機関誌『水の文化』11号
洗うを洗う

水とキヨメきれいときたない

波平 恵美子さん

お茶の水女子大学文教育学部教授
波平 恵美子 (なみひら えみこ)さん

1973年九州大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。1968年〜71年、テキサス大学大学院人類学研究科へ留学。その後、佐賀大学教養部助教授、九州芸術工科大学芸術工学部助教授・教授を経て、1998年より現職。 主な著書に『病気と治療の文化人類学』、『ケガレの構造』『医療人類学入門』、『生きる力をさがす旅―子ども世界の文化人類学』他多数。

水はその物理的な力によって物を溶かし、洗い流し、形状を変えることができる。このため、水が生命維持のために不可欠なものであるからだけではなく、水に多様な象徴的な意味を与えてきた。水はある状況を劇的に根本的に変える力を持ち、そのひとつがきたないものをきれいにし、さらには清める力を持つという象徴的な力への認識である。

水が汚れを取り除くことができるのは、その物理的な力によるものであるが、象徴的な意味においては、汚れは泥や糞尿のようなものを指すというよりも罪や不運や災いや気分の悪さといった、形のないもの、それ自体象徴的なものを指す。従って、水そのものの物理的なきたなさも水の持つ象徴的な清める力を減じることはない。雨量が多く傾斜地の多い日本では、神道や修験道において聖地とされる場における水は物理的にも極めて清浄であり、その清浄さゆえに信仰の対象となっているかと考えられがちである。そうしたことに慣れた日本人にとって、ガンジス川の下流の聖地の水の物理的なきたなさはひどく気になるところであり、ごみが浮かび濁った水の中に身体を浸し口を滌ぐヒンズー教徒の姿は異様なものとみなされがちである。しかし、象徴的な意味においては、清冽な滝の水の下で修行する修験道の信者の行為と変わることはなく、水は同じようにきたなさを清め、罪や不運を取り除く力を持つと信じられている。

近代化に伴って成立し、一般の人々の間にも浸透していった「衛生」の観念は、伝染病の予防という大きな社会的な目的のために、水の管理に目が向けられた。特に日本では、開国と近代国家の成立がコレラのパンデミー(世界規模でのコレラの大流行)と時期的に重なったために、物理的なきれいさきたなさは、水質検査が充分にできなかった明治初期には飲料水として衛生上適当か否かの指標とされやすかった。裏日本のある漁村の場合、共同井戸から飲料水を得ていたために、井戸の周辺の管理について役場から度々指導や注意が住民に対して行われていたことが、役場に残されていた資料から明らかになってくる。また、軍隊が演習のための行軍中の宿営地からこの漁村がはずされ、他の地域に兵隊は分宿することになったが、その理由として衛生上良質な水が得られないためとされており、水質と病気予防との関係に行政側が神経質になっていた状況がよくわかる。

それでは、物理的な水のきれいさは、象徴的な水の力である「清める」という意味にすっかり取って替えられたのか、あるいは物理的な水のきれいさは、常にそして徹底的に追及されているのかというと、必ずしもそうではない。水道の普及は、水源から蛇口まで硬い管の中を数百キロ、時には数千キロも水を流し、しかも汚泥や動物などが混入しない仕掛けを作り上げた。常に飲料水として適性を保つよう消毒されている。しかし、自らの口に入れる水はともかく、自らが使った水はどこへどのように流れて行き、その果てはどうなるのかという想像力を私達から奪っている。例えば、琵琶湖の水がもっとも良い例であり、周辺から流れ込んだ水を浄化して飲料水にしているが、「衛生上」どんなに飲料水として適性であったとしても、それを飲む京阪の人々はその水がかつてどのように使われたのかということに無関心ではいられない。現在「○○の水」という銘柄水が大量に買われているが、それは、象徴的なきれいさを求めていると考えざるをえない。

ガンジス川の例をとると、私達は象徴的な水の力への信仰を侮りがちになるが、象徴的な思考やイメージは、ヒマラヤ山脈に降る雪と下流の水とをつなげる思考をインドの人々の間に育んできた。一方、目先だけの衛生思考は「水の星」の地球を徹底して汚染しようとしている。



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