機関誌『水の文化』14号
京都の謎

盆地京都を庭園都市と見立てる庭園は総合生活空間

白幡 洋三郎さん

国際日本文化研究センター教授
白幡 洋三郎 (しらはた ようざぶろう)さん

1949年生まれ。京都大学大学院農学研究科博士課程修了。 主な著書に『庭園の美・造景の心』(日本放送出版協会、2000)、『大名庭園‐江戸の饗宴』(講談社、1997)、『旅行ノススメ‐昭和が生んだ庶民の新文化』(中央公論社、1996)等他多数。

水の都京都 実は都市計画が優先してできた都市

NHKが『アジア古都物語‐京都千年の水脈』(日本放送出版協会、2002)の中で、地下水盆の上に平安京の都市発展があったというこれまでにない京都像を描いています。京都以外にも日本全国の盆地で、水とともに生きていくさまざまな文化があったと思いますが、京都は他の都市と比べスケールが大きかった。それで地下水盆の上に形成された都市として、特に注目されたのでしょう。

とは言うものの平安京の計画段階で、すでに水の流れや地下水脈等が完全にわかっていたとはとても考えられません。やはり、政治的、心理的、宗教的感覚で立地を決めた部分が大きかったのでしょう。そして、いったん都市の形ができてから「しまった、えらいところに道路を造ってしまった」といった失敗を繰り返して、水とうまく折り合いをつけるやり方を身につけていったのだと思います。計画都市だからこそ、一つひとつ解決せざるを得なくなり、水と闘い、妥協・共存をしたところから、知恵が蓄積されていきました。

確かに水の条件は良かった。しかし扇状地で山が周囲にあって、そこから川が流れ出るという構造を持った土地は、京都以外に日本中どこにもあります。京都が「水の文化」という点で関心を持たれるのは、他より抜きんでた都市を人工的に造ってしまった結果、困った事柄に解決策を与えてきたという知恵の蓄積のおかげだと思います。これが水に関わる文化的蓄積です。

平安京以降の京都の人は、先に家を建て、水を探し、井戸を掘り、湿地帯を上手に住宅地に変える知恵で、水と何とか折り合いをつけてきました。「京都人は賢いから水を上手に使っている」と言うほど、京都人をほめる気はありません。先に都市計画を造ってしまったから、生きていくためには何とかするより仕方がなかった。鴨川もつけかえたし、堀川をわざわざ掘ったのも洪水対策です。水が出て困るから流路をうまく造ったというのがきっかけとなって、結果として水を上手に使うという文化に育っていきます。

私は「水と暮らす京都」という言い方を、キャッチフレーズとしてはいいと思っています。しかしそれは水のことを賢く良く知っていたということではなく、必要に迫られ長い時間をかけて問題に適応し続けてきた歴史を持っている、という意味だと思います。他の町だと数十年〜数百年の歴史しかないわけですが、京都は1200年もの歴史がある。いろいろな人の知恵の中からうまいアイディアが生まれ、それが蓄積しているから京都はすごいというわけです。ただ、何といっても歴史があることはありがたい。

水と暮らすにはそうした長い体験の蓄積がいるということは、一種の教訓かもしれませんね。

京の庭園 元は貴族の別荘

東山の麓に東福寺という臨済宗の寺があります。25の塔頭(たっちゅう)(山内の寺院)を持ち、塔頭ごとに庭園を見ることができます。現在は枯山水の庭が多いのですが、寺になる前は九条兼実(1149〜1207)という貴族の別荘で、月輪殿(つきのわどの)と呼ばれていました。法然上人絵伝の中に、寝殿造りであった当時の月輪殿の庭園の様子が描かれています。流れる水に池があり、湧き水がありと、水のいろいろな形を取り入れ、素晴らしい総合的な庭園を造り上げています。

貴族の別荘として使われなくなった後、寺として開山しました。鎌倉時代以降、禅宗の大きな寺として成長していきます。このように京の庭園は、貴族が所有していた別荘から生まれたという一つの流れがあります。

例えば、宇治の平等院もそうです。平等院は1052年に寺になりますが、その前身は藤原氏の別荘「宇治院」でした。さらにそれ以前に、宇多天皇や源融(みなもとのとおる)の別荘地であった時期もあります。あの場所こそ、山紫水明と呼ぶにふさわしい場所で、宇治川の流れを前に水の別荘を築いています。もう一つ、嵯峨野も貴族の別荘地です。ここにも桂川があり、嵐山の穏やかな山がありました。

平安京の立派な庭園というのは、天皇の神泉苑を発端にして、支配階級である貴族が造り上げ、周辺の山並みと宇治、嵯峨野ででき上がったという見取り図が描けるでしょう。ですから、水が中世ぐらいまで京都の庭に影響を与えていたのは間違いないので、それが後に、宗教施設に変化していきます。

貴族にはやたらと子供ができます。後継者を作るためでしょうが、後継者になれるのはわずかな人間です。後継者になれなかった子供たちは、どんどん出家させます。多子化時代には収容施設が必要になってくるわけで、これが宗教施設の一つの機能でした。長男が家を継いだとき、他の子供が反対勢力となってケンカの種にならないように、あらかじめ引き受け手となる寺を探しておきます。子供を寺に配し、生命の安全を保証し、政争に加わらないという出家宣言をさせる。文化というのは政治と離れたところにでき上がるものです。京都は政争が激しかったからこそ、貴族の子弟に寺院で文化生活を営ませたことが、周縁部での文化を発達させることになりました。

和歌も、美術も、庭園もそうです。ですから、別荘に立派な庭園ができ、その後に宗教施設に引き継がれ、より精神的な裏付けも与えられていくのは、ごく自然な流れともいえます。

つまり庭園というのは、政治の世界から遠ざけられたがゆえに文化生活をする人が知恵を集め、腕によりをかけて造る美的な空間でもあるのです。これらが京都の鎌倉期ぐらいまでの、庭園の立地の背景にある考え方ではないかと思います。

現在の神泉苑

現在の神泉苑

庭園を育てる様々な経緯

また、政治とは「まつりごと」であって、「祭り」と切り離してみることができません。神の声を聞き、権威をもって命令を伝えるのが「まつりごと」なのです。政と祭りのための遊興を行う屋外の集会場が庭園です。せせらぎがあり鳥が飛んでくるような、しかし、蛇やムカデがいないといった人間にとって快適な環境が造られていきます。これも、京都の庭園が洗練されていく流れです。

さらに、庭園には宗教的背景もあります。「奈良の仏像、京の庭園」という言い方がありますが、今でも奈良には仏像を見に行き、京都には庭園を見に行きます。奈良時代の寺院は、平地に法隆寺、興福寺、薬師寺などの伽藍を造りました。伽藍の中でも仏典の授業をする講堂が大切とされました。今でいえば、教室にあたります。ですから、おそらく奈良時代までは庭園に興味がいかなかったのではないかと思います。

平安京に移るころは、仏教の性格も変わってきます。奈良時代の僧侶は仏典を勉強した社会のリーダーでした。桓武天皇は彼らの政治的影響力から逃れることを一つの理由に、平城京から平安京に遷都を決めます。このため東寺と西寺は例外ですが、平安京には寺を造らせませんでした。平安初期の仏教者は市外の山麓に庵を造り、そこで暮らしました。周囲には清流や滝や岩山がありますが、宅地としての条件はよくない。そういう経緯があるため、京都の仏教は、平安時代の初めから庭園と共存していたのです。

桓武天皇は仏教を遠ざけましたが、貴族も人間ですから悩みも出てきます。そこで、屋敷の中に持仏堂を建てて、それを拝みました。寺は東寺と西寺の二つしか造らせなかったのですが、寺ではなく仏様に拝むのならば持仏堂を建てれば可能になります。そして、貴族が亡くなると持仏堂を寄進して、市内に徐々に寺ができるようになりました。

寺が結果的にこれだけ立派な庭園を持つようになったのは、このような時代背景があってのことです。宗教施設がこんなに立派な庭園を持っているのは、世界にもあまり例がないと思います。キリスト教は自然を崇拝するのではなく唯一神を第一としますし、神道も自然そのものの中に社を造るだけです。仏教だけが芸術的な庭園を育てたのも根拠のある話です。

水のある庭、水の無い庭

庭園には、流れる水、溜まる池、湧いて出る泉、といくつか水の要素があります。人工的な庭園という点で京都で最も古いのは、平安初期に造られてそのわずかな一部が残り、現在も二条城の南に隣接している神泉苑です。京都の最初の庭園は、池と湧き水が基本要素でした。

神泉苑は、中国の四神相応の考え方にしたがって立地しています。つまり、東西南北を表す、青龍(東)、白虎(西)、朱雀(すざく)(南)、玄武(北)の中で、宮殿の西南側に大きな池があることが、中国の都城計画の前例になっていたわけです。また、ここは東山、北山から流れてきた伏流水が溜まる所でもありました。この大きな池を文化的に解釈し、庭園化し、宮中の宴会はここで行っていました。

一方、水の無い庭園もあります。御所に紫宸殿がありますが、その南側正面は「南庭(なんてい)」といい、白砂が敷かれ、右近の桜、左近の橘が植えられています。ここは、家臣が天皇の勅令を聞くという儀礼に使うもので、水がない庭です。宮廷の「廷」という字に「まだれ」をつけたら庭になります。ですから、「庭」の原形は、水の無い場所です。「園」は植物で囲われている所という意味で、水が流れている。これらが結びつき「庭園」という言葉になっていくのです。つまり、水のある庭、無い庭の2種類がある。

ちなみに、水のある庭に、かつては「苑」という字を当てていました。水も植物もあるし、流れもあれば泉もある。水を使う「苑」では、流水、溜まった水、湧き水が使われ、総合的な庭園が造られていきます。

反対に、水を使わない「廷」は、竜安寺の石庭や、禅寺の枯山水に見られるような方向に発展していきます。つまり、水が流れているように見立てる様式が生まれてきます。この精神的背景には、水と石と木への憧憬がある。そのような精神から、知恵として生まれてきたのが枯山水のような様式でしょう。

庭園は求められる使い方に適応してきた

町衆は京都の中だけで形成されたわけではありません。例えば、祇園祭を支えた町人たちも、貿易で栄えた堺とかかわりながら大きくなっていった。それを象徴しているのが、山鉾の飾りに使われるゴブラン織。日本の織物ではありませんから、海外貿易で利益を得たというシンボルとして見ることができます。

中世末期の堺では、町なかで自然の暮らし、山里風の暮らしをしたいという人がいたようです。都会の住居に山里風の狭い茶室を造り、わび、さびの感覚を伴った空間を造る。海外貿易で繁栄し、人工的な都市生活を極めたときに、水とか木とか石といった自然に嗜好が戻っていくのは、今と同じです。有名なのは「市中の山居」という言葉。ジョアン・ロドリゲースというイエズス会の宣教師が書いた『日本教会史』(邦訳・岩波書店)という本がありますが、その中にローマ字綴りでこの言葉が出てきます。「堺の町人達の間に、そういう趣味が最近流行っている。町中に自然風の小さな座敷をつくり、そこで茶を楽しむ」と。都会で失われた自然を楽しむ心情。それが茶室になり、坪庭につながっていく。これが京都に入ってきます。町民が庭園を考えるとき自由になるスペースの余裕がないものですから、茶の湯が「狭い空間でよろしい」と言ってくれたのは、京都向けには都合が良かった。

坪庭の他に、もう一つ庭という単語を使うのは、通り庭です。町屋では表通りから横を通り、座敷の中を邪魔しないで奥まで行ける通りがあります。これを京の町屋では、通り庭と言います。そこに竈などが並んでいる。木もなければ池も川も何もない。そこで料理をつくったり座敷に上げるものの準備などの作業が行われます。

このように、庭園には時代背景や使う人々により、いろいろな使い方や機能が与えられました。人間が作業をする場所として始まり、園は植物が育つ場所、室町時代までは石と水をアレンジした空間、江戸時代は森と泉を組み合わせた空間というように、時代によって庭園に求められる機能が変わり、使い方が変わります。しかもコミュニケーションする空間でもあった。現在は、観光客が混み合う空間ですが。

各時代が求めた機能に適して造られてきた庭園の機能を、我々は上手に引き受けて使いこなしているかというと、疑問に感じます。かつての人々は船遊びもすれば、月見の時は縁台を用意して酒を飲み、花見の宴ではワイワイ騒いだに違いない。庭園の形は残っているけれど、機能は萎んでいるのが現代ではないか。つまり、使う庭ではなく、ただ目で鑑賞する庭になってしまったのが現状ではないでしょうか。

私は庭園を「総合生活空間」と考えています。水もただ精神的にきれいと思うのではなく、水を汲んで飲んだり、お茶を点てたり、使ってみる。水の機能というのはたくさんあるはずです。

庭園の使い方が次のライフスタイルのモデルになる。現代人は快適さを望み、夏は空調がなければ生きていけないと言いますが、庭園を通して自然とのつきあい方を学べば、屋外生活の復権や空調に頼った人工的な生活の見直しににつながるのではないか、というのがその理由です。屋外の庭は見た目にも美しいし、その空間を使って食事をすれば一層おいしく感じます。庭園は、水に触れば心地よく、風を感じ、鳥の声が聞こえるといった、五感を総動員して感じる楽しみを再確認させてくれます。

なぜ知恵は積み重なるのか

京都人は先人の知恵を尊重します。先人の蓄積を背負う生き方というのは、本人に新しい才覚がなくても続けることができます。しかし一方では、先人の知恵を越えた、新しいものを考え出す必要もあります。新しいものは内部の人間だけではなかなか考えつきませんから、やはり、都に来てくれる人から吸収していたのでしょう。そういうシステムがうまく回転したことで、京都が都市として持続してきたのです。こうしたシステムがうまく機能しなかった所からは人が離れ、「私たちが守ります」といくら内部で言っても無理なのです。京都も、京都人がただ「守ります」と言っても無理です。全国から京都を守ってくれているわけですね。

都市を利用しにくる人々が、もし一攫千金だけを狙うようになると、蓄積と革新を生み出すような人間関係を築くことは難しいでしょう。そういう意味で、東京では新しいアイデアは搾取されてしまうかもしれません。京都ではありがたいことに、新しいアイデアを外からもらい、古いくせに新しいかのように生き延びているという、まあ、えげつないシステムを1200年も続けてきています。でも、永続きする都市というのは、本来みんなそういうシステムだったのだろうと思いますけれど。

もしある人が家業を継がねばならなくなったとき、京都の人なら「古いし、やってみたらどう」とまわりから応援してくれます。だから、やめられないですね。そういうことに反発して出ていく人もいなくはないのですが、なぜか歴史が繋がっていくのです。

京都を庭園都市にする

今、京都全体を庭園と見てはどうかと考えています。京都という都市を庭園として見立ててみれば、いかに水を上手に利用するかを考えると、汚さない、滞らせないための新しいアイデアが出てくるのではないでしょうか。交通の邪魔になるから川を埋める、という開発理念から都市を守るためには、やはりコンセプトが必要です。これまでの暮らし方、水とのつながりを守るためには、京を庭園都市として見たいですね。

以前、建築評論家の川添登(かわぞえのぼる)氏が、300の大名が上屋敷、中屋敷、下屋敷とすべて庭を持っているということから、江戸を庭園都市と呼びました。京都はそれとは異なり、山に囲まれ川があり谷があります。盆地の中にコンパクトな空間が広がり、借景にも恵まれていますから、それ全体を庭園と呼ぶことができます。京都全体が一つの総合庭園。そのような意味で、将来の都市を考えてみてはどうかと思っています。

庭園都市というコンセプトですから、都市の利用者はできるだけ歩く。自家用車は辛抱してもらい、庭園都市京都の入り口で降りて散策する。海外には、自家用車は都市周辺部に駐車し、そこから先の都心部までは公共交通機関に乗り継いでいくパーク・アンド・ライド方式がありますね。京都でも、周辺の旧来の庭園の辺りにうまく駐車してもらったらいい。地下鉄と市電ぐらいは残してもいいですね。それに加えて、新たに水の上を動くような交通機関ができれば、さらにいい。

この方式が各地で使われればおもしろい。盆地ならではの知恵と言えるかもしれません。

コペンハーゲンの街には、いたるところに写真のような駐輪場がある。

コペンハーゲンの街には、いたるところに写真のような駐輪場がある。ハンドルにセントラルのマップが付けられている自転車は、観光客用に見えるが、自転車移動が普及しているだけあって、市民の利用率も意外に高い。自転車は鎖で施錠されているが、500円玉ぐらいの20クローネコインで開錠できる。20クローネは鎖錠に納まったままだが、自転車を返すと戻ってくる。勿論、システムは皆同じなのだから、乗り捨てが自由。システムは簡単だが、それをカタチにするデザイン力、美しく仕上げるセンスを学びたい。利用したくなる格好よさと使い勝手、自家用との差別化などをうまくまとめている。



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