機関誌『水の文化』36号
愛知用水50年

不老会を知っていますか?

知多に木曽川の水を引くという、久野庄太郎さんの熱い希いを実現した協力者 浜島辰雄さんにお話をうかがいました。

浜島 辰雄さん

元愛知用水土地改良区理事長
浜島 辰雄 (はまじま たつお)さん

1916年、愛知県豊明市生まれ。1939年三重高等農林学校(現・三重大学)卒業後、南満州鉄道株式会社(調査部)に入社。同年に徴兵され、北支(中国華北地方)勤務などを経て名古屋陸軍幼年学校教官に就任。復員後、1948年安城農林学校教官時代に久野庄太郎と出会い、愛知用水の実現に寄与する。その後、韓国、イラン、アフガニスタンほか、途上国の開発計画にも携わった。不老会名誉会長。

不老会40周年記念誌

愛知用水のことに関しては『愛知用水史』(愛知県・愛知用水公団 1968)や愛知用水土地改良区誌(愛知用水土地改良区 2005)をはじめとする多くの資料や研究書が発行されました。私はその都度、編纂や資料提供に協力してきましたが、時間や紙幅の制約があって、想いどおりの意図が表現しきれない悔やみがありました。

特に、盟友としてともに働いた久野庄太郎さんや同志の方々の表現には物足りなさを感じてきました。多くの方がご成願(じょうがん:願が成就したという意味で、不老会では亡くなったことを表わす言葉)された今、残された者の使命として、新しい世紀の道しるべを書き残したいという思いにかられ、本にまとめておりました。自費出版を、と考えていたところ、望外の光栄に浴し、2005年(平成17)財団法人不老会創立40周年の記念誌としての発行を許されました。

内蒙古での経験

私は1939年(昭和14)4月に南満州鉄道株式会社に入社して、調査部の仕事で内蒙古地区のダルハンの牧場に赴任しました。新品種の緬羊と肉牛の改良、増殖のための草資源の調査を担当したのです。

当時はノモンハンで日本の関東軍と共同作戦を行なっていた内蒙古軍が、ソ連軍と戦闘態勢になって追い散らされ、洪水の中を逃げ惑うという治安の悪い状況にありました。10万頭の緬羊と1万頭の肉牛がいたんですが、内蒙古軍の敗残兵が牛を食べてしまうのには閉口しました。

現在の中華人民共和国黒竜江省にある大興安嶺(ターシンアンリン)の南の大草原の草資源は、その年の雨量に支配されるので、第一松花江(中華人民共和国の東北部を北東流する河川。別名スンガリー川)の上流に広域な堰堤をつくり、遼河(りょうが:同・河北省、内蒙古自治区、吉林省、遼寧省を流れ、渤海に注ぐ大河)方面に面状に広く導水することで草資源の改良に役立つと考えました。そこで、白城子(はくじょうし:現在の吉林省の白城)上流からシラムリン川下流の流域を通って、開呂、通遼(ピンイン)の方向に導水させる案を考えたのです。

この案をペーパーロケーション(測量を行なわずに、等高線の入った地形平面図から高さを読み取りながら、断面図をつくる手法)して論文に仕上げました。これが後ほど、愛知用水計画の導水路図「愛知用水概要図」作成に大いに役立つことになったのです。

図:愛知用水概要図

「愛知用水概要図」 (1948年〈昭和23〉)
浜島さん渾身の用水概要図。幅1.8m 長さ3.6mの大きなもの。現在の愛知用水の位置と比べ、ほとんど誤差がない精巧な内容だった。

愛知用水運動への思い入れ

知多の農家の者なら、誰でも水への悲願がありました。同じ志を持つ久野庄太郎さんとの劇的な出会いがあって、私は自分のできるすべてを賭けて愛知用水運動に傾倒していきました。

そのため昼間は安城農林高校の教師として働き、夜は導水路地図の作成に明け暮れました。連日連夜の作業に妻は呆れて「そんな地図は燃やしてしまう」といって、喧嘩になったほどでした。

会社が破産したことを契機に、久野さんは「愛知用水運動から手を引くように」と言われてしまいますが、その宣告を受けたときにも、傷心の久野さんが京都の一燈園(注1)を訪ねていったときにも、私はそばにおりました。15歳の年の差はありましたが、互いにないものを補い合う無二の同志であったと思います。

(注1)一燈園(いっとうえん)
1904年(明治37)、西田天香(にしだ てんこう)によって京都府山科区四ノ宮に設立された新宗教団体。正式には、財団法人懺悔奉仕光泉林で宗教法人格は持たない。同人と呼ばれる修行者は、「自然にかなった生活をすれば、人は何物をも所有しないでも、また働きを金に換えないでも、許されて生かされる」という信条のもとに、つねに懺悔の心を持って、無所有奉仕の生活を行っている。

志の結実、不老会

一度は傷ついた久野さんですが、一燈園で悟りを開いて立ち直った。それでも愛知用水の工事中に亡くなった56人の方のことを、ずっと気に病んでいました。次々と増える犠牲者を悼んで、自分を人柱に埋めてもらおうかとまで思い詰めていた時期もあります。工事現場の土を集めて、常滑の柴山青風先生に500体の観音像をつくってもらい、犠牲の出るたびに持っていって弔っていました。

愛知用水が通水した1961年(昭和36)の夏に、平素から指導を仰いでいる名古屋大学総長の勝沼精蔵先生のところにお礼に行っていますが、そこでもまた、犠牲になられた方々への想いをお話ししたのです。そのときに勝沼先生は、

「人の命を救う医者を養成するのに、解剖のための献体が足りずに困っている」というお話をされました。久野さんは、献体をすることで犠牲者への想いが少しでも晴れるのではないか、と思われたのでしょう、すぐさま献体を申し出、家族や友人、周りの人間にも話されたのです。

こうして翌年の1月21日には、名古屋駅前の愛知県中小企業センター4階の会議室において不老会の設立総会が開かれることになりました。わずか半年足らずで200名を超える賛同者がありました。

会員第1号は久野さんご自身、第2号は奥さんのはなさん、第3号は私です。

設立総会で久野さんが発表された「不老会五つの願い」は、久野さんの生き方そのものであり、愛知用水運動を通じて私たちが追求してきた希(ねが)いのエッセンスでもあります。

  1. 私どもは感謝のために、この会員になる。
  2. 私どもは不老長寿を得るために、この会員になる。
  3. 私どもは希望に生きるために、この会員になる。
  4. 私どもは医学の進歩のために、この会員になる。
  5. 私どもは平和をこい願うために、この会員になる。

また、知多市に愛知用水調整池としてつくられた佐布里(そうり)池のほとりの丘に愛知用水神社が建てられ、愛知用水の工事で亡くなられた犠牲者が祀られています。佐布里池建設の際に大反対した鰐部好一(わにべよしかず)さんも、佐布里、阿久比(あぐい)地域を回って不老会の普及に尽力してくれました。一人で300人以上もの人を入会させています。

2010年(平成22)6月1日現在の登録会員数は2万1084名、生存会員数6971名、既献体者数8234名、既献眼者数2815名。1997年(平成9)4月8日、久野庄太郎さんも天寿を全うされ、成願されました。

不老会は「次の世代の幸福を願う」ことを目的としており、これは私たちが愛知用水に願ったことと同じ。愛知用水は不老会にとっての源流なのです。

写真

佐布里池右岸側の小高い丘の上にある、愛知用水神社。左の祠に愛知用水水利観音が祀られている。



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