機関誌『水の文化』40号
大禹の治水

禹王を祀る原動力
原典テクストの存在

兵庫県立大学環境人間学部環境宗教学教授
岡田 真美子(おかだ まみこ)さん

『眞古文尚書』『偽古文尚書』『尚書正義』

禹に関する最古の記述は『書経』にあります。この『書経』中、禹に関する文章は、「禹貢」と「大禹謨」の2カ所にあります。前者は『新釈漢文大系』の『書経上』にあり、後者は『同 書経下』に入っています。禹の事績が記される『書経』の古名は『尚書』といい、『書経上』は『眞古文尚書』、『書経下』は『偽古文尚書』とされています。

『眞古文尚書』は秦始皇帝の焚書坑儒を生き延びて、孔子が壁蔵していたものでオリジナル文献。これに対して『偽古文尚書』は、東晋代(4世紀)になってから書かれた文献です。すなわち、「大禹謨」は『書経』とはいいながら、司馬遷の著した『史記』以降の文献であることに注意しなければなりません。

以上のことから、禹に関する文献は「禹貢」及び『書経』と、その前に置かれている「堯典」「皐陶謨」(これもまた禹と皐陶の問答)中の禹に関する記述が古く、司馬遷による『史記』がそれらをつないで、今日知られる禹王伝記が書かれたと思われます。

また、聖謨というと君子の政策ということですので、「大禹謨」という題だけ見ますと「偉大な禹のはかりごと(政策)」と解されますが、「謨」は、「誥」(君主の臣下に対する言)に対して「臣下の君主に対する言」という文章形式をさす術語でもあり、実際に『書経』の「大禹謨」を見たところ、禹の偉大な事績を記したというよりは禹の問答集で、「政策」というよりは「問答」と解したほうがよいのではないかと思われます。

ですから、禹を讃える石碑を建てた人は『書経』の「大禹謨」の内容を理解していたのではなく、「大禹謨」を「偉大な禹の方策」と考えて、碑文に選んだのではないでしょうか。

『書経』の中の禹の事績である「禹貢」は淡々と記されていますが、なかなかに味わい深いものです。『新釈漢文大系 書経上』(明治書院)「禹貢 第11節 導水」及び、禹の貢献をまとめた解説部の表と、『史記』や古地図を見ると、より深い理解が得られるかと思います。

『尚書正義』と関東管領 上杉憲實の接点

『偽古文尚書』の注釈書は、唐代に編纂された『尚書正義』で、これは科挙の試験を受ける者は丸暗記していた書物の一つといわれるほど、重要な内容を持っています。しかし『尚書正義』の原本は、本家 中国では既に失われてしまい、日本の足利学校本(宋の両浙東路、茶塩司刊本)が唯一現存する原典テクストです。現在も、栃木県の足利学校に国宝指定書籍として所蔵されています。

この『尚書正義』を1439年(永享11)に足利学校に寄進した人物が誰あろう、円覚寺117世蘭室妙薫禅師に協力して神奈川県足柄上郡の班目下河原に上杉一門の菩提供養のために珠明寺(しゅめいじ)を建てた開基の一人であり、関東管領だった上杉憲實です。上杉憲實は足利学校中興の功労者であり、金沢文庫にあった『尚書正義』を足利学校に納めました。

足利学校本は日本の他の地域にも広がったらしく、江戸時代末期に幕府が古典の刊行を奨励したとき、肥後藩では時習館でこの足利学校本を復刻しています。現在、完全にそろった版木が、熊本大学に保存されていますが、桧板の両面に各々4ページ分の文字が刻まれており、全部で388枚にのぼります。

足利学校は16世紀の中ごろ、空前の活況を呈し、全国から内地留学者もいたということですから、『尚書正義』を学んで帰った者も多かったことでしょう。『尚書正義』が当時の日本でよく読まれたことは、江戸の林羅山の「春鑑抄」における引用や、岡山藩の大水害後川除けを行なった熊沢蕃山と藩主池田光政とのやりとりでもわかります。

また、高松城で『尚書正義』の「大禹謨」を講じたのは、勧学家老だった青山家だったことと思います。青山家は私の夫である岡田の祖母の生家であり、浅からぬ因縁を覚えます。高松の香東川にも「大禹謨」の碑がありますから、『尚書正義』の線から禹碑探しをしてみるのも大きな手がかりとなり得るのではないでしょうか。

私は、河川改修という大事業に携わる人々に、禹王を祀らせ、その信仰を全国に広げる原動力となったのは、やはりこの公式テクストの存在であったと考えます。しかもそのテクストの保存に関して、酒匂川大口近くの寺にゆかりの上杉憲實がキーマンであったことが珠明寺訪問から引き出せたことに、歴史の因縁を感じざるを得ません。

  • 臨済宗円覚寺派の珠明寺は、1420年(応永27)、円覚寺117世の蘭室妙薫禅師と室町幕府の関東管領の上杉憲實によって開創された。

    臨済宗円覚寺派の珠明寺は、1420年(応永27)、円覚寺117世の蘭室妙薫禅師と室町幕府の関東管領の上杉憲實によって開創された。酒匂川の氾濫や富士山の噴火によって、何度も移転を余儀なくされた。1734年(享保19)8月8日の氾濫では、水死者19霊の記録が過去帳に残り、悲惨な戒名が刻まれた墓も残されている。石垣に開いた穴は、横井土の跡。高台の怒田に避難民が移転した際に、飲み水として使われ、1980年(昭和55)ごろまでは現役だったそうだ。

  • 悲惨な戒名が刻まれた墓も残されている。

    悲惨な戒名が刻まれた墓も残されている。

  • 石垣に開いた穴は、横井土の跡。

    石垣に開いた穴は、横井土の跡。

  • 臨済宗円覚寺派の珠明寺は、1420年(応永27)、円覚寺117世の蘭室妙薫禅師と室町幕府の関東管領の上杉憲實によって開創された。
  • 悲惨な戒名が刻まれた墓も残されている。
  • 石垣に開いた穴は、横井土の跡。


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