機関誌『水の文化』40号
大禹の治水

時間・空間で読み解く鴨川
禹の廟はなぜ つくられたのか

時間・空間で読み解く鴨川 禹の廟はなぜ つくられたのか

時間・空間で読み解く鴨川 禹の廟はなぜ つくられたのか

物事は一方向からだけ見ても、理解できません。自然地理学を専攻してきた植村善博さんは、空間だけではなくて、時間軸、歴史軸も見て、時空を両方理解しないと地域理解はできない、といいます。京の都という特別な位置に存在する鴨川に、かつて存在したといわれる〈禹廟〉がなぜつくられ、そして消えていったのかという謎解きも、時空を読み解くことで、ほぐれていくかもしれません。

植村 善博さん

佛教大学歴史学部歴史文化学科教授  文学博士
植村 善博(うえむら よしひろ)さん

1969年立命館大学文学部地理学科卒業 、1971年立命館大学大学院文学研究科地理学専攻修士課程修了 。1973年から高等学校教諭を経て、1993〜1998年佛教大学文学部助教授。2002年博士号取得(文学 立命館大学)。2011年より現職。
主な著書に『京都の地震環境』(ナカニシヤ出版 1999)、『比較変動地形論ープレート境界域の地形と第四紀地殻変動』(古今書院 2001)、『図説ニュージーランド・アメリカ比較地誌』(ナカニシヤ出版 2004)、『台風23号災害と水害環境』(海青社 2005)、『京都の治水と昭和大水害』(文理閣 2011)ほか

儒教思想と禹

京都における禹廟の初出は、『相国寺蔭涼軒日録』(1488年〈長享2〉)です。鴨川の四条南の松原橋に〈禹廟〉(廟:祖先の霊を祀る所や神々の祠)がある、と出ていますが、残念ながら現存しません。1686年(貞享3)に刊行された地誌『雍州府志(ようしゅうふし)』にも2カ所に掲載され、『洛中洛外図』(上杉家本・町田家本)にも描かれています。

ただ、旧五条大橋、現在の松原橋にあったという説に対して、四条橋東詰にあった神明社(現在の南座と仲源寺の間)とする説、四条橋東詰の仲源寺(浄土宗知恩院派。通称 目疾〈めやみ〉地蔵として現存)とする説、四条橋東詰大和橋畔の弁財天社とする説があり、現存しないこともあって、正確な位置は確定できません。

〈禹廟〉をつくったのは、平安時代初期に設置された令外官(りょうげのかん)で、鴨川の堤防修築を司った防鴨河使(ぼうかし)という役職の中原朝臣為兼(任地から勢多判官為兼〈せたのはんがんためかね〉ともいわれる)です。

仲源寺縁起には、1228年(安貞2)の鴨川の氾濫時に、為兼は、後堀河天皇の命により鴨川の視察を行ない、川に流された人が地蔵堂に取りついて助かった場面に出くわして地蔵尊座像を安置した、とあります。

為兼は鎌倉時代の人で、武人ではなく博士、学者の系列。御所に仕える学者の系譜で、儒学系の明経道(みょうぎょうどう)博士という称号を持っていて、儒学の中身に精通している人だったようです。だから禹が彼の頭の中にあって、自然に治水と結びついたのかと思います。  

南の〈禹廟〉だけでなく、北のほうに弁財天をセットで祀っています。私は専門外なのですが、これも中国の儒教と関係するのではないでしょうか。鴨川の禹廟についていえば、中原為兼が儒学に精通し文献から知識を得て治水神として禹廟を祀ったのではないか、そういう可能性が高いと思っています。

古代・中世の災害意識

京の都では、桓武天皇が794年(延暦13)に行なった平安京への遷都以来1200年間、地震や洪水が何度も起こっています。古代や中世の人たちにとって災害とは、異界からくる恐ろしいもの、神の怒りでした。

災害には水害もあるし、疫病も大きいですね。それから旱魃(かんばつ)、落雷、火事、地震も怖かったのです。こういうありとあらゆる自然災害とか、疾病という厄災は、すべて異界からきた異物なのです。

それらが時々くる。それはもう恐ろしいもので、防ぎようがない。でも防ぎたいから、祈祷をしたり、天や神を敬った。寺院や密教が発展したのは、そのためでもあります。本当は皆、災害忌避なのです。

支配階級の人たちにとってみれば、支配するためにも災害は起こってほしくないから、少しでも祈る。それでも深刻な災害になったら天皇は謝るのです。私の不徳の致すところだと。そして、人々にお布施をした。税金を安くするとか、食料を配るとか。ひどい場合は元号を変えて縁起をかつぐ。

だから何とかして災害の前兆をつかもうと重用したのが、安倍晴明ら陰陽師(おんみょうじ)です。そして厄災が起こったら、坊さんに祈祷してもらって鎮める。その祈祷ということで、天皇から支援を得て発展したのが密教です。

桓武天皇は、政治に介入してきてけしからんと南都仏教を批判しました。そういう桓武にうまく入り込んで信用を得たのは、最澄とか空海とかです。密教はまさにそういう災害思想や儀式を中国で勉強してきているわけです。

密教からのアプローチ

禹のことは、最澄も空海も当然学んできたはずです。具体的に書いたものもあります。

しかし、遣隋使や遣唐使になって仏典を学びに行った人たちは、民衆の生活とかはあまり考えていなくて、必死に、とにかく仏教とか密教の奥義を極めて、仏典を日本に持ち帰ることだけが目的なのです。運が良ければ早く帰れるし、悪ければ20年、30年かかった上に、帰りの船が沈んで命を落とす人もいっぱいいた。そんな中で、最澄も空海も、仏典をもらって帰国できたラッキーな人でした。

密教の人たちというのは、真剣に災害と向き合ったと思うのですよ。では、密教の人たちが日本に禹を伝えたのでしょうか。確証はないけれど、私はそれはちょっと違うような気がする。密教の人たちにとって、禹が周知のものであることは事実でしょうが、禹は必ずしも災害神、治水神ではないと思うのです。

特に、清廉潔白な天子。要するに勤勉で、仕事のために頑張ったとか、お酒も飲まないで政務に専念したとかという、そういうものが強く出ているように思うのです。

だから例えば日本書紀では孝徳天皇が、古事記では元明天皇が、禹にたとえられている。日本の禹といわれるぐらい立派な人だったと評価される。清廉潔白で政務に精通して精進する人という意味で禹が使われています。割とそれが続いて、おそらく平安時代中期くらいまでは治水神ではなかった。

だから禹が治水神として伝わってきたというのは、今はまだ、はっきりわからないですが、別のルートではないかと思うのです。

日本には古代から、別に瀬織津(せおりつ)姫のような治水神がいたので、禹は受け入れられてないのではないか。須佐之男命(すさのおのみこと)だって水の神として祀られていますが、神道で広く見られるのが瀬織津姫を祀った神社で、かなりあちこちにあります。

神道系の治水神がある中で、禹が入ってくると、ある意味、外来神が侵食してくるわけでしょ。

伝統的な日本神道の治水神と、外来の新参の文化が地域や流域の中でどういう風に共存しているのか、はたまた反目しているのか。そういう目で禹を見ていったら、面白いかもしれませんね。

五条大橋に置かれた理由

松原橋、つまり旧五条大橋に〈禹廟〉ができた理由は、いくつかあると思います。規模まではわかりませんが、水害があったこともきっかけでしょう。

京都の人たちからいうと、鴨川の西側、平安京があり人が住んでいる所は、俗な世界。そして鴨川を渡る東の地区は聖なる世界。だから、お寺がたくさんある。こういう聖と俗という分け方は、かなり明瞭にあったわけです。一つの境界、まさに別世界と境する川が鴨川で、本来は鴨川を越えて、人は住まなかった。これは長い間、守られてきました。

今は東海道で三条が賑わっているけれど、古代はむしろ五条が中心で人の通りが多かった。西側に抜けて行く街道もあるし、清水寺をはじめ、たくさんのお寺に詣でるための信仰の道があって、あの時代でいうと京都の中で一番人通りの多い橋といえば五条大橋だったと思います。牛若丸も、まあ、橋はどこでもよくって、賑やかな五条の橋を選んだのではないですかね。

そういう場所に、なぜか理由はわからないけれど、法成寺という安倍晴明にまつわるお寺があるといわれているわけです。晴明塚があったともいわれている。ここに陰陽師の塚とか寺があるということは、当時、陰陽師が住んでいた地区と考えられます。おそらく、〈禹廟〉がつくられたころには、既に陰陽師が住んでいたのでしょう。

禹の廟をつくるとすれば、人の往来があって目に触れやすく、陰陽師のような集団が管理してくれる場所が都合がよかった、ということです。

都の中心が移動して

〈禹廟〉が現存しないのは、必要性が薄れて祀られなくなって消滅した、と考えることもできます。しかしそうではなくて、例えば陰陽師のような人たちが力を失うとか、予兆をつかんで拝むことに価値を見出さなくなった、という可能性もありますね。日本における文革みたいなことがあったのかもしれない。

「鴨川の治水神」(『花園大学文学部研究紀要』第32号 2000)を書かれた考古学者の山田邦和さんは「豊臣秀吉が陰陽師を嫌って」と書いています。確証がないからわからないですが、そういう可能性もあります。山田さんは〈禹廟〉の存在した期間を室町中期から1633年(寛永10)と推定し、豊臣秀吉による京都改修によって、五条中州にあった法成寺や晴明塚、〈禹廟〉などは取り払われて、姿形を変えて四条に移った、と考えられています。

少なくとも、目に見える五条大橋の下なり、中島にあった〈禹廟〉は消えるけれど、でもその後継みたいなものが神明社であり、目疾地蔵に姿を変えて、四条に移っていくんです。古い地図で見ると、神明社は仲源寺の境内の一部にあります。今は残っていませんが、おそらく移った当初は禹の後継としてあったのではないでしょうか。

人が通る目立つ場所が北に移動して、京都の町全体の構造が五条中心ではなくて、四条中心に変わったことに対応して移っていくのです。人が集まり、人出が一番賑やかな所。そこにやはり禹も寄ってくるのですよ。人が好きなのですよ。だから私は、秀吉に潰されなくても自然に移ったかもしれないと思っています。むしろ人目の目立つ所へ行きたがって、四条にきたのではないか。そういう風に、私は逆転して考えてきたのです。

来るべき時と所に、禹は出てくるな、と。まあ、そういう意味では、今、みんなが集まって、禹に再びフォーカスするということは、災害の神が求められていることなのかもしれないですね。

地殻変動でつくられた京都盆地

私は自然地理学を専攻していますが、空間だけではなくて、やはり時間軸=歴史軸も見て、時空を両方理解しないと地域理解はできない、というのが持論です。

時空の理解には史料解読が基本的なことですが、空間は地図を見ることで理解が進みます。

京都盆地の地図を見てください。西も東も北も山地に囲まれて、南だけ開けている盆地です。この盆地の境には活断層があって京都盆地は囲われている。数千年や、数万年に一回地震が起こって、その度に山は1mぐらい盛り上がるし、盆地は1mぐらいずり落ちる、というようなことを繰り返してきて、大きな骨格ができたのです。こういう盆地を、変動盆地といいます。地殻変動がなければこの盆地も存在しませんでした。これは京都に限らず、近畿地方の内陸にある南北に細長い盆地はすべて同じ起源を持っているのです。大阪平野、近江盆地、奈良盆地、三重県の伊勢湾とかね。

それで鴨川の流路が西から東へ徐々に振ってくるのは、地殻変動に拠るところが一番大きい。活断層に囲まれているといったけれど、東側の花折断層のほうが大きいのです。そのために盆地の底が花折断層のほうに向かって、どんどん傾きながら下がるんですよ。

だから川は南東へ滑っていく。地殻変動が続く限り西から東へと低い方へ下がってくるという傾向があって、鴨川が今一番低い所にきているのは、理に適った位置にあるということです。

鴨川流域断層

国土地理院基盤地図情報(縮尺レベル25000)「滋賀、京都、大阪」及び、国土交通省国土数値情報「河川データ(平成21年)」より編集部で作図
この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の基盤地図情報を使用した。(承認番号 平23情使、第630号)

履歴が残る鴨川

京都には東側は鴨川、西側は桂川という大きな川が2本流れていますが、桂川は自然堤防を形成した蛇行河川、鴨川は扇状地河川で性質がまったく違います。ですから、そこにつくられた地形も違うし、川が洪水を起こした場合の災害の在りようも違うわけです。その辺から京都のことを理解してもらう必要があります。

京都の町の歴史からいうと、西は農業地帯だから、あまり人が住まっていなかった。だから桂川は記録も少ない。  

古い扇状地で地盤が硬く安定していた中央部に平安京が設定されたのですが、右京の西側には、蛇行河川である桂川が、しょっちゅう洪水を起こす場所を広く取り込んでいたのですね。

だから右京は早い時期に衰えていって、平安京の道もすぐに土に埋もれて、やがて水田になっていった。右京が早く衰退した分だけ、住居と人口は鴨川を越えて東へ東へと移動を続けている。

鴨川には、平安京以来ずっと川辺に人が住んできたから、さまざまな記録が残っています。

水害の頻度とその理由

水害を1000年スパンで見るために、もう一つ別な話をしましょう。鴨川の水害というのは、ずっと同じ頻度ではなくて、多い時期と少ない時期が繰り返しているのですよ。河角龍典さんという人がちゃんとデータを出しています。

平安時代は水害の頻度が高かった。鎌倉から室町ぐらいまでは割と少なくて、安土桃山ぐらいからまた増える。これは鴨川の洪水を考える場合には非常に大事なことです。

だから鴨川の禹の話も、こういう時代の中でどんな位置にあるか、考える必要があります。場所の特定だけではなく、時代性の中でとらえる必要があると思います。

平安時代に水害が多いのには、諸説ありますが、私は平安京をつくるときに周辺の森を伐採したことが一番大きい理由だと思います。当時、材木を集めた範囲は、京都北部の丹波の山地であることは記載にあることです。

主たる理由は、山の森林の乱伐。そのため、瞬間的に大量に水と土砂が流出してくるという状況になる。洪水が起こるのは平均雨量ではなくて、その頻度と強さ(集中度)が大事になります。

日本の場合は、梅雨もあるけれど台風が大きく支配しているので、史料をそこまでくわしく分析するのは難しいのですが、台風の襲来頻度が重要になります。

堆積から浸食へ

中世にいったん水害が減るのは、西日本に顕著な一般的現象です。

実は、だいたい西暦1100年から1200年、平安時代と鎌倉時代の境界付近で、川が1mから1.5m浸食する、掘り込む時代があるのですよ。近畿地方とか西日本のほとんどの川で、そうだったといわれています。

その理由は、気候が寒冷化して、海面が下がったということも影響しているのでしょう。今まで川は土砂を運んで堆積していたのが、海面が下がったことで、川は浸食に変わって川底を掘り込むのですよ。だから段ができる。そのために川が少々あふれても段丘の上には氾濫しないことが多くなるので、中世は洪水が少ないのです。

土木技術の向上と天井川

秀吉時代から再び洪水が増えます。人口が増えたことと、秀吉は土木魔で、橋はつくる、城をつくって新しい都市を造成するなど、大土木工事をガンガンやります。これも相当に乱伐・乱開発したようなことがあったと思います。

それで、人口が増えると、やはり山間地を開発して新田や新畑をつくる。木が茂っている所や山地斜面を切り開くと、どうしても土壌の流出が増えて、谷底に礫や砂が溜まりあふれやすくなります。

今度は、それを守るために堤防をつくろうとする。技術が向上して、強い堤防がつくれるようになると、堤防と堤防の間(堤外)だけに川の氾濫が限られてきます。すると、ますます河床が上がる。それでまた、堤防をかさ上げする、といういたちごっこで天井川ができました。黄河も、何千年かにわたって堤防を固定しようとしてきたから、天井川になったのと同じなのです。

近畿の天井川っていうのは、このようにして17世紀から18世紀の間にほとんど全部できてしまう。何百年もかかったのではなくて、100年ぐらいで、あっという間にできた。それは人間と自然の、共存と対立の関係だと思います。

守られてきた鴨川

水害の頻度が一番上がったのは、やはり幕末、明治維新期、近畿ではほとんどの川で、幕末から明治維新期がピークになります。1800年代(19世紀ごろ)から、ガーンと一気に増えています。

ところが鴨川はあまり、傾向が明瞭ではないのです。それは、江戸時代から、幕府が京都所司代などを置いて、人民支配のために川への対策と工事を行なってきたからです。

やはりどうしても天皇のお膝元であり大きな町だったので、桂川、鴨川の改修は幕末でも力を入れてやっていたのです。京都を治めるというのは幕府にとって大事なメンツでもあって、大きな改修をやったと思うのですが、その一番典型的なのは寛文の改修、寛文新堤(注1)の建設といわれるものです。これは今でも部分的に残っています。

鴨川は、当時、1kmもの広い幅を持つ扇状地河川。鴨川が細いのは、堤防で川を閉じ込めて、少しでも人間が住む場所をつくろうと土地利用をより効率的にしていった結果です。都市域で被害が大きいと予想される所は、どうしても堤防で守る、ということになる。

逆に農村地域だったら、堤防をつくるような投資をするよりは、霞堤とかで守って、むしろ水が流れ込むことを歓迎する。霞堤でなくても竹林を配置してもいいわけです。農村にはむしろ水を受け入れるという、洪水受容型の考えが見られるのです。地力を回復するために土を更新してくれるという風に考えれば、あふれることは否定材料だけではありません。

また都市域か農村かという問題だけではなくて、河川のコントロールは、権力者が権力を誇示するための道具であり、支配の手段なのです。

秀吉が土木好きだというのも、人々を納得させるために洪水を防いで、貸しをつくる支配のため。人民の生活に直結するから、すごい支配力を持ち得たのだと思います。太閤様といわれるのは、まさにそういうことでしょう。弘法様(空海)が有名なのは、香川県など各地で池をつくって、旱魃(かんばつ)を防いだからですし。人民にとっては、自分たちに最も大事なことをしてくれたかどうかということで、英雄にもなるし、信仰にも結びついてくるのです。

雨季の水は激しく、大量に流れる。ところが雨が少ない冬になると、扇状地河川である鴨川は、河底が全部砂利だから水はザルみたいに地下へ浸透していく。おそらく水はあるかないかというくらいの川原だったと思います。

それを人工的に浸み込まないようにしたのは、明治以降の河川改修によります。1935年(昭和10)の水害の後には、床張りという工事が行なわれました。川床にいろんな材料を入れて地下に浸み込まないようにして、水が維持されている。それがなければ大半の水はもっともっと地下へ浸み込んで、水量は少ないだろうと思いますよ。

(注1)寛文新堤
1663年(寛文3)の洪水で、大きな被害を受けたのがきっかけとなって、1670年(寛文10)につくられた石堤。以降、左右に河原が広がる自然河川だった鴨川の流路が固定され、現在の鴨川景観の基礎がつくられた。

戦後の京都治水

京都、特に鴨川の特殊性が顕著に現われたものに、十五年戦争直前期1935年(昭和10)の大水害と治水計画があります。

軍備増強のために国債を発行することによって軍事資金を集めるのですが、鴨川の改修予算はその中に含まれて通るのです。京都の治水は、そういう軍国主義の進行という時代的な制約を背負っているのです。高橋是清が大蔵大臣のときには半分くらいしか国家予算を回さないと言っていたのを、説得している内に高橋が二・二六事件で暗殺されてしまった。そこで軍備増強と一体になって、京都の治水予算が認められたのです。

戦争中にも2回くらい洪水があって堤防が壊れたりしますが、そういうものは国のお金で補修しています。やはり京都は帝都という暗黙の了解があるのと、こういう非常事態だから川を放っておいたら国民の戦意を喪失するからと、京都に金を回して、川を改修させたのです。金を取ってくる大義名分は天皇陛下のお膝元、帝都です。

しかも、懸案の都市計画も一緒にやってしまおうと考えた。少し欲張っていたのですね。疏水を埋めて道路を通し、京阪電車を地下鉄化しようとね。そういう都市計画や景観の問題まで含めて改修事業をやろうとしていたので、予算が膨大に膨れ上がった。

こういう経緯ののち、1938年(昭和13)に鉄の供給がストップして地下鉄は完全に挫折してしまいます。全部完結させるべきだったのが、社会が変化したために完全には実施できなかった。

単に川だけを見るのではなく、こういう川と人との歴史を知ることは、川の有り様を理解する上で大切なのです。

災害の記憶を学びとして

確かに1935年(昭和10)の、大水害(注2)以降、鴨川に関していうと、大被害を出すような水害は一度も起こっていない。昭和10年の大水害の治水事業というのは非常に大きな、決定的な役割をしていると思います。

しかし河道計算の結果、まだ危険な場所がいくつか残っている。だから、鴨川は安全だと考えている人はいないし、起こるとすれば、この辺で起こるであろうという場所もわかっているわけです。

ゲリラ豪雨による内水氾濫、要するに河川が溢れるのではなくて、支流や下水・排水溝があふれるという形で氾濫が起こるというようなことも一番心配されています。京都でも内水氾濫が、真剣な課題になっていて、地下鉄とかビルの地下街や地下駐車場の浸水被害が心配されています。

危険であることはわかっていても、どうやって防ぐかという方法がなかなかなくて、運動場とか公共施設の地下に貯水タンクをつくったりしていますが、それではとうてい間に合わないと思います。

それで私は、どうしたら市民が水害の危険を自覚するか、について考えています。

鴨川が今のように美しい川になって、京都のシンボルにまでなったのは、自然になったわけじゃない。1935年(昭和10)の治水事業というのがあったからこそ、今の京都の鴨川があるということを知らないといけない。どこで堤防が切れたのか、どこの場所に、どんな工事をしたのかというのは、記録に留め、市民が知っておくべきです。1935年(昭和10)の水害と改修事業(注3)を記念するもの、河川改修事業完工の碑など、戦時下の影響でまったく存在していません。

(注2)1935年(昭和10)京都の大水害
6月の豪雨により、鴨川から水があふれ死傷者12名(桂川や天神川など他河川の洪水も含めた京都市全域では83名)を出し、家屋や橋梁が多数流失するなどの大災害となった。

(注3)鴨川改修
1935年(昭和10)の洪水を契機として、翌年から1947年(昭和22)まで、抜本的な河川改修を実施。最近では「花の回廊」整備(三条から七条間)、通水能力の低い陶化橋付近の河川改修などを計画的に進めた。


  • 四条大橋のそばに現存する仲源寺

    四条大橋のそばに現存する仲源寺

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    四条大橋のそばに現存する仲源寺

  • 四条大橋のそばに現存する仲源寺

    四条大橋のそばに現存する仲源寺

  • 目疾地蔵尊が祀られている。

    目疾地蔵尊が祀られている。

  • 顔が判別できないほどすり減っている

    顔が判別できないほどすり減っているのは、何度も水害に遭遇したからだろうか、との思いが湧いてくる。

  • 四条大橋のそばに現存する仲源寺
  • 四条大橋のそばに現存する仲源寺
  • 四条大橋のそばに現存する仲源寺
  • 四条大橋のそばに現存する仲源寺
  • 目疾地蔵尊が祀られている。
  • 顔が判別できないほどすり減っている

災害と恵みの装置

川を怖がったり災害の話が中心ですが、でもそれだけではなくて、やはり京都の水、川っていうのは、京都の文化を支えてきた。京都は鴨川の水があったからこそ、茶道が起こったのだろうし、酒も、豆腐といった食文化も同様です。友禅という織物だって、川のきれいな水で洗ってこそ色が出るといわれるわけです。

まさに京都のいろいろな伝統文化は川、特に鴨川の水にかかわっている。それなのに京都には自然系の博物館が一つもないでしょう。歴史や文化財を展示する博物館はたくさんあるのに。

やはり川の災害と恵みをしっかり理解してもらうための装置として、鴨川博物館なり治水展示館が必要です。

災害史という立場からいうと、津波や地震の記念碑や慰霊碑はたくさん存在してその意味がある。それらに近いものが、水害における禹廟です。まだあまり注目されていないけれど、これは重要なシンボル、そして文化財になり得ると思います。

(取材:2011年12月6日)

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