機関誌『水の文化』38号
記憶の重合

地図で表わす世界観

地図で表わす世界観

地図で表わす世界観

ルネッサンス以降の近代化した地図に、目が慣らされている私たち。「世界観を育み、自分の居場所を伝えたいという思いを描いたものが地図」と長谷川孝治さんは言います。居場所とは、何丁目何番地だけではなく、コスモス(宇宙観)から見たものも含み、曼荼羅(まんだら)などの絵図も地図である、とのこと。 時代ごと、地域ごとに変遷する世界観。そう考えて地図を見ると、今まで以上にたくさんの情報を読み取ることができるかもしれません。

長谷川 孝治さん

神戸大学文学部教授
長谷川 孝治(はせがわ こうじ)さん

1947年生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程単位修得退学。1977年神戸市外国語大学助手、1990年神戸市外国語大学教授、1995年から現職。専門は、ヨーロッパとりわけイギリス及びネーデルランドにおける近世・近代地図史研究。
主な著書・論文に、『地図の思想』(編著/朝倉書店 2005)、『地図と文化』(編著/地人書房 1989)、『国家表象としての近世アトラスの比較地図史的研究』(2005)ほか。

地図の定義

そもそも、地図とは何なのか。起源でいえば言語よりは古く、絵画よりは新しいか、もしくは同時だといわれています。

広義の解釈では、「文字を用いないで場所を示唆するものが地図である」といわれています。例えば、ロシアで発掘された青銅器時代の絵には、山と川とライオンなどの動物が描かれており、発掘された場所などから考えて、描かれているのはカフカス(コーカサス)、現在のアルメニアの辺りではないか、と推測されています。山脈はカフカス山脈で、川はそこを流下している川と考えられます。

アルタミラ(スペイン北部、カンタブリア州の州都サンタンデルから西へ30kmほどのサンティリャーナ・デル・マル近郊)の洞窟に描かれているのはバイソンだけだから絵画なんですが、ロシアの事例は特定される場所を描いているという意味から、これは地図と考えてもいいでしょう。

東西南北のどこが上か

北を上に描くのは、国際的なルールで決まっているのではありません。オーストラリアの地図は、南が上ですし、昔の日本地図は九州を上にしたりしたものもありました。仁和寺にあるのは、南を上にして、まさに大陸から日本を見た感じで表現されています。

キリスト教の地図としては、イングランド西部のヘリフォード大聖堂に伝来する中世世界図があります。これは東が上。聖書に東の方角にエデンがある、と書かれており、ヨーロッパから見て東にエルサレムがある。ですから、東にはいわゆるオリエントがあって、上に描かれるのです。

イスラムで、一般的に南を上にするのはメッカの方向が南だからです。日本から見たら西になりますが、当時のイスラム世界の中心地はイラクのバグダッドとかシリアのダマスカスでしたから、メッカは南の方向なんです。1日5回、礼拝しますから方角は重要です。

仏教は北が上です。なぜなら、インドにおいて神聖な世界は涼しい所、北だからです。チベットのほうに〈無熱悩池(むねつのうち)〉という、暑熱に悩まされることのない池があると仏典に出てきます。

丸い地球をどう表現するかということも、大変、問題になることです。赤道は天文学的に決まりますから緯度0度は赤道ですが、縦の軸(経度)は決まりませんね。それで1884年(明治17)の国際条約でグリニッジにしよう、と決めました(注1)。日本ではグリニッジ子午線を採用するまでは、伊能図では京都に本初子午線を置いていました。

ちなみに有名なメルカトール図法は航海に使うための図。地図の副題にはちゃんと但し書きがあるんですが、忘れ去られています。縦横に経緯線があって見やすいから多用される。北に行くと拡大する原理だから、北方の国が大きくなってしまい、地図としては正確でないけれど、ヨーロッパ諸国は実際より大きく見えるわけだから都合がよかったんでしょう。

(注1)国際子午線会議
経度と時間の統一基準をつくるために、1884年(明治17)にアメリカ・ワシントンで開かれた国際会議。イギリスや日本を含む25カ国が参加し、イギリスのグリニッジ天文台を通る子午線(グリニッジ子午線)を経度0度とすることが決定された。世界の大多数の船が使用していたイギリス製の海図に基づいて、グリニッジを基準点とする提案に対して、サント・ドミンゴ(現・ドミニカ共和国)は反対票を投じ、フランス、ブラジルは棄権。特にフランスが同制度を採用したのは、1911年(明治44)になってからのことである。

碁盤目を引くのは書きやすくするため

奈良時代まで、日本では地図を麻布に墨で描いていました。麻布にいきなりは描けないですから、何らかの指標がいる。それで、まず碁盤目を描いたんです。

大化の改新のときに出てくる条里制(班田収授の法によって口分田を分ける目安)は、縦横109mのグリッドである、といわれています。本当に条里制が敷かれたのであれば、水路とか畦道がつくられたはずですが、実際にはまだそこまで開発は進んでいなかったという説があり、地図を描きやすくするために引いた線だ、ともいわれています。

最近まで、中国の現存する最古の地図といわれていた〈禹蹟図〉(注2)にも、やはり縦横の線が入っています。西安の碑林博物館に収蔵されていますが、黄河と長江、珠江が非常に鮮明に表現されています。水系というのは、地図にとって一つの座標といってもいいものです。

(注2)禹蹟図
1137年(紹興7)、南宋の高宗の代につくられた禹蹟図刻石。湖南省の省都長沙市の馬王堆三号漢墓から漢代の地図三種が出土するまでは、中国最古の地図だった。禹は、黄河の治水の功績によって舜帝から帝位を禅譲され、夏王朝十代を創始したとされる伝説上の聖王。

  • 禹蹟図の拓本。

    禹蹟図の拓本。川が非常に鮮明に描かれている。(中国・西安碑林博物館所蔵)

  • 大正から昭和初期にかけて、日本全国を鳥瞰図として描いた吉田初三郎による愛知・知多半島の絵図。

    大正から昭和初期にかけて、日本全国を鳥瞰図として描いた吉田初三郎による愛知・知多半島の絵図。「初三郎式絵図」と呼ばれる独自の画法では、韓国や中国も同じように表現された。まさに、地図には描く人の主観が入ることの象徴である。
    南知多遊覧交通名所図絵「知多半島遊覧交通鳥瞰図」(観光社 1925)
    画像提供:(C)アソシエ地図の資料館 、 画/吉田初三郎

  • 禹蹟図の拓本。
  • 大正から昭和初期にかけて、日本全国を鳥瞰図として描いた吉田初三郎による愛知・知多半島の絵図。

望視

中世には、まだ測量技術はなかったので、教会の塔のような高い所に上って、周りを見渡してスケッチ的に描きます。望視、英語でいうとviewですね。

イギリスは1579年(天正7)に、政治的・軍事的な目的でいち早く全土の地図をつくっています。エリザベス一世がクリストファー・サクストンという男に命じて、たった6年で完成させました。測量していたら6年ではできませんから、望視の技術を使って描いたのではないかと思います。

イギリスでも中世の図は、河川中心ですよ。ある範囲を押さえるには、縦横の線として川を入れると、町を描きやすいんです。ローマ時代のプトレマイオスの地図も経度・緯度を重視しています。

地図の概念の変遷

ルネッサンスのころまでは、地図と絵画は境界が曖昧だったので、画家がたくさん地図を描いています。しかし、この時代以降、絵画は美術、地図は科学、というように分かれていきます。

風景画のような描き方をはじめ多様だった表現が、だんだん上から見た図に変わっていく。また、多くの情報を正確に表現するために、抽象化して、記号で表わさざるを得なくなります。

しかし、私自身は地図を科学に持っていったのは問題じゃないかと思っています。なぜなら、目に見えるものをどう表現するかという部分には、人間の感性が入り込む余地があるからです。

最後の審判の様子が描かれているヘリフォード図や世界観を表現した曼荼羅は、世界地図のようでありながら、宇宙を表わしています。広くいえば、コスモス(kosmos:ギリシア語で世界、宇宙、秩序を意味する語。一般に宇宙観のこと)になっているんじゃないかと思います。

1981年(昭和56)にイギリスのブリティッシュライブラリー(当時はブリティッシュミュージアムと一緒の組織)で、中世や近世の地図を見たことが、私が地図を研究しようとしたきっかけです。ちょうど、地図を全体的にとらえていこう、描いた人、描かれた時代の主観を大事にしよう、という研究方向に変わろうとしていた時代でした。

それで、京都の北のほうにある安曇(あど)川上流部を描いた中世の絵図、〈葛(かつら)川絵図〉を描いた人や村人たちの世界観を解釈しようと研究会をつくりました。当時は「学際的」といっていましたが、地理だけでなく日本史や建築の人も入った研究会です。

葛川絵図は、お寺が自分の荘園の範囲を描いたもので、実は周りの荘園が入り込んできて、木を伐って炭を焼いたことに抗議して、寺が訴え出たときの裁判史料なんです。これも安曇川水系が軸になって、上に比良山地、下に丹波山地が描かれています。

上段/葛川絵図。 (東京大学史料編纂所編『日本荘園絵図聚影 一下 東日本二』 東京大学出版会 1996) 下段左/ヘリフォード図。(イギリス・ヘリフォード大聖堂 所蔵) 下段右/オウグルビー道路地図帳。 (J.Ogilby : "Britannia",Theatrum Orbis Terrarum,1970)

上段/葛川絵図。 (東京大学史料編纂所編『日本荘園絵図聚影 一下 東日本二』 東京大学出版会 1996) 下段左/ヘリフォード図。(イギリス・ヘリフォード大聖堂 所蔵) 下段右/オウグルビー道路地図帳。 (J.Ogilby : "Britannia",Theatrum Orbis Terrarum,1970)
※赤枠をクリックすると拡大画像が開きます

居場所を伝える地図

ただ、いったん学際的になった動きが、再び変わっていきました。今の地図は、細かいところを正確に、という方向にどんどん進んでいます。学会でも、主流となっているのはデジタル化した地図です。GIS(Geographic Information System 地理情報システム)なんか、数字の世界ですからね。細かいことはどんどんわかってくるけれど、全体として何を意味しているか、ということは、逆に見えづらい。

近代的な道路地図の原点というのは、イギリスで1675年(延宝3)にオウグルビーが発行した道路地図帳です。ロンドンからの道順を巻紙に描いたように表現して、下から上に、下から上に、と行くべき道がつながっていく。今のカーナビと近い発想です。面の情報ではなく、線の情報なので、我々にとってはものすごく見にくいんです。

私は「情報が微分化されている」と言っているんですが、地図をどんどん細分化すると、全体像がまったく見えないから、かえってわかりにくくなると思っています。

もっと積分化の方向というか、自分たちがどんな世界に住んでいるかとか、何かを伝えようとしていくことも必要ではないか、と思います。哲学で一番問題にするべきことは、Who am I ? つまり、自分は誰なのか、です。地理あるいは地図は、Where am I ? なんですよ。通常は自分がどこにいるかなんて、意識していない。それでも、自分の位置を定位というか、定めておきたいという欲求があるのです。

学生たちにもいつも言うんですが、「世界のどこにでも行くことができるが、江戸時代には行けない」と。そういう意味では、時間は自分の思い通りにはなりませんが、空間は選択の可能性があるんです。

曼荼羅のような宗教画が地図のカテゴリーに入れられるのも、「自分がどこにいるのか」、つまり居場所を信者に示すために描かれているからです。やはり自分たちのいる場所を示すとともに、伝えたいという気持ち。

単に自己満足で描くだけじゃなくて、伝えたい。この伝えたいという気持ちは、まさに言語と一緒だと思います。

(取材:2011年2月8日)

PDF版ダウンロード



この記事のキーワード

    機関誌 『水の文化』 38号,長谷川 孝治,海外,水と社会,歴史,水と生活,民俗,地図,画,絵

関連する記事はこちら

ページトップへ