないよ、と。そいだけど、じゃあ、どうしたらいいんだ、というと、よくわからない。なかなか難しいんだ。

昔のように号令をかけたら集まってきて協力するようにはなっていない。そういう膝詰め談判ができんもんで、まとまらん。

集まって徹底的に話し合ったらいい。時には喧嘩みたいになるけれど。

わしも若造、若造と、何べん言われたかわからん。しんどいからできれば誰もそんなことはしたくないと思うよ。今、思い出にあるのは頭を下げたことと、どれだけの人にお叱りを受けたか、ということ。わしだって言ったらいかんが、息子にはやらせたくないもの。

でもね、良いことは忘れるもんだ。そうやって話し合わなきゃ、基礎ができないじゃない。そうやっておれば、仮に何か問題が起こっても乗り越えられる。

わしも意見を言う場を設けたけど、何にも出ないからやめてしまった。そいでもって、影でごちょごちょ言うんだ。切羽詰まっていたら、そんなもんじゃ済まないんだから、そいだけ恵まれとるんだわ。地域が団結してものを申すのでないと、地域の発展はないんだから、ちゃんと向き合わないとならんね。


写真:早川吉夫さんと岡田昌治さん

フィールドワークに同行してくださった、愛知用水土地改良区事務局長の早川吉夫さん(左)と同・管理課課長の岡田昌治さん。



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