機関誌『水の文化』36号
愛知用水50年

通水50年は新たな始まり

常滑市多屋字茨廻間の〈あいち知多農業協同組合〉の屋上から知多半島を見下ろす。

常滑市多屋字茨廻間の〈あいち知多農業協同組合〉の屋上から知多半島を見下ろす。撮影協力:あいち知多農業協同組合

愛知用水は、来年2011年に通水50周年を迎えます。井爪宏さんは、打ち上げ花火的なイベントだけで終わらせたくない、と考えています。 あって当たり前になってしまった水。しかし、その水は受益地にとって恋い焦がれた念願の水であると同時に、水源地にとっては、痛みを伴う水でした。 通水50周年で再び愛知用水に注目が集まることは、原点を思い起こさせ、新たな一歩を踏み出すチャンスになるかもしれません。

井爪 宏さん

独立行政法人水資源機構
愛知用水総合管理所 所長
井爪 宏 (いづめ ひろし)さん

1980年、水資源開発公団(当時)採用。
2008年より現職。

高い理想に燃えて

「水と共に文化を流さん−われらの希(ねが)い−」。これは久野庄太郎さんが発行した『愛知用水新聞』(1952年〈昭和27〉2月1日)の創刊号の巻頭のタイトルです。

普段愛知用水を産業用水として管理し、その役割や機能を主に考えている私が読んでも、この言葉はすっと心に収まる。腑に落ちるんです。「なるほど。先人にはそういう想いがあったのか」。この言葉は反省の材料になる。地域の人たちの思いは、自分たちが今やっていることにプラスアルファがつくのだ、と気がつくんです。

「愛知用水が欲しい」と言って賛同した多くの農民は、生活改善につながるんじゃないかと願いを託したんです。それも地域の青年たちが、単に自分たちの、農民の生活を改善しようというのではなく、農村全体の生活改善をしようとした。何かにすがってでも行なおうとした。その何かが、まさに水を介在とした愛知用水事業なんですよ。だから底力が強い。

みなさんから見ると、地区のイベントに参加したり、休日に住民の集会に出たり、地区の声をいろいろなところに伝える手伝いをするなど、水源地や受益地になんでそんなに思いを入れるのか、と私たちの行動は、不思議に映ったかもしれない。しかし、これは水資源機構の伝統でもあって、全然不思議なことではないんです。やはり、私たちの心の底にも「水と共に文化を流さん−愛知用水−」という想いがあるんですよ。

そういう遺伝子が我々の中にある。私たちは利益を追求する団体ではないから、ある意味で鷹揚さがあるんですよ。それが良い方向につながっていると思います。

だから今でも迷ったらこの言葉に立ち戻る。「地域の人はこういうときどう考えるんだろう」と振り返ってみます。

実現の原動力

愛知用水が実現した一番の原動力は何だったのか。いろいろな要素が複合的に絡み合って実現したわけだけれど、一番後押ししたことは何なんだろうか。その答えは、まだ見つかっていません。

終戦やそれに続く食料難という時代も後押ししたと思うし、水不足を解消しようとして久野庄太郎さんや浜島辰雄さんのような英雄が登場したことも要因になるでしょう。お金が調達できたということも、不可欠な要素。でも、それだけじゃない。

うちの上司は「やはり人の和だろう」と言う。私は「現実に見合った判断ができたことではないか」と思っている。要するに柔軟性。この地区の人たちは非常に柔軟なんですよ。この柔軟性が原点にあって、久野さんたちの登場を導いたのかもしれない。

愛知用水が完成したときには農業用水はいらないという人が出てきてしまった。事業計画では、当初3万3000haという農地が、完成時には1万5000haしかない。普通の事業だったら、これは失敗です。しかし愛知用水は失敗していない。農業用水として使わないんなら、と水道水、工業用水に転用している。ちゃんと法律的手続きをとって費用負担者を確保しながら、水を違う形で有効活用している。多くの地区では、ここで悩むんですよ。肩替わりする人がいない。

確かに場所も良かった。名古屋港があり、製鉄所や重化学工業地帯の誘致もうまくいった。消費地も近かった。しかし、いったん手放した権利は再び自分に戻ることは少ないので水利権を手放さない場合も多い中にあって、愛知用水の受益地の農民は柔軟に対応した。その柔軟性の背後には、確かに人の和を大切にする地域性がある。

兵庫教育大学名誉教授の白井義彦先生が書いた論文を読んだことがありますが、愛知用水通水前には自分たちが食べるだけで精一杯の農業だったけれど、今の1万5000haは生産になった。換金できる農業になった、と書いてある。

昔は本当に貧農だったから久野さんだって食べていかれずに三河万歳に丁稚に行ったりしている。小学校も途中でやめた。

香川県には、香川用水という県民百万人の生活を支えている用水路があります。香川県民には、香川用水がなければ生きていけない、という想いがあるから、水資源機構が「水と共に文化を流さん」なんて言わなくてもわかっている。しかし、不思議なことに香川用水には久野さんとか浜島さんとかいった英雄はいない。伴武量さんみたいな青年同志会もないんですよ。香川用水は国や県が中心となって進められた事業かもしれない。でも、あれだけ住民が「香川用水のお蔭」と感謝していると無機質のものが有機質になっていく。香川用水が産業用水から地域用水化していると言ってもいいのかな。だから英雄がいることが必須条件ではない。それで先程言った、愛知用水実現のための一番の要素が何か、決めかねているんです。

もちろん、世界銀行の融資も大きい。これは私が勝手に言っているだけだけれど、アメリカが認めたんだから大丈夫、というような変な安心感が生じたんだと思う。

私が就職した当初は、まだ愛知用水公団に採用された人たちがいた。その人たちが言っていたのは「たった17億円融資されただけだが、もしも俺たちが失敗したら、あとに続く新幹線とか東名高速道路といった世銀融資の公共事業が融資打ち切りになるかもしらん。そんな事態に陥ったらかなわん」と。だから、ものすごくプレッシャーだったはずです。

地域用水になるために

これからの愛知用水は、単なる産業用水ではなく、地域用水にならないといけないと思う。市民は行政や管理者に苦情を言うばかりでなく、水が充分に使える生活に感謝して自分たちも愛知用水に何ができるのか考える、管理者は水路の「水量、水質、構造物」は確実に守りますが、それ以外は積極的に市民に利用していただく。それが地域用水化だと思っています。その変革する努力を一生懸命やっているつもりなんです。単に産業用水だけでは、どこか違ってしまう。やはり「水と共に文化を流さん」ですよ。自分の利益のためにペットボトルに詰めた水を国を越えて持ってくるのとはちょっと違うよ、という気概を持ってやっています。

愛知池の周回は7.5kmあります。散歩やジョギングなど、多くの方に利用されています。産業用水として管理するということからいえば、あそこは排他的にして人を入れないほうが管理はやりやすい。草刈りもゴミ拾いもしなくて済む。でも、私たちの先輩は「あそこは開放する」と決めた。なぜなら地域の人に支えてもらわないと、水はもっと汚くなる、と思っているから。

開放していれば、苦情もくる。しかし苦情に対応していくことで、こちらから問題を提起していく。住民の皆さんに水の大切さを考えてもらうチャンスなんです。残念ながらその話に乗ってきてくれる人は10%ぐらい。うちからの提案を50%ぐらいの人が聞いてくれて、自分の行動を考えてくれるような世の中になればいいなあ、と思っている。私たちは、通水50年をそういう場づくりにしたい、と考えています。

地域から隔離されて、誰かの私物、という存在であったら、誰も可愛がってくれませんよ。

「英雄」久野庄太郎

家族にとっては、久野さんも浜島さんも「好き勝手やった親父」。

私は久野庄太郎さんを教科書に出てくる偉大な人物と評価しているということで、お嬢さんからは睨まれているんですが、久野さんは、本当にいい男だと思います。ダンディだしね。絶対に上衣を外さなかったそうで、クールビズなんて言っている自分が恥ずかしい。1950年(昭和25)7月に高松宮様がお越しになったときに、お見送りの際、宮様から「君と山崎延吉先生だけだったね、最後まで上衣を外さなかったのは」と言われたのがうれしかった、と言ったそうです。要は襟を正す人だったと思います。

宗教家ではあるけれど、特定の宗教にはとらわれない。だから、牧尾ダムで行なわれる慰霊祭も仏式と神式を交互にやる。一人の偉大な哲学者であることは間違いない。当時に流行した、左翼的な志向の人ではありません。

『躬行者(きゅうこうしゃ)』という久野さんの発信媒体があって100号まで出たのかなあ、それを読んでも本当によく勉強していますね。安城農林の山崎延吉校長や富貴村(現・知多郡武豊町)の村長 森田萬右衛門さんの話も聞きにいっている。行動力があるんですね。

愛知用水の宝となっている浜島辰雄さんが描いた「愛知用水事業概要図」があります。これは愛知用水事業の事業概要書といえるものです。実物は幅1間(1.8m)長さ2間(3.6m)もあります。そもそも浜島さんが、なんで2万5000分の1のあんなに大きな図面をつくれたかというと、岡田資(たすく)さん(注1)に頼んで陸軍の地図を入手できたからです。岡田さんを久野さんが面倒見ていたというんです。あとから岸信介と面会するんだけれど、岸と岡田は巣鴨拘置所で一緒だったらしいんですよ。

面会した岸信介の開口一番が「君が知多の出なら、岡田資を知っているか」だったそうです。「岡田資は、実に立派な軍人だ。私は岡田のことが気になって仕方がない」と。そうしたら久野さんが「岡田さんの遺族は自分が面倒見ています」と言って。どうもね、米やなんかを差し上げていたみたい。それで岸さんが「それだったら、君の話なんか聞かなくても支援する」と言ったとか。

こういう話は偶然なんだけれど、一つの出会いではある。多分、岡田さん経由で軍隊が持っていた図面が流れたんじゃないかと思います。このように、久野さんという人は人脈がすごい。なんで岡田さんの面倒を見るのが久野さんなのか、不思議でしょう。そんなことは、もうわからない。

『水の思想 土の理想』(鹿島出版会 2010)を書いた高崎哲郎さんも、久野さんにはまった作家です。愛知用水のことは一応終了したけれど、久野庄太郎伝を書かないとなあ、と言っていました。取材すると、はまってくる。

愛知用水は世界銀行の融資としては日本で8番目にあたります。第1グループは電力。第2グループは農用地造成と愛知用水なんですよ。

面白い話があって、六十幾つのプロジェクトが融資を受けたんだけれど、お礼に行ったのは愛知用水だけ。しかも久野庄太郎さんが手土産を持って行った。手土産は水利観音だった。久野さんのエピソードは枚挙にいとまがないけれど、この話だけでも久野さんの人柄を象徴していますよね。

世銀がね、「今まで世界中にいっぱい金を貸した。農民団体は焦げつきも多い。それなのに日本の農民がわざわざお礼を言いに来た」と言って評判になったそうです。うちにもJICAから年間50人ぐらいの研修生が来るんだけれど、彼らに「日本は借りた金を返したから信用ができた。皆さんの国も借りた以上はちゃんと返しなさい」と言うんです。

(注1)岡田資(おかだ たすく 1890〜1949年)
捕虜虐待罪に問われ、B級戦争犯罪人として刑死。1943年に中将として東海軍需管理部長に、本土決戦を控えた1945年、第13方面軍司令官兼東海軍司令官に着任。アメリカ軍の日本空襲は戦争犯罪であることを、 自らの戦犯裁判で認めさせた。大岡昇平が著作『ながい旅』でその生涯を描き、映画「明日への遺言」では藤田まことが岡田を演じている。

上下流連携を

王滝村のような村は日本国中どこにでもある。それを支援したくなるのは、やはり愛知用水の源流だからでしょう。ここに人がいて、元気でいてくれないとダメなんです。

1984年(昭和59)に起きた長野県西部地震のときにせき止められてできた自然湖は、川がせき止められたレベルではなく、山が一つ崩れて土石流になって、水(すい)公園の辺りからずっと40mぐらいの厚さで土砂に覆われたんです。V字谷が厚さ40mにわたって土砂で埋まった。牧尾ダムにも550万m3という土が流れ込みました。

自然湖は幻想的な魅力のある湖で、地元にとっては新しい資源でもあります。自然湖という仮の名前で呼んでいたら、名前を募集して決まったのに「あれっ、自然湖ってなんて名前だったっけ」と役場の人が言うぐらい、仮の名前が定着してしまった。ここでは、カヌー教室も行なわれています。

滝越地区は王滝村の発祥の地なんだけれど、もう10軒ぐらいしか残っていません。水公園とかカヌー教室とか、みんな非王滝出身者がやっています。自然をねじ伏せるのではなく、自然と一緒に暮らせば人生ってエンジョイできるよね、という発想で生きている。ああいう人たちをなんとか支援できないか。

自分が40歳代になるころに、子供の進学の問題が出てくる。それが一つの壁ですね。

民宿では健康促進型民宿、というのをやろうとしているところもある。自然食を出して、山歩きをして。100kmトライアル自転車レースなんてやると、年に数回のことですけれど、1000人から2000人が来て、宿がいっぱいになる。

愛知池では愛知県の東郷町主催のレガッタ大会があるんですが、来年は王滝村民チームをこれに出場させたい。王滝村役場チームは、既に出場していますから、今度は村のお父さんたちを下流まで引っ張ってきたい。女性たちは元気なんだけれど、お父さんをなかなか引き込めないでいます。下流の人はよく上流に行くんだけれど、上流の人は下流に来ない。1対大勢になっちゃうから、行きづらいんでしょう。

だからこれから大切なのは、上下流交流ではなく、上下流連携をいかに築いていくか、なんだと思います。

みんなの口をついて出る愚痴は「1961年(昭和36)にダムができたから」という言葉。しかし、言っている当人も本心じゃないような気がします。だから、最近ダムの周回道路の木を整理したりして、ダムを中心に村が生き残る方策を模索してくれている。

水質も今は問題がない。しかし、人間が生活していく上で、必ず水は汚くなる。そして、水は汚くなったという自覚が起きたときには、もう遅いんです。

私は、木曽郡の町村の首長さんに挨拶に行くんですが、昔は人糞をそのまま木曽川に流していたとおっしゃる。しかし、今は上流はものすごく気をつけて努力している。愛知用水の所長として、この努力を下流側に伝えてくれ、と言われる。

王滝村も財政赤字を出しているにもかかわらず30年ぐらいのローンを組んで、集落下水処理場に十数億円の投資をしているんですよ。だから、王滝村に来る人たちは全員、そこにご案内している。これは今、牧尾ダムの竹越管理所長の重要な仕事になってます。

  • 地震のときに土砂でせき止められてできた〈自然湖〉。

    地震のときに土砂でせき止められてできた〈自然湖〉。幻想的な美しさの中で、カヌー教室が行なわれていた。

  • 牧尾ダムの竹越稔管理所長。

    牧尾ダムの竹越稔管理所長。

  • 地震のときに土砂でせき止められてできた〈自然湖〉。
  • 牧尾ダムの竹越稔管理所長。

受益地の課題

愛知用水は、共有溜め池より個人溜め池に入れさせてもらっていることが多いのです。

離農者が虫食い状態に増えれば、溜め池が守れなくなる。そうなると水が欲しくても手に入れられない人が増えてくる可能性がある。こういう可能性は、今後、増えていくと思います。

地元が衰退したときに、それに変わる管理団体をどう手当てしていくか。農業関係者はそこのところを非常に問題視しています。

愛知用水の管理システムは高い技術力がないと使いこなせない部分がある。ですから視察に来られた方も、「うちでは無理だよね」と言って諦めてしまう。愛知用水は1万5000haの受益面積がある農業用水とともに、毎日約100億円製品を出荷している工業用水、さらに約80万人の水道用水を併せて安定的にバランスよく供給することが求められていますから高品質な管理が必要なんです。私たちには、そういう管理を安価に行なっていかなければならないという自覚があります。

土木専門だけではなく、機械、電気、環境などなど多岐にわたる専門家が、千数百人の職員が、全国組織でやっている。地域の土地改良区さんだけで、それをやるのは難しいかもしれない。

しかし、我々は情報をオープンにしているので、参考にしてもらえる部分もあると思いますよ。

御嶽山の清掃登山が、王滝村と木曽町三岳主催でそれぞれ行なわれている。

御嶽山の清掃登山が、王滝村と木曽町三岳主催でそれぞれ行なわれている。標高3067mの霊峰は、人を寄せつけない厳しさを持っている。かつては女人禁制の修行の山だった。必死で探しても、ゴミはわずかしか落ちていない。頂上付近の山小屋で、宗教登山に使われる金剛杖に焼印を押してもらう。

技術の伝播

愛知用水の図面は、新入社員の教育にも使われました。全部、英語なんです。原図はA1サイズですから、これは(下写真)復元した縮小版ですが、私たちは図面の書き方からなにから、これで学びました。

世銀融資は、世界(アメリカ)が認めた、という信頼感を愛知用水事業に与えてくれたんですね。

先輩方がよく言っていたのは、あのときの仕事の進め方はのちの自分にとって非常に勉強になった、ということ。アメリカ人の合理性や秩序ある生活。勤務時間中は英語で頭ごなしに怒るから、本当に恐かったそうです。しかし、終了時刻がきたら、いきなりフレンドリーになる。メリハリがある。

合理性と効率性と契約思想。つまりアメリカの良い部分が出たんですね。アメリカの開拓局の技術で、カリフォルニアのアクアダクトというのがありますが、構造図をみるとそっくりです。

1961年(昭和36)に愛知用水の工事が終了して、人事異動が行なわれ、転勤退職者数は294人。コンサルティング分野に進出した人、自営の人、故郷に帰った人、国家公務員と地方公務員に戻った人など、全国、海外にも散らばっていきました。その先々で、技術と愛知用水魂というか、遺伝子が伝播されていったことが想像できます。

愛知用水の設計図面。縮小版がテキストとしても使われている。

愛知用水の設計図面。縮小版がテキストとしても使われている。

バトンをつなぐ

王滝村が赤字を出しても集落下水処理場に十数億円の投資をしている一方、愛知池の堤防には、毎朝、毎朝犬の糞が落ちている。雨が降ったら愛知池に入っちゃう。飼い主がもっと気を配ってほしい。

先に申し上げましたが、産業用水として管理を簡単にしたいんだったら、あそこは閉鎖したほうがいい。だけれど、敢えて開放している。開放することで、水について自分の頭で考える。その考える場を提供するのが、愛知用水通水50年なんです。

きれいな水が途切れなく供給される、ということが当たり前になっている。そのことにみんな、安心しきっている。しかし、蔭で努力しているから、みんなが安心していられる社会があるんであって、放っておいたらすぐに汚くなる。みんなの努力で、やっと現状維持なんですよ。

高度成長のときは産業用水をつくることが幸せだった。しかし、50年経った今、何をすることがみんなの幸せにつながるのか。

「柔軟な発想を持てよ」と久野さんが言っているような気がします。まあ、象徴的な意味で久野さんと言っているわけですが。

私は所長だから、転勤時にはみんなに辞令を渡さなくちゃならない。そのときに「これであなたも愛知用水の先人になれたね」って言う。全世界に散らばって愛知用水魂を広げるんだ、とね。

転がる石に苔は生えない。愛知用水二期事業が終わって、その教訓を生かしながら豊川用水が二期事業を始めます。終わりはない。常に改良、改良です。

要は、技術開発が螺旋階段を一歩一歩上るように、ちょっとずつ回転しながら前進しているのが、愛知用水モデルなんですよ。

新入社員の中には、こういう風に毎日水を流している現状に接すると、夢が縮む人もいる。しかし、多くの場合は水資源機構流の人材育成で鍛えられていきます。

海外経験もできるし、大規模事業にも携われるし、現場にも立ち会える。現場を知らない技術者にならないような実業をしているんです。このことが技術開発と同じように、先人の遺伝子を引き継ぎ、引き渡すことに役立っているのだと思います。

ようやく50年。そして、次の50年も、同じように螺旋状に前進していきたいですね。



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