機関誌『水の文化』37号
祭りの磁力

守り伝えるための〈お弓〉の仕組み
高浜市無形文化財 吉浜八幡社 射放弓(しゃほうきゅう)

毛受 尚志さん

吉浜八幡社氏子総代
毛受 尚志(めんじょう たかし)さん

1941年愛知県高浜市生まれ。2010年より現職。

祭りが地域の文化を継承したり、コミュニティづくりに役立つのではないか、という期待は大きい。しかし、本当にそうなのか。人口構成や若者気質の変化、また氏子感覚の喪失といったように、人の暮らしを取り巻く環境が変わっている以上、祭りの機能も変化して当然だ。

愛知県高浜市で弓の神事が350年余りも続いていると聞き、吉浜八幡社氏子総代の毛受尚志(めんじょうたかし)さんにお話をうかがってみた。

2010年の大祭はあいにくの雨。本来は屋外で行なわれる〈お弓〉の奉納は、社殿内で厳粛に執り行なわれた。

2010年の大祭はあいにくの雨。本来は屋外で行なわれる〈お弓〉の奉納は、社殿内で厳粛に執り行なわれた。一人が畳2枚の上で作法を行なっている間、もう一人は立ったままじっと待つ。紋付袴姿の先生(師範)が付き添う後ろに、見守っているOBの姿が見える。

余興と神事

八幡社の総本社は、大分市の宇佐八幡宮で、奈良時代から仏教保護の神として〈八幡大菩薩〉の神号が与えられた。また、弓矢神、武神として源氏の氏神となり、武家に崇拝されたことなどから、全国に多く勧請され、全国で一番多い神社といわれ、その数約2万社ともいわれている。

弓の神事〈射放弓〉(しゃほうきゅう)を中心にお話をうかがったのだが、吉浜八幡社の祭りでは、〈おまんと〉という駆け馬と〈巫女舞〉も行なわれる。

部外者にとっては区別がつかず、話を進めていく内に毛受さんから、〈射放弓〉と〈巫女舞〉は神事ですが〈おまんと〉は余興ですから、という言葉が飛び出した。

「馬が関連する祭礼行事は、全国的にあると思われますが、〈おまんと〉も始めは馬を曳いて歩く飾り馬からスタートしたようです。
 高浜市内、隣の刈谷市、東浦町、碧南市など、衣浦湾の周辺地域で行なわれているようで、祭礼の日はあまり重ならないようになっており、馬が足りないというようなことは聞いておりません。
 馬はね、市内でも〈おまんと〉のためにか、個人で飼っている方が何軒かありまして、そこから有料でお借りしております」

高浜の地場産業として瓦生産があり、明治期には運送用に馬がたくさん飼われていたことから、〈おまんと〉が盛んになったという。また、謂(いわ)れはわからないが、花車を曳くのと一緒に歩く役員(大目付)が太く編んだ縄を背負っており、これなども瓦産業の名残を思わせる。縄は、瓦のように割れ易いものの緩衝材兼梱包材だったからだ。

飾って曳いて歩くだけだったが、段々と年代が下がるにつれて、駆け馬になった。馬場の中を馬がぐるりと走るのに、人間が並走しながら飛びつくものだ。足の速い競走馬になると、取りついて走るのも大変だし、怪我人も出るが、男の度胸試し、足自慢のようなもので人気がある。

「〈おまんと〉は祭礼の余興であり、歴史はそれほどなく、ほかの行事でもよかったかもしれませんが、今は、市内の各神社の祭礼の余興としてしっかりと定着しています。
 射放弓は神事として長い歴史を持っており、そこが少し違うと思われます」

馬場を疾走する馬に、駆け寄りながら取りつく〈おまんと〉。

馬場を疾走する馬に、駆け寄りながら取りつく〈おまんと〉。きれいに飾られた馬が何頭も登場し、子供たちにも大人気の余興だ。

弓と聞いて思い浮かぶのは

射放弓とは聞き慣れない言葉だが、弓ですぐに思い浮かぶのが流鏑馬(やぶさめ)だ。実戦的弓術の一つとして平安時代から存在したといわれている。武士階級の台頭で、勇猛な弓馬礼法が重んじられるようになったが、江戸時代に入ると、戦う機会を失った武士たちにとって、武芸は嗜(たしな) みとなっていくのである。

相撲で行なわれる弓取り式も印象が強い。これも平安時代に、勝者の立会役が矢を背負って舞ったことから始まったといわれている。場所中に毎日行なうようになったのは1952年(昭和27)5月場所から。これも元々は千秋楽にのみ行なわれ、この場所最後の勝者を称えて行なうものだったため、結びの一番が引き分けや痛み分けの場合は、当然ながら行なわなかった。

前述の流鏑馬は、明治維新、第二次世界大戦、敗戦によるGHQ(連合国最高司令官総司令部)の占領政策と、度重なる危機を乗り越え、現在は観光の目玉となっている。

このように謂れを調べてみると、長い間原型のまま継承されているようにみえて、最近になってアレンジされていることがわかる。

戦いに出なくとも、疫病や飢饉(ききん)などで簡単に死んでしまった当時の人間が、神仏に祈る思いは今より強かったはずだ。弓馬礼法を奉納するということが武運を願ったり、勝利を感謝する気持ちから、神事として扱われるようになったことは想像に難くない。

射放弓は作法

しかし、射放弓は流鏑馬のように、矢で的を射当てることを主眼としない。篠竹と和紙でつくられた矢尻のない矢を、天空高く、射放つのである。

高浜市吉浜には、八幡社と神明社の2社の神社があって、それぞれ上地区、下地区の氏神様として親しまれてきた。射放弓も2社で行なわれ、敬いの気持ちを込めて〈お弓〉と呼ばれている。

射放弓の名前は、神明社に今も残るお墨付き令書に由来する。そこには、

神明於社射放弓
可令授与者也

とあり、〈しゃほうきゅう〉と音読みしているが、意味からすると〈いはなしの、ゆみ〉であろう。

吉浜八幡社には記録として残るものはないが、ほとんど同じ神事が続けられてきたので、ルーツは同じと考えられている。

1976年(昭和51)に射放弓が高浜市文化財の第一号に認定された際に、当時の吉浜公民館館長 故・杉浦林造さんは、射放弓について念入りに調査を行なった。その結果、弓といっても的を射抜くのではない射放しの弓の神事は、ほかには見られない珍しいものだという。

〈お弓〉奉納者は〈お弓役〉と呼ばれ、2社からそれぞれ2名ずつの青年が選出される。

「弓道の心得があるとか、そういうことではありません。弓道とは全然違うものですから。
 弓道は、要は的を射ればいいのですが、射放弓は作法をね、延々とやるのです。お弓の作法を。それを延々とやって、最後に2回、矢を射って終わるのです。作法だけで40分くらいかかります。2本射るために40分の作法があるのです」

と毛受さん。

2本の矢を射るために40分の作法がある、と聞いても、なかなかピンとこない。2名の〈お弓役〉には前役と後役とがあって、〈お弓役〉の一人が奉納している間、もう片方の人は微動だにせず立っていなくてはならないそうだ。

それだけでも相当つらそうなのだが、〈お弓役〉経験者の話を聞くと、作法自体も肉体的に大変つらく、途中で逃げ出したくなるほどのものだ、とのこと。

いったい、どんな作法があるか、ますます興味が湧いてくる。

ちなみに〈お弓役〉は、前の晩からお宿と呼ばれるお当番の家に泊まり、夜中の2時ごろ起きて風呂に入り身を清める。支度をしたらまずはお宿の前で二人がそれぞれ2本の矢を射る。

「一度で終わるものではなく、そのあとも鳥居の所、境内でも射ます。2本射るのを1回として、4回射るのです。身を清めるのも今は風呂ですが、昔は西の浜に行き、海水で禊(みそぎ)をしたそうです」

  • 射放弓の様子

    射放弓の様子

  • 射放弓の様子

    弓の扱いができるように左肩の裃を外し、丁寧に畳み込む師範。たった2本の矢を射るのに40分をかけて行なうわけだが、一つひとつの動作は例えて言えば太極拳のようなスローテンポ。この日は社殿内なので、実際には矢は放たない。

  • 坂本和也さんと弟の直敏さん

    2010年の〈お弓役〉、左が兄の坂本和也さん、右が弟の直敏さん。

  • 射放弓の様子
  • 射放弓の様子
  • 坂本和也さんと弟の直敏さん

吉見喜左衛門のお墨付き

吉浜の2社では、そもそも湯立祭りが行なわれていた。それが1659年(万治2)八幡社、神明社両社の神官だった吉見喜左衛門によって先のお墨付きが与えられて以降、「馬三疋に弓二張をもって祭りとする」ように改められた。しかし、毛受さんによると、

「古老の話では、昭和初期まで湯立が行なわれていたようです。八幡社には1799年(寛政11)三州吉浜村と銘がある御湯釜が残されています」

とのこと。大釜に沸かした湯の中に饌米(せんまい)を入れて、その様子や沸いた湯の鳴音によって、一年の農作物の出来やその他の吉凶を占ったという。

「馬三疋に弓二張」によって行なわれる神事こそが、定法であると定められたのには、理由があった。

神明社はかつては太神宮といって、通称〈古宮〉と呼ばれている吉浜町南屋敷の地に祀られていたのだが、1658年(万治元)火事になって社殿が焼失してしまったため、現在地に遷宮している。この遷宮を期として、吉見喜左衛門が射放弓のお墨付きを与えているのだ。

吉見喜左衛門は奈良から来たといわれる神官で、紀州藩の初代藩主 徳川頼宣(よりのぶ) のお国替えに伴って、吉浜を離れたとされる。2社の神官は喜左衛門の弟、太郎左衛門が継いでいたが、火事になったために兄の喜左衛門が和歌山から助っ人に帰ってきたというわけだ。

市の無形文化財に認定された折、杉浦さんは吉見喜左衛門についてもくわしく調べようと、わざわざ和歌山まで足を運んでいる。その結果、吉浜の吉見家は残念ながら断絶しているが、紀州吉見家は続いていることが、突き止められた。

吉見喜左衛門がどのような作法や所作を命じたかはわからないが、〈お弓〉奉納者は、翌年師範となって弟子に伝授していくので、間違いなく伝承されているはずだという。

「八幡社のすぐ下は、海だったんですよ。神社の一角に貝塚がありましてね、県の文化財課で調査しましたが、弥生時代から人は住んでいたようです。
 ここは昔から農業と漁業だけですね。田んぼも明治用水が開通するまでは少なく、畑作です。
 お米が採れるようになったのは、海を埋めて新田をつくってから。服部新田だとか流作新田だとかの地名がつけられました」

と毛受さんがいうように、当時の氏子たちは農民や漁民であったのだろう。裃(かみしも) を着け大小の刀を差し、弓矢を携えて神前に〈お弓〉を奉納する、と聞いただけで、村人がどんなに驚き、誇りに思ったことか、と杉浦さんは指摘している。それは、〈お弓〉が古くから非常に大切に扱われてきたことからもうかがえる。

「江戸時代には、農民には帯刀はおろか、裃を着ることも許されなかったのです。それを特別に認めさせたと聞いています」

氏神様が火事で焼失してしまったという心の痛手を、〈お弓〉の奉納という形で解消させようとしたとしたら、吉見喜左衛門はただ者ではない人物といえよう。

射放弓の準備

腹に力が込められるように、鴨居にしがみついていても振り回されるぐらいの勢いで、晒しをきっちりと巻く。何年か繰り返されているうちに、畳の目がすっかり縒(よ)れてしまっていた。

つらいからこそ

昔は、村の庄屋、組頭、それに〈おちょう番〉(その年の祭礼一切を仕切る重要な役柄)などによって、〈お弓役〉を推薦していた。

「今は、原則は立候補制。広報で回覧して手を上げてもらうのですが、立候補がない場合は射放弓保存会役員が合議制で選出し、こちらから頼みに行きます。
 昔は20歳前後の人が多かったようです。祭りの2カ月前ぐらいからは週6日練習があるので、今は、勤めている人や大学生は難しいのです。それで段々年齢が下がってきて、一昨年は高校生が選ばれています。
 これからのターゲットは高校生。しかし、選ぶといっても、プライバシーの問題などがあって、どこにいるのかわからないのです。学校では名簿は出しませんしね。
 だから人づてに聞いて探しています。昔と同じ形でずっと続けようと思うと、相当努力をしませんとね。どうしても難しいんですよ」

昔は選ばれることは、若者にとって一世一代の名誉であり、家にとってもめでたいことなので、母親は息子に紋付、袴を準備して心を配ったものだという。今は、そうした装束も常備され、負担がかからないようになっている。

前年に〈お弓役〉になった若者2名は、師範となって新人の指導に携わり、それが結果として作法の伝承につながってきた。驚くべきことに、師範の役目を終えても、8年経って引退するまで、サポートするOBとしての役割は続くという。

「直接指導するのは先生(師範)ですが、4代前の経験者までがチームのようになって教えます。8年経ったら一応卒業ですが、あくまでも卒業であって、完全に切れてしまうということはありません」

というのは2001年(平成13)大学4年生のときに〈お弓役〉を務めた塙(はなわ)智史さん。仕事の関係で、今は浜松に住んでいるが、この日もわざわざ足を運んだ。

引退後は直接指導することはなくなるが、〈お弓役〉経験者としての自覚と後輩への配慮は消えることがない。暗がりの中で行なわれる練習を、何となく見守る先輩の姿が、境内から絶えることがないのである。

OBとしての話を聞かせてくれた塙さんや林裕生さん(2002年〈平成14〉のお弓役)、内藤翔太さん(同、2007年〈平成19〉)が口を揃えて言うには、〈お弓〉の作法はとにかく肉体的にきつい、ということだ。足が腫れて、その腫れが引かないうちにまた次の練習をしなくてはならないから、大の男が逃げ出したくなるぐらいのつらさだと言う。

かつては名誉なことだったが、時間を拘束されることを嫌う現代人が、それほどつらいことを耐えられるものだろうか、という思いがよぎる。

「やった人でないとわからないことですが、できるかできないか本当にぎりぎりのところまで追いつめられるんです。そこで踏ん張れたのは、僕の場合は30歳までに何かを残したい、という気持ちがあったからでした。
 やってみて、このきつさがあるから逆に続いてきたのかな、と思います。だてに350年続いてきたわけじゃないんですよ」

と塙さん。

かつては選ばれるべくして選ばれるような〈お弓役〉だったわけだが、現代は選ばれ方の幅が広くなっている。このことは期せずして、親密圏だけでまとまりがちな現代人の交友関係を公共圏にまで拡大することに貢献しているように思う。なにしろ、自分の親や祖父ぐらいの先輩とも親しく言葉を交わせるし、同じ時期に〈お弓役〉を務めた者どうしは戦友のような気持ちでつき合える。

塙さんと林さんと内藤さんにしてみても、年代や趣味も違っているから、ぱっと見たらどういう関係なのだろう、と思う人がいるかもしれない。今は地域のつき合いもないし、同じ小中学校の出身でも、クラスが違ったら顔もわからないような状況。それが〈お弓〉によって、強い絆で結ばれるのだ。

祭りをはじめとする組織では、誰でも参加できるようにハードルを下げて親密圏を広げるのが、最近の傾向。ところが、実は高いハードルは、マイナスどころかプラスに働いていることが射放弓からはうかがえるのである。

どんなきついこともこなせそうな若者が、口々につらい、という射放弓の作法。これはどんなに書いてあるものを読み、写真を見ても理解できない。興味のある方は、是非現地に足を運んでその目で確認してほしい。それも祭り本番だけでなく、練習のときと両方見たら、その言葉の意味がわかるだろう。

本番を見守る内に、「これだけきつい練習を続けるのは、実は奉納するときの緊張感を最高潮に持っていくためかもしれない」とさえ思えてくる。OBの人たちは、その緊張感を共有することができる、唯一の存在だからこそ、戦友となり得るのだ。

  • 図表:地図

    吉浜が、舟運に適した地であったことがわかる地図。そうした伝統が、祭りにも垣間見られる。
    国土地理院基盤地図情報(縮尺レベル25000)「愛知」及び、国土交通省国土数値情報「道路データ(平成7年)、鉄道データ(平成20年)」より編集部で作図。
    この地図作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の基盤地図情報を使用した。(承認番号 平22業使、第689号)

  • 射放弓の様子

    左上:無事、奉納を終えて、緊張から解き放たれた二人。
    左下:「自分のとき以上に緊張する」というのは、OBのみなさん。難しい動作のタイミングがわかっているだけに、固唾を呑んで見守る。
    右:お弓を拾った人は、その年1年無病息災となるため、雨のために放たれなかった弓を天に射る。

  • 図表:地図
  • 射放弓の様子

伝える仕組みとして

吉浜八幡社では、巫女舞の人選にも、射放弓の「伝える仕組み」を応用したようなやり方を採用している。小学校1年生で巫女に選ばれると1年間の見習いを経て、2年生から5年生まで同じ女の子が続けて巫女さんを務めるのだ。

こちらは射放弓のようにきつい作法はないものの、長く継続する必要から、幼い本人よりもお母さんに覚悟が求められる。

自分の娘だけ練習についていけないとみんなに迷惑がかかるので、母娘一丸となっての練習が必要だ。家で特訓するためには、まずはお母さんが覚えなくてはならず、音曲をCDに録音するのだそう。

普通の習い事と違って、個人の勝手でやめるわけにはいかないので、やり抜く根性が育つだろうことと、少子化で兄弟姉妹が少ない昨今、お姉さん的存在、妹的存在の中で社会性が育まれ、「巫女舞を始めてから、しっかりしてきた」というお母さんの感想も多い。

こうした仕組みは、昔のムラ社会の連帯責任の延長であったとされ、一時期は窮屈であるとして敬遠されていったが、今となってはかえってプラスに働いているようだ。自分だけのためだと頑張れないけれど、みんなに迷惑をかけないためになら頑張れるからだ。

巫女舞という伝統の伝承をしつつ、成長過程で身につけるべき責任感を育むという一石二鳥の仕組みは、多分、射放弓から学ぶべきものが大きかったのではないか。

巫女舞の様子

幼いうちから根気よく練習を繰り返す巫女舞の少女たち。少子化で姉妹がいない子が増える中、仲良しのお姉さん、妹の役割をするようになり、それがまた、練習の励みにもなっているようだ。

現代の通過儀礼

実は、射放弓の練習期間は年々長くなり、内容は厳しくなっているという。忙しいからと楽に向かうのではなく、より高い目標を設定しているところがすごい。

自分が師範になったときに、もっと精度を上げたいと思う人が増えたのが、その理由。これだけの伝統をつなげてこられたのは、〈お弓役〉が無事終わったときに、そうした志が芽生えるからに違いない。

誰から強制されるでもなく、自らの中にそうした向上心が芽生えるというのは、楽をしないで身体で覚えたプロセスの積み重ねがあるからだ。

文化人類学では、さまざまな辺境の地で、男子の通過儀礼があることを紹介しているが、射放弓も通過儀礼の一種と見ることができる。

そのモチベーションとして、かつては農民が帯刀し裃を着る神事の奉納者に選ばれる、という誇りがあったわけだが、今の〈お弓役〉はどのように感じているのだろうか。

〈お弓役〉経験者たちは、「もう一度やれと言われたら嫌だ」「まったく知らなかったので引き受けてしまったが、わかっていたら断ったかも」と言うが、それはすべて成し遂げた者の言う言葉。この経験が人生のほかの場面で生きていることに、異論を唱える人はいない。

ただし、たった今、成し遂げたお二人からは「とにかく終わった」という安堵感がほやほやと立ち上っていた。

進学や就職、転勤などの理由で地域から転出することもあるだろうが、家が引っ越しても、神社は変わらず、そこにある。そこに帰れば仲間がいるという安心感は、きっと何ものにも代え難いに違いない。

吉浜の射放弓は、氏神様の現代における可能性を示唆してくれる。吉見喜左衛門も、350年余ののち、自分の定めた神事が、よもやこのような形で役立とうとは夢にも思わなかったことだろう。

  • 祭りの様子

    祭りの様子

  • 祭りの様子

    祭りの早朝から花車を曳いて歩く行列を、大目付が先導する。神社に戻ってきた大目付は、馬を曳いて馬場を回り〈おまんと〉の幕開けをするが、大縄を背負い、着ている法被(はっぴ)にも縄のモチーフが。

  • 祭りの様子
  • 祭りの様子


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