機関誌『水の文化』36号
愛知用水50年

愛知用水源流概説

編集部

お上の森の歴史

王滝村は96%が森林。昔から林業の村だった。しかし、豊かな森林の87%(2万6000ha余)を国有林が占める。今でも1本1000万円超の値をつける天然木曽檜(ひのき)を産出するが、その美林を育んだのは時の権力者による管理の歴史ともいえる。

豊臣秀吉もこの山の木を大量に伐り出し、山を荒らした。

次の所有者は、徳川家康の九男で尾張藩初代藩主の義直。尾張藩は留山(とめやま)といって、「木1本、首1本」といわれるほどの保護政策をとり、江戸の末期には価値のある木が育つまでになった。

人家に近い山は明山(あけやま)といって村人の利用が許されたが、明山の中でも木曽五木といわれる檜、椹(さわら)、 ネズコ、翌檜(あすなろ:アスヒとも)、高野槙(こうやまき)は、停止木といって伐採禁止。クヌギや楢(なら)などの雑木を薪などに使っていた。米はあまり取れない地域のため、米の代わりに木年貢(役木)であった。

明治になると、天皇の山、御料林になり、明山まで取り上げられてしまったことが、反対の住民運動を引き起こす。島崎藤村の『夜明け前』(中央公論 1929)には、そのくだりが書かれている。御料林の決定は覆せなかったが、藤村の兄 広助の粘り強い交渉の末、ご下賜金を得ることができ、木曽の人たちは、これを森林育成のために使った。

天然木曽檜は皇室の収入に大きく貢献し、永世に伝える〈世伝ご領林〉として特別視された。天皇の御料林は、その後国有林となって今に至る。

国土地理院基盤地図情報(縮尺レベル25000)「長野、岐阜」及び、国土交通省国土数値情報「河川データ(平成20年)」より編集部で作図。
この地図の作製に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の基盤地図情報を使用した。(承認番号 平22業使、第337号)

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村発祥の地

王滝村の中心部から西へ12km。今は、牧尾ダムの源流 王滝川に沿って、道幅も充分な舗装道路が通っている。その県道を、車で30分ほど走ると滝越地区に到着する。

村の起源は、鎌倉時代に岐阜県側から落ち延びてきた武士の一団が、滝越の上流の三浦平に住み着いたことが始めといわれている。

発祥の地である三浦平は、1942年(昭和17)ダム湖の底に沈んだ。当時、福澤桃介(ももすけ)(注1)が興した大同電力によって計画され、大同電力ほか多くの電力会社が統合して日本発送電を発足。軍需産業活性化を目的とした、電力供給の増強としてつくられたダムであった。現在は、関西電力に引き継がれている。

(注1)福澤桃介(ふくざわ ももすけ 1868〜1938年)
「日本の電力王」ともいわれる実業家。福澤諭吉の婿養子。

王滝森林鉄道

今では王滝村及び、長野県の最西端となっている滝越地区に王滝森林鉄道、通称〈林鉄〉が敷かれたのは1923年(大正12)のこと。それまで集落に通じる車道はなかった。

〈林鉄〉は、木材の積み出しはもとより、地元住民の足として機能。

滝越は分校を廃止し、村が購入した機関車と客車を〈やまばと号〉と名づけて、当時70人いた小中学生を村中心部の学校に運んだ。

木材を満載した列車が30分おきに行き交う時期もあったというが、トラック輸送が主流となったために、1975年(昭和50)に廃止された。

森林経営の衰退

かつて王滝村には、木材販売額の一部が木材取引税として支払われていた。伐採のピークであった1964年(昭和39)には村の歳入の16%を占めていたという。

王滝営林署庁舎には約70人の職員、国有林の現場では職員だけで約400人、関係者を含めれば数百人もの人が働いていた。

しかし人件費の増大、輸入自由化による外材の流通、森林資源の減少といった要因が重なり、国有林の経営も1976年(昭和51)ごろから悪化していった。1978年(昭和53)には、林野庁(当時)は国有林の役割そのものを木材生産から環境保全へと転換。木材取引税も1989年(平成元)に廃止された。

1991年(平成3)国有林野事業の赤字額は1177億円。王滝村は黒字を出しているにもかかわらず、2004年(平成16)営林署が統合、廃止される。まさに国の林野事業の方針に翻弄された歴史ともいえる。

御嶽信仰

王滝村は、霊峰 御嶽山の登山口の一つであり、信者を受け入れる旅籠(はたご)としても栄えた。御嶽山は、702年(大宝2)山伏修験者の開祖 役小角(えんのおづの)により開山したとされる。登拝は潔斎を経た一部の修験者だけに許されていたが、江戸中期の天明年間(1781〜1788)になると覚明行者、普寛行者によって黒沢、王滝の登山道が開かれ、一般の登拝が盛んになっていった。

信者が組織する集団は講社と呼ばれ、全国規模で存在する。先達といわれるリーダーに率いられた講社の中には、数百人以上にもなる集団もあった。かつては大型バス数台に連なって王滝村にやってきたというが、信者の高齢化に伴い、その数は減少している。

王滝及び黒沢登山口の両側には、多数の石碑が立つが、これは墓ではなく霊神碑(れいじんひ)で、2万基を超える。御嶽山を死後の魂の安住の場とする信仰で、亡くなった行者の魂が御嶽山へ戻ることを表わしている。

木曽の生薬でつくられる胃腸薬 百草丸は、普寛行者の弟子 寿光行者が村人に製法を教えたと伝えられる。王滝村の旅籠では、講社の信者から家伝薬としてつくってきた百草丸をわけてほしいと頼まれて、販売するようになったという。1874年(明治7)売薬取締法公布に伴い、許可を取得した製造、販売に切り替えられた。

愛知用水の水源

愛知用水の水源
愛知県企業庁提供のデータ、国土地理院基盤地図情報(縮尺レベル25000)「愛知、長野、岐阜、静岡、三重、福井」及び、国土交通省国土数値情報「河川データ(平成20年)、湖沼データ(平成17年)」より編集部で作図

牧尾ダムとスキー場

1952年(昭和27)2月愛知用水の計画が発表されると、王滝村は〈二子持ダム反対期成同盟会〉を設立。1955年(昭和30)6月に愛知用水公団法案が閣議決定され、ダム予定地が牧尾に決まると、〈二子持ダム反対期成同盟会〉は解消され、〈ダム対策委員会〉に改組。会長の細尾征雄が新村長になったのを受け、西路孝が会長に就任し、条件闘争に入っていった。

反対運動が6年余を経過した1958年(昭和33)6月11日、補償総額約13億8600万円で同意を得て、補償協定の調印式が執り行われた。

村への補償は、残村対策として4年間で2億1000万円。今後の王滝村は観光立村を目指すという方針で、1961年(昭和36)第一高原リフトを設置。雪質の良さとスキーブームに乗ってピーク時には66万人の来場者を記録した。しかし、行き過ぎた投資とブームの下火によって多額の債務超過をきたし、村営スキー場は2005年(平成17)から民営化。財政事情が原因で、2004年(平成16)木曽町への合併を断念した。

2010年9月1日現在の、王滝村人口944人、世帯数423世帯。2006年の村長選で初当選し、今年再選を果たした瀬戸普村長のもと、財政再建と村の活性化に取り組んでいる。

完成直後の牧尾ダム

完成直後の牧尾ダム
写真提供:(独)水資源機構愛知用水総合管理所

長野県西部地震

1984年(昭和59)9月14日、王滝村を震源とする長野県西部地震(マグニチュード6.8)が発生。御嶽山南側で「御嶽崩れ」と呼ばれる山体崩壊が発生し、延長約3kmにわたって最大50mの厚さで土石流が堆積。行方不明者を含めて29名が犠牲になった。

林野庁は復旧の治山工事に130億円を投じ、護岸工事や治山ダムといった対策を2003年(平成15)まで行なっている。



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