機関誌『水の文化』36号
愛知用水50年

大府 通水前後の水使い

大府 通水前後の水使い

大府 通水前後の水使い

愛知用水を畑作灌漑に活用し、農業に一大改革をもたらした輝かしい歴史。 この記憶と豊かな実りの地を次世代に引き継ぐことが課題になっています。

伴 武量さん

元・愛知用水土地改良区理事長
伴 武量 (ばん たけかず)さん

1926年、愛知県大府市生まれ。1980年愛知用水土地改良区理事、1996年同・副理事長、2000年から2008年同・理事長。2008年国土交通大臣から水資源功績者表彰を受賞。

血気盛んな農村青年

久野庄太郎さんと浜島辰雄さんに続いて活動したのは、半田農学校(1886年〈明治19〉農業講習所として開所)出身の人たちでした。

農学校教育が影響しているというよりはね、久野さんが愛知用水問題を取り上げたときに、ついていったのが各農村の血気盛んなリーダー的存在だった人たちということです。農村同志会のリーダー格になった年代層に、たまたま半田農学校出身の人が多かった。

戦後の食料難の時代に、農村青年が団結して食料増産をやらなければいけない、という気運が盛り上がってくる一方で、政治混乱の時代でもあった。いわゆる農村奴隷みたいな状況から解放しなければいけないということで、各地域の農村青年がカッカと燃えた。

もちろん、そういう人ばかりじゃありませんよ。農協の前身の農業会の指導者たちが、そういう若手を取り込んで政治軍団みたいな組織をつくり上げたのが、農村同志会だったんです。

この地域はね、戦後の農地解放(注1)以前からほとんどが自作農。土地が少ない人にたくさん持っている人が貸すとか、土地が多すぎて自分で耕作しきれない地主が人に貸すとかいう程度の地主さんしかいませんでした。

だから普通にいわれる農地解放の影響と、この辺りでの実際は違っていました。ご覧のとおり、この辺りは田んぼが少ないんですね。谷あいに、細長くあるぐらい。三河や尾張のように田んぼがたくさんあって、それを地主さんが持っているという風ではない。

大正の末か昭和の初めだと思いますけれど、ご領地の払い下げというのがあった。この辺りは国のご領地ばっかりだったんですよ。田んぼは無理ですから、畑に開墾した。それで畑作が盛んになっていった地域です。大府(おおぶ)でも南のほうはほとんど、そうなんです。

畑作の中でも大根は比較的水がなくてもできたから、沢庵漬けの産地にもなった。戦時中にだんだん食料がなくなっていったころには、大府の大根というのは大変貴重なもので、京浜、京阪神へも大根列車でどんどん運んだものです。

それと、スイカ。スイカというのは日照り草。日照りが続くとスイカは良くなる。それともう一つ、テンコ豆という豆があってね。金時大豆ともいったもんですけれど。

(注1)農地解放
第二次世界大戦後の1947年から3年間かけて、GHQ(連合国軍総司令部)の指令で行なわれた農地改革。政府が不在地主や一定以上の農地を保有する在地地主の農地を買い上げ、小作人に売り渡した。併せて、小作料の物納禁止を行なった。

夢が夢でなくなる期待

これは何度もみなさんに言ってきたことだけれど、知多の人たちの思いは同じ。木曽川の水がきたらいいな、そんな中での久野庄さんの提言。飛びつきたいような思いだった。それでもみんなの世間話の中では「また、久野庄サが大きなことを言うておったぞ」と。

「久野庄が何を言ったって、御嶽山の水がくるものか」と。

「そんなものがきたって、頭の上にギッチョがにゃあとるわ」と。ギッチョというのはバッタのことで、当時は土葬だったから死んだ人の墓の花筒にバッタがとまって鳴いとるわ、という揶揄です。

こういう風に言われるぐらい、画期的な話であるが、なかなか信用されない話でもあった。

だけれども、くるもんなら欲しいという願いはあった。だからその話がだんだん真剣味を帯びてきて、いよいよ久野庄サと浜島辰っさんが知多半島の、本当に隅々まで説明会をやられたんだけども、浪曲師の梅ヶ枝鶯(うめがえうぐいす)を呼んだときには「今日は久野庄サが来て、愛知用水の話をしてくれるから、みんな、がっつり集まってくれよ」と。私は青年部長をやっておったんですけれども、青年同志会の我々の年代が誘致の役を買ったのです。

愛知用水公団(現・水資源機構)がつくった映画で、みんなが背広を来ているのは撮影だからです。大広間でみんなが地図を見ているシーンがあるようですが、このときには浜島さんが書いた地図はまだなかったな。

また、久野庄サというのは話のうまい人でな。あんまり雄弁ではないが、講演会でも「なあ、おめえさん、そんなこと言うとったらあかんぞ」という話し方だもんで、親しみやすい話をされた。それに対して浜島先生の話は、もともと学のある人だから、学問的な裏づけのある話をされるで。用水には金がかかるだろうなあ、と思ったのを覚えていますよ。

畑地灌漑のための土地改良

愛知用水を溜め池に入れるのは、曲がりなりにもそれまでのルールがありますから問題ない。100%有効に使えた。ところが畑地灌漑なんていう経験は、まったくないわけですから、試行錯誤、失敗の連続。

スプリンクラーというのは4本立てると1反歩かかる、といわれているが、円形に水を撒くから、どうやったって重なってたくさんかかる所もあれば少なくかかる所もある。しかもその水が他所の畑までかかっていったらいかんもんで頭が痛い。通水直後は区画整理ができていないから、うちの畑に半分と他所の畑に半分かかってしまう。三角形の畑もあったしね。

だからとにかく農地改良の必然性が認識されてきて、それじゃあやろうじゃないか、ということになった。しかし、みんながそういう一致団結した気持ちになるまでに、ここの集会場に集まって、夜が開けた日が何回あったか。「そう言わずにやろうや」と言ったって、翌朝になると「やっぱり、わしゃあなあ」と何度も迷って。

それは無理もないことだ。工事費がいくらかかるかわからん。その上、ホースを買ってスプリンクラーを買って、という投資になるから、なかなかいっぺんにはいかなかったですよ、当時は。

でも先進的に取り組んだ人たちが「こんなに良いものはない」と言うもんだから、一人やって二人やって、で増えていった。

それで土地改良区と初めて相談をして、畑作灌漑ができる施設を備えた27町歩の土地改良をした。愛知用水土地改良区の第一号ですよ。通水と同時に区画整理、区画整理とともに管設備ができたり、U字溝の排水路もできた。徐々に土地改良が進んで、畑地でも100%有効利用ができるようになったということです。

「アメリカでは傾斜地の上からダーッと水を流すと、調子がいいらしい」なんていう話もあった。畝間(うねま)灌漑といって、畝の間に水を入れていくように、と指導されたんですよ。ところが、実際にやってみたら、そんなのできっこない。

僕もやったことがあるんだけれど、例えば大根が植わっている所の畝間にね、水を流すと畑が締まっちゃう。

水がダーッと流れていくとダメ。雨と同じように散水すると全体にふわっと水がかかるから、やはりスプリンクラーなどの散水灌漑しかうまくいかないんです。

通水前の思い出

私は昭和元年生まれだから、数え年と昭和の年が同じなんですよ。だから、愛知用水がきたときは、36歳。

16歳で高等小学校を卒業し、そのときから百姓をやってきた。戦中、戦後の食料難や水に苦しんだ世代です。1944年(昭和19)の大旱魃も1947年(昭和22)の大旱魃も、みんな経験してきているわけです。

この写真(下写真)は駐留軍(連合国軍総司令部)が撮影したものです。たまたまお寺さんにあったから、拡大コピーさせてもらった。

赤く塗ってあるのが、私の地所です。なんでうちがこれほどの地所を持っておれたかというと、池ですよ。この池へ水を溜めなけりゃいけない。水を溜めるためには流域がたくさんいる。この周辺は、当時、御料林だった。親父が若いときに、池に水を溜めるのに必要な流域を得るために、国から払い下げを受けた。

この地域は、まったくのお天水でね。つまり降った雨が池に入って、その水があるうちは管理をして使い、なくなれば万歳だ、という地域なんだからね。

この中に私のところでは三つ池を持っておった。こういう小さい池は、土地改良でみんななくなりましたよ。

黒く見えるのが山林で、土地が高い。そして傾斜になっている。だからこの水を何が何でもうちの池に入れなくてはいけないから、ここの道路の側溝の水を水路で採ってこっちに持ってきた。だから、ここに降った水は一滴も漏らさんように池に入れた。

普通は夕立が降るとうちの中に飛び込んで隠れているもんだが、知多半島の人間は夕立が降ってきたら蓑笠(みのかさ)をつけて表に飛び出して行って水路を回らにゃいかん。普段水がない水路だから、モグラの穴がいっぱい開いているんです。そこに水が漏らないように、足でどんどん踏み固める。この水路のことを〈ヤトイ〉というんですが、親父に「〈ヤトイ〉を見回ってこい」とよく言われた。

秋の台風の水をまず池へ溜めるということは、これは一生懸命だったんです。その水で一冬越すんだから。水はどんどん減っていくんだけれど、少しずつつないでいって梅雨の時期までしのぐ。谷になっているような低地にはまだかろうじて水が残っているんですが、両脇の少し高くなった所はみんな旱魃でやられてしまう。〈ヨリデが上がる〉というんだが、枯れていくんですね。

水の奪い合いにもなりますよ。うちの〈ヤトイ〉から水が漏れると、すぐ下の水路で受けて隣の人の池に入るようになっていた。

これは笑い話だけれど、躍り込みといって、水が干上がった池の魚捕りをする。それを何月何日の何時、というふうにお触れが回ってくるんだね。水がなくなったんだから、悲しいことなんだけれど、そんな中でも村の楽しいお祭りだった。

ここは半月という集落ですが、ここには四つの大きな村池があるんです。それが全部が全部、涸れるということはない。一つぐらいは残ったもんですけど、早いか遅いかの違いはあっても、たいていは四つとも躍り込みがあったね。

村中の男たちが魚捕りに夢中になっての競い合い、厳しさの中での楽しいひとときでした。半月集落の財産には、ほとんど「花井宗兵衛ほか、53名」と書かれている。名義を変えるには、53軒の子孫を捜して全員に判子をもらわないと変えられないのです。10年ほど前に「このまま放っておいたらいかん」ということで、日本中を捜して今の名義に変えたけれどもね。

池の水を大事に使うということに関しては、5月8日までは池の栓を抜いてはいけない、という決まりだった。5月8日がきても雨がなくて、苗代田に水がないときは、苗代の田んぼにだけは水を引いてもいいよ、という取り決めがあった。まあ、これは不文律ですけれど、互いの目が光っているから、これを破って自分の田んぼに水を引こう、という者はおりませんでしたね。

私どもは〈ちゅう〉(注2)と言っておりましたが、〈ちゅう〉がくれば池の栓を抜いてもいい、ということになっていた。半夏生(はんげしょう)(注3)というのが、田植えが終わって一休みする時期ですから。旧暦だと1カ月ぐらいは遅くなるので、〈ちゅう〉というのは、多分夏至のことだと思います。

うちは田んぼが少なかったもんですから、親父が刈谷との境界の境川の端、東浦町の三州道(さんしゅうみち)という所に田んぼを2反5畝(うね)買って、ここから1里半ぐらいあったな、そこまで牛車で通ったんです。

境川は一番土地が低い所です。そこがダメになったら、もう本当にひどい旱魃ということです。それでも当時手に入るような土地ですから、そんなには恵まれたところじゃない。

そこに5畝(せ)、5aぐらいの池があった。まあ、池というようなもんじゃなく、水溜まりだねえ。それが田んぼの水面より低いんですよ。それでも、かなりの量の水が溜められた。

1944年(昭和19)の旱魃のときには、僕は毎日自転車で行って、バケツで田んぼに水をかいだものです。池一つ、かいちゃった(掻い出した)こともある。

(注2)中伏 (ちゅうふく)
夏の極暑の期間を三伏(さんぷく)といい、夏至後の3番目の庚 (かのえ) の日を初伏(しょふく)、夏至後の第4の庚(かのえ)の日を中伏(ちゅうふく)、立秋後の最初の庚 (かのえ) の日を末伏(まっぷく)ということに因むと思われる。

(注3)半夏生 (はんげしょう)
夏至から数えて11日目の日。7月2日のことが多い。

戦後すぐに駐留軍(連合国軍総司令部)が撮影した航空写真。

戦後すぐに駐留軍(連合国軍総司令部)が撮影した航空写真。左の写真で中央に黒く見えるのが森。これだけの面積の土地でも、水源涵養のために森が大切にされていたという。伴さんはまた、「溜め池の流域」という言葉も使われていた。

次世代へつなげるには

こんな話は、僕は正直言って、恥ずかしい話だと思ってる。貧乏人の代表みたいな話だ。でも、水にはさんざん苦労しておる。

問題は、こういう苦労をしないで育った世代に、水の大切さをどうやって伝えていくか。

これは夜通しバルブを開けていたな、という例は散見します。私は閉めて回りますがね。もったいないなあ、と思うことがあります。

田んぼに張った水がしみ出てくる分もありますよ。土地改良で床(とこ)の部分は流れちゃっているから、水が漏れる田んぼもある。昔は畦塗りといって、土を練って畦をずーっと塗ったもんですよ。今は、もうそんなことは「やってくれ」と頼んだってやってくれんですよ。

今の人にそういうことまでも求めるということは無理だけれど、水を大事に使うということは、何が何でも伝えなくちゃいかん。

それと、これは一つの例として言うんだけれど、自民党も民主党も農業のために良い政策を考えてくれているが、仮にそれが完全に実施されたとしても、この辺りじゃあ農業後継者なんていうものは、まずは生まれないですよ。

僕らがやってきた「きつい、汚い、危険」だといわれたあの時代には、きちっとやったら農業は儲かった。しかし、その悪いイメージがだんだん一人歩きしてしまった。愛知県には産業はいくらでもある。農業なんかやらなくたって同じ収入が得られるじゃないか、という気運があります。だから僕の経験から眺めるに、所得が補償されるようになっても後継者は一人も出てきません。それが今の現実だと思います。

だから、もうちょっと農業のイメージをなんとかしないとね。これは難しいことだと思うね。私は土地改良だけではなしに農協もやってきましたから、こんなことは言いたくないけれど、本当にそこが問題だと思います。

通水直後から工業用地の開発が進み、用途転用がされました。正直言って、「大事な水がきて、こんなに素晴らしい農業ができるようになったのに、なんで」と思った。1964年(昭和39)、1968年(昭和43)、1972年(昭和47)と3回にわたって用途転用があったときに、これも時代の流れと諦めたというか、流されたというか、負けてったというかわからんけれど、自分で自分を慰めていったというのが、正直な気持ちです。

愛知用水取水口の表裏。左の写真が木曽川の対岸から見たもので右は陸側から見たもの。

愛知用水取水口の表裏。左の写真が木曽川の対岸から見たもので右は陸側から見たもの。
写真提供:(独)水資源機構愛知用水総合管理所

水が平等にくるということ

既に二期事業の話も出ていて、上流の人の気持ちを考えれば、知多半島の犠牲になって、「俺ん所の水が取られた」という気持ちもあっただろうと思いますよ。

また小牧や春日井は、まだまだましな地形で知多半島ほど金をかけなくても、水が手当てできるのに、とも思っていたと思いますよ。そういう地域も巻き込んで、平等にいこうとする。それを知多の人間は頭を下げて感謝せにゃならん、て。

だから土地改良というものは、どこが得でどこが損というのではなしに、みんな平等に水がくることが有り難いんだという意識を持たないと、できるもんではない。

愛知用水の中でも、上流、下流という意識があるんです。細かいことを言えば、小さな支線の中にも上下流の関係がある。そういうことに平等性を持たせるために、国が金を入れ、県が金を入れてくれるのだ。農家が負担するのも、そういう気持ちからです。それでも上流の人と下流とでは恩恵が違う。だから下流は、本当に感謝せないかんよね。

谷で見かける小さな溜め池。

谷で見かける小さな溜め池。



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